レイカウント
和名:レイカウント |
英名:Reigh Count |
1925年生 |
牡 |
栗毛 |
父:サンレイ |
母:コンテッシーナ |
母父:コートショーンベルク |
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遠征先の英国でもコロネーションCを制したケンタッキーダービー馬は米国三冠馬カウントフリートの父となる |
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競走成績:2~4歳時に米英で走り通算成績27戦12勝2着4回 |
誕生からデビュー前まで
米国ヴァージニア州ニューマーケット近郊のコートマナースタッドにおいて、ウィリス・シャープ・キルマー氏により生産された。キルマー氏は、無名時代のエクスターミネーターを現役途中に購入して所有者となった人物である。本馬の競走馬デビュー当初はキルマー氏が所有者であり、エクスターミネーターを購入するようキルマー氏に薦めたヘンリー・マクダニエル調教師に管理されていた。
2歳シーズン半ば頃に本馬は米国の事業家ジョン・ダニエル・ハーツ氏により1万2500ドルで購入され、妻のファニー・ハーツ夫人名義に変わり、バート・S・ミッチェル厩舎に転厩となった。ハンガリー出身のハーツ氏は5歳時に家族とともに米国に移住してきた人物である。若い頃はアマチュアボクサー、新聞販売員、ニュースレポーターなど職を転々としていたが、友人の勧めで中古自動車の下取りを始めたのが人生の契機となった。彼はこの中古車を活用して一般人でも利用できる安価なタクシー業を始めることを思いつき、1915年にシカゴでタクシー会社を設立した。彼は遠くから一番目立つ色は黄色であるという研究結果に基づいて車両を黄色に塗装したため、新会社を「イエローキャブ」と命名した。これこそが、米国のタクシーの代名詞と言っても過言ではないほど有名なイエローキャブタクシーの由来である。さらに彼はバス会社や自動車製造会社も設立し、次にレンタカー会社を買収してザ・ハーツ・コーポレーション社と改名した。このザ・ハーツ・コーポレーション社は後に全米一のレンタカー会社に成長して、日本においても数多くの店舗を出している。こうして所持金僅か数ドルの移民だった彼は、米国を代表する大事業家へと出世を遂げたのである。彼は「人と馬を問わず戦士を愛する」と言われた人物で、若くて元気が良い馬を積極的に購入した。彼が本馬を購入したのは、ザ・ハーツ・コーポレーション社の社長に就任してしばらく経った時期だった。本馬を購入したきっかけは、本馬がレース中に他馬に噛み付きに行ったのを見て「闘争心溢れる馬」と感じたためだという。
競走生活(2歳時)
その本馬は2歳当初こそ特に目立つ馬ではなく、イースタンショアH(D6F)でハッピータイムの2着した程度だったが、2歳シーズン後半になって出走するレースの距離が伸びると好成績を挙げるようになった。重馬場で行われた10月のケンタッキージョッキークラブS(D8F)では、グランドユニオンホテルS勝ち馬ヴィトーを2着に破ってステークス競走初勝利をマーク。11月のウォルデンH(D8F)では、後のトラヴァーズS・メトロポリタンH・サバーバンH勝ち馬ペティーラックを2着に破って勝利した。
なお、ケンタッキージョッキークラブSの前に出走したベルモントフューチュリティS(D6.75F)では2着となっているが、この敗戦については当時から議論の的となっている。レース内容は、ゴール直前まで先頭だった本馬が突如として失速して、同馬主同厩の牝馬アニタピーボディにほんの僅か差されたというものであり、「乗っていた騎手がゴール板を誤認した」「同厩のアニタピーボディに勝たせるよう事前に指示を受けていた」などの説が噴出した。レース翌日のニューヨーク・タイムズ紙には、ゴールの瞬間に2頭の騎手が互いに顔を見合わせており、あたかも2人が着順を操作したかのように見える写真が掲載されたらしいが、真相は不明である。なお、他にもデビュータントSなどを勝利して7戦6勝の成績でこの年の米最優秀2歳牝馬に選ばれたアニタピーボディは、繁殖入り後に本馬との間に子をもうけているが、繁殖牝馬としては活躍できないまま9歳で早世している。
一方の本馬の2歳時における成績は14戦4勝で、ステークス競走勝ちはウォルデンHとケンタッキージョッキークラブSの2つのみだったが、キーン記念S・ベルモントジュヴェナイルS・ハドソンS・グレートアメリカンSなど5戦全勝の成績を残して内臓出血のため2歳8月に他界したダイスと並んで、後年になってこの年の米最優秀2歳牡馬に選ばれている。
競走生活(3歳時)
3歳時は、サラトガ競馬場で行われたヒューロンH(D9.5F)で、不良馬場をこなして勝利。そしてケンタッキーダービー(D10F)では1番人気に支持された。レースでは先行して2番手で直線を向くと、逃げ粘るアメリカンナショナルフューチュリティ・グレートウェスタンH勝ち馬ミステップをかわして最後は3馬身差をつけて優勝した。この時に本馬に乗っていたのは、この3年前に加国最大の競走クイーンズプレートをフェアバンクで優勝していたカナダ人のチック・ラング騎手で、彼はカナダ人として史上初のケンタッキーダービー優勝騎手となった(日本語版ウィキペディアには現在でも唯一と書かれているが、後にリヴァリッジやセクレタリアトでケンタッキーダービーを勝ったロン・ターコット騎手やスマーティジョーンズでケンタッキーダービーを勝ったスチュアート・エリオット騎手もカナダ人なので、この記載は誤りである。英語版ウィキペディアに「(ラング騎手は)クイーンズプレートとケンタッキーダービーを両方勝った歴史上唯一のカナダ人騎手です」という旨が書かれているのを誤訳したものと思われる。なお、ターコット騎手もエリオット騎手もクイーンズプレートには勝っていない)。また、このケンタッキーダービーには本馬の最初の所有者キルマー氏の持ち馬で後に米国顕彰馬に選ばれるサンボウも出走していたが11着に敗れている。
本馬はケンタッキーダービー後に負傷したためにベルモントSには参戦できなかった(本馬不在のベルモントSは、前年のケンタッキージョッキークラブSで本馬の2着だったヴィトーが勝っている)。また、この年のプリークネスSはケンタッキーダービーの前週に行われているため、最初から参戦予定は無かった模様である(このプリークネスSは、前年のベルモントフューチュリティSで3着だった良血馬ヴィクトリアンが勝っている)。
負傷はそれほど重度ではなかったようで、夏場には復帰。サラトガC(D14F)では、2歳年上のプリークネスS勝ち馬ディスプレイを2着に破って勝利。ローレンスリアライゼーションS(D13F)では、プリークネスS勝利後にウィザーズSも勝っていたヴィクトリアンとの対戦となったが、本馬が後のジョッキークラブ金杯勝ち馬ディアヴォロを2着に、後のブルックリンH勝ち馬ソーティを3着に破って勝ち、ヴィクトリアンは着外に終わった。さらにミラーS(D9.5F)も勝った本馬はジョッキークラブ金杯(D16F)にラング騎手と共に出走。ディスプレイ、ディアヴォロ、前年のベルモントSやウィザーズSなどを制して米年度代表馬に選ばれていたチャンスショットといった強豪馬勢を蹴散らして、チャンスショットを2着に、ディスプレイを3着に破って優勝。3歳時は8戦7勝の成績を残し、後年になってこの年の米年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選出された。
競走生活(4歳時)
4歳になった本馬は大西洋を渡って英国に遠征。米国最強馬の英国遠征という事で、英国のマスコミからもかなりの注目を集めた。インタビューを受けたハーツ氏は遠征の理由について「レイカウントは世界中で最も優れた馬だという事を証明するためです」と答えている。遠征当初はリングフィールド競馬場やニューベリー競馬場を転戦して、グレートジュビリーH(T10F)・ニューベリースプリングカップH(T8F)・リングフィールドHと3戦したが結果が出なかった。その理由については、気温が低い英国に来た事による体調不良と、米国には殆ど存在しない直線コースに戸惑った事が挙げられている(ダート競走ばかり走ってきた本馬にとって芝に慣れるまで時間がかかったのも理由のひとつだと筆者は考える)。
しかしエプソム競馬場に移動して参戦したコロネーションC(T12F)では単勝オッズ11倍という評価ながら、ジョセフ・“ジョー”・チャイルズ騎手(かつて英国三冠馬ゲインズボローの主戦騎手であり、この当時は英国王ジョージⅤ世の専属騎手だった)を鞍上に、本馬が敗れたグレートジュビリーH・ニューベリースプリングカップHの勝ち馬でもある愛フェニックスS・愛ナショナルSの勝ち馬アスフォード(後のドンカスターC勝ち馬)を短頭差の2着に、翌年のコロネーションC勝ち馬プランタゴを3着に破って見事に優勝した。
続いて出走したのはアスコット金杯(T20F)だった。本馬の英国遠征における最大の目標はこのレースだったのだが、連覇を達成した前年優勝馬インヴァーシンに2馬身差をつけられて2着に敗れた(前年の英セントレジャーでフェアウェイの1馬身半差2着だったパリロワイヤルが本馬から3馬身差の3着だった)。目標としていたアスコット金杯の出走をもって英国遠征は終了となり、本馬は米国に戻ってきた。ちなみに本馬が英国でレースに出る際に競馬場に姿を見せたハーツ氏の煌びやかな衣装は英国内で流行し、同様の衣装を着て競馬場に来る観客が増えたという。4歳時の成績は5戦1勝で、この年限りで競走馬を引退した。
なお、この年12月16日付けの米国のタイム誌が次のような話を報道した。それによると、テキサス州の大牧場主W・T・ワゴナー氏からハーツ氏に対して100万ドルで本馬を購入したいという申し出があったが、ハーツ氏は「一頭の馬に100万ドルを払おうなどという考えを持つ人は、きっと頭がどうかしているから病院で検査を受けた方がいいでしょう」と言って拒否したのだという。この話の信憑性は不明だが、仮に事実でしかも実現していれば、当時世界競馬史上最高額の取引になっていたそうである。なお、この時期における高額のトレード話としては、1926年にアガ・カーンⅢ世殿下が名馬ソラリオの所有者ジョン・ラザフォード卿に対して60万ドルを提示した例があるという(この話も実現はしていない)。
血統
Sunreigh | Sundridge | Amphion | Rosebery | Speculum |
Ladylike | ||||
Suicide | Hermit | |||
Ratcatcher's Doughter | ||||
Sierra | Springfield | St. Albans | ||
Viridis | ||||
Sanda | Wenlock | |||
Sandal | ||||
Sweet Briar | St. Frusquin | St. Simon | Galopin | |
St. Angela | ||||
Isabel | Plebeian | |||
Parma | ||||
Presentation | Orion | Bend Or | ||
Shotover | ||||
Dubia | Ayrshire | |||
Miss Middlewick | ||||
Contessina | Count Schomberg | Aughrim | Xenophon | Canary |
Birdcatcher Mare | ||||
Lashaway | Uncas | |||
Norma | ||||
Clonavarn | Baliol | Blair Athol | ||
Marigold | ||||
Expectation | Handsome Jack | |||
Prudence | ||||
Pitti | St. Frusquin | St. Simon | Galopin | |
St. Angela | ||||
Isabel | Plebeian | |||
Parma | ||||
Florence | Wisdom | Blinkhoolie | ||
Aline | ||||
Enigma | The Rake | |||
The Sphynx |
父サンレイはサンドリッジ産駒の仏国産馬(英国産馬とも)で、エクスターミネーターの引き立て役になってしまった1917年の米最優秀2歳牡馬サンブライヤー(サンボウの父)の4歳年下の全弟である。本馬の生産者キルマー氏により1歳時の1920年に米国に輸入されていた。競走馬としてのキャリアは不明であり、種牡馬としても早世したために僅か14頭の産駒しか出せず、本馬は父にとって唯一と言ってよい活躍馬である。
母コンテッシーナは英国産馬で現役成績は5戦未勝利。競走馬引退後はしばらく英国で繁殖生活を送っていたが、11歳時に10歳年下のサンレイと共にキルマー氏により米国に輸入されていた。サンレイと同様に本馬以外には特筆できる産駒はいない。
コンテッシーナの半兄には種牡馬としても成功したベッポ(父マルコ)【ジョッキークラブS・ハードウィックS】がいる。
コンテッシーナの祖母フローレンスはバーデン大賞・ケンブリッジシャーHの勝ち馬。フローレンスの姪にはエイミアブル【英1000ギニー・英オークス】、甥にはウィリアムザサード【アスコット金杯】がいる。グランヴィル【ベルモントS・アーリントンクラシックS・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションS・サラトガC】、アジャックス【豪シャンペンS・AJCサイアーズプロデュースS・ローズヒルギニー・コーフィールドギニー・VRCニューマーケットH・豪フューチュリティS3回・AJCオールエイジドS3回・アンダーウッドS3回・コーフィールドS・コックスプレート・マッキノンS】、カコイーシーズ【ターフクラシックH(米GⅠ)】、日本で走ったダイシンフブキ【朝日杯三歳S(GⅠ)】、ロジック【NHKマイルC(GⅠ)】達もこの牝系の出身馬である。→牝系:F2号族①
母父コートショーンベルクは現役時代に平地競走だけでなく障害競走も走り、グッドウッドC2連覇の他、リヴァプールオータムC・ジョッキークラブC・アスコットゴールドヴァーズ・チェスターCなどを制した長距離馬だった。遡ると、オーグリム、クセノフォン、キャナリーを経てオーランドに辿りつく。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ハーツ氏が1929年にケンタッキー州において設立したばかりのストーナークリークスタッドファームで種牡馬入りした。種牡馬入り当初はまずまずの成績を残したが、やがて成績は下降線を辿り、1940年頃には北米種牡馬ランキングトップ20位以内からも姿を消した。そのため、ハーツ氏は一時期本馬の交配数を年4頭まで制限したほどだったが、1940年産まれの米国三冠馬カウントフリートの大活躍により息を吹き返した。生涯に出したステークスウイナーは22頭である。1948年に23歳で他界し、遺体はストーナークリークスタッドファームに埋葬された。1978年に米国競馬の殿堂入りを果たした。後継種牡馬としてはカウントフリートが成功している。カウントフリート産駒のカウントターフもケンタッキーダービーを優勝し、本馬から父子三代のケンタッキーダービー優勝という史上初の快挙を達成した(他の父子三代ケンタッキーダービー制覇は、ペンシブ、ポンダー、ニードルズの例のみ)。直系は既に残っていないが、カウントフリートが祖母の父として送り出したミルリーフやミスタープロスペクターを経由して本馬の血は後世に受け継がれている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1931 |
Lady Reigh |
CCAオークス |
1932 |
Count Arthur |
ジョッキークラブ金杯・マンハッタンH・サラトガC2回 |
1933 |
Count Morse |
ベンアリH・クラークH |
1933 |
Count Stone |
マンハッタンH |
1935 |
Count d'Or |
アーリントンH・スターズ&ストライプスH |
1940 |
ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・ピムリコフューチュリティ・ウッドメモリアルS・ウィザーズS |
|
1941 |
Do-Reigh-Mi |
ガルフストリームパークH |
1941 |
Triplicate |
サンフアンカピストラーノ招待H・ハリウッド金杯・ゴールデンゲートH |
1942 |
Adonis |
トラヴァーズS |
1945 |
Henpecker |
ラホヤH |