エインシャントタイトル

和名:エインシャントタイトル

英名:Ancient Title

1970年生

黒鹿

父:ガンモ

母:ハイリトルギャル

母父:バルルデュ

歴史的名馬がひしめき合う1970年代米国において西海岸を主戦場として長きに渡り走り続けた知られざる米国殿堂馬の一頭

競走成績:2~8歳時に米で走り通算成績57戦24勝2着11回3着9回

誕生からデビュー前まで

米国カリフォルニア州スリーリングスランチ牧場において、ウィリアム・カークランド氏と妻のエセル・カークランド夫人により生産された。本馬が2歳の時にウィリアム氏が死去したため、エセル夫人名義で競走馬になった。気性が非常に激しかったため、2歳時に去勢されて騸馬になった。キース・ストゥッキ調教師の元で鍛えられた。

競走生活(2歳時)

2歳6月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビューし、後にデルマーフューチュリティで2着する勝ち馬ラッキーマイクからは6馬身離されながらも2着を確保。翌月にハリウッドパーク競馬場で出走したダート5.5ハロンの未勝利戦を頭差で制して勝ち上がった。翌週に同コースで出走した一般競走では、2着クロケーションに5馬身差をつけて圧勝。さらに翌週にはハリウッドジュヴェナイルCSS(D6F)に出走したが、ハリウッドラッシーSを勝ってきた牝馬ボールドリズの4馬身半差8着に敗退。その後はデルマー競馬場に場所を移して、8月のCTBAセールスS(D6F)に出走。2着ボールドバルコニーに8馬身差をつける大勝で、ステークス競走初勝利を挙げた。

2週間後のデアンザS(D6F)では、翌月のデルマーフューチュリティで2・3着するラッキーマイクとボトルブラッシュの2頭に屈して、ラッキーマイクの2馬身半差3着に敗退。9月にはレースに出ず、10月にサンタアニタパーク競馬場で行われたサニースロープS(D7F)に向かった。このレースには、デルマーフューチュリティでラッキーマイクを2着に下してきたグロスホークも出走していたが、グロスホークを3馬身差の2着に退けて快勝した。それから12日後には、カリフォルニア州における2歳馬最強決定戦のカリフォルニアブリーダーズCS(D7F)に出走。2着リヴァーラッドに4馬身3/4差をつけて圧勝し、米国西海岸における世代トップホースの地位を確立した。2歳時の成績は8戦5勝だった。

競走生活(3歳時)

3歳時は1月のサンミゲルS(GⅢ・D6F)から始動したが、米国東海岸でユースフルS・ジュヴェナイルS・トレモントSを勝ちサンフォードS2着・カウディンS3着の実績もあったリンダズチーフ(サンフォードSではセクレタリアトを生涯唯一の2番人気に落とした事で知られる)に敗れて、3馬身半差の2着だった。翌月のサンヴィンセントS(GⅢ・D7F)では、リンダズチーフを首差の2着に抑えて、1分21秒0のレースレコードで勝利。しかし3月のサンハシントS(GⅡ・D8F)では、コースレコードで走ったリンダズチーフに5馬身差をつけられて2着に敗退。同月のサンフェリペH(GⅡ・D8.5F)でも、サンタカタリナSを勝ってきたシャムには先着したものの、リンダズチーフの3馬身差2着に敗れた。そしてサンタアニタダービー(GⅠ・D9F)では、2着リンダズチーフに2馬身半差をつけて勝ったシャムに8馬身差をつけられ、サンヴィンセントSとサンフェリペHでいずれも3着だったアウトオブイースト(2年後のサンタアニタHで2着している)にも先着を許す4着に敗れ去った。

この敗戦が影響したのか、元々陣営に意思が無かったのかは不明だが、本馬は東上してケンタッキーダービーを始めとする米国三冠路線に参戦する事は無く、そのまま西海岸に留まった。そのために幸か不幸か、圧倒的な強さでこの年の米国三冠馬に輝いたセクレタリアトと本馬は対戦する機会が無かった。ケンタッキーダービーの前週にハリウッドパーク競馬場で行われたイングルウッドS(GⅡ・D7F)に出走すると、サニースロープS2着後にノーフォークSを勝っていたグロスホークを頭差の2着に抑えて勝利。プリークネスSの当日にはウィルロジャーズH(GⅡ・T8F)に出走。初の芝競走となったが、グロスホークの1馬身3/4差2着と好走した。その後は半年間の休養を経て、年末のパロスヴェルデスH(GⅢ・D6F)で復帰。ここでは、ウッドランドパインズの3馬身差3着だった。3歳時の成績は8戦2勝だった。

競走生活(4歳時)

翌4歳時は1月のマリブS(GⅡ・D7F)から始動。本馬と同じく米国三冠競走には参加せずに米国各地を回って、カリフォルニアダービー・ウィザーズS・ポンティアックグランプリS・サラナクSを勝っていたリンダズチーフとの対戦となった。今回は本馬が2着リンダズチーフに3馬身差をつけて勝利した。2週間後のサンフェルナンドS(GⅡ・D9F)では、リンダズチーフを3馬身半差の2着に、亜国の大競走ポージャデポトリジョス大賞を勝って米国に移籍してきたマリアッチを3着に下して勝利した。そしてチャールズHストラブS(GⅠ・D10F)に出走すると、2着ダンシングパパに3馬身差で完勝。前年は手が届かなかったGⅠタイトルを獲得すると同時に、1958年のラウンドテーブル、1959年のヒルズデール以来15年ぶり史上3頭目となる、マリブS・サンフェルナンドS・チャールズHストラブSのストラブシリーズ完全制覇を果たした(本馬以降に達成したのはスペクタキュラービッドプレシジョニストの2頭のみ)。

この勢いに乗ってサンタアニタH(GⅠ・D10F)も制覇、といきたいところだったが、重馬場が影響したのか、チャールズHストラブSで本馬の3着に敗れた後にサンアントニオHを勝っていたプリンスダンタンから4馬身半差の2着に敗れた。サンルイレイS・ベルモントレキシントンH・ギャラントフォックスHを勝ち前年のチャールズHストラブS・サンフアンカピストラーノ招待H・ワシントンDC国際Sで2着していたビッグスプルースが3着だった。次走は翌4月のレイクサイドH(GⅡ・T8.5F)となったが、結果論的には本馬はあまり芝が得意ではなかったようで、亜国の大競走ラウル&ラウルEチェバリエル大賞を勝った後に米国に移籍して2週間前のサンシメオンHを勝っていたマタンの2馬身1/4差5着に敗れた。

翌5月に出走したロサンゼルスH(GⅡ・D7F)は、前年のパロスヴェルデスHで本馬を破ったウッドランドパインズを首差の2着に抑えて勝利した。しかし同月に出走したカリフォルニアンS(GⅠ・D8.5F)では、3着ウッドランドパインズには先着したものの、前年の同競走とハリウッド金杯・ウィルロジャーズS・カリフォルニアダービー・サンバーナーディノHを勝っていたクアックの1馬身1/4差2着に敗れた。翌6月に出走したハリウッド金杯(GⅠ・D10F)では、チャールズHストラブS・デルマーダービー・イングルウッドHを勝っていた7歳馬ウォーハイムを3着に抑えたが、伏兵ツリーオブノリッジ(ドクターファーガー産駒の牡馬。シアトリカルやタイキブリザードの母とは同名の別馬)の2馬身半差2着に敗れてしまった。その後は前年同様に半年間休養に充て、暮れのパロスヴェルデスH(GⅢ・D6F)で復帰。セレクトHの勝ち馬プリンスリーネイティヴを1馬身半差の2着に抑えて勝利した。4歳時は9戦5勝の成績で、この年のカリフォルニア州年度代表馬に選ばれた。

競走生活(5歳時)

翌5歳時は1月のサンカルロスH(GⅡ・D7F)から始動した。ここでは128ポンドを背負いながらも、ベイショアSの勝ち馬で前年のケンタッキーダービー2着のハドソンカウンティ、チュラヴィスタHの勝ち馬バイーアキーとの接戦を制して3/4馬身差で勝利した(他2頭は2着同着)。翌月のサンアントニオS(GⅠ・D9F)でも同じく128ポンドを背負わされ、ここではジムダンディSの勝ち馬シェリープ、サンフェルナンドSを勝ってきたファーストバックの2頭に後れを取って、シェリープの2馬身1/4差3着に敗退した。

サンタアニタHは回避して、次走は5月のカバレロH(D8F)となった。ここでは、レースレコードで走ったジュネスラヴの3馬身1/4差3着だった。その16日後にはカリフォルニアンS(GⅠ・D8.5F)に出走。ロサンゼルスHを勝ってきたビッグバンドを頭差の2着に、ハリウッドジュヴェナイルCSS・ウエストチェスターS・ハギンSの勝ち馬センチュリーズエンヴォイを3着に抑えて勝ち、GⅠ競走2勝目を挙げた。さらに翌月に出走したハリウッド金杯(GⅠ・D10F)では、ビッグバンドを今度は4馬身半差の2着に下して勝利。前年はいずれも2着と勝てなかったこの2競走を制した。この年はここで休養入りせずに、分割競走アメリカンH(GⅡ・T9F)に出走。しかし芝競走である事に加えて128ポンドの斤量も影響したのか、エディリードH2着馬モンマルトルの1馬身差3着に敗れた。

その後は初めて東海岸に遠征し、ホイットニーH(GⅡ・D9F)に出走。128ポンドの斤量、遠征初戦などの不利な条件が多かった上に、メトロポリタンH・デラウェアバレーHの勝ち馬でガヴァナーS・ウッドワードS・サバーバンH2着のアービーズボーイ、ホーソーン金杯H・スタイミーHの勝ち馬でウッドワードS・ジョッキークラブ金杯3着のグループプラン、ドワイヤーHの勝ち馬ハチェットマンといった東海岸の実力馬達が待ち構えていた。しかし本馬が2着グループプランに首差で勝利してみせた。

次走のガヴァナーS(GⅠ・D9F)ではさらに対戦相手のレベルが上昇。ワイドナーH2回・ブルックリンH2回・ウッドワードS・ジョッキークラブ金杯・サバーバンH・ガルフストリームパークH・カーターH2回・ヴォスバーグH・セミノールH・ディスカヴァリーH・ドンH・ナッソーカウンティHを勝ち米国最強馬として君臨していたフォアゴー、この年のケンタッキーダービーを筆頭にサプリングS・ホープフルS・シャンペンS・フラミンゴS・ウッドメモリアルS・カウディンS・ドーバーS・トレモントSを勝っていたフーリッシュプレジャー、モンマス招待H・トラヴァーズSを連勝してきたワジマなどが対戦相手となった。本馬を含むこの4頭は全て初顔合わせだった。特にフーリッシュプレジャーはラフィアンとの運命のマッチレース以来の出走であり、ラフィアンの悲劇に泣いた米国の競馬ファンは米国を代表する強豪馬勢の対決に大きく盛り上がった。しかし残念ながらこのレースはガチンコ対決では無かった。フォアゴーが134ポンドのトップハンデで、本馬が130ポンド、フーリッシュプレジャーが125ポンド、ワジマは115ポンドだった。フォアゴー、本馬、フーリッシュプレジャーの斤量は実績と年齢からして妥当だったが、前走のトラヴァーズSを10馬身差で圧勝してきたワジマの斤量は軽すぎた。その軽量を活かしたワジマが2着フーリッシュプレジャーを頭差の2着に抑えて勝ち、本馬はさらに2馬身差の3着、フォアゴーはさらに3/4馬身差の4着に敗れた。しかし斤量差からして着順がそのまま実力差であるとは言い難い状況だった。この不適当な斤量設定を非難されたからでもないだろうが、このガヴァナーSはこの年限りで廃止されてしまった。

次走のマールボロC招待H(GⅠ・D10F)でも、本馬、フォアゴー、フーリッシュプレジャー、ワジマの4頭は対戦。斤量は本馬が125ポンド、フォアゴーが129ポンド、フーリッシュプレジャーが121ポンドと4~5ポンドずつ下がり、ワジマは4ポンド増えて119ポンドと、前走に比べるとまともな斤量設定になった。しかしレースではまたしても最軽量のワジマが勝利を攫い、フォアゴーが頭差2着、本馬は7馬身離された3着、フーリッシュプレジャーはさらに3馬身差の5着に終わった。ワジマはともかく、より重い斤量を背負ったフォアゴーに敗れた事で、残念ながら本馬はフォアゴーから米国最強古馬の称号を奪い取る事は出来ず、そのまま東海岸を後にした。

地元に戻った本馬は、11月にサンタアニタパーク競馬場で行われた新設競走ナショナルチャンピオン招待S(D10F)に出走した。ブラジル共和国大統領大賞を勝った後に米国に移籍してヴァニティH・ラモナHを勝っていたダルシア、サンタマルガリータ招待H2回・レディーズH・サンタモニカH・ラモナH・モンロヴィアH・サンタポーラH・ウィルシャーHを勝ちベルデイムSで2着していたチリ出身のティズナという南米出身の名牝2頭に加えて、ユナイテッドネーションズH・エイモリーLハスケルH・サンバーナーディノH・アーリントンH・パトリオットS・ケリーオリンピックHを勝っていたロイヤルグリントも参戦してきて盛り上がったが、遠征の疲れが出た本馬は、勝ったダルシアから5馬身3/4差の7着に完敗。ちなみにこのナショナルチャンピオン招待Sは結局2年で廃止されてしまっている。5歳時の成績は10戦4勝だったが、2年連続でカリフォルニア州年度代表馬に選ばれた。

競走生活(6歳時)

翌6歳時は2月のサンアントニオS(GⅠ・D10F)から始動したが、マリブS・サンパスカルH・ラホヤマイルH・デルマーダービーを勝っていたライトニングマンデートが勝利を収め、本馬は10馬身差をつけられた10着最下位に沈んだ。2週間後のサンタアニタH(GⅠ・D10F)では、ライトニングマンデート、ダルシア、前年のナショナルチャンピオン招待S2着後にホーソーン金杯H・グレイラグHを勝っていたロイヤルグリント、前年のナショナルチャンピオン招待S3着後にレディーズHを勝っていたティズナに加えて、米国に移籍していたキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS2回・サンタラリ賞・愛オークス・ワシントンDC国際S・サンクルー大賞・ベンソン&ヘッジズ金杯2回・マンノウォーSなどの勝ち馬ダリアも参戦してきた。本馬陣営は前走の惨敗から良く立て直したが、ロイヤルグリントに鼻差敗れて惜しくも勝利を逃した。

その後は2か月間の間隔を経て、5月のカバレロH(GⅢ・D8F)に出走。128ポンドを背負っての出走だったが、2着ビッグディスティニーに半馬身差で勝利した。その15日後に出走したカリフォルニアンS(GⅠ・D8.5F)では、カバレロHで3着だったペイトリビュートを頭差の2着に抑えて勝ち、2連覇を達成した。

その後はやはり2連覇を目指してハリウッド金杯(GⅠ・D10F)に出走。ペイトリビュート、サンタアニタHでは9着に終わるも前走ハリウッド招待HでGⅠ競走10勝目を挙げていたダリア、前年のマールボロC招待H5着後にドンHを勝っていたフーリッシュプレジャー、前年のベルモントSを筆頭にサンタアニタダービー・サンルイレイSを勝っていたアバター、欧州でパース賞を勝ちムーランドロンシャン賞・フォレ賞3着の実績を挙げた後に米国に移籍して前走ベルエアHを勝ってきたリオインパリも参戦してくる豪華メンバーとなった。しかし実績では見劣りしても勢いでは最上位だったペイトリビュートが勝利を収め、上記に挙げた馬全てに先着された本馬は、ペイトリビュートから6馬身半以上の差をつけられて6着に敗れた。翌7月には芝のアメリカンH(GⅡ・T9F)に出走したが、欧州でガリニュールS・ブランドフォードSを勝ち愛ダービー・英セントレジャー2着の実績を挙げた後に米国に移籍してきたキングペリノア、ハリウッド金杯で3着だったリオインパリ、欧州で愛セントレジャーを勝った後に米国に移籍してマンハッタンHを勝っていたコーカサスといった欧州芝路線経験馬勢に敵わず、勝ったキングペリノアから3馬身半差の5着に敗退。

その後はしばらく休養入りして、復帰戦はもうお決まりとなった暮れのパロスヴェルデスH(D6F)となった。しかし結果はマヘラスの3馬身半差3着に終わった。6歳時の成績は7戦2勝だった。なお、この年に所有者のエセル・カークランド夫人が死去したため、本馬はカークランドステーブル名義となっている。

競走生活(7歳時)

翌7歳時は1月のサンパスカルH(GⅡ・D8.5F)から始動したが、ウィルロジャーズH・サンカルロスHの勝ち馬ユニフォーミティーの6馬身1/4差5着に敗れた。翌月のサンアントニオS(GⅠ・D9F)では、3歳以降では最軽量の119ポンドとなった。それが良かったようで、前年のサンタアニタダービー2着馬ダブルディスカウントを1馬身差の2着に抑えて勝利した。しかしサンタアニタH(GⅠ・D10F)では、前年のハリウッドダービー・サンフェリペHの勝ち馬クリスタルウォーター、キングペリノアなどに打ちのめされ、勝ったクリスタルウォーターから13馬身差をつけられた11着と惨敗した。

その後は前年より施行時期が2か月早まったカリフォルニアンS(GⅠ・D8.5F)に出走して3連覇を目指したが、クリスタルウォーターの2馬身1/4差3着に終わった。ハリウッド金杯の施行時期は変わらなかったため、2レースの間に3か月近い間隔が出来た。この間隔を利用して再調整し、本番2週間前のベルエアH(GⅡ・D9F)に出走。ポージャデポトリロス賞・ジョッキークラブ大賞・ブラジル共和国大統領大賞と南米でGⅠ競走3勝を挙げていたウルグアイ出身のレジェンダリオという実力馬が参戦してきたが、本馬が2着ラジャブに鼻差で勝利した。

そしてハリウッド金杯(GⅠ・D10F)に出走したが、またしてもクリスタルウォーターが勝利。ミレイディH・ハネムーンHの勝ち馬カスカペディアが首差2着、前年のアメリカンH3着後にサンセットH・サンルイレイS・アーケイディアHを勝っていたコーカサスがさらに鼻差の3着で、本馬は前3頭の争いに参加できずに、クリスタルウォーターから5馬身1/4差の4着に終わった。

前年までなら夏場以降は休養に入る事が多かったが、この年の本馬陣営はその道を採らず、夏場以降もレース出走を継続させた。まずは7月にハリウッドパーク競馬場で施行された新設競走サイテーションH(D8.5F)に出たが、ペインティドワゴンの2馬身半差4着に敗れた。翌8月にはデルマー競馬場で芝8ハロンの一般競走に出て2馬身半差で勝利し、芝における初勝利を挙げた。

9月に出走したデルマーH(GⅡ・D9.5F70Y)では、ペインティドワゴンを5馬身差の2着に、ハリウッド金杯2着後にヴァニティHを勝っていたカスカペディアを3着に、クリスタルウォーターを6着に破り、1分55秒6という芝並みのタイムでコースレコード勝ち。翌10月にはカールトンFバークH(GⅡ・T10F)に出たが、ダートで芝並みのタイムを出すのと芝を走るのでは当然勝手が異なり、斤量が前走より4ポンド多い127ポンドになっていた影響もあったのか、ダブルディスカウントの6馬身1/4差5着に敗れた。ちなみにダブルディスカウントの勝ちタイム1分57秒4は世界レコードだった。それでも陣営はしつこく次走にも芝のオークツリー招待S(GⅠ・T12F)を選択。ここではデルマーH惨敗後に米国東海岸に遠征したが結果を出せないまま戻ってきた宿敵クリスタルウォーター、ハリウッドパーク招待ターフHの勝ち馬ヴィガーズ(典型的な追い込み馬だった上に芦毛だったため、“The White Tornado(白い竜巻)”の異名で親しまれた)との大接戦となったが、クリスタルウォーターが2着ヴィガーズに首差で勝利を収め、本馬はさらに鼻差の3着と惜敗。結局本馬は芝でステークス競走を勝つ事は無かった。7歳時の成績は11戦4勝だった。

競走生活(8歳時)

翌8歳時も現役を続け、1月のサンパスカルH(GⅡ・D8.5F)から始動した。ここでは、カバレロHの勝ち馬マークズプレイスを1馬身半差の2着に、ダブルディスカウントを3着に破り、1分40秒2のコースレコードを樹立して快勝した。次走のサンアントニオS(GⅠ・D9F)では、勝ったヴィガーズから7馬身離されながらも2着に入り、3着ダブルディスカウントや7着クリスタルウォーターには先着した。その後はサンタアニタHを目標としていたはずだが、結局出走はせず(ヴィガーズが勢いそのままに勝っている)、本馬はサンタアニタHを勝つ事は遂に無かった。次走は7月にデルマー競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走となった。ここでは実力の違いを見せて、2馬身半差で快勝。そしてサンディエゴH(D8.5F)に出走したが、レース中に故障して競走中止。生命には別状無かったが、これで本馬の競走生活は終わりを告げた。8歳時の成績は4戦2勝だった。

2歳から8歳まで長きに渡って一線級で活躍した本馬の獲得賞金総額は125万2791ドルに達し、これはカリフォルニア州産馬としてはネイティヴダイヴァーの記録を上回る当時史上最高額だった。芝12ハロンのオークツリー招待Sで僅差3着しているように、長い距離でも活躍したし芝もこなしたが、その本領はダートの短距離でこそ発揮されたようである。特にダートの7ハロン戦では強く、7戦無敗の戦績を誇った。

馬名はエセル・カークランド夫人の祖父が独国の貴族だった事から連想して名付けられたらしい。

血統

Gummo Fleet Nasrullah Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Happy Go Fleet Count Fleet Reigh Count
Quickly
Draeh Bull Dog
Miss Bunting
Alabama Gal Determine Alibhai Hyperion
Teresina
Koubis Mahmoud
Brown Biscuit
Trojan Lass Priam Pharis
Djezima
Rompers Bull Dog
Gentle Play
Hi Little Gal Bar le Duc Alibhai Hyperion Gainsborough
Selene
Teresina Tracery
Blue Tit
Boudoir Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Kampala Clarissimus
La Soupe
Salma Salmagundi Phalaris Polymelus
Bromus
Salamandra St. Frusquin
Electra
Born Fool Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Boys I'm It North Star
Blind Date

父ガンモはカリフォルニア州産馬で、現役成績34戦11勝。カリフォルニアブリーダーズチャンピオンS・ベイメドウズジュヴェナイルCS・セナトリアルS・スワップスHを勝ち、ケントS・シコガンS・レイバーデイSで2着、CTBAセールスS・ハリウッドジュヴェナイルCSS・サンヴィンセントHで3着している。種牡馬としてはスリーリングスランチ牧場などで繋養され、本馬を含めてGⅠ勝ち馬を複数送り出して活躍した。ガンモの父フリートナスルーラはナスルーラの後継種牡馬の一頭で、現役成績は29戦11勝。ウエストチェスターS・レイクスアンドフラワーズH・ハリウッドプレミアH2回・カリフォルニアンS・サンパスカルHを勝っている。カリフォルニアンSとハリウッドプレミアHはコースレコードで勝利した。引退後しばらくはカリフォルニア州で種牡馬生活を送っていたが、後にケンタッキー州に移動して多くの活躍馬を出した。

母ハイリトルギャルは現役成績5戦2勝。本馬以外に活躍馬を産んではいないが、牝系子孫は21世紀に入った今でも続いている。ハイリトルギャルの祖母ボーンフールの全妹ミススリルの牝系子孫にはバードタウン【ケンタッキーオークス(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)】とバードストーン【ベルモントS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)】の姉弟が、ボーンフールの半妹インピッシュリンの牝系子孫にはヘイルアキャブ【スピンスターS(米GⅠ)】がいる。ボーンフールの祖母ブラインドデートの半姉ブロッサムタイムの子には米国顕彰馬ブルーラークスパー【ベルモントS・サラトガスペシャルS・ウィザーズS・アーリントンクラシックS】が、ブラインドデートの全妹ブライダルカラーズの子には名種牡馬レリック【ホープフルS】がいる。→牝系:F8号族①

母父バルルデュはアリバイ産駒で、競走馬としては1戦1勝に終わったが、ユアホストの全弟という血統が評価されて種牡馬入りした。しかし種牡馬としてもあまり成功できなかった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ウォレス・ドレイス調教師が開設したカリフォルニア州のリオビスタファームで隠居生活を開始した。しかし本馬に与えられた悠々自適の余生は短く、1981年8月に疝痛を発症し、手術の甲斐なく翌月1日に他界。12歳の若さだった。本馬のGⅠ競走勝ちは5勝であり、同時代の米国競馬界にはそれ以上に大レースを勝ちまくった派手な名馬がごろごろいたため、上辺だけの実績を見ると目立たず、日本における知名度も殆ど無い。しかし米国では本馬の実績は評価されており、2008年には米国競馬の殿堂入りを果たした。この年89歳だった本馬の調教師ストゥッキ師は「もっと早くに選ばれても良かった」としながらも、本馬が殿堂入りした事をとても喜んだという。

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