ギャラントマン

和名:ギャラントマン

英名:Gallant Man

1954年生

鹿毛

父:ミゴリ

母:マジデー

母父:マームード

ゴール板誤認による敗戦というケンタッキーダービーの悪夢からベルモントSの8馬身差圧勝で覚醒した無冠の帝王

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績26戦14勝2着4回3着1回

同期にボールドルーラーラウンドテーブルなどがいる米国競馬史上最強世代を代表する1頭で、強烈な末脚を武器に大レースで活躍した。しかし勝ったいかなるレースよりも、とあるレースで喫した不運極まりない敗戦によって後世に強く記憶されている馬である。

誕生からデビュー前まで

生国は米国ではなく愛国で、生産者は名馬産家として知られるアガ・カーンⅢ世殿下と息子のアリ・カーン王子である。1歳時に愛国で行われたセリに出品され、米国の馬主ラルフ・ロウ氏によって他馬8頭と一緒に購入されて渡米し、ジョン・A・ネルド調教師に預けられた(購入金額は9頭合わせて22万ドルだったという)。

成長しても体高は15ハンド強にしかならなかったという非常に小柄な馬で、しかも脚部不安を抱えていた。そのため、ロウ氏が本馬を購入しようとした際に獣医は思い留まるように説得したという。ロウ氏の代理人だったハンフリー・フィニー氏も本馬が9頭の馬の中で一番出来が悪いと感じていたというから、優れた血統にも関わらず、デビュー前の評価はかなり低かったようである。

競走生活(3歳初期まで)

2歳5月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビューしたが、11馬身差の10着に惨敗した。それから11日後に出走した同コースの未勝利戦も、ゴールデンノーツの8馬身3/4差9着に惨敗。2週間後に出走した同コースの未勝利戦では、単勝オッズ51倍という低評価を覆して、2着フォーヒールズに3/4馬身差で勝ち上がった。しかし翌7月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの一般競走では、ゴールデンワンの7馬身1/4差6着に大敗。

その後は2か月半ほど休養し、10月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰した。しかしここでも10馬身差の9着と惨敗した。2週間後に同コースで行われた一般競走は、2着ディスサーンメントに3/4馬身差で勝利した。その後はケンタッキー州に向かい、12月にターフウェイパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走。ここでは2着サンデースターに首差で勝利し、2歳時の成績を7戦3勝とした。

3歳時は1月3日に前走と同コースで行われた一般競走から始動した。このレースには、1949年の米最優秀3歳牝馬ウィストフルの息子で、名門カルメットファームがサイテーション級の期待を寄せていたゲンデュークという評判馬の姿があった。しかし本馬がゲンデュークを6馬身差の2着に破って圧勝した。

その後はフロリダ州に向かい、ハイアリアパーク競馬場で行われたハイビスカスS(D6F)に出走した。このレースには、2歳時にサプリングS・ホープフルS・グレートアメリカンS・トレモントSなどを勝っていた同世代屈指の実績馬キングヘイランの姿があった。しかし本馬が2着ミサイルに半馬身差で勝利を収め、キングヘイランは3着に終わった。

次走のバハマズS(D7F)では、ゲンデューク、ケンタッキージョッキークラブS・ユースフルSの勝ち馬フェデラルヒルに加えて、ベルモントフューチュリティS・ユースフルSを勝っていたボールドルーラーも参戦してきて、後の好敵手ボールドルーラーとの初顔合わせとなった。しかし今回はコースレコードタイで走破したボールドルーラーから7馬身3/4差をつけられた4着に敗れ、2着ゲンデューク、3着フェデラルヒルにも後れを取った。

その後は2か月ほど休養し、4月にジャマイカ競馬場で行われたスウィフトS(D6F)で復帰した。しかし、キングヘイラン、ミサイル、サンフォードS2着馬クレムといった馬達に後れを取り、キングヘイランの1馬身3/4差4着に敗退。次走のウッドメモリアルS(D9F)では、バハマズS勝利後にフラミンゴSを勝ちエヴァーグレイズS・フロリダダービーでいずれもゲンデュークの2着していたボールドルーラーと2度目の対戦となった。レースでは本馬とボールドルーラーが直線で大激闘を演じたが、ボールドルーラーが勝利を収め、本馬は鼻差の2着に敗れた。しかしボールドルーラーの勝ちタイム1分48秒8はコースレコードを0秒4更新するものであり、同タイムで走破していた本馬はここでようやくケンタッキーダービーの有力馬として万人から認められるに至った。

悪夢のケンタッキーダービー

次走のケンタッキーダービー(D10F)では、主戦のJ・チェケッテ騎手が騎乗停止となっていたため、本馬には名手ウィリアム・シューメーカー騎手が代わりに騎乗した。主な対戦相手は、ボールドルーラー、前走ブルーグラスSを6馬身差のコースレコードで圧勝してきたブリーダーズフューチュリティの勝ち馬ラウンドテーブル、バハマズS3着後にダービートライアルSを勝ってきたフェデラルヒルなどだった。ゲンデュークも出走予定だったが、故障のためにレース当日になって回避が決定し、カルメットファームはその代打として、ファウンテンオブユースSで2着、エヴァーグレイズS・フラミンゴS・フロリダダービーで各3着だったアイアンリージという馬を送り込んでいた。

直前まで本命視されていたゲンデュークの回避により、単勝オッズ2.2倍の1番人気にボールドルーラーが支持され、単勝オッズ4.6倍の2番人気にラウンドテーブル、単勝オッズ4.7倍の3番人気が本馬となった。レースではボールドルーラー、4番人気のフェデラルヒル、5番人気のアイアンリージが先頭を引っ張り、本馬は馬群の中団好位を追走した。直線に入ってアイアンリージがボールドルーラーやフェデラルヒルを置き去りにして先頭に立って逃げ込みを図るところに、外側から本馬が猛追した。しかしゴールまで残り半ハロンを切ったところで、本馬鞍上のシューメーカー騎手が残り半ハロンの標識をゴール板と誤認してしまい、追うのを一瞬止めて立ち上がるという事態が発生した。レースが終わっていない事に直後に気付いたシューメーカー騎手はすぐさま再び追い出したが、時既に遅く鼻差届かなかった(「競馬 感涙劇場」には「(本馬が)ゴール前100mの標識でついに(アイアンリージを)かわしたところで、(シューメーカー騎手が)勝利のポーズをとってしまった一瞬の隙にアイアンリージが差し返してまた先頭に立った」と記載されているのだが、映像を見るとシューメーカー騎手が追うのを止めた時点では、まだ本馬は明らかに半馬身ほど遅れた2番手であるため、この記載内容は創作である)。ラウンドテーブルは本馬から2馬身3/4差の3着、ボールドルーラーはさらに3馬身差の4着に敗れた。

1993年のジャパンCでコタシャーン鞍上のデザーモ騎手がやはりゴール板を誤認してレガシーワールドの1馬身1/4差2着に敗れるという事件が起こり、これについては日本国内で「ミスが無くてもレガシーワールドが勝っていた」「ミスが無ければコタシャーンが勝っていた」という意見に分かれて現在でも論争になる事がある。いずれの意見にも相当の理由があり、筆者もどちらが正しいのかは判断できないが、このケンタッキーダービーの場合は着差が着差だけにミスが無ければ本馬が勝っていた可能性がかなり大きいと思われ、シューメーカー騎手自身もそれを認めている。そのため、この事件は米国競馬史上における最大級の失敗として、現在も語り継がれることになってしまった。この失態に対して、シューメーカー騎手には2週間の騎乗停止処分が課された。なお、本馬の馬主ロウ氏がレース2日前に、騎手がゴール板を誤認して追うのを止めたために本馬が敗れてしまうという夢を見ていたという話がある。非常に有名な逸話だが、さすがに嘘くさいと思う人が多いようで、本馬を紹介した海外の資料にはあまり掲載されていない(掲載している資料もある)。

競走生活(3歳後半)

ケンタッキーダービーの敗北に激怒したロウ氏はベルモントSで必勝を期すために、本馬にプリークネスSを回避させ、代わりにピーターパンH(D9F)に出走させた。前走の大失敗にも関わらず、このレース以降も本馬には引き続きシューメーカー騎手が騎乗することになった。このレースには、ウッドメモリアルSで3着だったプロミストランドが出走していたが、本馬が2着プロミストランドに2馬身半差で勝利した。

そしてベルモントS(D12F)に出走した。プリークネスSを勝利してきたボールドルーラーが単勝オッズ1.85倍の1番人気で、本馬は単勝オッズ1.95倍の2番人気(ラウンドテーブルはケンタッキーダービー敗戦後に地元米国西海岸に戻ってしまったため不参戦)と、完全な2強ムードだった。レースはボールドルーラーが先頭を飛ばし、本馬がそれを追いかけるという、ケンタッキーダービーと似たような展開となったが、やがて失速したボールドルーラーをかわして先頭に立った本馬が直線を独走して、2着インサイドトラクト(後のジョッキークラブ金杯の勝ち馬)に8馬身差をつけて圧勝。ボールドルーラーはインサイドトラクトからさらに4馬身後方の3着に終わった。勝ちタイム2分26秒6は当時の全米レコードタイムだった。このタイムは7年後の1964年のマンハッタンHでゴーイングアブロードが2分26秒2を計時して全米レコードとしては更新されたが、レースレコードとしてはその後も9年間維持され、1973年のベルモントSでセクレタリアトが2分24秒0という超非常識なタイムを計時するまで16年間に渡ってレースレコードとして君臨した。2015年現在でもベルモントS史上6位という好時計である。

その後は一間隔空けて、8月にサラトガ競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走で復帰。ここでは2着となったドワイヤーH2着馬リトルハーミットに4馬身差をつけて快勝した。次走のトラヴァーズS(D10F)では、最後方から四角でまくって先頭のドワイヤーH勝ち馬ビューロクラシーに並びかけると、直線の叩き合いを半馬身差で制した。次走のナッソーカウンティH(D9F)では、ブルックリンH・ホイットニーH・ホーソーン金杯H・ジョンBキャンベルH・モンマスHなどの勝ち馬でこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるデディケートとの対戦となった。レースでは本馬とデディケートの大接戦となったが、1分47秒2のコースレコードを計時した本馬が首差で勝利を収めた。

次走のウッドワードS(D10F)では、ジェロームHを勝ってきたボールドルーラー、デディケートとの対戦となった。ここではデディケートが勝利を収め、本馬は2馬身1/4差の2着、ボールドルーラーはさらに1馬身1/4差の3着だった。次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では得意の長距離戦となったこともあり、単勝オッズ1.3倍という圧倒的な1番人気に応えて、ロングアイランドH・ローマーHの勝ち馬サードブラザー(名馬ヒルプリンスの全弟)を1馬身差の2着に抑えて勝利した。

この年最後のレースとなったのは、11月にガーデンステート競馬場で行われたトレントンH(D10F)となった。このレースの出走馬は本馬を含めて3頭だけだったが、他の2頭は、ウッドワードS3着後にヴォスバーグH・クイーンズカウンティH・ベンジャミンフランクリンHで全て130ポンド以上を背負って3連勝してきたボールドルーラーと、ハリウッド金杯・アメリカンダービー・ユナイテッドネーションズH・ホーソーン金杯など11連勝中のラウンドテーブルであり、3歳三強による一大決戦となった。斤量は本馬とラウンドテーブルが124ポンド、ボールドルーラーが122ポンドと設定された。1番人気は本馬で、他の2頭が2番人気で並んだ。シューメーカー騎手はラウンドテーブルの主戦も務めるようになっていたが、このレースでは本馬に騎乗した。スタートが切られるとボールドルーラーが先頭を飛ばし、本馬がそれを追撃。ラウンドテーブルは不得手だった湿った馬場に脚を取られて、思うように追走できなかった。結局ボールドルーラーが逃げ切って勝ち、本馬は2馬身1/4差の2着、ラウンドテーブルは本馬から8馬身以上後方の3着に終わった(本馬とラウンドテーブルは以降対戦することは無かった)。

3歳時14戦8勝の好成績を残した本馬だったが、米年度代表馬及び最優秀3歳牡馬のタイトルはボールドルーラーに奪われてしまった(米年度代表馬はデディケートも同時受賞した)。

競走生活(4歳時)

4歳時は5月のカーターH(D7F)から始動した。ここでは前走トボガンHで133ポンドを背負いながら勝利したボールドルーラーとの対戦となった。斤量はボールドルーラーが135ポンドで、本馬は128ポンドだったが、ボールドルーラーが2着チックタックに1馬身半差をつけて快勝し、本馬はチックタックから1馬身半差の3着に敗れた。

次走のメトロポリタンH(D8F)でもボールドルーラーとの対戦となった。ボールドルーラーの斤量は相変わらず135ポンドだったが、本馬にも前走より2ポンド重い130ポンドが課せられた。しかし今回は本馬が2着ボールドルーラーに2馬身差をつけて勝利した(この年にラウンドテーブルを3度破って勝利するクレムが3着だった)。これが本馬とボールドルーラーの最後の対戦となり、対戦成績は4勝4敗の五分となった。

その後は西海岸に向かい、ハリウッド金杯(D10F)に出走。130ポンドが課されたが、サンディエゴH・ギャラントフォックスH・ナッソーカウンティH・イングルウッドHの勝ち馬エディシュミットを半馬身差の2着に抑えて勝利した。

次走のサンセットH(D13F)では132ポンドが課せられた。このレースには東京優駿・天皇賞秋・有馬記念を勝って啓衆社賞年度代表馬にも選ばれた日本のハクチカラも主戦の保田隆芳騎手を鞍上に参戦していた。渡米後2戦連続最下位だったハクチカラの斤量は110ポンドだった。結果は本馬が2着エディシュミットに4馬身差をつけて完勝し、ワシントンバースデイH2回・サンフアンカピストラーノ招待H・ディキシーH・サンガブリエルHの勝ち馬セントヴィンセントが3着、ハクチカラは4着に敗れた。これが後の日本と米国の顕彰馬同士の記念すべき初対決である(2度目の対決となった翌年2月のワシントンバースデイHではハクチカラがラウンドテーブルを破って勝利している。その後はワシントンDC国際Sでスピードシンボリやタケシバオーが、フォートマーシーダマスカスに屈した例がある程度である)。本馬はこの2戦のみで東海岸に戻っていった。なお、ラウンドテーブルはこの時期シカゴのアーリントンパーク競馬場に遠征していたため、本馬と顔を合わせることは無かった。

東海岸に戻った本馬はサイソンビーH(D8F)に出走したが、小柄な本馬には過酷な134ポンドという斤量が堪えたのか、コーホーズの4馬身半差5着に敗退。このレース後に左前脚の故障を起こしたために、4歳時5戦3勝の成績で競走馬を引退した。

この年の米年度代表馬及び米最優秀ハンデ牡馬にはラウンドテーブルが選ばれたため、本馬は結局米国競馬の年度表彰には無縁に終わった。そのために本馬は無冠の王者と言われた。

馬名は「勇者」という意味だが、元々は米国の名俳優ドン・アメチー(後に映画「コクーン」でアカデミー助演男優賞を受賞している)の出演作に登場した馬の名前を拝借したものらしい。

血統

Migoli Bois Roussel Vatout Prince Chimay Chaucer
Gallorette
Vashti Sans Souci
Vaya
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Mah Iran Bahram Blandford Swynford
Blanche
Friar's Daughter Friar Marcus
Garron Lass
Mah Mahal Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine
Majideh Mahmoud Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Mah Mahal Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine
Qurrat-Al-Ain Buchan Sunstar Sundridge
Doris
Hamoaze Torpoint
Maid of the Mist
Harpsichord Louvois Isinglass
St. Louvaine
Golden Harp Llangibby
Goldscleugh

父ミゴリはボワルセルの直子で、アガ・カーンⅢ世殿下により生産・所有された愛国産馬である。現役成績は21戦11勝で、2歳時にデューハーストSを、3歳時にキングエドワードⅦ世S・エクリプスS・英チャンピオンSを、4歳時に凱旋門賞を制している。ミゴリの凱旋門賞制覇は、第1回の勝ち馬カムラッド以来28年ぶり史上2頭目の英国調教馬による同競走勝利であり、ミゴリ以降は1971年のミルリーフまで23年間英国調教馬による勝利は無かった。競走馬引退後は愛国で種牡馬入りしていたが、本馬の活躍を受けて米国に移動した。しかし米国では成功する事が出来ずに1963年に他界している。

母マジデーは愛1000ギニー・愛オークスを勝った名牝で、その母カラタルアインもクイーンメアリーS・コロネーションSを勝つなど12戦4勝の成績を残した活躍馬。マジデーは本馬の半姉である名牝マサカ(父ネアルコ)【英オークス・愛オークス・ジュライS・クイーンメアリーS】も産んでいる。マサカの孫にはシルバーシャーク【アベイドロンシャン賞・ジャンプラ賞・イスパーン賞・ムーランドロンシャン賞】、牝系子孫には、ラシュカリ【BCターフ(米GⅠ)】、カヤージ【英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)】、日本で走ったサニングデール【高松宮記念(GⅠ)】などが、本馬の半姉マレケー(父スターダスト)の玄孫にはサンオブラヴ【英セントレジャー(英GⅠ)】が、本馬の半姉マハッラート(父ネアルコ)の曾孫にはノースストーク【ジョーマクグラス記念S(愛GⅠ)】が、本馬の全姉メーラビの孫にはトップナイト【ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・シャンペンS・フラミンゴS・フロリダダービー】、曾孫にはロウソサイエティ【愛ダービー(愛GⅠ)】、牝系子孫には、シンプルヴァーズ【英セントレジャー(英GⅠ)・英チャンピオンズフィリー&メアS(英GⅠ)】、日本で走ったスプリングゲント【中山グランドジャンプ(JGⅠ)】などがいる。→牝系:F5号族②

母父マームードは当馬の項を参照。なお、マームードの半妹マーイランはミゴリの母であるため、本馬は人間で言えば従姉弟同士の間に産まれた子ということになる。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ケンタッキー州スペンドスリフトファームで種牡馬入りした。本馬は父と母父の双方が快速ムムタズマハルの牝系出身馬だったため、種牡馬としての期待は非常に大きかった。しかし種牡馬成績はボールドルーラーには遠く及ばず、ラウンドテーブルと比べても見劣りするものだった。それでも、名牝ギャラントブルームなど52頭のステークスウイナーを輩出しており、本馬は成功種牡馬だったと評価する人もいる。

1981年に種牡馬を引退して、その後はスペンドスリフトファームで余生を送った。ボールドルーラーは1971年に17歳で癌のため他界し、ラウンドテーブルも1987年に33歳という高齢で他界したが、その後も本馬は生き続け、長寿競争では見事に勝利を収めた。この1987年に米国競馬の殿堂入りを果たした。その翌年9月に34歳で他界し、遺体はスペンドスリフトファームに埋葬された。スペンドスリフトファームに埋葬されている馬は多数いるが、マジェスティックプリンスやエクスクルシヴネイティヴといった名競走馬・名種牡馬であってもその多くは墓地の片隅に埋葬されており、中心部に葬られているのは3頭のみである。1頭はナシュア、もう1頭はレイズアネイティヴ、そして最後の1頭が本馬である。本馬の死を聞いたネルド師は「彼が健康で状態が良ければ、彼を負かすことが出来る馬は存在しませんでした。彼は速度と忍耐力を兼備していました。」と追悼の弁を述べた。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第36位。

後継種牡馬としてはギャラントロメオがプリークネスSの勝ち馬エロキューショニストを出して健闘し、エロキューショニストはさらに仏2000ギニー馬レシテイションや、アーカンソーダービー勝ち馬で1987年のケンタッキーダービーで1番人気に推されたデーモンズビーゴーンを出したが、日本に輸入されたレシテイション、2001年に他界したデーモンズビーゴーン共に種牡馬として不成功に終わったため、本馬の直系は殆ど残っていない。繁殖牝馬の父としては、ケンタッキーダービー馬ジェニュインリスク、1980年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬ロードエイヴィーなど80頭以上のステークスウイナーを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1960

Spicy Living

エイコーンS・マザーグースS・ベッドオローゼズH・モリーピッチャーH

1960

Top Gallant

セミノールH

1961

Gallant Romeo

ヴォスバーグS・ベンアリH・ロイヤルパームH

1961

Gallatia

スカイラヴィルS

1961

Moss Vale

ホーソーン金杯

1963

April Dawn

ハネムーンH・サンタバーバラH

1963

Ring Twice

ワイドナーH

1963

War Censor

ケンタッキージョッキークラブS・オハイオダービー・ハイアリアターフCH・パンアメリカンS・ディキシーH・ロングフェローH・カナディアンターフH・ロングフェローH

1964

Gallant Moment

ベンアリH

1965

Pattee Canyon

オーキッドH・ビヴァリーヒルズH・シープスヘッドベイH・アーリントンメイトロンH

1966

Gallant Bloom

メイトロンS・ポストデブS・モンマスオークス・デラウェアオークス・ガゼルH・マッチメイカーS・スピンスターS・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H

1968

Man of the Moment

ブリーダーズフューチュリティS

1970

Coraggioso

レディーズH(米GⅠ)・アルキビアデスS・ポストデブS(米GⅢ)・ヴェイグランシーH(米GⅢ)

1970

Free Hand

クイーンズカウンティH(米GⅡ)

1970

Gallant Knave

ワールズプレイグラウンドS

1970

My Gallant

ブルーグラスS(米GⅠ)

1972

General Beauregard

ローマーH(米GⅡ)

1972

Proponent

ソールシルバーマンH(米GⅢ)

1974

Man's Man

ドンH(米GⅡ)

1974

Road Princess

マザーグースS(米GⅠ)

1974

メイワキミコ

スプリンターズS2回

1975

ギャラントダンサー

朝日杯三歳S

1977

Ya Zaman

メシドール賞(仏GⅢ)・ロンポワン賞(仏GⅢ)

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