アリシドン

和名:アリシドン

英名:Alycidon

1945年生

栗毛

父:ドナテロ

母:オーロラ

母父:ハイペリオン

70年ぶり史上2頭目の英国長距離三冠馬となるなど欧州長距離競走全盛時代の最後を飾った、20世紀英国競馬史上における最強の長距離馬

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績17戦11勝2着1回3着2回

誕生からデビュー前まで

大馬産家として名高い第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿が最後に送り出した傑作で、英国競馬史上最高の長距離馬との呼び声が高い名馬。第17代ダービー伯爵の所有馬として、彼の個人厩舎スタンリーハウスステーブルを任されていた英国クラシック競走完全制覇の名伯楽ウォルター・アール調教師に預けられた。主戦は後に英平地首位騎手に5回輝く名手ダグ・スミス騎手が務めたが、当時彼は健康を害しており、本馬に乗れない事もあった。また、アール師もやはり健康を害しており、本馬が競走馬を引退した翌年に脳腫瘍のため60歳で死去している。本馬は非常に成熟が遅く、アール師は本馬をじっくりと育成していった。

競走生活(2歳時)

2歳10月にニューマーケット競馬場で行われた芝7ハロンの未勝利ステークスでデビューしたが、オービットの7着に敗退。同コースのダルハムH(T7F)でもハットチックの6着に敗れ、2歳時はこの2戦で終えた。

翌年の2月に第17代ダービー伯爵は82歳で死去し、孫の第18代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿が後を継いだ。本馬も第18代ダービー伯爵に受け継がれたが、第17代ダービー伯爵の遺族がしばらく悲嘆の中にいたため、本馬は当面フェアファックス・ロス准将の所有馬として登録された。

競走生活(3歳時)

3歳時の本馬はハーストパーク競馬場で行われたクリストファーレンS(T10F)から始動したが、スタート時に振り向いて走ろうとせず、そのまま競走中止となった(英国でスターティングゲートが導入されたのは1965年で、この当時はバリヤーだった)。本馬をレースに集中させるため、アール師はブリンカーを装着させた。以降の本馬は必ずブリンカーを付けてレースに臨む事になる。

2週間後にサースク競馬場で出たクラシックトライアルS(T8F)では、スミス騎手に代わって本職はスタンリーハウスステーブルの厩務員だったD・ショー騎手が騎乗。2着フリーディップに首差で勝利を収め、ようやく未勝利を脱出した。続いてこの当時は3・4歳馬の混合戦だったチェスターヴァーズ(T12.5F)に出走。ヴァローニュの1馬身半差3着に入り、前年の愛ダービーや英セントレジャーを制したサヤジラオ(4着)に先着した。次走のロイヤルスタンダードS(T10F)では後の愛ダービー馬ナッソーに首差で勝利し、遅れてきた英ダービー候補とみなされた。

しかし第18代ダービー伯爵は別の所有馬2頭を英ダービーに出走させ、本馬は代わりにキングエドワードⅦ世S(T12F)に向かわせた。このレースではヴィックデイ、牝馬フォリーの2頭に僅かに届かず、ヴィックデイの3/4馬身差3着に終わったが、敗因はスミス騎手の代打で騎乗したT・ローリー騎手が前半を抑えすぎて仕掛けが遅れたせいだとされている。次走のプリンセスオブウェールズS(T12F)では、ハードウィックSを勝ってきたサヤジラオとの再戦となった。本馬は単勝オッズ13.5倍の人気薄だった上に、鞍上は前走で失敗したローリー騎手だった。しかしローリー騎手は前走と同じ轍は踏まずに、本馬を積極的に先行させ、サヤジラオを2馬身差の2着に破って完勝した。さらにスミス騎手が主戦として完全に固定されたセントジョージS(T13F)も、2着ライディングミルに頭差で勝利。

そして満を持して9月の英セントレジャー(T14F132Y)に挑んだ。当時の英国王ジョージⅥ世夫妻を始めとする50万人もの大観衆がドンカスター競馬場に詰め掛けていた。単勝オッズ2.75倍の1番人気には英ダービー・パリ大賞を勝っていた仏国調教馬マイラブが支持され、本馬は単勝オッズ21倍の人気薄だったが、スローペースに押し出される格好ながら果敢な先行策を採った。そしてそのまま逃げ切るかと思われたが、ラスト2ハロン地点で失速したところをインコースから来た単勝オッズ8.5倍の2番人気馬ブラックターキンに差されて1馬身半差の2着に敗れた(3着には直後の英チャンピオンSを勝つソーラースリッパーが入り、着外に終わったマイラブはそのまま引退した。ちなみにこのレースには後に米国に移籍して米国三冠馬サイテーションの宿敵となる英ダービー3着馬ヌーアも出走していたが8着に終わっている)。

惜しくも英国クラシック競走制覇は成らなかった本馬だが、次走のジョッキークラブS(T14F)では、仏国でモルニ賞を勝っていたカディールを1馬身半差の2着に、愛ダービーを勝ってきたナッソーを3着に退けて勝利した。続くキングジョージⅥ世S(T16F)では、ペースメーカー役のベニーリンチを先に行かせて残り4ハロン地点で先頭に立つと、そのまま2着ジェダー(翌年のエクリプスS・英チャンピオンSの勝ち馬)に5馬身差をつけて圧勝した。3歳時の成績は10戦6勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時はアスコット金杯を最大目標として5月のオーモンドS(T14.5F)から始動。このレースを2着ベニーリンチに1馬身差で軽く制した本馬は、次走のコーポレーションS(T18F)では2着レイクプラシッドを12馬身も切り捨てて圧勝。

そしてアスコット金杯(T20F)でブラックターキンとの2強対決に臨んだ。ブラックターキンも4歳時3戦無敗と好調を維持しており、ブラックターキンが単勝オッズ1.91倍の1番人気、本馬が単勝オッズ2.25倍の2番人気となった。本馬陣営は、レースを真のスタミナ勝負に持ち込むために2頭のペースメーカーを出走させていた。この2頭が交代で先頭を引っ張り、陣営の目論見どおりにハイペースとなった。残り5ハロン地点で先頭に立った本馬に、ブラックターキンが残り1ハロン地点で並びかけてきた。しかしここから本馬がラストスパートを仕掛けてブラックターキンを引き離し、最後は5馬身差をつけて完勝した。アスコット金杯は前年までカラカラ、スーヴレン、アルバールと3年連続で仏国調教馬が勝利しており、本馬の豪快な勝ち方も相まって、久々に登場した大物長距離馬の誕生に英国競馬界は沸いた。

続くグッドウッドC(T21F)では単勝オッズ1.03倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースでは馬場状態が堅すぎて前がなかなか止まってくれなかったが、最後はライディングミルをかわして2馬身差で勝利した。次走のドンカスターC(T21F)では単勝オッズ1.29倍の1番人気に応えて、8馬身差で圧勝。1879年のアイソノミー以来70年ぶり史上2頭目となるアスコット金杯・グッドウッドC・ドンカスターCの長距離三冠馬となった。

このレースを最後に、4歳時5戦全勝の成績で現役を引退。獲得賞金総額3万7206ポンドは、英国クラシック競走未勝利の英国調教馬としては当時の最高記録だった。英タイムフォーム社は4歳時の本馬に対して3歳馬アバーナントと並んで同年のトップとなる138ポンドの評価を与え、さらに「極端に距離が長い競走において彼を負かすのは事実上不可能でしょう」と評した。本馬の名は後にイギリス国鉄のディーゼル機関車D9009号の名称に使用されている。

血統

Donatello Blenheim Blandford Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Blanche White Eagle
Black Cherry
Malva Charles O'Malley Desmond
Goody Two-Shoes
Wild Arum Robert le Diable
Marliacea
Delleana Clarissimus Radium Bend Or
Taia
Quintessence St. Frusquin
Margarine
Duccia di Buoninsegna Bridge of Earn Cyllene
Santa Brigida
Dutch Mary William the Third
Pretty Polly
Aurora Hyperion Gainsborough Bayardo Bay Ronald
Galicia
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
Selene Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette
Rose Red Swynford John o'Gaunt Isinglass
La Fleche
Canterbury Pilgrim Tristan
Pilgrimage
Marchetta Marco Barcaldine
Novitiate
Hettie Sorrel Peter
Venus' Looking Glass

父ドナテロは伊国の天才馬産家フェデリコ・テシオ氏が、自身の生産馬だった女傑デレアナ(伊1000ギニー・伊2000ギニー・イタリア大賞の勝ち馬)にブレニムを交配させて生産した馬で、リボーネアルコにも比肩するテシオ氏の最高傑作の1頭として数えられている。現役時代は2・3歳時に伊仏で走り9戦8勝2着1回。伊国内ではまったくの無敵で、2歳時は伊クリテリウムナショナル・伊グランクリテリウムを制し、伊最優秀2歳馬に選ばれた。3歳時も伊ダービー・イタリア大賞・ミラノ大賞など伊国内の大レースを勝ちまくった。現役最後のレースとなったパリ大賞では惜しくも2着だったが、伊最優秀3歳馬に選出された。現役引退後は英国で種牡馬入りし、本馬の他にもクレペロ【英2000ギニー・英ダービー】、スパテロ【アスコット金杯】、ピクチャープレイ【英1000ギニー】、アクロポリス【ジョンポーターS2回】、サイモネダボローナ【伊2000ギニー】などを出した。

母オーロラはニューマーケットSを勝ち、英1000ギニーで2着している。その産駒には本馬の半兄ボレアリス(父ブルミュー)【コロネーションC】、全弟アクロポリス【グレートヴォルティジュールS・ジョンポーターS・3着英ダービー】、後に豪州首位種牡馬となった半弟アグリコーラ(父プリシピテイション)【ニューマーケットS】などがいる。本馬の半姉アンボイナ(父ボワルセル)の孫には本邦輸入種牡馬セルティックアッシュ【ベルモントS】がいる。また、本馬の半姉ウッドラーク(父ボワルセル)の孫にはいずれも本邦輸入種牡馬であるラークスパー【英ダービー】とバリメライス【ダンテS】の兄弟がいる他、ウッドラークの牝系子孫からは、ユニヴァーサルプリンス【スプリングチャンピオンS(豪GⅠ)・カンタベリーギニー(豪GⅠ)・AJCダービー(豪GⅠ)・ランヴェットS(豪GⅠ)】などが出ている。本馬の半妹アラウザル(父フェアウェイ)の牝系子孫にはナニーズスウィープ【サンタモニカH(米GⅠ)】などが、本馬の半妹アルドーサ(父ヴァテラー)の孫にはペロー【バドワイザーミリオン・サンルイレイS(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)】がいる。→牝系:F1号族①

母父ハイペリオンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は12万ポンドのシンジケートが組まれて英国で種牡馬入りした。1955年に英愛首位種牡馬に輝き、それ以外にも英愛種牡馬ランキングで5位以内に5回入るなど種牡馬としても成功を収めた。産駒のステークスウイナーは19頭である。しかし晩年は授精率が下がり、3頭の繁殖牝馬と交配して受胎するのは1頭未満の割合だった。そのため1963年に種牡馬を引退し、同年に18歳で銃殺処分された。当時の英国においては馬の安楽死の手段は銃殺が一般的であり、廃用になった種牡馬を処分する事は今日の日本でも普通に行われている事であるから、本馬を銃殺した事実をもって殊更に関係者を非難する事は出来ないが、本馬の優秀な競走成績・種牡馬成績を考慮すると、功労馬として労わる精神が関係者に欠けていたのは確かであろう。本馬は用済みとして処分された英国馬の代表例として日本で紹介される事が多い。

アルサイドが後継種牡馬として一定の成功を収め、アルサイドの息子リマンドが日本で種牡馬として活躍したが、直系はほぼ途絶えている。母父としては英1000ギニー・英オークスを勝ったネバートゥーレイト、本邦輸入種牡馬スイフトスワローなどを出した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1952

Alexander

ロイヤルハントC

1952

Gloria Nicky

チェヴァリーパークS・チャイルドS

1952

Meld

英1000ギニー・英オークス・英セントレジャー・コロネーションS

1954

Almeria

ヨークシャーオークス・リブルスデールS・パークヒルS

1954

Ben Lomond

ディスカヴァリーH

1955

Alcide

英セントレジャー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・ホーリスヒルS・チェスターヴァーズ・リングフィールドダービートライアルS・グレートヴォルティジュールS

1955

All Serene

ジョッキークラブS

1955

St. Lucia

コロネーションS・ランカシャーオークス

1956

High Perch

カンバーランドロッジS・ジョンポーターS

1956

Kalydon

オックスフォードシャーS

1957

Alcaeus

ディーS・オーモンドS

1957

Alcove

シザレウィッチH

1958

Beta

ロイヤルロッジS

1958

King Chestnut

カンバーランドロッジS

1959

Almiranta

パークヒルS

1959

Gaul

キングエドワードⅦ世S・ジョッキークラブS・ヘンリーⅡ世S・ジョッキークラブC

1959

Grey of Falloden

ドンカスターC・ヘンリーⅡ世S・シザレウィッチH

1959

Twilight Alley

アスコット金杯

1959

Valentine

ホーリスヒルS

1961

Bronzina

伊1000ギニー

1961

Homeward Bound

英オークス・ヨークシャーオークス

1962

Donato

ブランドフォードS

1963

Khalekan

ゴードンS・HEタンクレッドC

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