ブレニム
和名:ブレニム |
英名:Blenheim |
1927年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ブランドフォード |
母:マルヴァ |
母父:チャールズオマリー |
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英ダービー馬とケンタッキーダービー馬を両方輩出し、ブランドフォード最良の後継種牡馬となった英ダービー馬 |
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競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績10戦5勝2着3回 |
誕生からデビュー前まで
第6代カーナボン伯爵ヘンリー・ジョージ・ハーバート卿により英国ハイクレアスタッドにおいて生産された。ハイクレアスタッドは1902年に、第6代カーナボン伯爵の父である第5代カーナボン伯爵ジョージ・エドワード・スタンホープ・ハーバート卿により創設された牧場である。第5代カーナボン伯爵は英国の政治家・資産家だが、同時に考古学にも造詣が深く、考古学者のハワード・カーター氏が古代エジプトの王であったツタンカーメンの王墓発掘に着手した際の資金提供者として世界的に知られている。そしてカーター氏と共にツタンカーメン王の棺を発見した翌年の1923年に病死しているのだが、この話に尾ひれがついてツタンカーメン王の呪い説が喧伝されているのもあまりにも有名である。このツタンカーメン王の呪い説を世間に広めた張本人の1人が誰あろう第6代カーナボン伯爵であり、父の死と同時刻に飼っていた犬も死んだ等、父が呪い殺された説に拍車をかける噂話を意図的に流している。これは両親と不仲だったためらしく、父の死後しばらくは母から後継者として認めてもらえなかったほどだった。それでも最終的に父の後を継いだ第6代カーナボン伯爵だったが、政治・学問・馬産と各方面において功績を挙げた父と異なり特筆できる功績はなく、本馬を生産したのが、筆者が確認できた彼の唯一の功績である。
本馬は成長しても体高15.3ハンドにしかならなかったという非常に背が低い馬だった。父ブランドフォード自身も小柄であった上に産駒にもブラントームを筆頭に小柄な馬が多かったし、母マルヴァも体高15ハンドしかなかったというから、両親のどちらに似ても背が低くなるのは避けられなかったようである。もっとも低いのは体高だけであり、胴体は比較的長かった。また、後脚の力には見るべきものがあった。気性はかなり神経質であり、この気性は後に孫のナスルーラなどにも受け継がれたと言われている。
1歳時にアガ・カーンⅢ世殿下により4100ギニーで購入され、父ブランドフォードの所有者兼調教師でもあったリチャード・ドーソン師に預けられた。その重厚な血統から、2歳戦ではあまり活躍できないと思われていた本馬だが、早い段階から優れたスピードを見せて周囲の人間を驚かせた。なお、本馬はブランドフォードの初期の産駒であるが、ブランドフォードはその後も2歳戦で活躍する馬を続出させているから、本馬が特別というわけではない。
競走生活(2歳時)
2歳4月にニューベリー競馬場で行われた賞金200ポンドのマントンプレート(T5F)でデビュー。31頭立てという他頭数の中から3馬身抜け出して初勝利を飾った(このレースで3着に入ったのはダイオライトだった)。サンダウンパーク競馬場で出走した次走のスタッドプロデュースSでは、1馬身差の2着に敗れた。ウィンザー競馬場で出走したスピーディプレート(T5F)は3馬身差で快勝。
その後はアスコット競馬場に向かい、6月のニューS(T5F)に出走。ここでは英ダービーと英オークスを勝った名牝フィフィネラ産駒の良血馬プレスギャングなど16頭が対戦相手となったが、ドーソン厩舎の専属騎手マイケル・ビーリー騎手騎乗の本馬が単勝オッズ4.5倍の1番人気に応えて、プレスギャングを2馬身差の2着に下して勝利した。
ニューマーケット競馬場で出走した英ホープフルS(T5F)は、2着レディアベスに1馬身半差で勝利した。ドンカスター競馬場で出走した英シャンペンS(T6F)では、牝馬フェアダイアナに短頭差敗れて2着だったが、後のセントジェームズパレスSの勝ち馬クリストファーロビンなどには先着した。2歳最後のレースとなったミドルパークS(T6F)では、ニューS2着後にロウス記念Sを勝っていたプレスギャングに1馬身半差をつけられて2着に敗れた。2歳時の成績は7戦4勝2着3回だった。
競走生活(3歳時)
3歳時は英2000ギニーの前哨戦グリーナムS(T7F)から始動したが、ストロングボウの着外に終わった。2週間後の英2000ギニー(T8F)でも、マントンプレートで本馬に敗れた後にコヴェントリーS・モールコームSを勝っていたダイオライト(後に日本に輸入されて三冠馬セントライトなどの父となる)、後のサセックスSの勝ち馬パラダイン、シルヴァーフレアの3頭に後れを取り、勝ったダイオライトから3馬身差の4着(28頭立て)に敗退した。
その後は英ダービー(T12F)に直行した。主戦だったビーリー騎手が、同じくアガ・カーンⅢ世殿下の所有馬であったラスタムパシャ(後のエクリプスS・英チャンピオンSの勝ち馬)に騎乗したため、本馬にはハリー・ラッグ騎手が騎乗した。ラッグ騎手は馬群の後方でレースを進めてゴール前できっちりと差し切るレースぶりを得意とした人物で、“The Head Waiter”の異名で知られていた。エプソム競馬場には、時の英国王ジョージⅤ世、メアリー王妃、ウェールズ皇太子(後に1年足らずで英国王の座を投げ出したエドワードⅧ世)、ヨーク公爵(後の英国王ジョージⅥ世)といったロイヤルファミリーが勢揃いしていた。本馬は単勝オッズ19倍の人気薄だった。
レースではラスタムパシャが先頭を引っ張り、そのまま直線で逃げ込みを図ったが、直線半ばでスタミナが切れて脱落。一方、馬群の中団につけていた本馬は直線に入るとインコースを突いて伸び、残り1ハロン地点で先頭に立つと、2着イリアッドに1馬身差、3着ダイオライトにさらに2馬身差をつけて優勝した。鞍上のラッグ騎手はレース後に「この小さくて可愛らしい馬は、序盤から手応えが素晴らしく、私はレース中盤で既に勝利を確信していました」と述べた。
その後はエクリプスSに向けて調整されていたが、脚の腱を負傷したために回避。結局この負傷が完治しなかったため、3歳時3戦1勝の成績で競走馬を引退。英ダービーが最後のレースとなった。
馬名は英国オックスフォード近郊にある、ブレナム宮殿(スペイン継承戦争で活躍した初代マールバラ公ジョン・チャーチル卿に、当時の英国アン女王から下賜された18世紀英国バロック建築の代表作。ウィンストン・チャーチル英国首相が生まれた場所でもある)に由来すると思われるが、海外の資料には明記されておらず断定は出来ない。
血統
Blandford | Swynford | John o'Gaunt | Isinglass | Isonomy |
Dead Lock | ||||
La Fleche | St. Simon | |||
Quiver | ||||
Canterbury Pilgrim | Tristan | Hermit | ||
Thrift | ||||
Pilgrimage | The Palmer | |||
Lady Audley | ||||
Blanche | White Eagle | Gallinule | Isonomy | |
Moorhen | ||||
Merry Gal | Galopin | |||
Mary Seaton | ||||
Black Cherry | Bendigo | Ben Battle | ||
Hasty Girl | ||||
Black Duchess | Galliard | |||
Black Corrie | ||||
Malva | Charles O'Malley | Desmond | St. Simon | Galopin |
St. Angela | ||||
L'Abbesse de Jouarre | Trappist | |||
Festive | ||||
Goody Two-Shoes | Isinglass | Isonomy | ||
Dead Lock | ||||
Sandal | Kisber HUN | |||
Shoestring | ||||
Wild Arum | Robert le Diable | Ayrshire | Hampton | |
Atalanta | ||||
Rose Bay | Melton | |||
Rose of Lancaster | ||||
Marliacea | Martagon | Bend Or | ||
Tiger Lily | ||||
Flitters | Galopin | |||
Ierne |
父ブランドフォードは当馬の項を参照。
母マルヴァは現役成績18戦3勝。特に優れた競走成績ではなかったが、本馬の半弟キングサーモン(父サーモントロート)【コロネーションC・エクリプスS・グレートヨークシャーS・2着英2000ギニー・2着英ダービー】、全弟ヒズグレイス【コロネーションC・2着エクリプスS】なども産んだ優秀な繁殖牝馬となった。本馬の半姉フランクリー(父フランクリン)の孫には新国で4度の首位種牡馬に輝く活躍を見せたサマータイムがいる他、牝系子孫には、プラティニ【メルクフィンク銀行賞(独GⅠ)・ミラノ大賞(伊GⅠ)】、パオリニ【伊共和国大統領賞(伊GⅠ)・ミラノ大賞(伊GⅠ)・ドバイデューティーフリー(首GⅠ)】、フットステップスインザサンド【英2000ギニー(英GⅠ)】、パワー【愛ナショナルS(愛GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)】などがいる。また、本馬の半妹リリーオブザヴァレー(父テトラテーマ)の牝系子孫には、ノーマディックウェイ【ワールドハードル(英GⅠ)・愛チャンピオンハードル】、ゴールデンライラック【仏1000ギニー(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)・イスパーン賞(仏GⅠ)】などがいる。→牝系:F1号族⑦
母父チャールズオマリーは現役成績17戦7勝。リッチモンドS・アスコットゴールドヴァーズ・シートンデラヴァルSなどを勝ち、アスコット金杯で2着、英ダービーでレンベルグの3着している。種牡馬としては英オークス馬シャルルベルを出した程度で成功できなかった。チャールズオマリーの父デスモンドはセントサイモン直子で、現役成績11戦3勝。2歳時にコヴェントリーS・ジュライSを勝ったが、気性難が災いして3歳以降は能力を発揮できなかった。種牡馬としては1913年の英愛首位種牡馬になったが、これが長きに渡り英国種牡馬ランキングの上位を独占してきたセントサイモン系の終焉であり、以降セントサイモン系は衰退し、英国内では一度滅亡する事になる。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、アガ・カーンⅢ世殿下が仏国に所有していたマルリー・ラ・ヴィル牧場で種牡馬入りした。初年度の種付け料は400ギニーに設定された。仏国で供用されたため、産駒は英仏伊の3か国に散らばっていった。本馬は初年度産駒からすぐに結果を出した。まずはストラトスフィアーがロベールパパン賞を、パンペイロが仏グランクリテリウムを勝つ活躍を見せた。なお、“Flying Filly”ことムムタズマハルとの間に産まれたムムタズビガムも本馬の初年度産駒であり、競走成績はいま一つだったムムタズビガムは後にナスルーラの母となってサラブレッド血統界にスピード革命を起こすことになる。本馬の2年目産駒は初年度産駒以上に活躍し、父子2代の英ダービー制覇を果たしたマームード、仏1000ギニー馬ブルーベアーなどが登場した。3年目産駒も活躍し、伊ダービーなどを勝ち、伊国の名匠フェデリコ・テシオ氏の最高傑作の1頭ともされた名馬ドナテロ、仏2000ギニー馬ドラドールなどが登場したのだが、ドナテロやドラドールが活躍した頃には既に本馬は欧州にいなかった。
マームードが英ダービーを勝った直後に、米国ケンタッキー州の名門牧場クレイボーンファームの創設者アーサー・ボイド・ハンコック氏が本馬に目をつけたのである。ハンコック氏は、カルメットファームの所有者ウォーレン・ライト氏、グリーンツリースタッドの所有者ホイットニー一族、ストナークリークスタッドの代表者ジョン・ダニエル・ハーツ氏(ニューヨークのタクシーの代名詞イエローキャブタクシーの創設者でケンタッキーダービー馬レイカウントの所有者)、フェアホルムファームの所有者ロバート・A・フェアベーン氏、ウィリアム・デュポン・ジュニア夫人(名障害競走馬バトルシップの所有者マリオン・デュポン・スコット夫人の弟の妻)、トーマス・H・サマーヴィル氏といった有力馬主達に呼び掛けて種牡馬シンジケートを結成し、本馬を購入したい旨をアガ・カーンⅢ世殿下に申し出た。アガ・カーンⅢ世殿下はこれを快諾し、本馬はマームードが英ダービーを勝った1936年のうちに22万5千ドルで米国へ輸出されていった。英国の競馬関係者からは不満の声が上がったが、アガ・カーンⅢ世殿下は気にする事もなく、その後もマームード、バーラムなどを次々に米国へ放出し、英国の競馬関係者を大いに憤慨させる事になる(本馬と同世代の名馬ラスタムパシャも後に亜国に放出している)。しかし本馬が欧州で出した4年目~6年目産駒の活躍は、最初の3世代に比べると結果的にいま一つだったから、本馬自身の事を考えると米国に輸出されて正解だっただろう。
さて、米国に移った本馬は、1937年からクレイボーンファームで種牡馬生活を開始した。米国には19世紀に同名の馬がいたため、本馬の馬名には「ブレニムⅡ」と「Ⅱ」が付せられた。既にサーギャラハッドを仏国から米国に導入して大成功を収めさせていたハンコック氏の相馬眼は確かであり、本馬は米国でもいきなり結果を出した。米国における初年度産駒のワーラウェイが米国三冠馬になり、1941年の北米首位種牡馬に輝いたのである。その後もケンタッキーダービー馬ジェットパイロットなどを出して活躍した。本馬は英ダービー馬とケンタッキーダービー馬を両方出した数少ない種牡馬の一頭である(他にはリーミントン、ハイペリオン、ヘイルトゥリーズン、ニジンスキーしかいない)。本馬が欧米各国で出したステークスウイナーは536頭の産駒中61頭(ステークスウイナー率は11.4%)に達した。本馬は高齢になっても受精率がそれほど低下せず、晩年まで現役種牡馬として活躍した。1958年に31歳という高齢で他界、遺体はクレイボーンファームに埋葬された。
本馬自身は小柄な鹿毛馬だったが、芦毛のマームード、大柄な栗毛馬ドナテロ、小柄な栗毛馬ワーラウェイなど、本馬にあまり似ていない産駒がよく走るという不思議な傾向が見られた。本馬の直系を後世に伝えるのに貢献した後継種牡馬はマームードとドナテロの2頭である。マームードの直系は現在途絶えているが、牝駒のアルマームードの牝系からノーザンダンサーやヘイローなどが出て後世に大きな影響を与えた。ドナテロはクレペロやアリシドンなどの後継種牡馬を出して一時期直系を繁栄させたが、長距離色が強すぎて現在では殆ど残っていない。このように本馬の直系は既に滅亡寸前となっているが、本馬自身が母父として出したナスルーラが種牡馬として大成功し世界中にその血を広めた。アルマームードの血を引く馬も星の数ほどいるため、本馬の血を持たないサラブレッドは現在殆ど存在していないはずである。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1932 |
Pampeiro |
仏グランクリテリウム |
1932 |
Stratosphere |
ロベールパパン賞 |
1933 |
Blue Bear |
仏1000ギニー・クロエ賞 |
1933 |
英ダービー・リッチモンドS・英シャンペンS |
|
1933 |
Wyndham |
ニューS |
1934 |
Donatello |
伊グランクリテリウム・伊ダービー・イタリア大賞・ミラノ大賞 |
1934 |
Drap d'Or |
仏2000ギニー・ダフニ賞 |
1934 |
Le Grand Duc |
ニューS |
1935 |
La Li |
チャイルドS |
1935 |
Mirza |
コヴェントリーS・ジュライS・グリーナムS |
1935 |
Queen of Simla |
クイーンメアリーS |
1935 |
Valedah |
ナッソーS |
1937 |
Moradabad |
リッチモンドS |
1938 |
Proud One |
エイコーンS |
1938 |
ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・サラトガスペシャルS・ホープフルS・ブリーダーズフューチュリティS・サラナクH・ドワイヤーS・トラヴァーズS・アメリカンダービー・ローレンスリアライゼーションS・クラークH・ディキシーH・マサチューセッツH・ブルックリンH・ジョッキークラブ金杯・ピムリコスペシャル・トレントンH |
|
1939 |
Ficklebush |
セリマS |
1939 |
Mar-Kell |
ベルデイムH・トップフライトH |
1939 |
The Swallow |
アッシュランドS |
1939 |
Thumbs Up |
サンタアニタH・ワシントンパークH・サンパスカルH |
1940 |
Halberd |
サラトガスペシャルS |
1940 |
Nellie L. |
ケンタッキーオークス・エイコーンS |
1940 |
Ocean Wave |
ブルーグラスS |
1941 |
Adaptable |
米グランドナショナル |
1941 |
Miss Keeneland |
セリマS・トップフライトH |
1941 |
Saguaro |
エクセルシオールH |
1942 |
Hail Victory |
クラークH |
1944 |
Fervent |
アメリカンダービー・ピムリコスペシャル・ベンアリH・ディキシーH・ワシントンパークH |
1944 |
Jet Pilot |
ケンタッキーダービー・ピムリコフューチュリティ・ジャマイカH |
1944 |
Owners Choice |
サンフェリペS |
1944 |
Tailspin |
ピーターパンS |
1947 |
Bryan G. |
ピムリコスペシャル・ウエストチェスターH |
1949 |
A Gleam |
ミレイディH・シネマH・ウェスターナーS・ハリウッドオークス・ミレイディH・マリブS |
1952 |
Saratoga |
サラナクH |