ケンタッキー

和名:ケンタッキー

英名:Kentucky

1861年生

鹿毛

父:レキシントン

母:マグノリア

母父:グレンコー

第1回トラヴァーズSなど破竹の20連勝を記録した南北戦争時代ニューヨーク州最高の名馬

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績23戦21勝(異説あり)

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州アッシュランドスタッドにおいて、ジョン・M・クレイ氏により生産された。肩や短い背中は筋肉質で強靭であり、脚は長かったが健全であり故障とは無縁だった。そしてすらりとした長い脚を豪快に伸ばしながら大跳びで走るその姿は、「本当に美しく立派な動きをする」と評された。また、体格はともかくとして頭部はサラブレッドというよりアラブ馬に似ていたという。

本馬が誕生した1861年は南北戦争が始まったまさにその年であり、同世代馬の多くは軍馬として徴用され競走馬になることなく戦場の露と消えたが、本馬はそうした運命を免れることが出来た。

競走生活(2・3歳時)

A・J・マイナー調教師に預けられ、2歳時に地元ケンタッキー州から離れたニュージャージー州でデビューした。デビュー戦は10月にパターソン競馬場で行われた未勝利戦で、このレースをコースレコードで制して勝ち上がった。2歳時はこの1戦のみだった。

3歳になった本馬はジョン・ハンター氏により購入された。ハンター氏は本馬が2歳時に開設されたニューヨーク州サラトガ競馬場の創設者メンバーの1人であり、後に米国ジョッキークラブの初代会長となるニューヨーク州競馬界の大物だった。ハンター氏はこれまたニューヨーク州競馬界の大物であるウィリアム・R・トラヴァーズ氏、ジョージ・オズグッド氏の2人と共同で本馬を所有した。

3歳初戦はデビュー戦と同じくパターソン競馬場で6月7日に行われた第1回ジャージーダービー(D12F)となった。米国において「ダービー」という名称のレースが行われたのはこれが初めてであり、これを勝てば米国競馬史上初のダービー馬という栄誉を手にすることが出来たのだが、結果は4着。勝ったのは同じレキシントン産駒であるノーフォークだった。このレースに出走するに先立って本馬は調教を二度中断するなどあまり順調に調整されていなかったようである。しかしそれから僅か2日後にパターソン競馬場で出走したシーケルS(D16F)は勝利した。

その後はサラトガ競馬場に向かい、本馬の共同所有者の1人でサラトガ競馬場の初代場長にも就任していたトラヴァーズ氏の名称を冠して創設された第1回トラヴァーズS(D14F)に出走。このレースにはノーフォークも出走を予定していたが、ノーフォークの項に記載したとおりの理由でノーフォークの出走登録は無効となり、ノーフォークはそのまま米国東海岸を去って西海岸のカリフォルニア州へと向かうことになった。最大の強敵がレース前に消えたとは言え、ジャージーダービーで本馬に先着する2着だったティペラリーなども出走しており、楽な対戦相手では無かった。しかしギルバート・W・パトリック騎手が手綱を取る本馬がティペラリーを3馬身差の2着に破って勝利を収め、現在も続く米国の重要競走トラヴァーズSの初代覇者としてその名を刻むことに成功した。

その3日後にはシーケルS(D16F)に勝利。なお、このシーケルSはサラトガ競馬場で行われたレースであり、本馬がジャージーダービー敗戦の2日後にパターソン競馬場で出走したシーケルSとは同名の別競走である。その後は再びニュージャージー州に向かい、僅か5日間でジャージーセントレジャー(D18F)など3競走に出走して全て勝利。3歳時の成績は7戦6勝となった。

競走生活(4・5歳時)

4歳時はトラヴァーズSに続いてサラトガ競馬場において新設されたサラトガC(D18F)に勝利して初代覇者となるなど、7戦全勝の成績を残した。この7戦のうち2戦は対戦相手が現れなかったために単走で勝利した。

5歳時は6月にパターソン競馬場で行われた距離2マイルのヒート競走から始動して、2連勝して勝利。その翌日には距離3マイルのレース(これはヒート競走ではなく一発勝負)に出て勝利を収めた。そしてそのまた翌日には距離3マイルのヒート競走に出走して2連勝で勝利。3日間で13マイルを走った計算になる。この3日間の中で3マイルのレースを3回走っているのだが、そのタイムは走った順に6分04秒25、5分54秒25、5分19秒0であり、後になればなるほどタイムが速くなっている。特に最後の5分19秒0は参考資料の書き間違いではないかと疑ってしまうほど速く、卓越した速度だけでなく恐るべき持久力と頑健さも併せ持っていた事がこの3日間で証明されていると言える。

その後はサラトガ競馬場開催が始まるまで短い休養を取り、前年に続いてサラトガC(D18F)に勝利を収めて2連覇を達成。その4日後には、この1866年に開場した今は無きジェロームパーク競馬場のこけら落としレースに出走した。ところが本馬を恐れたのか出走馬が他におらず、本馬が距離4マイルのレースを悠々と単走で勝利した。この様子に感銘を受けたのが、ジェロームパーク競馬場の創設者だった投機家レナード・ジェローム氏(彼の娘ジャネット・ジェローム夫人はウィンストン・チャーチル英国首相の母親。チャーチル首相のミドルネームであるレナードは祖父の名前にちなんでいる)だった。ジェローム氏は4万ドルという当時としては前代未聞の超高額でハンター氏達から本馬を購入した。

ジェローム氏の所有馬となった本馬はまずグランドナショナルH(D22F)に出走。他馬勢に19~24ポンドのハンデを与えながら5分04秒0のコースレコードで勝利を収め、これで20連勝となった。

ジェローム氏はこのレースを最後に本馬を引退させて種牡馬入りさせるつもりだったらしいが、10月にもう1回だけジェロームパーク競馬場で走ることになった。これは競走では無く、父レキシントンが11年前の1855年に計時した距離4マイルの世界レコード7分19秒75に挑戦するタイムトライアルだった。ジェローム氏は本馬がレコードを更新できるほうに5千ドルを賭けた。しかしレキシントンが世界レコードを樹立したタイムトライアルレースで背負っていた斤量が103ポンドだったのに対して、今回の本馬は120ポンドだった。それが影響したのか、それとも本馬のベスト距離は4マイルではなく3マイルだったのかは定かではないが、最初の3マイルを5分29秒0で通過した本馬は最後の1マイルで失速。結局走破タイムは7分31秒75であり、レコードアタックは失敗。これを最後に5歳時8戦7勝の成績で競馬場を後にした。

なお、本馬の同世代馬にはジャージーダービーで実際に対戦したノーフォークの他にもう1頭、ノーフォークの項でも触れたアステロイドという強豪馬がおり、こちらはケンタッキー州で12戦無敗の成績を誇っていた。カリフォルニア州へ行ってしまったノーフォークと本馬の再戦は無理でも、アステロイドと本馬の対戦は南北対抗戦という事もあって熱望された。そして実際に2万ドルを賭けた2頭のマッチレースが企画されたらしいのだが、その直前にアステロイドが調教中に健を痛めて引退してしまったため実現しなかった。

ところで本馬の競走成績に関して、米国競馬名誉の殿堂博物館のサイトには22戦21勝とあるが、これは最後のタイムトライアルを含めていないものである。後にエクスターミネーターもタイムトライアルに失敗しているが、同サイトにおけるエクスターミネーターの項には失敗したタイムトライアルも含めて100戦50勝(含めなければ99戦50勝)と書かれており、統一されていない。本項では統一するために、失敗したタイムトライアルも含めて本馬の競走成績を23戦21勝とした(エクスターミネーターも100戦50勝としている)。

競走馬としての評価

本馬が記録した20連勝というのは、米国競馬のチャンピオン級の馬としては、ヒンドゥーが記録した18連勝(又は19連勝)、コリンが記録した15連勝、サイテーションシガーが記録した16連勝、ゼニヤッタが記録した19連勝をも上回る大記録であるが、時代が古すぎて同列に論じられないためか、あまり採り上げられないようであり、実際にここに挙げた馬達に関して書かれた資料の中で本馬の名前が出てくることは殆ど無い。米国競馬名誉の殿堂博物館のサイトにも、本馬は長い期間忘れられた存在だった旨が書かれている。しかし同サイトにおいては、本馬は間違いなくレキシントンの最高の息子であると賞賛されている。本馬の競走馬時代は南北戦争の最中及び終結後と重なっており、南部州出身の競走馬は北部州の人から嫌われる事が多かったという。本馬の出身地であるケンタッキー州は南北戦争において合衆国に残ったが、奴隷州ではあり、一部の郡は南軍に同調したため、南部州とみなす人も少なくなかった。そのためケンタッキー州産である本馬もまた北部州の人にとっては嫌悪の対象になるはずなのだが、本馬は例外的に北部州の人からも応援された存在だったという。

血統

Lexington Boston Timoleon Sir Archy Diomed
Castianira
Saltram Mare Saltram
Symes Wildair Mare 
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel Diomed
Atkinsons Shark Mare
Alderman Mare Alderman 
Clockfast Mare
Alice Carneal Sarpedon Emilius Orville
Emily
Icaria The Flyer
Parma
Rowena Sumpter Sir Archy
Robin Redbreast Mare
Lady Grey Robin Grey
Maria 
Magnolia Glencoe Sultan Selim Buzzard
Alexander Mare
Bacchante Williamson's Ditto
Mercury Mare
Trampoline Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Web Waxy
Penelope
Myrtle Mameluke Partisan Walton
Parasol
Miss Sophia Stamford
Sophia
Bobadilla Bobadil Rubens
Skyscraper Mare
Pythoness Sorcerer
Princess

レキシントンは当馬の項を参照。

母マグノリアの競走馬としての経歴は不明。本馬以外に名のあるレースの勝ち馬を産んではいないが、その牝系子孫はかなり発展しており、根幹繁殖牝馬と言っても差し支えないほどとなっている。本馬の半姉マドレーヌ(父ボストン)の娘マギービービーは英ダービーと英セントレジャーを勝ったイロコイの母であり、マドレーヌの子孫にはイロコイの項で触れたように数え切れないほどの活躍馬がいる。また、本馬の半姉スケダドゥル(父ヨークシャー)の子孫もマドレーヌほどではないが一定の繁栄を見せており、子孫にはホワイトスターライン【ケンタッキーオークス(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)・デラウェアオークス(米GⅠ)】、ノーザントリック【仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】、シーヴァ【タタソールズ金杯(愛GⅠ)】、バーナーディニ【プリークネスS(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】、メインシークエンス【BCターフ(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズS(米GⅠ)・ソードダンサー招待S(米GⅠ)・ジョーハーシュターフクラシック招待S(米GⅠ)】などの名前が見られる。→牝系:F4号族④

母父グレンコーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ベルモントSのレース名の由来となったオーガスト・ベルモント氏により1万5千ドルで購入され、ベルモント氏が所有するニューヨーク州ナーサリースタッドで種牡馬入りした。父レキシントンが種牡馬として凄すぎたために比較すると見劣りするが、それでもまずまずの種牡馬成績を残した。1875年4月に14歳で他界した。それから100年以上が経過した1983年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1869

Woodbine

モンマスオークス・アラバマS

1871

Dublin

ウィザーズS

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