プレニポテンシャリー

和名:プレニポテンシャリー

英名:Plenipotentiary

1831年生

栗毛

父:エミリウス

母:ハリエット

母父:ペリクレス

最悪の仕上がりだった英セントレジャーを惨敗した以外は、英ダービーを含むどのレースも楽勝を収めた19世紀前半の英国有数の実力馬

競走成績:3・4歳時に英で走り通算成績8戦7勝

誕生からデビュー前まで

英国ケンブリッジシャー州ホースヘス村の馬産家で、長年に渡って英国ジョッキークラブの会員でもあったスタンレイク・バトソン氏により生産・所有され、ニューマーケットに厩舎を構えていたジョージ・ペイン調教師に預けられた。成長しても体高は15.2ハンドだったというから特に背が高い馬ではなかったようだが、額に細長い流星が走った非常に見栄えが良い馬であり、「その美しさは尋常ではない」と評された。単に見栄えが良いだけでなく、骨太で引き締まった筋肉を有し、馬車馬を任せても一流になるだろうと言われた力強さを持っていた。また、優れた速度と持久力も兼ね備えており、欠点らしきものが見当たらない馬だった。あえて欠点を挙げると、レース当日にテンションが高くなりすぎて、なかなか騎手に騎乗させない傾向があった事だが、平素は普通に振る舞っていたという。

馬名は「全権大使」という意味だが、当時の英国の人にとっても早口言葉のように読みにくい名前だったため、ファンやマスコミは“Plenipo(プレニポ)”と略していたという。

2歳時は1回もレースに出なかったが、2歳10月時点で翌年の英ダービーの前売りオッズは31倍に設定されており、しかも間もなくして16倍に引き下げられたというから、レースに出ていなくてもその存在は英ダービーの有力候補として認知されていた事になる。

競走生活(3歳前半)

3歳4月にニューマーケット競馬場で行われた50ポンドスウィープSがデビュー戦となった。単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された本馬は、同じエミリウス産駒の無名の牡馬を一蹴して、印象的な勝利を収めた。それから2日後には100ポンドスウィープSに出走。対戦相手は1頭だけだったが、その1頭とはグレンコーだった。本馬と同じく3歳デビューだったグレンコーは、2日前のセカンドリドルズワースSでデビューして馬なりのまま完勝していた。最終的には同世代の歴史的名馬3頭のうちの2頭(もう1頭が登場するのは後の英セントレジャーまで待たねばならない)となる両雄の初対決は、先行したグレンコーを馬なりのままかわした本馬が4馬身差で勝利した。グレンコーに騎乗していたジェームズ・ロビンソン騎手は「レース前はこんな牛のように太ったのろそうな馬に、快速自慢のグレンコーが負けるわけはないと思っていましたが、偉大な牛だったプレニポテンシャリーは馬なりのまま私の馬をかわしていきました」と脱帽した。

グレンコーはその2週間後に英2000ギニーに出走して勝利したが、本馬はその英2000ギニーには参戦せず、英ダービー(T12F)に直行した。このレースにはグレンコーも出走していたが、本命視された本馬の対抗馬とみなされていたのはグレンコーではなく、本馬と同父の名馬プライアムの主戦も務めていたサム・チフニー・ジュニア騎手が「プライアムより強い」と太鼓判を押していたシレラグという馬だった。本馬が単勝オッズ3.25倍の1番人気、シレラグが単勝オッズ4倍の2番人気となった。エプソム競馬場にはかつてなかったほどの大観衆が詰めかけていた。5回のフライングの後に正規のスタートが切られると、本馬鞍上のパトリック・コノリー騎手は先行集団の後方に本馬をつけた。そして巧みに内側の隙間を通り抜けて位置取りを上げると、先に先頭に立っていたグレンコーに直線入り口で並びかけた。2頭の叩き合いはしばらく続いたが、本馬はまだ全力疾走していなかった。そして残り1ハロン地点でコノリー騎手が満を持して仕掛けると、一気にグレンコーを置き去りにした。そして追い上げてきたシレラグを2馬身差の2着に、グレンコーを3着に破って勝利した。

競走生活(3歳後半)

次走はセントジェームズパレスS(T8F)となった。このレースにはグレンコーも参戦予定だったのだが、グレンコーは回避して翌日のロイヤルSに回った。他に出走馬がいなかったために、本馬が単走で勝利した。しかしこのレースを単走で走る本馬を見た人の中には、何か脚に異常があるのではないかと感じた人もいたという。しかしこの段階では、本馬の脚の異変には注意が払われなかった。

その後は秋の英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。グレンコーはこのレースにも不在であり、本馬が単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持された。ところがレース当日の本馬の仕上がり具合は凄まじく悪く、「これは競走馬というよりも豚である」と評されたほどだった。本馬に賭けていた人達は本馬の状態を目の当たりにすると、慌てて他馬の単勝を買いに走っていった。レースでは本馬鞍上のコノリー騎手が必死になって本馬に檄を飛ばしたが、レース後にコノリー騎手が「彼は石のように固まっていました」と語ったほど本馬の反応は異常に悪かった。結局、何の見せ場も無かった本馬は10着に惨敗。勝ったのは、この段階では単勝オッズ41倍の伏兵だった同世代3頭目の歴史的名馬タッチストンだった。

ところで、本馬がこの英セントレジャーで悲惨なほど仕上がりが悪かった理由は、実のところ不明である。しかし当時から様々な憶測が流れ、いくつかの理由が候補として挙げられている。1つは、単純に馬体の絞り込みに失敗したというもの。その原因として、セントジェームズパレスSの際に見られた脚部不安が悪化したために調教が不十分だった事も考えられる。1つは、レース前の本馬のあまりの元気の無さからの推測であるが、本馬が勝つと大損をするブックメーカーが本馬に薬物を漏ったというものである。当時の英国の厩舎や競馬場の警備態勢はかなり杜撰だったのは事実であるらしいから、この説は当時からかなり信憑性が高いと言われている。後にペイン厩舎の厩務員の頭をしていた人物が死の間際になって「プレニポテンシャリーがいる馬屋の鍵を見知らぬ人間に渡した」と告白したという話が伝わっているのも、この説の信憑性に拍車をかけている。しかし決定的な証拠も無ければ、犯人が捕まったわけでもないので、真相は結局不明である。3歳時の成績は5戦4勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、まずは4月にニューマーケット競馬場で行われたクレイヴンS(T8F)から始動した。前年の英ダービー2着馬シレラグなどの姿もあり、しかもレースがかなり速いペースで進行すると予想されていた事もあって、前年の英セントレジャーで反応が悪かった本馬は追走するのが精一杯なのではという懸念があった。しかし結果は、本馬が2着ナンセンスに1馬身差をつけて勝利した(シレラグは3着だった)。次走は、1歳年上の英2000ギニー馬クリアウェルとのマッチレースだった。距離は5ハロンであり、英ダービー馬よりも英2000ギニー馬に有利な距離だった。しかし結果は「本来の速度の半分以下で走った」と騎手が豪語したほどの馬なりで走った本馬が3馬身差であっさりと勝利した。同日午後にはポートSに出走したが、対戦相手4頭が揃って回避したために単走で勝利した。その後はアスコット金杯を目標として調整されていたが、上手く仕上がらなかったために、レース前日に回避が決定。本馬不在のアスコット金杯はグレンコーが勝利した。本馬の回避に関しては、アスコット競馬場の堅い馬場状態を知ったバトソン氏が本馬の脚に悪影響を与えるのを懸念したのだという説が根強いようである。また、英セントレジャーに続いてここで本馬が負けると面子が丸潰れになるペイン師が、バトソン氏を説得して強引に回避させたのだとしてペイン師を非難する論調も出たが、これまた真相は定かではない。本馬は結局この後にレースを走ることは無く、4歳時3戦3勝の成績で競走馬を引退した。

本馬は英ダービーしか大競走を勝っておらず、字面上の競走成績だけで見ると、グレンコーやタッチストンより見劣りがする。しかし19世紀の英国競馬関係者は本馬の能力を非常に高く評価していた。本馬が競走馬を引退してから50年以上が経過した1886年6月に、英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第18位にランクインした。本馬以前に誕生した馬で本馬より上位に入った馬はおらず(タッチストンは22位、グレンコーは選外)、19世紀前半における英国有数の名馬としての名声を50年以上も保ち続けていた事になる。本馬の評価の高さに関しては、このランキングで27位に入ったプライアムより強いと言われたシレラグを英ダービーやクレイヴンSで一蹴した事も影響しているようである。

血統

Emilius Orville Beningbrough King Fergus Eclipse
Creeping Polly
Fenwick's Herod Mare Herod
Pyrrha
Evelina Highflyer Herod
Rachel
Termagant Tantrum
Cantatrice
Emily Stamford Sir Peter Teazle Highflyer
Papillon
Horatia Eclipse
Countess
Whiskey Mare Whiskey Saltram
Calash
Grey Dorimant Dorimant
Dizzy
Harriet Pericles Evander Delpini Highflyer
Countess
Caroline Phoenomenon
Faith
Precipitate Mare  Precipitate Mercury
Dundas Herod Mare
Firetail  Highflyer
Mariannina 
Selim Mare Selim Buzzard Woodpecker
Misfortune
Alexander Mare Alexander
Highflyer Mare
Pipylina Sir Peter Teazle Highflyer
Papillon
Rally Trumpator
Fancy

エミリウスは当馬の項を参照。ただし、本馬の父親はエミリウスではなくマーリンという種牡馬であるという説もある。エミリウスを種牡馬として繋養していたリドルスワーススタッドの所有者トマス・ソーンヒル氏の義理の息子が、(本馬の母)ハリエットはエミリウスと交配されるためにリドルスワーススタッドにやってきたが、ハリエットとエミリウスの相性が良くなかったために、代わりにリドルスワーススタッドにいたマーリンを交配させたのだと証言したのがその根拠であるらしい。しかしこの説は一般的ではなく、本馬はエミリウスの息子という事で落ち着いているようである。ちなみにマーリンは、ヘロド→ウッドペッカー→バザード→カストレル→マーリンと続く血統の持ち主で、種牡馬としては2頭の英国クラシック競走の勝ち馬を出しており、決して凡庸な種牡馬ではなかったが、エミリウスに比べると見劣りするとされていた。

母ハリエットの競走馬としての経歴は不明。本馬の全妹プレナリーの子にプラネット【モールコームS】がいるが、ハリエットの牝系子孫は発展しなかった。ハリエットの祖母ピピリーナの半姉ハイェールの子にアンティシペイション【アスコット金杯2回】、サム【英ダービー】が、ピピリーナの半姉レジーナの孫にジンガニー【アスコット金杯】、グリーンマントル【英オークス】が、ピピリーナの半妹グーサンダーの子にショヴェラー【英オークス】、セイラー【英ダービー】がいる。ハイェール、レジーナ、グーサンダーの3頭の牝系子孫は全て21世紀になっても残っており、ハイェールの牝系子孫からは、グレイソヴリンミルジョージレッドランサムといった名種牡馬達や、英2000ギニー・英ダービーの勝ち馬ニンバス、英愛仏3か国のチャンピオンハードルを勝った悲運の名牝ドーンラン、南アフリカの名牝エンプレスクラブ、2016年のケンタッキーダービー馬ナイクイスト、日本で走ったヒシアケボノとアグネスワールドの兄弟、コパノリチャードなどが、レジーナの牝系子孫からは有馬記念馬イシノアラシなどが出ている。ピピリーナの祖母ファンシーは第1回英ダービー馬ダイオメドの3歳年下の全妹である。→牝系:F6号族②

母父ペリクレスはジョッキークラブプレートで2着している。さらに遡ると、イベンダー、デルピニを経てハイフライヤーに行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は英国バッキンガムシャー州デナムの牧場で種牡馬入りした。初年度の種付け料は25ギニーに設定された。2頭の英国クラシック競走の勝ち馬を出したが、2頭とも牝馬であり、牡馬の活躍馬があまり出なかった。それもあってか、本馬の種牡馬成績は当時から期待外れと評されていたようである。晩年はサラブレッドではなく、地元の農家で使役する半血種の馬産のために活動していたようで、種付け料は5ギニーまで下がっていた。1853年12月か翌1854年1月のいずれかの月に、繋養先のデナムの牧場において22歳又は23歳で他界した。種牡馬としては期待外れだったと言われてしまった本馬だが、根幹繁殖牝馬クイーンメアリーの母父となった事により、後世に大きな影響力を有する事になった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1838

Potentia

英1000ギニー

1839

Envoy

アスコットダービー

1840

Poison

英オークス・トライアルS

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