ダイオメド

和名:ダイオメド

英名:Diomed

1777年生

栗毛

父:フロリゼル

母:シスタートゥジュノー

母父:スペクテーター

記念すべき第1回英ダービーの覇者でありながら英国では種牡馬として評価されなかったが米国で種牡馬として見事復活を果たす

競走成績:3~6歳時に英で走り通算成績20戦11勝2着5回3着3回(公式記録のみ)

1780年に実施された第1回英ダービーの勝ち馬であるばかりか、後に米国で種牡馬として大きな成功を収めた。後世に与えた影響力も大きく、記念すべき第1回英ダービーの勝ち馬に相応しい名馬である。

誕生からデビュー前まで

英国ニューマーケットにおいて、リチャード・バーノン閣下という人物により生産され、当時の英国ジョッキークラブ会長だった第6代准男爵トマス・チャールズ・バンベリー卿に購入されて彼の所有馬となり、英国の有名な邸宅ヒルトンホールにあった調教場において調教が行われた。馬名はトロイア戦争においてギリシア側の勇士として活躍した英雄ディオメデスに由来する。しかし成長しても体高は15.3ハンドであり、当時としてもそれほど大きい馬ではなかったようである。

さて、本馬が2歳のときに、英セントレジャーに倣って創設された3歳牝馬限定競走である第1回英オークスがエプソム競馬場において施行され、盛況のうちに幕を閉じた。そこで、今度は3歳牝馬だけでなく3歳牡馬も含めた競走を同じエプソム競馬場において創設しようという動きが出てきた。この競走には、本馬の馬主バンベリー卿と、彼の友人だった第12代ダービー伯爵エドワード・スミス・スタンリー卿がコイントスをして勝った方の名前が付けられることになり、スタンリー卿が勝利したために当該競走は“The Derby Stakes(ザ・ダービー・ステークス)”と命名されることになった。本馬が競走馬としてデビューしたのは、この第1回英ダービーが実施される直前だった。

競走生活(3歳時)

まずはニューマーケット競馬場で行われた500ギニー懸賞(スウィープS)でデビューして、ディアデム、マッチェム産駒のブラザートゥモプスクイーザーといった馬達を相手に勝利した。

そして2戦目が英ダービー(T8F)となった。この第1回英ダービーは出走頭数が僅か9頭(本馬以外の出走馬は、エクリプス産駒のボウドロウ、エクリプス産駒のスピットファイア、ウットン、ヘロド産駒の無名の牡馬などだった)で、距離も現在のような12ハロン戦ではなく、1マイル戦だった。結果は本馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気に応えて優勝したが、詳細な記録が残っておらず、レース展開や勝ちタイム等は不明である。また、賞金はたったの50ギニーであり、デビュー戦の僅か一割に過ぎなかった。

7月にニューマーケット競馬場で行われた次走の100ギニー懸賞は単走で勝ち、10月にニューマーケット競馬場で行われた100ギニー懸賞も勝利した。この直後にはペラムプレートという競走に出走して、ヘロド産駒のローバー、ヘロド産駒のマリーゴールド、マースク産駒のジョンエーノークスなど10頭を蹴散らして勝利。さらに100ギニー競走も勝ち、ニューマーケット競馬場で行われた20ギニーサブスクリプション競走では、同世代の英オークス馬テトータム(マッチェム産駒)、ヘロド産駒のダッチェス、本馬と同じフロリゼル産駒のフロルス、ヘロド産駒のアラジンなどを破って勝利した。3歳時の成績は7戦全勝で、エクリプス以来の名馬として讃えられた。

競走生活(4~6歳時)

4歳時はニューマーケット競馬場で行われたブラザートゥモプスクイーザーとの500ギニーマッチレースから始動して勝利。さらにニューマーケット競馬場で行われた賞金30ギニーのフォーテスキューSでも、スピットファイア、ヘロド産駒のキングウィリアム、オキュレイター、ヘロド産駒のコミスなどを破って勝利した。さらにニューマーケット競馬場で行われた賞金200ギニーのクラレットSでも、ヘロド産駒のアンタゴニスト、ロドニー、ディアデム、オキュレイターなどを破って勝利した。しかしノッティンガム競馬場で行われた賞金25ギニーのノッティンガムSでは、ヘロド産駒フォーティチュードの2着に敗れて初黒星。次走となったボウドロウとの300ギニーマッチレースにも敗れて、4歳時の成績は5戦3勝となった。

5歳時は、10月にニューマーケット競馬場で行われた200ギニー懸賞に出走する予定だったが、罰金を払って回避。結局5歳時は1度もレースを走ることはなかった。

6歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われた賞金10ギニーのクレイヴンSから始動したが、アラリックの着外に敗れた。同条件下で行われた次走も敗北。続くキングズプレートでも、ドローンの2着に敗れた。しかし次走のギルドフォードキングズプレートでは、ゴールドファインダー産駒のロッタリーを破って勝利した。このレースは距離4マイルのヒート競走であり、本馬が背負っていた斤量は168ポンド(約76kg)という、今日では考えられないものだった。賞金25ギニーのアスコットサブスクリプション競走では、エクリプス産駒ソルジャーの3着に敗退。次走のウィンチェスターキングズプレートでは、ヘロド産駒アンヴィルの2着だった。ルイスキングズプレートでは、エクリプス産駒マーキュリーとディアデムの2頭に敗れて3着。次走のウィンチェスターロイヤルプレートでは、レース中に脚を負傷して競走中止。このレースを最後に6歳時8戦1勝の成績で競走馬引退となった。

血統

Florizel Herod Tartar Croft's Partner Jigg
Sister One to Mixbury
Meliora Fox
Witty's Milkmaid 
Cypron Blaze Flying Childers
Confederate Filly
Salome Bethell's Arabian 
Champion mare
Cygnet Mare Cygnet Godolphin Arabian ?
?
Godolphin Blossom Crab
Sister Three to Steady
Young Cartouch Mare Young Cartouch Cartouch
Hampton Court Mare
Ebony  Flying Childers
Old Ebony 
Sister to Juno Spectator Crab Alcock Arabian  ?
?
Sister to Soreheels Basto
Sister One to Mixbury
Partner Mare Croft's Partner Jigg
Sister One to Mixbury
Bonny Lass Bay Bolton
Darley Arabian Mare
Horatia Blank Godolphin Arabian ?
?
Amorett Bartlet's Childers
Flying Whigg 
Sister One to Steady Flying Childers Darley Arabian 
Betty Leedes
Miss Belvoir Grey Grantham 
Paget Turk Mare

父フロリゼルはヘロドの直子で、競走馬としては活躍できなかったが、種牡馬としては本馬の他に第12代英ダービー馬イーガーなどを出して成功した。

母シスタートゥジュノーの競走馬としての経歴は不明。本馬の3歳年上の半姉パストレラ(父オート)の曾孫にはウィリアム【英セントレジャー】がいる。本馬の1歳年上の半姉フェイム(父パンタルーン)は第1回英オークスでブリジットの2着している。本馬の3歳年下の全妹ファンシーは所謂ファミリーナンバー6号族の根幹繁殖牝馬と言える存在で、6号族出身の著名馬の大半はファンシーの牝系子孫から出ている。ここにその全てを書き出すのは無謀なので、ここでは、シックルファラモンドハイペリオン3兄弟の母シリーンを代表例として挙げておく。

シスタートゥジュノーの1歳年下の全妹ジュノーの息子ヤングエクリプスは本馬に続く第2代英ダービー優勝馬となっている。ジュノーの牝系子孫はあまり発展しなかったが21世紀も残っており、ドラムタップス【アスコット金杯(英GⅠ)2回】、日本で走ったマイネルネオス【中山グランドジャンプ(JGⅠ)】などが出ている。→牝系:F6号族①

母父スペクテーターは現役成績7戦5勝。ジョッキークラブプレートではマッチェム、ブリリアント、ウィッスルジャケットといった当時の強豪馬を破っている。スペクテーターの父クラブは、サラブレッド3大始祖以外では最も長く19世紀まで生き残ったオルコックアラビアン系の始祖オルコックアラビアン(芦毛馬の祖とされる)の直子。現役時代は同時代の強豪馬ヴィクトリアスやクレオパトラなどと戦いながら5勝(6勝という説もある)を挙げた。オルコックアラビアン系が生き延びたのは、クラブやスペクテーターが種牡馬として活躍したのが大きい。なお、ポテイトウズキングファーガスの母系にもクラブの名が見られる。

英国で種牡馬として評価されず

競走馬を引退した本馬はバンベリー卿所有のもと、英国サセックス州アップパークスタッドで8歳時から種牡馬生活を開始した。その後はアップパークスタッドとバートンホールスタッドとの間を行き来しながら種牡馬生活を送った。3歳時はエクリプス以来の名馬と讃えられた本馬だが、現役時代終盤の敗戦続きで印象を悪くしたようで、種牡馬入り当初の評価は非常に低く、種付け料は僅か5ギニー(約25ドル)に設定された。

初年度産駒から、クラレットS・ジョッキークラブプレートの勝ち馬で、後にロシアで種牡馬として大きな成功を収めるグレイダイオメドを輩出。他にも、ヤングジャイアンテス(英首位種牡馬に3度輝いたソーサラーや、英ダービー・英オークスを制したエレノアの母)、ファニー(英セントレジャー馬フィルドナーの母)、ヤングノイセット(ストックウェルキングトムの母ポカホンタスの祖母の父マーミオンの母)などを出した。

1789年に種付け料は10ギニーまで上昇したが、産駒は頑固で興奮しやすいという悪評が立った影響もあって、やはり種牡馬人気は上がらなかった。やがて老年に差し掛かった本馬は受精率も低下し、21歳時の1798年には種付け料は2ギニーまで下がった。そしてこの年の春にバンベリー卿は本馬の売却を決定。本馬は、バンベリー卿の知人だったラム氏とヤンガー氏の両名により50ギニーで購入された。

同じ頃、米国ヴァージニア州の馬産家だったジョン・ホームズ大佐と、彼の親友でやはり馬産家だったジョン・テイローⅢ世氏の両名が、種牡馬を探しにたまたま英国にやってきていた。彼等は本馬の事を聞きつけると、英国血統書(ジェネラルスタッドブック)を管理していた血統評論家で、彼等の競馬エージェンシー役でもあったジェームズ・ウェザービー氏という人物に対して、本馬の状況を尋ねた。ウェザービー氏は彼等に送った手紙の中で「年を取って受精率も下がっているし、既に種牡馬としては不成功に終わっているから、この馬を買うのはかなりの挑戦になるでしょう」と否定的に回答した。しかし、本馬のことを個人的に気に入った彼等は、テイローⅢ世氏が米国で所有していた種牡馬が既に種牡馬活動を出来ないほどまでに衰えていたこともあって、本馬の購入を決断した。そして1000ギニーで購入した本馬を、ホームズ大佐とテイローⅢ世氏の両名は、(まだ繁殖シーズンの最中だったため)米国における種牡馬活動に間に合わせるために直ちに米国に移動させた。結局、本馬が英国における14年間の種牡馬生活で出した産駒数は65頭に留まった。

米国で種牡馬として大成功

この1798年から本馬はテイローⅢ世氏所有のボーリンググリーンスタッドで種牡馬生活を開始した。その年の秋には、セルデン大佐という人物に購入されてチェスターフィールドスタッドに移動。その後もロアノークバレーファームなど、ヴァージニア州に所在する牧場を転々とした。この理由は、別に本馬が軽く見られたからではなく、当時の米国競馬界においては、種牡馬は1箇所の牧場に留まるのではなく、各地を移動するのが一般的だったからである。また、本馬の種牡馬としての名声が高まるにつれて、各地の馬産家達から、自分のところでも本馬を供用したいという申し出が相次いだことも影響しているようである。

本馬は米国では種牡馬として大成功を収め、米国最古の顕彰馬サーアーチー、ボールズフロリゼル、ポトマック、スタンプザディーラー、デュロック、ウィルキスワンダー、センティネル、ピースメーカー、トップギャラント、オールドフリーティラ、ヴァンテアン、ハイニーズマリアといった活躍馬を続出させた。

サーアーチーに関しては当馬の項を参照してもらうとして、ここではボールズフロリゼルとハイニーズマリアについて簡単に触れておく。ボールズフロリゼルはその気性の激しさで有名だったが、生涯で一度も敗れる事はなかった。また、ハイニーズマリアは9歳まで走り、レースで出会った対戦相手全てを打ち負かし、後に第7代米国大統領となるアンドリュー・ジャクソン氏をして「彼女は神が作ったあらゆる創造物を破ることができる」と言わしめた。

本馬の子は、競走馬としてだけでなく、第3代米国大統領トマス・ジェファーソン氏や第4代米国最高裁判所長官ジョン・マーシャル氏を始めとする、多くの政治家・法曹関係者の乗馬としても活躍した。

英国で見捨てられたのになぜ米国で復活したのか?

それにしても、英国では受精率も下がり、既に種牡馬としては用済みとみなされていた本馬が、米国で大活躍できたのは何故なのだろうか。不思議なことに米国においては本馬の受精率は改善され、そのために30歳過ぎまで現役種牡馬として活動できた(代表産駒の1頭ハイニーズマリアは、本馬が死去した年に誕生しているから、なんと30歳時の種付けで出来た子ということになる)のだが、その理由も不明である。そもそも、21歳という高齢で、大西洋を渡る長い船旅に耐えられたこと自体が驚異的である。実は本馬には体力が有り余っており、英国において受精率が低下したなどというのも、不人気種牡馬だった本馬に対する偏見から生じた誤解だったのかも知れない。本馬が英国で種牡馬として不人気だったのは、現役時代終盤に敗戦が続いたことが大きいのだが、それでも本馬は新天地の米国で種牡馬として活躍した。最後に敗戦が続いたことと種牡馬能力が低いことがイコールではないというのは、200年以上も前に本馬が証明してくれている。それにも関わらず、現在でも敗戦続きで引退した馬は種牡馬としての評価が抑えられる傾向が強く、ある程度活躍した馬は負けが込む前に早々に引退してしまうことが多い。サラブレッドはこの200年間で大きく進化したが、馬産に携わる側の人間はたいして進化していないようである。

本馬自身は体高15.3ハンドとそれほど大きな馬ではなかったが、米国で出した産駒達は、サーアーチーが16.1ハンド、ポトマックやボールズフロリゼルは16ハンド、デュロックは15.75ハンドなど、自身より大きな馬が多かったという。

本馬は最終的にはボーリンググリーンスタッドに戻り、1808年4月に31歳で大往生したが、その寸前まで現役種牡馬として活躍していた。既に国民的英雄としての地位を確立していた本馬の訃報を耳にした米国民達は、この9年前に死去した初代米国大統領ジョージ・ワシントンのときと同様に喪に服したという。本馬の遺体はヴァージニア州を流れる大河川アポマトックス川を見下ろせる場所に埋葬された。

後世に与えた影響

本馬の直系子孫から16回もの北米首位種牡馬に輝いた大種牡馬レキシントン(サーアーチーの子ボストンの産駒)が登場し、米国競馬の発展に大きく寄与した。また、本馬の産駒デュロックも米国で2番目に古い顕彰馬アメリカンエクリプスの父となっている。これらの功績により、本馬は、メドレー、シャーク、メッセンジャーと並んで米国競馬黎明期に導入された最重要種牡馬の1頭に数えられるようになった。本馬の功績は米国内に留まるものではなく、本馬の血を全く受け継いでいないサラブレッドは世界中に1頭たりとも現存していない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1805

Sir Archy

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