キングファーガス
和名:キングファーガス |
英名:King Fergus |
1775年生 |
牡 |
栗毛 |
父:エクリプス |
母:クリーピングポリー |
母父:オセロ |
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競走馬としては平均的だったが同父のポテイトウズと共に父エクリプスの血を繁栄させ、直系子孫にセントサイモンを登場させる |
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競走成績:3~9歳時に英愛で走り通算成績16戦10勝2着5回(異説あり) |
誕生からデビュー前まで
英国でカーヴァー氏という人物により生産され、1歳時に父エクリプスの所有者だったデニス・オケリー氏に購入された。成長すると体高16ハンドに達し、骨太で優れた体格を有し、欠点が見当たらないと評された。
競走生活(3・4歳時)
3歳時にまだ名前が付けられていない段階でデビューし、バス競馬場で行われたスウィープSで、ミスウィッカムの2着に入った。3歳時はこの1戦のみで終えた。
4歳時は9月にバス競馬場で行われた距離4マイルの500ギニースウィープSから始動。単勝オッズ1.2倍の1番人気に応えて、シンダーウェンチ以下に勝利した。その後はニューマーケット競馬場に移動して2回レースに出走。最初に出走した100ギニースウィープSでは11頭立てで、ヘロド産駒バウンシアバウトの2着。次のフォーテスキューSでは9頭立てで、マースク産駒レキシコンの2着だった。その後は10月にエプソム競馬場で行われる牝馬ベットバウンサーとの200ギニーマッチレースに出走する予定だったが、ベットバウンサーが罰金を払って回避したために本馬が単走で勝利した。
競走生活(5・6歳時)
5歳時は春先にニューマーケット競馬場で行われたゴールドファインダー産駒ナイトエラントとの100ギニーマッチレースで勝利。続いて出走した140ギニースウィープSでは、種牡馬としても凌ぎを削る事になる同父馬ポテイトウズとの対戦となった。レースは本馬が先行したが、道中で落鉄した影響もあったのか、ポテイトウズに差されて2着に敗れた。その後はエプソム競馬場に移動して、5月に4マイルのヒート競走に出走。エプソム、ユグルタ、ドンジョセフ、チャンス、ネプチューン、ホーリーホック、フォッピントンの7頭の他馬を抑えて単勝オッズ1.73倍の1番人気に支持されると、3走目で決着をつけて勝利した。その後は再度ニューマーケット競馬場に移動して、ヘロド牝駒ポモナとの距離3マイルの200ギニーマッチレースに出走して勝利。1か月後には、ヘロド産駒ギルフォードとの200ギニーマッチレースに出走。ここで単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されたのはギルフォードのほうだったが、レースは本馬が勝利した。さらに2日後に出走した65ギニーサブスクリプションSでは、トゥルースという馬が単勝オッズ1.67倍で6頭立ての1番人気に支持されており、本馬は単勝オッズ2.75倍の2番人気だったが、レースは本馬が勝利した。
6歳時にはニューマーケット競馬場で行われたクレイヴンSに出走したが、ウッドペッカーの着外に敗れた。同じくニューマーケット競馬場で出走した次走の50ギニースウィープSでは、フィズギグ、プリンスファーディナンド、ヤングタントラム、リトルアイザック、ナイトエラント、タンティニの計6頭が対戦相手となった。フィズギグが単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持されており、本馬は単勝オッズ3倍の2番人気だったが、本馬が勝利した。引き続き出走した50ギニースウィープSでは単走で勝利した。10月にニューマーケット競馬場で行われたジランドラとのマッチレースに勝利したのが英国における最後のレースとなった。
競走生活(9歳時)
その後はジョン・クローク氏という人物に購入されて愛国に移動。しばらくはレースに出ずに、クロッカーファミリースタッドで種牡馬生活を送っていた。しかし繁殖牝馬がなかなか集まらなかったために9歳時に競走馬に復帰させられ、カラー競馬場で行われたロードルテナンズプレートに出走。このレースでチョコレートの2着に入ったところで英国に再移動した。以降はレースに出る事は無く、種牡馬生活に専念する事になった。
本馬は最初の所有者のオケリー氏が上手にレースの選択をした事で、一定の活躍をする事が出来ているが、エクリプス産駒の中ではあまり優秀な競走馬とは言い難い実力だったようである。
血統
Eclipse | Marske | Squirt | Bartlet's Childers | Darley Arabian |
Betty Leedes | ||||
Snake Mare | Snake | |||
Grey Wilkes | ||||
Hutton's Blacklegs Mare | Hutton's Blacklegs | Hutton's Bay Turk | ||
Coneyskins Mare | ||||
Bay Bolton Mare | Bay Bolton | |||
Fox Cub Mare | ||||
Spilletta | Regulus | Godolphin Arabian | ? | |
? | ||||
Grey Robinson | Bald Galloway | |||
Snake Mare | ||||
Mother Western | Easby Snake | Snake | ||
Sister to Chaunter | ||||
Old Montagu Mare | Lor. d'Arcy's Old Montagu | |||
Hautboy Mare | ||||
Creeping Polly | Portmore's Othello | Crab | Alcock Arabian | ? |
? | ||||
Sister to Soreheels | Basto | |||
Sister One to Mixbury | ||||
Miss Slamerkin | Young True Blue | Honywood's Arabian | ||
Dam of the Two True Blues | ||||
Dun Arabian Mare | Lord Oxford's Dun Arabian | |||
D'Arcy's Sorrill Royal Mare | ||||
Fanny | Tartar | Croft's Partner | Jigg | |
Sister One to Mixbury | ||||
Meliora | Fox | |||
Witty's Milkmaid | ||||
Starling Mare | Bolton Starling | Bay Bolton | ||
Son of the Brownlow Turk Mare | ||||
Childers Mare | Flying Childers | |||
Grantham Mare |
父エクリプスは当馬の項を参照。
母クリーピングポリーは単にポリーと記載されている事も多い。“クリーピング(Creeping)”とは「這い回る、のろまである」などの意味があるが、この単語が付けられている理由はよく分からない。クリーピングポリーは14頭の子を産み(本馬は9番子)、その多くが競走馬となっている。本馬の半姉ディセンバー(父シェイクスピア)の孫にはブライトン【アスコット金杯】、牝系子孫にはタラール【英セントレジャー】、フィリップシャー【仏2000ギニー】、マスジッド【英ダービー】、20世紀初頭の亜国の名競走馬にして名種牡馬オールドマン【カルロスペレグリーニ大賞2回・ポージャデポトリジョス大賞・ジョッキークラブ大賞・ナシオナル大賞】、リリウム【仏チャンピオンハードル】、マッドコカーニュ【リュパン賞・ガネー賞・ジャンプラ賞・カドラン賞】、ザラテア【オークツリー招待H(米GⅠ)】、フレイズ【BCターフ(米GⅠ)・ソードダンサーH(米GⅠ)・ハリウッドターフカップS(米GⅠ)】などが、本馬の全妹ファニーの子にはヴォランテ【英オークス】、牝系子孫にはノーチラス【カドラン賞3回】、ロムルス【仏ダービー】、ヴェルゴーニュ【仏オークス】などがいるが、本馬以降の200年以上において目立つ活躍馬が上記くらいであり、牝系としてはかなり衰退している。→牝系:F6号族②
母父オセロは英国産馬で、競走馬としても英国でデビューしたが、愛国に一時的に転売され、後に英国に戻って種牡馬入りしたという、孫の本馬と似たような経歴の持ち主である。オセロの父クラブはオルコックアラビアン産駒で、オールドクラブとも呼ばれ、1748年から50年まで3年間英首位種牡馬に輝いている。クラブの直系子孫からは、現在に残る三大血統以外のサラブレッドとしては史上唯一の英国クラシック競走の勝ち馬である1785年の英ダービー馬エイムウェルが出ている。
競走馬引退後
本馬は前述のとおり一時的に愛国で種牡馬入りし、いったん競走馬に復帰した後に英国に戻って本格的な種牡馬活動を開始した。英国では最初、ロンドンのウェストミンスター地区ピカデリーにあるレッドライオンリヴァリーステーブルで、種付け料5ギニーで種牡馬生活を送った。12歳時にはヨークシャー州カターリックに移動した。ヨークシャー州に来た本馬は、調教師兼馬産家のジョン・ハッチンソン氏により見初められた。ハッチンソン氏は本馬の骨格や見事な脚に惹かれたようで、割と高額の値段で本馬を購入したという。ハッチンソン氏の所有馬となった本馬は、15歳時からハッチンソン氏がノースヨークシャー州ハンブルトンに所有するシプトンステーブルに移り住み、種付け料10ギニーで種牡馬生活を続けた。17歳時にはバークシャー州メイデンヘッドに移動して、種付け料15ギニーで種牡馬生活を送った。18歳時にはシプトンステーブルに戻り、種付け料20ギニーで種牡馬生活を続けた。その後も、サリー州エガム、ハートフォードシャー州ターンフォード、ケンブリッジシャー州ケンブリッジなど、英国各地を回りながら種牡馬生活を送った。
このように流浪の種牡馬と言えるような生活を送った本馬だが、種付け料が徐々に上がっているのを見れば分かるとおり、種牡馬成績は良好だった。愛国供用時代においてもキングズプレート5勝を含む24勝を挙げたアネストトムを出したが、英国における種牡馬成績のほうが顕著(これは所有者のハッチンソン氏の功績が大きいのだが)である。代表産駒はいずれもハッチンソン氏の生産馬であるベニングブローとハンブルトニアンの2頭である。
1797年には、20年間続いたヘロドとハイフライヤー親子の連続記録をストップさせて英首位種牡馬に輝いた(父エクリプスや同父のポテイトウズは英首位種牡馬になっていない)。1801年に本馬は26歳で他界した。
後世に与えた影響
本馬の直系子孫はベニングブローからオーヴィル、エミリウスと続いた血統が一時的に大きく繁栄したが、こちらはその後に衰退してしまった。その代わりにハンブルトニアンの直系がホワイトロック、ブラックロック、ヴォルテアー、ヴォルティジュール、ヴェデットと続き、19世紀末にガロピン、セントサイモン親子が登場するに至ってサラブレッド界に絶大な影響力を有する事になった。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1788 |
Overton |
ドンカスターC |
1788 |
Young Traveller |
英セントレジャー・ドンカスターC |
1791 |
Beningbrough |
英セントレジャー・ドンカスターC |
1792 |
英セントレジャー・ドンカスターC2回・クレイヴンS |