サーピーターティーズル

和名:サーピーターティーズル

英名:Sir Peter Teazle

1784年生

黒鹿

父:ハイフライヤー

母:パピヨン

母父:スナップ

英ダービーの創設者第12代ダービー伯爵を念願の英ダービー馬主にしただけでなく祖父ヘロドと父ハイフライヤーと共に親子3代で種牡馬として猛威を振るう

競走成績:3~5歳時に英で走り通算成績20戦18勝2着2回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

第12代ダービー伯爵エドワード・スミス・スタンリー卿により生産・所有された。スタンリー卿は英オークスや英ダービーの創設に大きく関わった人物である。彼とエリザベス・ハミルトン夫人との結婚パーティーが行われる中で、既に施行されていた英セントレジャーに倣って、今度は3歳牝馬限定競走を始めようという意見が出たために創設されたのが英オークスである。1779年に行われた第1回英オークスの終了後に、今度は3歳牝馬だけでなく3歳牡馬も含めた競走を創設しようという動きが出てきた。この競走には、スタンリー卿と、彼の友人で英国競馬界の大物だった第6代准男爵トマス・チャールズ・バンベリー卿がコイントスをして、勝った方の名前が付けられることになった。そしてスタンリー卿が勝利したために当該競走は「ダービー」と命名されることになった。1780年に行われた第1回英ダービーはバンベリー卿の所有馬ダイオメドが勝利。その後もスタンリー卿の所有馬はなかなか英ダービーを勝つ事が出来なかった。この間に、スタンリー卿の妻エリザベス夫人は、年下の男性と駆け落ちして家を出てしまい、一方のスタンリー卿もすぐに、エレン・ファレンという女優と同居生活を開始した。

そんな中で誕生した本馬が、当時人気があった古典喜劇“The School for Scandal(悪口学校)”の登場人物であるピーター・ティーズル卿の名前を貰ったのは、エレン・ファレンが“The School for Scandal”においてピーター・ティーズル卿の妻ティーズル夫人の役を演じていたからである。

競走生活

本馬は3歳デビューだったが、このデビュー戦が英ダービー(T12F)だった。単勝オッズ3倍の1番人気に支持されると、エクリプス産駒のガンパウダーや、後のドンカスターCの勝ち馬バスラーなどを蹴散らして見事に優勝。創設以来8回目にしてようやくスタンリー卿に最初で最後の英ダービーのタイトルをもたらした。

その後は、賞金450ギニーのアスコットスウィープS、アスコット1000ギニー競走を勝ち、プリンスオブウェールズプレートでは前年の英オークス馬イエローフィリーを破って勝った。さらに、2度行われたブルフィンチとのマッチレース(賞金はそれぞれ500ギニー・300ギニー)にもいずれも勝利。さらに140ギニーパース、単走のスウィープSを勝利して、3歳時を8戦無敗で終えた。

翌4歳時は、ニューマーケット競馬場で行われたジョッキークラブSから始動して、バスラーなどを破って勝利。さらにリッチクラレットS・フォーテスキューSも勝ち、当時の強豪馬バザードを寄せ付けなかった。また、メントールという馬とマッチレースを行って勝利している。7月には距離2マイルのグローヴナーSを勝ち、10月には再度メントールとのマッチレースに勝利して賞金700ギニーを獲得した。次走はクイーンズベリー公爵の所有馬だったダッシュというフロリゼル産駒の4歳牡馬との500ギニーマッチレースに出たが、レース数日前に脚に釘のようなものが刺さる怪我を負って調教が不十分だった上に、32ポンドもの斤量差も響いたようで、初黒星を喫した。しかし牝馬マリアとの300ギニーマッチレースには勝利し、4歳時を8戦7勝で終えた。

5歳時は、ニューマーケット競馬場で行われた賞金425ギニーのクレイヴンSから始動して、エクリプス産駒の牡馬メテオ(本馬より1歳年上の英ダービー2着馬)や他2頭を破って勝利。次走はニューマーケット競馬場で行われた距離6マイルの1000ギニーマッチレースとなった。対戦相手は前年に敗戦を喫したダッシュだったが、今回は本馬が勝利した。さらにメテオとの500ギニーマッチレースにも勝利した。10月にはニューマーケット競馬場で行われた、フロリゼル産駒の牡馬マルベリーとのマッチレースに出走。しかし28ポンドの斤量差が堪えて敗戦してしまった。その後、パース競走に向けた調教中に故障して(当該パース競走中に故障したとする資料もある)、競走馬を引退した。5歳時の成績は4戦3勝だった。

なお、本馬は単に“Sir Peter”と表記される事も多く、ノーズリースタッドに存在する本馬の墓石にもそのように刻まれている。

血統

Highflyer Herod Tartar Croft's Partner Jigg
Sister One to Mixbury
Meliora Fox
Witty's Milkmaid 
Cypron Blaze Flying Childers
Confederate Filly
Salome Bethell's Arabian 
Champion mare
Rachel Blank Godolphin Arabian ?
?
Amorett Bartlet's Childers
Flying Whigg 
Regulus Mare Regulus Godolphin Arabian
Grey Robinson
Soreheels Mare Soreheels 
Milbank's Black Mare 
Papillon Snap Snip Flying Childers Darley Arabian 
Betty Leedes
Sister to Soreheels Basto
Sister One to Mixbury
Sister to Slipby Fox Clumsey
Bay Peg 
Gipsy Bay Bolton
Newcastle Turk Mare
Miss Cleveland Regulus Godolphin Arabian ?
?
Grey Robinson Bald Galloway
Snake Mare
Midge Son of Bay Bolton Bay Bolton
?
Dam of Miss Belsea Bartlet's Childers
Sister One to True Blue

ハイフライヤーは当馬の項を参照。

母パピロンは現役時代に初代クレルモン伯爵ウィリアム・ヘンリー・フォーテスキュー卿の所有馬として走り、4歳時のニューマーケットクレイヴンSでファイアテールの3着に入り、他の出走馬22頭に先着するなど、競走馬としてある程度の実績を残した。競走馬引退後はグローヴナー卿の元で繁殖入りし、後にスタンリー卿のところにやって来た。繁殖牝馬としては12頭の産駒を産み、7番子である本馬や、本馬の3歳年上の全姉レディーティーズル(11勝を挙げ、英オークスでステラの2着)などの活躍馬の母となった。本馬の半姉レン(父ウッドペッカー)の子にはベリッシマ【英オークス】が、パピロンの全妹ミドルセックスの子にはシーガル【ジュライS】、孫にはタイラント【英ダービー・クレイヴンS】がいる。→牝系:F3号族①

母父スナップは詳細な競走成績は不明だが、種牡馬としては18世紀の無敗馬として有名な13戦全勝のゴールドファインダーを出すなど4度の英首位種牡馬に輝いた。スナップの父スニップはフライングチルダースの直子。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はスタンリー卿がランカシャー州に所有していたノーズリースタッドで種牡馬入りした。種牡馬としては記録的な大成功を収め、英ダービー馬4頭、英セントレジャー馬4頭、英オークス馬3頭と活躍馬を次々に送り出し、1799~1802・04~09年と10度の英首位種牡馬に輝いた。産駒の勝ち上がり馬は350頭に達する。1811年8月に27歳で他界した。祖父ヘロド、父ハイフライヤー、本馬の3代で、1777年から1809年までの33年間で計31度も英首位種牡馬になり(この33年間で、この3頭が英首位種牡馬になれなかったのは、キングファーガスが首位だった1797年と、トランペッターが首位だった1803年の2回のみである)、三大始祖の1頭バイアリーターク系の未曾有の繁栄期を現出した。

本馬の直系子孫は、1816・18年の英首位種牡馬ウォルトンや、サーポール、サーハリーなどによってある程度の発展を遂げたが、あまりにも繁栄しすぎて血の袋小路に陥ってしまったために衰退し、現在本馬の直系は完全に滅んでいる。しかし本馬の母方を通じてのサラブレッドへの影響力はかなりのもので、現在のサラブレッドの祖先を15~20代ほど遡ると本馬の名がよく見られる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1791

Hermione

英オークス

1793

Ambrosio

英セントレジャー・ジョッキークラブプレート

1793

Parisot

英オークス

1794

Stamford

ドンカスターC2回

1795

Sir Harry

英ダービー

1796

Archduke

英ダービー

1799

Walton

1800

Sir Oliver

ドンカスターC

1800

Williamson's Ditto

英ダービー

1802

Caleb Quotem

ドンカスターC

1803

Fyldener

英セントレジャー

1803

Paris

英ダービー

1804

Paulina

英セントレジャー

1805

Petronius

英セントレジャー

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