ガンボウ
和名:ガンボウ |
英名:Gun Bow |
1960年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ガンショット |
母:リボンズアンドボウズ |
母父:ウォーアドミラル |
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世紀の名馬ケルソと同斤量を背負いながら互角の勝負を繰り広げた唯一と言ってよい馬で、ケルソ最大の好敵手と言える存在 |
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競走成績:3~5歳時に米で走り通算成績42戦17勝2着8回3着4回 |
誕生からデビュー前まで
米国の化粧品ブランド「エリザベス・アーデン」の創設者として知られる加国出身の女性実業家エリザベス・アーデン女史により、彼女が所有するケンタッキー州メインチャンスファームにおいて生産された。
当初はアーデン女史の所有馬として競走馬デビューする予定だったようだが、2歳時は後脚の跛行のためにレースに出られなかった。そして2歳時の12月にアーデン女史の税金対策のために本馬は売りに出され、ニュージャージー州在住のハリー・アルバート氏とジョン・スタンレー夫人の両名に購入され、ゲドニーファームズ名義となり、エドワード・A・ネロイ調教師に預けられた。
競走生活(3歳時)
3歳2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦でデビューしたが、2着馬に4馬身3/4差をつけて圧勝した期待馬ダンシングダーヴィッシュから11馬身差をつけられて4着に敗れた。なお、ダンシングダーヴィッシュはこの1戦だけで引退・種牡馬入りしている。翌3月にガルフストリームパーク競馬場で出走したダート7ハロンの未勝利戦では、勝ったブレナーパスから6馬身差をつけられて3着に敗れた。なお、ブレナーパスはダンシングダーヴィッシュと異なりこの後も走りまくって通算92戦9勝の成績を残すことになる。一方の本馬は同月末にガルフストリームパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの未勝利戦に出走して、3馬身差で勝ち上がった。
米国三冠競走を狙う事はせず、その後は基本的に当時の自身の能力に見合ったレースに黙々と出走を続けた。まずは5月にアケダクト競馬場でダート7ハロンの一般競走に出たが、これは勝ったジミーキャノンから10馬身差の4着に終わった。2週間後に同コースで行われた一般競走に再び出走したが、勝ったゴーイングアラウンドから4馬身3/4差の4着に終わった。その翌週にはガーデンステート競馬場でダート6ハロンの一般競走に出走して、10馬身差で圧勝。
この勝ち方に気を良くしたのか、次走は翌6月のオハイオダービー(D8.5F)となったが、勝ったレモンツイストから20馬身差をつけられた13着と惨敗を喫した。そのために格下競走路線へと逆戻り。次走は7月にアケダクト競馬場で行われたダート9ハロンの一般競走だったが、勝ち馬から14馬身差をつけられた6着最下位に終わった。翌8月にサラトガ競馬場で出走したダート6ハロンの一般競走は2着ダブルダブルに5馬身差で圧勝。しかし同月に同コースで行われたハンデ競走では、勝ったビッグエンドから6馬身半差の5着と、強さと脆さが同居していた。
9月になり、アケダクト競馬場で出走したダート8ハロンの一般競走では、勝ったゴーイングアラウンドに6馬身差をつけられながらも2着を確保。同月に出走したアケダクト競馬場ダート7ハロンの一般競走は2馬身差で勝利した。そこで10月に2度目のステークス競走となるサフォークダウンズS(D6F)に出走してみたが、ロッキティの9馬身差11着最下位に終わった。
その後は再びガーデンステート競馬場に向かい、ダート6ハロンの一般競走に出走して、2着ジェッツパットに1馬身差で勝利。引き続きガーデンステート競馬場で出走したベンジャミンフランクリンH(D8.5F)では、デルマーダービーの勝ち馬ビッグラフの首差2着と、ステークス競走で初めて好走した。そして翌11月のナラガンセットスペシャルS(D9.5F)では泥だらけの不良馬場の中を快走して、クイーンズカウンティHを勝っていた4歳馬グリッドアイアンヒーローを13馬身差の2着に葬り去ってステークス競走初勝利を挙げた。
しかしこの激走の反動が来たのか、次走のギャラントフォックスH(D13F)ではサンライズフライト、マスターデニスといった面々に叩き潰され、勝ったサンライズフライトから14馬身差の11着に敗退。次走のクイーンズカウンティH(D8F)でもアッパーカットの14馬身差7着に敗れ、3歳時を18戦6勝の成績で終えた。
競走生活(4歳前半)
4歳時は今まで拠点としていた米国東海岸ではなく西海岸に飛び、1月のサンフェルナンドS(D9F)から始動した。分割競走となり対戦相手の層はやや薄くなったが、それでもCCAオークス・モンマスオークス・ガゼルH・スピンスターS・フィレンツェHを勝って前年の米最優秀3歳牝馬に選ばれたラムチョップという強敵が出走していた。しかし名手ウィリアム・シューメーカー騎手が手綱を取る本馬が、ラムチョップを5馬身半差の2着に破って圧勝した。
引き続きチャールズHストラブS(D10F)に出走。今回は分割競走では無かったが、勝ち方は前走よりさらに凄くなり、レムセンS・スタイヴァサントHを勝っていたロッキーリンクを12馬身差の2着に葬り去り、1分59秒8のコースレコードタイで圧勝した。
さらにサンアントニオH(D9F)に出走。このレースには、前年のメトロポリタンH・ブルックリンHを勝っていたシラノ、そしてマリブS・ゴールデンゲートH・イングルウッドH・サンディエゴH・パロスヴェルデスHを勝っていたネイティヴダイヴァーという強敵も出走していた。しかし本馬がシラノを4馬身差の2着に破って圧勝し、ステークス競走3連勝とした(陣営に酷使され続けていたネイティヴダイヴァーは6着だった)。
勢いに乗る本馬は西海岸最大の競走サンタアニタH(D10F)に参戦。しかし過去に最高で124ポンドしか背負ったことが無かった本馬に130ポンドの斤量は厳しかったのか、カリフォルニアダービー・デルマーH・サンマルコスH・アーケイディアHの勝ち馬ミスターコンシステンシーの9馬身差7着に終わり、3着に入ったシラノにも先着されてしまった。ここで西海岸における出走はひとまず終了となり、本馬は東海岸に帰ってきた。
しかし休む間もなく、サンタアニタHの2週間後にはジョンBキャンベルH(D8.5F)に出走。ここでは、ワシントンDC国際S・ユナイテッドネーションズH2回・レキシントンH・トレントンH・ワイドナーHを勝っていた前年の米最優秀芝馬モンゴとの対決となった。レースは同じ126ポンドを背負っていた本馬とモンゴの一騎打ちとなり、本馬は鼻差の2着に敗れた。
次走のガルフストリームパークH(D10F)では、ホーソーン金杯の勝ち馬アドミラルヴィック、ピムリコフューチュリティの勝ち馬ガーウォルなどが立ち向かってきたが、本馬にとって得意な不良馬場となった事もあり、2位入線のアドミラルヴィックに5馬身3/4差をつけて圧勝した(アドミラルヴィックは3位入線のガーウォルの進路を妨害したため2頭の着順は入れ代わっている)。
翌4月にはグレイラグH(D9F)に出走して、再びモンゴと対戦。しかし前走ガルフストリームパークHより4ポンド重い128ポンドを課せられた本馬は、2着モンゴから4馬身差の5着に敗退。モンゴに4馬身差をつけて勝ったのは両頭より14ポンド軽い斤量を活かしたサイダムという馬だった。
翌5月に出走したカーターH(D7F)からは、しばらく主戦を務めてきたシューメーカー騎手からエリック・ゲリン騎手に鞍上が交代となった。このレースには、前年のケンタッキーダービー・ベルモントS・ブルーグラスS・ジェロームHを勝ちプリークネスSで2着していたシャトーゲイという強敵が出走していた。しかし勝ったのは133ポンドを背負っていた当時の短距離王アホイで、125ポンドの本馬は2馬身半差の3着、同じく125ポンドのシャトーゲイは8着に終わった。
競走生活(4歳後半):ケルソとの対決
その後は一間隔を空けて、7月のモンマスH(D10F)に出走した。このレースにはモンゴも出走していたが、本馬とは初顔合わせとなる超強敵の姿があった。その馬とは、ジョッキークラブ金杯4回・ウッドワードS3回・メトロポリタンH・サバーバンH2回・ブルックリンH・ジェロームH・ホイットニーH2回・ディスカヴァリーH・ローレンスリアライゼーションS・ホーソーン金杯・セミノールH・ガルフストリームパークH・ジョンBキャンベルH・ナッソーカウンティHなどに勝ち、前年まで4年連続で米年度代表馬に選ばれていたケルソだった。今回はモンゴが勝利を収め、ケルソが鼻差の2着、このレースから主戦を務めるウォルター・ブラム騎手とコンビを組んだ本馬は4馬身3/4差の3着と、他2頭の勝負に割って入ることは出来なかった。
翌週のブルックリンH(D10F)にもケルソが出走してきた。斤量はケルソが前走と同じ130ポンドで、本馬は前走より3ポンド軽い122ポンドだった。しかし今回は斤量差が逆でも良かったのではと思えるほどの快走を本馬が披露。2着となったメトロポリタンH・マリブS・サンアントニオH・サンフアンカピストラーノ招待H・サンパスカルH2回の勝ち馬オールデンタイムズに12馬身差もの大差をつけて、1分59秒6のコースレコードを計時して圧勝。スターティングゲートに頭をぶつけてよろめきながら走ったケルソは5着に終わったが、アクシデントが無くても本馬が勝っただろうと思えるほどの内容だった。
それから2週間後に出走したホイットニーS(D9F)にはケルソは不参戦だったが、モンゴが出走してきた。他にもサプリングSの勝ち馬デルタジャッジなど2頭が参戦していたが、いずれも130ポンドを課された本馬とモンゴの一騎打ちムードだった。本馬は125ポンドを越える斤量で勝った事が無く、この130ポンドは懸念材料だった。しかし全盛期を迎えていた本馬には130ポンドなど問題なかったようである。モンゴを10馬身差の2着に葬り去って圧勝。
ケルソとモンゴを連破した事により、本馬は両頭と並ぶ米国古馬戦線のトップホースとしての地位を確立した。
この2週間後にはアーリントンパーク競馬場に向かい、ワシントンH(D9F)に出走した。前走の内容のため当然本馬の斤量はさらに増やされて132ポンドとなり、他馬よりも斤量のほうが余程強敵だった。しかし本馬にとって得意な不良馬場となった事もあり、21ポンドのハンデを与えた2着レモンツイストに2馬身差をつけて勝利した。レモンツイストは前年のオハイオダービーで本馬に20馬身差をつけて勝利した馬なのだが、2頭の実力差は前年から完全に逆転していたのだった。
そしてニューヨーク州に帰ってきた本馬はアケダクトS(D9F)に出走。このレースにはケルソも出走しており、2頭の斤量は同じ128ポンドとなった。今回はケルソが意地を見せて勝利を収め、本馬は3/4馬身差の2着に敗れたが、同斤量のケルソと互角に近い勝負ができるほどの実力を示すことは出来た。
そして次走のウッドワードS(D10F)で、同競走を前年まで3連覇していたケルソと4度目の対戦。ケルソだけでなく、この年のベルモントSでノーザンダンサーの米国三冠を阻んだピムリコフューチュリティ・ウッドメモリアルS・ドワイヤーH・トラヴァーズSの勝ち馬クアドラングルも参戦してきて、ダート路線における米国最強馬を決める戦いとなった。レースは息を飲むような素晴らしい名勝負となった。逃げる本馬に直線入り口でケルソが並びかけたが、ここから本馬が素晴らしい粘りを披露。いったんは完全に前に出たケルソを差し返し、2頭が殆ど同時にゴールインした。これは同着でも良いではないかと言われるほどの2頭の大激戦は、本馬が鼻差で勝利を収めていた。このときの判定に使用された写真を筆者は見たが、確かに同着にしか見えず、着差はおそらく1~2cm程度だと思われる。ケルソの同競走4連覇を阻んだこのレースは、おそらく本馬のベストレースであり、現在でも語り草になっている。
さて、普通に当時の米国ダートの王道路線を進むのであれば次走はジョッキークラブ金杯となるのだが、距離16ハロンのこのレースはケルソが前年まで4連覇していた。この年もケルソはジョッキークラブ金杯に出走する事になっており、さすがにこの距離でケルソと戦うのは厳しいと陣営は判断したようである。
そこで暮れのワシントンDC国際Sを目標とすることになり、その叩き台として初の芝競走となるマンノウォーS(T13F)に出走する事になった。結果は欧州から移籍してきたターボジェットの3/4馬身差2着だったが、初芝でこの結果なら合格点であり、そのまま目標のワシントンDC国際S(T12F)に向かうことになった。このレースには、同競走3年連続2着中だったケルソがジョッキークラブ金杯5連覇を果たして参戦してきた他、ソ連最強馬アニリン、日本から遠征してきた天皇賞秋・有馬記念の勝ち馬リユウフオーレルなどの姿もあった。ケルソが単勝オッズ2.2倍の1番人気、本馬が単勝オッズ2.5倍の2番人気、アニリンは単勝オッズ16倍の3番人気であり、完全に本馬とケルソの一騎打ちムードだった。レースは本馬が快調に先頭を飛ばし、ケルソが少し後方を追走してくる展開。しかし最後の直線でケルソに並びかけられると今回は最後まで抵抗を続けることが出来ず、4馬身半差をつけられた2着に敗退。4度目の挑戦で悲願を達成したケルソ陣営の執念に屈する形となった。
4歳時の成績は16戦8勝で、米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬騙馬のタイトルはいずれもケルソに持っていかれてしまった。しかしデイリーレーシングフォーム社による古馬フリーハンデでは、トムフール、ネイティヴダンサー、ケルソと並んで当時史上最高となる136ポンドの評価を受けた。
競走生活(5歳時)
5歳時は再び西海岸に飛び、2月のサンアントニオH(D9F)から始動した。本馬には前年勝利時より5ポンド重い129ポンドが課せられた上に、プリークネスS・アーリントンワシントンフューチュリティ・フロリダダービー・サンタアニタダービー・ジャージーダービー・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・サンパスカルHを勝っていたキャンディスポッツ、後にサンフアンカピストラーノ招待Hと加国際CSSをいずれも2連覇するジョージロイヤルといった強豪馬達が相手となった。しかし本馬がキャンディスポッツを3/4馬身差の2着に、ジョージロイヤルを3着に抑えて勝ち、1935年に創設された同競走史上初の2連覇を達成した(本馬以降に2連覇したのはジェントルメンとゲームオンデュードの2頭のみ)。
そして前年大敗の雪辱を期してサンタアニタH(D10F)に参戦した。斤量は前年より1ポンド増えて131ポンドとなっていたが、今の本馬の実力なら克服可能と思われた。しかし勝ったのは、前年のケンタッキーダービーでノーザンダンサーと死闘を演じた事で知られるサンフェリペS・サンタアニタダービー・サンフェルナンドSの勝ち馬ヒルライズ。本馬はヒルライズから7馬身半差の4着に終わり、前走で破ったキャンディスポッツやジョージロイヤルにも先着されてしまった。
その後はフロリダ州に飛び、ドンH(D9F)に出走。サラナクH・パームビーチSの勝ち馬ルーテナントスティーヴンズなどの姿があったが、斤量127ポンドでこの程度の相手なら問題は無く、2着テンパーに3馬身差をつけて快勝した。引き続きガルフストリームパークH(D10F)に出走。斤量は前年勝利時より6ポンド重い130ポンドまで増えており、結果はアンポーズの1馬身半差3着だった。
その後は一間隔を空けて、5月にアケダクト競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走。ここでは、ハリウッドジュヴェナイルCSS・ジムダンディSの勝ち馬マリシアスの頭差2着に敗れたが、目標レースはこれではなく、この1週間後のメトロポリタンH(D8F)だったから別に問題は無かった。まだこの年は戦線に復帰していなかったケルソの姿は無かったが、その代わりに1頭の強豪牝馬が立ち向かってきた。この年のメトロポリタンHが施行されたアケダクト競馬場を得意とした事から、アケダクト競馬場があるクイーンズ地区にちなんで“The Queen of Queens”と呼ばれたソロリティS・スピナウェイS・ヴォスバーグS・ラスフローレスH・ディスタフH・トボガンH・トップフライトHなどの勝ち馬アフェクショネイトリーだった。アフェクショネイトリーの主戦もブラム騎手だったのだが、彼は本馬を選択。斤量は本馬が130ポンドで、アフェクショネイトリーは121ポンドと設定され、性差を考慮してもやや本馬にとって厳しい斤量だった。このレースで本馬に迫ったのはアフェクショネイトリーではなく、カウディンSの勝ち馬チーフテンだった。しかし本馬がチーフテンを首差の2着に、アフェクショネイトリーをさらに3馬身差の3着に破って勝利を収めた。
次走は翌6月のマサチューセッツH(D10F)となった。ここでは131ポンドが課せられてしまい、前年の同競走も勝っていたマンハッタンH・ギャラントフォックスHの勝ち馬スマートの鼻差2着に惜敗した。
次走のサバーバンH(D10F)にもスマートが出走してきたが、既に戦線に復帰していたケルソの姿は無く、前走のブルックリンHでケルソを破ってきたピアスターが代わりに立ち向かってきた。好敵手ケルソの敵を取りたいところだったが、130ポンド前後の斤量を背負って走り続けてきた本馬の脚にはそろそろ限界が来ていたようである。131ポンドを背負って出走した本馬はレース中に故障を起こし、勝ったピアスターから大差をつけられた5着に敗退。生命には大事なかったが、このレースを最後に5歳時8戦3勝の成績で競走馬引退となった。
この年のデイリーレーシングフォーム社による古馬フリーハンデでは、米年度代表馬に選ばれたローマンブラザー、6年連続米年度代表馬を逃したケルソと同値の評価を受けた。
筆者が個人的に米国競馬史上最強馬だと思っているケルソは同時代の強豪馬達を次々に薙ぎ倒した。ケルソを複数回破って勝利した有力馬としては、モンゴ、キャリーバック、ボーパープルなどがいるが、先着したと言ってもケルソからハンデを貰ってのものであり、同条件でケルソを完全に打ち負かしたとは言えない。全盛期のケルソと同条件で互角に渡り合ったと言える馬は本馬のみであり、ケルソの最大の好敵手は本馬を置いて他にいない。史上最強馬の最大の好敵手なのだから、その実力が如何ほどのものだったのかは推して知るべしである。ケルソからは32年遅れだったが、1999年に米国競馬の殿堂入りを果たしたのは至極当然かもしれない。
血統
Gun Shot | Hyperion | Gainsborough | Bayardo | Bay Ronald |
Galicia | ||||
Rosedrop | St. Frusquin | |||
Rosaline | ||||
Selene | Chaucer | St. Simon | ||
Canterbury Pilgrim | ||||
Serenissima | Minoru | |||
Gondolette | ||||
Silence | Bosworth | Son-in-Law | Dark Ronald | |
Mother in Law | ||||
Serenissima | Minoru | |||
Gondolette | ||||
Surbine | Bachelor's Double | Tredennis | ||
Lady Bawn | ||||
Datine | Roi Herode | |||
Cyrilla | ||||
Ribbons and Bows | War Admiral | Man o'War | Fair Play | Hastings |
Fairy Gold | ||||
Mahubah | Rock Sand | |||
Merry Token | ||||
Brushup | Sweep | Ben Brush | ||
Pink Domino | ||||
Annette K. | Harry of Hereford | |||
Bathing Girl | ||||
Evening Thrill | Bull Lea | Bull Dog | Teddy | |
Plucky Liege | ||||
Rose Leaves | Ballot | |||
Colonial | ||||
Decolte | St. Germans | Swynford | ||
Hamoaze | ||||
Humming Bird | Stefan the Great | |||
Humanity |
父ガンショットはハイペリオン産駒だが、誕生したのは米国であり、日本で言うところの持ち込み馬だった。競走馬としては13戦2勝、シカゴアンSで2着、バハマズHで3着した程度に終わった。ケルソの父ユアホストの父アリバイが不出走馬ながらハイペリオン産駒という事で種牡馬入りしたように、当時の米国(米国に限らないが)ではハイペリオンの血は重視されており、ガンショットもこの程度の競走成績でも種牡馬入りできた。本馬以外にはそれほど活躍馬を出していないが、本馬1頭出しただけでもその功績は大きいと言うべきだろう。
母リボンズアンドボウズは本馬と同じくアーデン女史の生産馬だが、教祖場としては3戦未勝利だった。リボンズアンドボウズの母イヴニングスリルの半姉ケリーブルーの子孫にアワッド【アーリントンミリオンS(米GⅠ)・セクレタリアトS(米GⅠ)・マンハッタンH(米GⅠ)・ソードダンサー招待H(米GⅠ)】がいるが、近親の活躍馬は少ない。→牝系:F1号族⑥
母父ウォーアドミラルは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ジョン・R・ゲインズ氏が所有するケンタッキー州の牧場で種牡馬入りした。ゲインズ氏は本馬が4歳時の9月に本馬の生産者アーデン女史達に声を掛けてグループを結成し、本馬の所有権の60%を購入していたのである。仏国で走った牝駒ピストルパッカーがサンタラリ賞・仏オークス・ヴェルメイユ賞を勝ち、凱旋門賞でミルリーフの2着に入る活躍を見せたが、ピストルパッカーが例外と言うべきで産駒成績は不振だった。そのために14歳時の1974年に日本に輸出された。しかし日本でもあまり種牡馬として活躍することは出来ず、1979年12月に19歳で他界した。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1968 |
Pistol Packer |
サンタラリ賞(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)・アルクール賞(仏GⅡ)・クロエ賞(仏GⅢ)・ノネット賞(仏GⅢ) |
1972 |
Dancing Gun |
ホイットニーH(米GⅡ) |
1976 |
ガンチュウ |
四才優駿(高崎)・北関東優駿(高崎)・端午特別(高崎) |
1976 |
ハンキヒカリ |
織姫賞(足利) |