ダーレーアラビアン

和名:ダーレーアラビアン

英名:Darley Arabian

1700年生

鹿毛

父:?

母:?

母父:?

シリアから英国に渡り、最終的には現代サラブレッドの90%以上を自身の直系で覆いつくしたサラブレッド三大始祖の1頭

競走成績:競走馬としては不出走

英国に渡るまで

ゴドルフィンアラビアンバイアリータークと並ぶサラブレッド三大始祖の1頭。西暦1700年の3月下旬から4月上旬頃にシリアで誕生したとされる。英国血統書(ジェネラルスタッドブック)では、本馬はおそらくトルコ馬かシリア馬だったとされているが、その道の権威であるセオドア・クック氏は、おそらく純粋なアラブ馬だっただろうと推察している。

1702年に、シリアのアレッポ地方にある砂漠で、英国人のトマス・ダーレー氏という人物により購入されたと伝えられる。トマス・ダーレー氏は当時の英国女王アンによりシリアを統治するために派遣された領事であり、レヴァント社(東インド会社の設立に大きく関わった英国の貿易会社)の一員として貿易にも携わっていた。彼は自分の父親リチャード・ダーレー氏への贈り物にするつもりで、遊牧民のシェイク・ミルザ氏という人物から、本馬を300ソヴリン、又はフリントロックライフル(火打石銃)1丁と引き換えに購入した。しかし代金を支払ったにも関わらず、ミルザ氏から本馬の引き渡しがなかったため、ミルザ氏が契約違反をしたと考えたダーレー氏は部下の船員に命じて、ミルザ氏の牧場にいた本馬を力づくで奪い取ったとされる。この件について、ミルザ氏はアン女王に手紙を書き、「英国の船員が意地汚く私の馬を盗んでいった」と訴えた。しかし、歴史的にはトマス・ダーレー氏が合法的に本馬を取得した事が証明されている(と、英国の資料には書いてあるのだが、英国人の所業を英国の人が悪く書くことはあまり無いだろうから、この記載はあまり信用できない)。

体高は15ハンドほどで、洗練された美しい馬だったと伝えられる。トマス・ダーレー氏は本馬に関して「整った容姿と非常に優雅な身のこなしは、私をすぐに夢中にさせました」と語ったという。トマス・ダーレー氏は弟リチャード・ダーレー氏に対して1703年12月21日付けで手紙を送っており、この中にも本馬に関する記述がある。「この馬の名前は“Mannicka(マンニカ)”といいます。1年半ほど前に、父への贈り物にするつもりで買いました。彼は4歳くらいであり、おそらく(1700年の)3月下旬から4月上旬頃に産まれたのだと思います。毛色は鹿毛で、左前脚と両後脚に白い部分があります。顔にはかなり大きな流星があります。体高は15ハンドほどです。両親は共に競走で活躍した馬で、“Muniqui(ムニクイ)”という系統に属しています。」この手紙にあるように、本馬の当初の名前は“Mannicka(マンニカ)”(資料によっては、“Manak(マナク)”、“Manica(マニカ)”又は“Ras el Fedowi(ラセルフェドウィ)”という名前だったりする。“Ras el Fedowi”とは「頭部が頑丈な生き物」の意味)であり、ダーレー家の所有となった後に、“Darley Arabian(ダーレー家が所有するアラブ馬)”と呼ばれるようになった。これだけでは固有名詞にならないため、定冠詞をつけて“The Darley Arabian”と書かれることも多い。

英国到着後の生活

英国と仏国が争ったスペイン継承戦争の戦火を縫って(トマス・ダーレー氏は前出の手紙の中で、この戦争に本馬が巻き込まれることが、自分が現在抱いている唯一の恐怖であると述べている)、1704年に英国に到着した本馬は、リチャード・ダーレー氏の自宅があった英国ヨークシャー州のアルドビーホール(アルドビーパーク)において繋養された。なお、本馬を購入したトマス・ダーレー氏は、自分の結婚式のために英国に戻る途中で食中毒か何かで既に死去していた。リチャード・ダーレー氏が1706年に死去すると、彼の長男でトマス・ダーレー氏の兄であるヘンリー・ダーレー氏の所有馬となった。1720年にヘンリー・ダーレー氏も死去すると、今度は彼の妹ジェーン・ダーレー女史の所有馬となった。後にダーレー女史がジョン・ブリュースター氏という人物と結婚すると、ブリュースター氏の所有となっている。

本馬は競走馬としては用いられず、主に乗馬として使役されたが、たまに種牡馬としても供用された。当時の英国産の繁殖牝馬は持久力に難があり、長距離競走で活躍できる馬を作り出すために、本馬のようなアラブ馬との交配がしばしば行われていたという。本馬の種牡馬としての活動期間は、主にヘンリー・ダーレー氏が所有者だった1706年から1719年までの間だが、交配された繁殖牝馬はごく少数であり、輩出した産駒も生涯で数十頭程度と極めて少ない。交配相手は主にダーレー家所有の繁殖牝馬だったが、ごく稀に外部の繁殖牝馬(例えばレオナルド・チルダース大佐が所有していたベティリーデズという名前の牝馬)とも交配している。

フライングチルダースとバトレットチルダースの出現

ダーレー家が所有していた繁殖牝馬にはそれほど優秀な馬がおらず、本馬との間にアルマンゾールという馬を産むことになるアルマンゾールズダムという牝馬のみが優れた血統の持ち主だったという。こうした状況下の中で、本馬はベティリーデズとの間にフライングチルダース(生年は1714年又は1715年とされる)を輩出した。フライングチルダースは、その時点までに世界史上に登場した全ての馬の中で最速だったと讃えられており、サラブレッド史上初めての名馬とされる(詳細は当馬の項を参照)。種牡馬としても1730・36年の英首位種牡馬になるなど成功した。フライングチルダースの直系はサラブレッドとしては滅んだが、現存する全てのスタンダードブレッドの直系先祖となっている。

1716年にはフライングチルダースの全弟に当たるバトレットチルダースが誕生した。バトレットチルダースは鼻出血の持病があり、競走馬としては不出走に終わった。そのためにバトレットチルダースはしばしば“Bleeding Childers(出血するチルダース)”と呼ばれていたという。しかしバトレットチルダースは種牡馬としては兄に引けをとらない活躍を示し、1742年の英首位種牡馬に輝いた。そしてバトレットチルダースの直系曾孫からは、エクリプスが出現。このエクリプスの大活躍により、後世のサラブレッドは本馬の血ですっかり覆われてしまったのである。

フライングチルダースとバトレットチルダース以外の産駒には、レディーズプレートに勝ったアレッポ(牝馬ロクサーナとの交配を巡ってゴドルフィンアラビアンと争ったホブゴブリンの父)、30ポンドプレートに勝ち、レディーズプレートやロイヤル金杯で2着したブルーロック、キングズプレート2着のワントンウィリー、レディーズプレート3着(勝ち馬はアレッポ)のブリスク、マッチレース5勝のスモックフェイス、キューピッド、ダーツ、ダイダロス、アルマンゾール、ガンダー、マニカ、スキップジャック、ホイッスルジャケット、ホワイトレッグスなどがいる。1722年にはフライングチルダースなどの活躍により、本馬は英首位種牡馬になっている。

本馬は1730年にアルドビーホールにおいて30歳で他界したとされる。本馬はサラブレッド三大始祖の中で素性が最もはっきりしているとされるが、実際には不明な点も多く、今まで書いてきた内容についても異説があったりして、真実かどうかが今ひとつ不明瞭となっている。確実に言えるのは、本馬の直系子孫は大きく繁栄し、現在のサラブレッドの実に95%が本馬の直系になっているということである。そのため、本馬はサラブレッド史上最も重要な種牡馬であると評されることもある。

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