バイムレック
和名:バイムレック |
英名:Bimelech |
1937年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ブラックトニー |
母:ラトロワンヌ |
母父:テディ |
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2歳時6戦全勝の成績を残し、3歳時もプリークネスSとベルモントSを勝利した大繁殖牝馬ラトロワンヌの直子における最高傑作 |
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競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績15戦11勝2着2回3着1回 |
誕生からデビュー前まで
本馬の母ラトロワンヌを仏国の名馬産家マルセル・ブサック氏から購入した米国の事業家兼馬産家エドワード・ライリー・ブラッドリー大佐により、彼が所有するケンタッキー州アイドルアワーストックファームにおいて生産・所有され、ウィリアム・ハーレー調教師に預けられた。本馬が産まれる前には、既に本馬の全姉ブラックヘレンが牡馬顔負けの活躍を見せており、本馬に対する期待も大きかった。そして本馬はその期待に違わぬ活躍を見せる。
競走生活(2歳時)
2歳6月にサフォークダウンズ競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦で、主戦となるフレッド・A・スミス騎手を鞍上にデビューした。そして馬なりのまま走り、後にグランドユニオンホテルS・メイフラワーSで2着するスマートベットを3馬身差の2着に破って初勝利を挙げた。翌月に出走したエンパイアシティ競馬場ダート5.5ハロンの一般競走では重馬場となったが、6馬身差で逃げ切り圧勝。翌8月のサラトガスペシャルS(D6F)も、ブライアーシャープ(とにかく頑健に走り、最終的に187戦36勝の成績を残している)を3馬身差の2着に、アーリントンフューチュリティを勝っていた後のシャンペンSの勝ち馬アンディケイを3着に破って、危なげなく勝利した。
9月のホープフルS(D6.5F)では、スタートで他馬と接触して出遅れてしまった上に、直線でも進路を失う場面があった。しかしゴール前で闘争心を発揮して差し切り、アンディケイを首差の2着に、サンフォードSの勝ち馬ボーイアングラーを3着に破って勝利した。さらに10月のベルモントフューチュリティS(D6.5F)では、シャンペンSで2着してきたカロリーを1馬身半差の2着に抑えて勝利。2歳最後のレースとなった11月のピムリコフューチュリティ(D8.5F)では、2着ラフパスに4馬身差で圧勝。
2歳時は6戦全勝の成績で、文句無く米最優秀2歳牡馬に選出され、2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)でも130ポンドという非常に高い評価を受けた。この2歳終了時点で本馬のケンタッキーダービーの前売りオッズは、史上最も低い単勝4倍に設定されていた。ブラッドリー大佐は本馬を調教において、1歳年上の米年度代表馬シャルドンや、さらに年上のサンタアニタHの勝ち馬カヤックといった他厩舎の有力馬に挑ませたが、歴史に名を刻むこれらの馬達をもってしても本馬には敵わなかったというから、調教であるとは言ってもたいしたものである。
競走生活(3歳時)
3歳時は4月のブルーグラスS(D9F)から始動し、2着となったラファイエットS・ハイドパークS・バッシュフォードマナーSの勝ち馬ローマン(後に父サーギャラハッドの後継種牡馬となる)を2馬身半差の2着に下して勝利した。このレース後に、一昨年のケンタッキーダービーをロウリンで勝っていたベン・A・ジョーンズ調教師(この年からカルメットファームの専属調教師として雇われていた)は、アイドルアワーストックファームの総支配人オーリン・ジェントリー氏に対して「あなたの馬はまだ太いです。しかしケンタッキーダービーに直行すれば勝つでしょう」と助言した。ジェントリー氏はそう言われた事をハーレー師に伝えたが、ハーレー師は「バイムレックは鉄の馬だ」として同意せず、ブルーグラスSから5日後、ケンタッキーダービー4日前にダービートライアルS(D8F)に出走させた。ここでもサンヴィンセントSを勝ってきたギャラハーディオンを2馬身1/4差の2着に、ウォルデンSの勝ち馬シロッコを3着に破って快勝した。
そして8戦全勝で迎えたケンタッキーダービー(D10F)では、単勝オッズ1.4倍という同競走史上最高級の支持を得た。単勝オッズ7倍の2番人気には、前月のサンフアンカピストラーノ招待Hで古馬を破って勝っていた、チャールズ・スチュワート・ハワード氏(シービスケットの所有者として有名)が所有するミオランドが支持された。他の出走馬は、ウッドメモリアルSの勝ち馬でブリーダーズフューチュリティ2着のディト、チェサピークSの勝ち馬でベイショアH2着のピクター、ローマン、ギャラハーディオン、シロッコ、チェサピークS2着馬ロイヤルマンの6頭で、合計8頭立てというケンタッキーダービーとしてはかなりの少頭数となった(この年以降にこれより少頭数となったのは、サイテーションが勝った1948年の6頭立ての1回きり)。
レースが始まると、好スタートを切った本馬は、道中は少し下げて好位を追走した。しかし馬群の外側を回らせられた影響でスタミナを消耗し、前走ダービートライアルSで負かした単勝オッズ36.2倍の伏兵ギャラハーディオンに直線で差されて1馬身半差2着に敗れてしまった。本馬の敗北は、1953年にネイティヴダンサーがダークスターに敗れるまで、ケンタッキーダービー史上最大の番狂わせと言われた。騎乗したスミス騎手は、スタミナを浪費させるような騎乗をした自分の失敗であると述べた。ブラッドリー大佐は自身の所有馬でケンタッキーダービーを4勝したが、皮肉にも最高傑作であるブルーラークスパー(1929年のケンタッキーダービーで4着)と本馬の2頭で勝つ事は出来なかった。
しかし単勝オッズ1.9倍で再度の1番人気に支持された次週のプリークネスS(D9.5F)では、スタート直後の激しい先陣争いを制して先頭に立つと、直線半ばで勝負を決定付けてしまい、最後は馬なりのまま走り、ケンタッキーダービーで本馬から1馬身差の4着だったミオランドを3馬身差の2着に破って完勝。ミオランドから1馬身差の3着だったギャラハーディオンにも雪辱を果たした。
さらに翌週にはウィザーズS(D8F)に出走したが、ここではサンフォードS3着馬コリュドンの1馬身半差2着に敗れてしまった(ケンタッキーダービーで6着だったローマンが3着だった)。このときは準備不足で完調ではなかったらしく、ウィザーズS後にハーレー師は厳しい調教を本馬に課したと記録にあるのだが、ブルーグラスSからウィザーズSまで24日間で5戦という過密日程で準備不足と言われても納得しがたいものがある。
それから3週間後のベルモントS(D12F)では1番人気に支持されたが、単勝オッズは2.35倍と少し上昇していた。しかしレースでは先行して押し切り、2着ユアチョイスを3/4馬身抑えて勝利した(3着はアンディケイだった)。
しかし次走のアーリントンクラシックS(D10F)では、勝ったシロッコから10馬身も離された3着に敗れてしまい、2着ギャラハーディオンにも再度先着を許した。
その後はトラヴァーズSが予定されていたが、脚部不安を発症して長期休養に入ったため、3歳シーズン後半は全休となった。それでも3歳時7戦4勝の成績で、米最優秀3歳牡馬のタイトルを手にした。三冠競走で本馬に敵わなかったミオランドが後にアメリカンダービー・サンパスカルH・サンアントニオH・サンフアンカピストラーノ招待(2回目)・アメリカンHなどを勝った事や、ローマンがジェロームHを勝った事などにより、本馬の世代のレベルがある程度立証されている。
競走生活(4歳時)
4歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート9ハロンの一般競走で復帰した。このレースには、ローレンスリアライゼーションS・エッジメアH2回・ケナーS・ナラガンセットスペシャルを勝っていた1歳年上のハッシュという実力馬も参戦していたが、本馬が2着ハッシュに1馬身差で勝利した。しかし次走のワイドナーH(D10F)では、後にこの年のハリウッド金杯を勝つビッグペブルの2馬身半差4着に敗れてしまい、4歳時はこの2戦のみで現役を引退した。
この年から導入されたスターティングゲートを本馬が激しく嫌がったため、ゲート内で暴れて怪我をする事を恐れたブラッドリー大佐が引退を決断したのだという。
馬名は、ブラッドリー大佐の友人ジョン・ハリス氏の渾名であった“Abimelech(アビメレク。旧約聖書に登場するペリシテ人の王の名前で、ヘブライ語で「我が父は王である」という意味)”から先頭のAを削ったものである。ブラッドリー大佐は自分の名前がBで始まるためか、所有馬にもBで始まる名前を付ける事が殆どだった。ラトロワンヌの産駒も全てBから始まる名前が付けられている。
血統
Black Toney | Peter Pan | Commando | Domino | Himyar |
Mannie Gray | ||||
Emma C. | Darebin | |||
Guenn | ||||
Cinderella | Hermit | Newminster | ||
Seclusion | ||||
Mazurka | See Saw | |||
Mabille | ||||
Belgravia | Ben Brush | Bramble | Bonnie Scotland | |
Ivy Leaf | ||||
Roseville | Reform | |||
Albia | ||||
Bonnie Gal | Galopin | Vedette | ||
Flying Duchess | ||||
Bonnie Doon | Rapid Rhone | |||
Queen Mary | ||||
La Troienne | Teddy | Ajax | Flying Fox | Orme |
Vampire | ||||
Amie | Clamart | |||
Alice | ||||
Rondeau | Bay Ronald | Hampton | ||
Black Duchess | ||||
Doremi | Bend Or | |||
Lady Emily | ||||
Helene de Troie | Helicon | Cyllene | Bona Vista | |
Arcadia | ||||
Vain Duchess | Isinglass | |||
Sweet Duchess | ||||
Lady of Pedigree | St. Denis | St. Simon | ||
Brooch | ||||
Doxa | Melton | |||
Paradoxical |
父ブラックトニーは当馬の項を参照。
母ラトロワンヌは当馬の項を参照。20世紀米国史上最大級の影響力を有する大繁殖牝馬であり、本馬は母の直子における最高傑作である。→牝系:F1号族②
母父テディは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のアイドルアワーストックファームで種牡馬入りした。しかし1946年に所有者のブラッドリー大佐が死去したため、本馬はグリーンツリースタッドを中心としてキングランチ牧場とオグデン・フィップス氏が参加して結成されたシンジケートに購入され、グリーンツリースタッドで種牡馬供用されることになった。なお、ブラッドリー大佐死去後のアイドルアワーストックファームは、ジョン・ガルブレイス氏により購買され、ダービーダンファームと改称された。本馬の種牡馬成績は、ステークスウイナーが30頭とかなり良好なものだったが、繁殖牝馬の父としては一層優秀で、50頭のステークスウイナーを出した。1966年に老衰のため29歳で他界し、遺体はグリーンツリースタッドに埋葬された。1990年に米国競馬の殿堂入りを果たした。なお、翌1991年には本馬の全姉ブラックヘレンも米国競馬の殿堂入りを果たしている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第84位。
本馬の直系は既に残っていないが、ベターセルフが母父としてドクターファーガーとタウィーの快速兄妹を出し、本馬を母父に持つケンタッキーオークス馬ラランが母としてネヴァーベンドを出しており、本馬の血を後世に伝えている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1942 |
Be Faithful |
ヴァニティH・ホーソーン金杯 |
1942 |
Burning Dream |
アメリカンH |
1942 |
Bymeabond |
サンタアニタダービー |
1942 |
Sir Bim |
サンフェリペS |
1944 |
Bimlette |
フリゼットS |
1944 |
Blue Border |
ホープフルS・パームビーチS |
1945 |
Better Self |
サラトガスペシャルS・ウエストチェスターH・ディスカヴァリーH・カーターH・ギャラントフォックスH |
1947 |
Guillotine |
ベルモントフューチュリティS・カーターH |
1948 |
Oats |
ラホヤH |
1950 |
Bassanio |
モンマスH |
1950 |
Bradley |
サンフォードS |
1952 |
Jabneh |
ハイアリアターフCH |
1953 |
Register |
スピナウェイS |
1957 |
Progressing |
ピムリコフューチュリティ |