タウィー

和名:タウィー

英名:Ta Wee

1966年生

黒鹿

父:インテンショナリー

母:アスピディストラ

母父:ベターセルフ

兄ドクターファーガー譲りの快速と兄を上回るほどの斤量耐性を有し兄と同じく2年連続米最優秀短距離馬に輝いた美しき牝馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績21戦15勝2着2回3着1回

誕生からデビュー前まで

世界的化学・電気素材メーカーであるミネソタ・マイニング&マニュファクチュアリング社(現在は頭文字を取ってスリーエム社に改名されている)の代表取締役であるウィリアム・L・マックナイト氏がフロリダ州オカラに所有していたタータンファームおいて生産・所有され、フリント・スコッティ・シュルホファー調教師に預けられた。

本馬が産まれた4か月後にデビューした半兄のドクターファーガーが競走馬として猛威を振るい、本馬が競走年齢に達した頃には押しも押されもしない米国最強馬として君臨していたため、本馬にも期待が掛けられており、デビュー戦からほぼ全戦で1番人気に支持された。

競走生活(2歳時)

2歳7月にサラトガ競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦で、主戦となるジョン・ロッツ騎手を鞍上にデビューした。しかしここでは勝ったクイーンズダブルから4馬身差をつけられて4着に敗れた。2週間後に同コースで出走した未勝利戦では、同世代を代表する名牝シュヴィーとの対戦となった。しかし本馬が2着ドリップスプリングに6馬身差で圧勝して初勝利を挙げ、このレース前の段階では5戦全敗とまだ芽が出ていなかったシュヴィーは本馬から12馬身差の5着に敗れた。

次走のスピナウェイS(D6F)では、クイーンズダブル、ファッションS・アストリアSの勝ち馬ショーオフ、アディロンダックSで2着してきたフィリーパサーの3頭に後れを取り、勝ったクイーンズダブルから6馬身1/4差の4着に敗退した。なお、このレースには、これが本馬と最初で最後の対戦となった同世代の名牝ギャラントブルームも出走していたが、本馬から12馬身後方の8着に敗れている。続くアケダクト競馬場ダート6ハロンの一般競走では、16日後のアスタリタSを勝つディヘラ(エリモエクセルの4代母)を2馬身差の2着に破って勝利。2歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は4戦2勝だった。

競走生活(3歳時)

3歳時は1月にハイアリアパーク競馬場で行われた分割競走ジャスミンS(D6F)で初戦を迎えた。米国顕彰馬リアルディライトの娘であるゴールデンロッドSの勝ち馬スプリングサンシャインという強敵が相手となったが、スプリングサンシャインを3馬身差の2着に退けて完勝した。しかし11日後のミモザS(D7F)では、ナッティードーナツ、前年のスピナウェイS勝利後にデモワゼルSも勝っていたクイーンズダブルの2頭に屈して、勝ったナッティードーナツから3馬身半差の3着に敗退。

その後は2か月間休養して、4月にアケダクト競馬場で行われたプライオレスS(D6F)で復帰した。ここには前年のファッションS2着馬ジュリエットが出走してきたが、本馬が2着フランシスフラワーに3馬身差をつけて、同競走創設22年目にして初めて1分10秒の壁を破る1分09秒4のレースレコードで快勝した。

5月のカムリーS(D7F)では、これがシーズン初戦となったシュヴィーと2度目の対戦となった。初勝利に7戦を要したシュヴィーも、2歳暮れにはフリゼットS・セリマSを勝つなど、同世代の牝馬ではトップクラスの実力を有することを証明していた。今回は初対戦時とは異なり、2頭の接戦となったが、本馬が2着シュヴィーを頭差抑えて勝利した。

その後は、ギャラントブルームやシュヴィーとは別に短距離路線に進んだ。5月末にモンマスパーク競馬場で出走したミスウッドフォードS(D6F)では、2着インバイブに7馬身差をつけて、1分08秒6のレースレコードを計時して圧勝。2か月後のテストS(D7F)も、2着フレンチブレッドに1馬身差で勝利した。

次走は8月末にベルモントパーク競馬場で行われた牡馬古馬混合戦フォールハイウェイトH(D6F)だった。対戦相手は、サンフォードS・カウディンS・ピムリコローレルフューチュリティなどの勝ち馬でアーリントンワシントンフューチュリティ2着・シャンペンS3着のキングエンペラーなどだった。このレースは名称のとおり厳しい斤量が課せられる(最大で140ポンド)ことで知られる名物競走であり、本馬も3歳牝馬としては異例の130ポンドを背負わされた。しかしそれでも2着キングエンペラーに3/4馬身差で勝利した。これは米国競馬史上において3歳牝馬がステークス競走に勝った時の最高負担重量記録だった。

それから17日後に出走したベルモントパーク競馬場ダート8.5ハロンの一般競走では、激走の反動なのか、それとも距離が長過ぎたのか(本馬が7ハロンを超える距離のレースに出たのはこれが唯一)、ヴァージニアオークスの勝ち馬パーシャンイントリーグから2馬身3/4差の4着に敗れた。

その後は1か月の間隔を空けて、10月のインターボローH(D6F)に出走した。本馬には124ポンドのトップハンデが課せられたが、フォールハイウェイトHで130ポンドを背負いながら牡馬古馬勢相手に勝利した本馬にとっては特に厳しい斤量では無かった。結果は本馬が、インプS・セカンドシーズンフィリーSの勝ち馬デディケイティドトゥシューを3馬身半差の2着に、ヴェイグランシーHの勝ち馬グレイスラックスを3着に破り、1分09秒6のレースレコードタイで完勝した。

それから17日後に出走したヴォスバーグH(D7F)は、過去に本馬が出走してきたどの競走よりも出走馬の層が厚かった。牡馬勢からも、サンフェリペS・パロスヴェルデスH・サンアントニオH・ロサンゼルスH・ロングビーチH・サンカルロスH・イングルウッドHを勝っていたライジングマーケットという強豪馬が出走していたのだが、やはり最大の難敵は牝馬の2頭。カムリーSで本馬の2着に敗れた後にエイコーンS・マザーグースS・CCAオークスのニューヨーク牝馬三冠競走全てとコティリオンH・アラバマSを勝っていたシュヴィー、そして、ベルデイムS2回・テストS・アラバマS・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H・ウィルシャーH2回・イングルウッドH・ヴァニティH・サンタモニカH・ダイアナHを勝っていた当時の米国最強古馬牝馬ゲイムリーだった。シュヴィー陣営は過去2度にわたる本馬との対戦でいずれも敗れた雪辱に燃えていた。また、ゲイムリーは前年のカリフォルニアンSで本馬の兄ドクターファーガーの2着に敗れており、兄に負けた雪辱を妹に対して果たそうとしたような格好になった。しかしシュヴィーもゲイムリーも短距離戦では本馬の圧倒的なスピードに付いていけなかった。レースはゴール前で本馬、ライジングマーケット、プラッキーラッキーの3頭横一線の勝負となったが、最後に頭差抜け出した本馬が優勝。前年まで同競走を2連覇していた兄ドクターファーガーに続く兄妹3年連続優勝となった。ライジングマーケットとプラッキーラッキーの2頭が2着同着で、シュヴィーは6着、8着に敗れたゲイムリーはこのレースを最後に競走馬生活に終止符を打った。

3歳時は10戦8勝の成績で、この年の米最優秀短距離馬に選出された。兄ドクターファーガーも前年まで2年連続で米最優秀短距離馬に選ばれており、兄妹で3年連続となった。

競走生活(4歳時)

4歳になっても本馬は現役を続行したが、この年は重い斤量との壮絶な戦いとなった。初戦は3月にアケダクト競馬場で行われたコレクションH(D6F)だったが、ここでいきなり131ポンドを課された。しかし前月のブラックヘレンHを勝ってきたテイクンアバック(後にこの年のスピンスターSを勝っている)を首差の2着に、前年のインターボローHで本馬の2着に敗れた後にフォールズシティHを勝っていたデディケイティドトゥシューを3着に抑えて勝利した。

翌月のディスタフH(D7F)では、前年のヴォスバーグH6着後にレディーズHを勝っていたシュヴィーと4度目にして最後の対戦となった。他にも、ポリードルモンドS・コリーンS・アディロンダックS・アーリントンワシントンラッシーS・マーメイドS・ブラックアイドスーザンSなどを勝ち、ギャラントブルームと並んで一昨年の米最優秀2歳牝馬に選ばれていたプロセスショット、デディケイティドトゥシューなどが出走してきた。斤量設定は、本馬が134ポンド、プロセスショットが126ポンド、シュヴィーが123ポンド、デディケイティドトゥシューが115ポンドだった。ここではプロセスショットが勝利を収め、本馬は1馬身3/4差の2着に敗退。シュヴィーは本馬から13馬身後方の6着最下位であり、2頭の対戦成績は本馬の4戦全勝となった。

6月に出走したヘンプステッドH(D6F)では、少しハンデが軽くなって132ポンドとなった。そして今度は2着プロセスショットに3馬身半差をつけて完勝した。それから16日後に出走したリグレットH(D6F)では135ポンドが課せられたが、2着となったスカイラヴィルSの勝ち馬ゴールデンオアに半馬身差で勝利した。7月末に出走したグレーヴセンドH(D6F)では134ポンドを背負わされ、20ポンドのハンデを与えた牡馬ディスティンクティヴの4馬身差2着に敗れた。それでも、3か月前のカーターHを勝っていた牡馬タイラント(斤量121ポンド)には先着しており、負けて恥じるような内容では無かった。

それから1か月後に出走したフォールハイウェイトH(D6F)では、前年より10ポンドも重い140ポンドという、およそ牝馬に背負わせるべきではない(牡馬にも通常は背負わせるべきではない)過酷なハンデを課された。前述したように同競走の最高負担重量は140ポンドに設定されており、過去に140ポンドを背負って勝った馬は、1929年のオズマンド(ジェロームH・トボガンH2回・カーターH2回・サラナクHなどの勝ち馬)、1935年のサティオン(スウィフトS・インターボローHなどの勝ち馬)の例などがあったが、いずれも牡馬だった。しかしレースでは凄まじい底力を見せた本馬が、19ポンドのハンデを与えた騙馬トウジータイク(後にキャピタルH・ボウイーH・ナッソーカウンティHを勝っている)を首差の2着に、ディスティンクティヴを3着に抑えて勝利。1914年に創設された同競走史上初の2連覇を達成した。

現役最後のレースは10月のインターボローH(D6F)となった。このレースは牝馬限定競走であり、140ポンドを背負って牡馬相手に勝った本馬と、他の牝馬勢との間でレースを成立させるには、本馬に尋常ならざる斤量を課す必要があった。そのため本馬に課せられた斤量は前走よりさらに重い142ポンドとなった。しかし本馬はそれでも負けなかった。スタートから先頭に立つと、四角で後続を引き離し、さすがにゴール前では後続に詰め寄られたが、29ポンドのハンデを与えたサンタスサナS・カリフォルニアオークス2着馬ヘイスティヒッター(ビハインドザマスクの曾祖母)を3/4馬身差の2着に破って勝利した。牝馬が140ポンドを超える斤量を背負って勝ったのは、1910年代米国の短距離女王パンザレタが1915年に墨国の無名競走において146ポンドを背負って勝ったとき以来だった。

4歳時の成績は7戦5勝で、2年連続の最優秀短距離馬(ドクターファーガーと兄妹で4年連続)に選ばれて競馬場を後にした。

競走馬としての特徴と評価

本馬の斤量に対する驚異的な強さは、134ポンドを背負ったワシントンパークHで芝も含めた当時の世界レコードを、139ポンドを背負ったヴォスバーグSで当時の全米レコードを樹立した兄ドクターファーガーを髣髴とさせるものだった(レースぶりもドクターファーガーと同様に逃げ先行だった)。なお、背負った斤量の最高値はドクターファーガーが139ポンドだったのに対し、本馬は142ポンドであり、牝馬である本馬の方が多い。もしかしたら本馬が異常な斤量を課せられたのはドクターファーガーの妹だからという理由もあるのかもしれない。

ただし、体格に関しては、比較的大柄だったドクターファーガーと異なり、本馬は体高15ハンド程度という小柄な馬であった。この体格であの斤量を克服したのだから並大抵の事ではなく、競馬記者のレッド・スミス氏は4歳時の本馬が米年度代表馬に選ばれなかった(フォートマーシーパーソナリティの2頭が受賞)ことに関して「タウィーに投票する」というタイトルのコラムを書いて疑問を呈している。筆者の個人的意見を書くと、本馬ではなくシュヴィーが同年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれた事のほうが疑問である。シュヴィーも牡馬相手のジョッキークラブ金杯を勝ったのだから、米最優秀ハンデ牝馬に相応しくないなどとは毛頭思わないが、142ポンドを背負って勝った本馬と、最高で123ポンドしか背負っていないシュヴィーのいずれかを米最優秀「ハンデ」牝馬に選ぶとしたら、本馬のほうが相応しい気がする。

タータンファームの競馬マネージャーだったジョン・ネルド氏によると、本馬の名前は米国先住民スー族の言葉で「美少女」という意味であるという。

血統

Intentionally Intent War Relic Man o'War Fair Play
Mahubah
Friar's Carse Friar Rock
Problem
Liz F. Bubbling Over North Star
Beaming Beauty
Weno  Whisk Broom
Rosie Ogrady
My Recipe Discovery Display Fair Play
Cicuta
Ariadne Light Brigade
Adrienne
Perlette Percentage Midway
Gossip Avenue
Escarpolette Fitz Herbert
Balancoire
Aspidistra Better Self Bimelech Black Toney Peter Pan
Belgravia
La Troienne Teddy
Helene de Troie
Bee Mac War Admiral Man o'War
Brushup
Baba Kenny Black Servant
Betty Beall
Tilly Rose Bull Brier Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Rose Eternal Eternal
Rose of Roses
Tilly Kate Draymont Wildair 
Oreen
Teak Tea Caddy
Fricassee

インテンショナリーは当馬の項を参照。

母アスピディストラは、テキサス州キングランチ牧場の生産馬である。以下はドクターファーガーの項にも書いた内容だが改めて記載すると、3歳時の1957年に、70歳を迎えたマックナイト氏の誕生日プレゼントとして、会社の従業員達により6500ドルで購入された馬だった。もっとも、競走馬としてはそれほど活躍できず、クレーミング競走に出走したが買い手がつかなかったりもしている。結局は14戦2勝の競走成績に終わり、マックナイト氏の元で繁殖入りした。しかし繁殖牝馬としては非常に優秀で、本馬の半兄チャイナタウナー(父ニードルズ)【カナディアンターフH】、同じく本馬の半兄である稀代の快速馬ドクターファーガー(父ラフンタンブル)【カウディンS・ゴーサムS・ウィザーズS・アーリントンクラシックS・ホーソーン金杯・ヴォスバーグH2回・カリフォルニアンS・サバーバンH・ホイットニーH・ワシントンパークH・ユナイテッドネーションズH】を産んだ。また、本馬の半妹マジック(父バックパサー)の牝系子孫はかなり発展しており、マジックの娘マズルカの孫にはカヴォニエ【サンタアニタダービー(米GⅠ)】が、同じくマジックの娘シャレディの孫にはアンブライドルド【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・BCクラシック(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)】とケイヒルロード【ウッドメモリアル招待S(米GⅠ)】の兄弟が、同じくマジックの娘で日本に繁殖牝馬として輸入されたマガロの子にはタヤスツヨシ【東京優駿(GⅠ)・ラジオたんぱ杯三歳S(GⅢ)】、曾孫にはロールオブザダイス【平安S(GⅢ)】がいる。また、本馬の半妹クイットミーノット(父ボールドリーズン)の曾孫にはピュリム【シャドウェルターフマイルS(米GⅠ)】がいる。→牝系:F1号族④

母父ベターセルフはドクターファーガーの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のタータンファームで繁殖入りした。1980年に14歳で他界したこともあり、産駒は5頭しかいない(6頭とする説もある。死産か何かを含めているのであろう)が、その全てが勝ち上がり、4頭がステークスウイナーとなった。6歳時に産んだ初子の牡駒グレイトアバヴ(父ミネソタマック)は、ポーモノクH(米GⅢ)・トボガンHを勝ち、グレーヴセンドH・ボールドルーラーHで2着、ジェロームH(米GⅡ)・ヴォスバーグH(米GⅡ)で3着するなど、63戦13勝2着15回3着10回の成績。8歳時に産んだ2番子の牝駒シル(父アイアンルーラー)は8戦3勝3着1回の成績。10歳時に産んだ3番子の牝駒ティーク(父セクレタリアト)は、フェアローンSを勝ち、ボイリングスプリングH・ハニービーHで2着するなど、28戦7勝2着4回3着3回の成績。11歳時に産んだ4番子の牝駒タックスホリデー(父ワットアプレジャー)は、ツリートップS・ペトリファイHを勝ち、ファーストフライトHで2着、パリサデスH・インペラトリスHで3着するなど、25戦10勝2着5回3着4回の成績。14歳時に産んだ5番子の牡駒エントロピー(父ワットアプレジャー)は、スポーティングプレートH・ポーモノクHを勝ち、ボールドルーラーH(米GⅡ)・ローズベンH(米GⅡ)・トボガンH(米GⅢ)・コールタウンSで2着、ポーモノクHで3着するなど、24戦8勝2着6回3着2回の成績だった。

後世に与えた影響

種牡馬入りしたグレイトアバヴはエクリプス賞年度代表馬ホーリーブルの父となり、本馬の快速を後世に伝える事に成功している。本馬の牝系子孫は現在も残っており、ティークの曾孫であるミスメイシースー【ウイニングカラーズS(米GⅢ)】と、その息子であるリアムズマップ【BCダートマイル(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)】、タックスホリデーの曾孫であるクラスインクルーディド【バレリーナS(加GⅢ)】などが出ている(ちなみにミスメイシースーの母父はグレイトアバヴ。フロリダ州産馬は交配の選択肢が少ないためか、強いクロスの持ち主が多い)。1994年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第80位。

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