フリゼット
和名:フリゼット |
英名:Frizette |
1905年生 |
牝 |
鹿毛 |
父:ハンブルグ |
母:オンドゥリー |
母父:セントサイモン |
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米国から仏国に渡って繁殖牝馬として成功し、トウルビヨン、ミスタープロスペクター、シアトルスルーなど数々の名馬を輩出した一大牝系の祖となる |
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競走成績:2~3歳時に米仏で走り通算成績36戦12勝2着8回3着7回 |
競走馬としてはそれほど優秀な成績は挙げられなかったが、繁殖牝馬として成功を収め、20世紀以降における世界有数の名牝系の祖となった。
誕生からデビュー前まで
本馬の父は米国土着の血統の持ち主ハンブルグ、母オンドゥリーはセントサイモン牝駒で、母系も欧州血統で固められていた。この米欧の血を融合させる配合を考えて交配を指示したのは、本馬の両親を所有していたウィリアム・コリンズ・ホイットニー氏(米国の名馬産家ホイットニー一族の祖)だったと各種資料にある。しかし、ホイットニー氏は1904年2月2日に他界しており、本馬の誕生が1905年である事から、実際にホイットニー氏が本馬の両親の交配に直接携わった可能性は極めて低い(サラブレッドの妊娠期間は11か月であり、1月に交配させるとその年のうちに産まれてしまう危険性が高いから、そのような事はしないはずである)。配合の考案者がホイットニー氏だったとしても、実際の交配は別の誰か(おそらくはホイットニー氏の後を継いだ息子ハリー・ペイン・ホイットニー氏)が指示を出したと考える方が自然であろう。
オンドゥリーは本馬を受胎した状態で10月のマディソンスクウェアガーデンセールに出品され、亡きホイットニー氏の馬産及び事業における好敵手だったジェームズ・ロバート・キーン氏により1万4千ドルで購入された。キーン氏所有のキャッスルトンスタッドに移動したオンドゥリーは、翌1905年に本馬を産んだ。キーン氏は本馬を、かつてコマンドを預けていたサー・ジェームズ・G・ロウ調教師に委ねた。
競走生活
本馬と同世代・同馬主・同厩には生涯成績15戦無敗のコリンがいた。コリンが2歳戦から無敵の快進撃を続けるのとは対照的に、本馬の競走成績は目立たなかった。2歳時にローズデイルS(D5F)・ローリエットS(D5F)・トレイクレーミングS(D5.5F)とステークス競走を3勝しているが、トレイクレーミングSは名称から分かるようにクレーミング競走であり、本馬には2千ドルの譲渡要求価格がついていた。このレースで本馬はニューヨーク市ブルックリンで弁護士をしていたJ・A・ヴェルンベルク氏によって購入された。結局2歳時の成績は9戦4勝だった。
翌3歳時はヴェルンベルク氏の所有馬として走ったが、出走したレースの大半はクレーミング競走だった。9月に本馬はシーブリーズS(D9F)に出走してザスクエアの最下位に敗れたが、このレースにおいて本馬はヒーマン・B・デュリエー氏に購入された。
デュリエー氏はニューヨーク競馬関係者だったが、当時のニューヨーク州では賭博反対運動が高まっており、近い将来に賭博禁止法が施行される事が予測されていた(実際に1910年に成立し2年間継続した。また、カリフォルニア州でも1909年に成立し1934年まで続いた。この間に米国馬産の中心地はケンタッキー州に移り、ニューヨーク州やカリフォルニア州の馬産は廃れた)ため、頭を悩ませていた。そこでデュリエー氏は米国ではなく仏国で馬産を新たに開始する事を計画し、その基礎牝馬の一頭とするべく本馬を購入したのであった。デュリエー氏の所有馬となった本馬は、他の何頭かの繁殖牝馬と共に大西洋を渡り、仏国に到着した。まだ繁殖シーズンまでには時間があったため、仏国でも何戦か走り、勝ち星も挙げている。3歳時の成績は米仏合わせて27戦8勝(各種資料に「4歳春に競走馬を引退した」とあるため、これが3・4歳時の合計成績である可能性や、4歳時の競走成績が残っていない可能性もある)だった。
血統
Hamburg | Hanover | Hindoo | Virgil | Vandal |
Hymenia | ||||
Florence | Lexington | |||
Weatherwitch | ||||
Bourbon Belle | Bonnie Scotland | Iago | ||
Queen Mary | ||||
Ella D | Vandal | |||
Falcon | ||||
Lady Reel | Fellowcraft | Australian | West Australian | |
Emilia | ||||
Aerolite | Lexington | |||
Florine | ||||
Mannie Gray | Enquirer | Leamington | ||
Lida | ||||
Lizzie G | War Dance | |||
Lecomte Mare | ||||
Ondulee | St. Simon | Galopin | Vedette | Voltigeur |
Mrs. Ridgway | ||||
Flying Duchess | The Flying Dutchman | |||
Merope | ||||
St. Angela | King Tom | Harkaway | ||
Pocahontas | ||||
Adeline | Ion | |||
Little Fairy | ||||
Ornis | Bend Or | Doncaster | Stockwell | |
Marigold | ||||
Rouge Rose | Thormanby | |||
Ellen Horne | ||||
Shotover | Hermit | Newminster | ||
Seclusion | ||||
Stray Shot | Toxophilite | |||
Vaga |
父ハンブルグは当馬の項を参照。
母オンドゥリーは英国産馬で、競走馬としては英国で走り1戦未勝利。しかし英2000ギニー・英ダービーを制した歴史的名牝ショットオーヴァーの孫で、父がセントサイモンという血統の良さをホイットニー氏に見込まれて購入され、米国で繁殖牝馬となっていた。本馬を産んだ後は亜国に売却されている。産駒には本馬の半兄マラソン(父マータゴン・ケンタッキーダービー馬ビヘイブユアセルフやプリークネスS勝ち馬ジャックヘアジュニアの父)などがいる。オンドゥリーは亜国でも活躍馬を出したらしいが詳細は分からない。→牝系:F13号族①
母父セントサイモンは当馬の項を参照。
本馬の血統表を見ると、父ハンブルグは米国の大種牡馬レキシントンの血が四本入っている典型的な米国血統、母オンドゥリーは、ハーミット産駒の名牝ショットオーヴァーに、ベンドア、セントサイモンと英国の大種牡馬が代々重ねられてきた典型的英国血統である。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、デュリエー氏が仏国ノルマンディー地方に開設した牧場で4歳時の1909年から繁殖生活を開始した。
初年度は同牧場に繋養されていたアイリッシュラッド(この馬もデュリエー氏が米国で所有しており、サラトガスペシャルS・ブルックリンH・メトロポリタンHを勝った活躍馬だった)と交配され、翌5歳時に初子となる牝駒バンシーを産んだ。バンシーは仏1000ギニーを優勝し、早速本馬の繁殖能力の高さを証明した。バンシーも競走馬引退後にデュリエー氏の元で繁殖入りしている。
6歳時は2番子の牡駒フリッツル(父ビニュウ)を産んだ。フリッツルはドンカスター賞・シモニアン賞を勝ち、競走馬引退後は米国で種牡馬入りしたが、特に活躍は出来なかった。
7歳時は産駒がおらず、8歳時に3番子の牡駒クリンパー(父メントノン)を産んだ。クリンパーは米国で走って5勝を挙げ、ジェロームHで2着している。競走馬引退後はやはり種牡馬入りしたが、特に活躍は出来なかった。
9歳時は4番子の牡駒トランビー(父アイリッシュラッド)を産んだ。トランビーは米国で走って勝ち星は挙げたが、種牡馬入りしたという記録は無い。
10歳時は5番子の牡駒メアリーモード(父アイリッシュラッド)を産んだ。メアリーモードは米国で走り、ドーヴァルジュヴェナイルS・マーサワシントンHなど11勝を挙げた。しかし種牡馬入りしたという記録は無い。
11歳時は6番子の牝駒フリジュール(父スウィーパー)を産んだ。フリジュールは米国の大馬主ジョン・E・マッデン氏の所有馬として米国で走った。競走馬としては勝ち星こそ挙げたが特に活躍はすることなく、そのまま米国で繁殖入りした。
本馬がフリジュールを産んだ1916年にデュリエー氏は死去した。デュリエー未亡人は夫の遺言により牧場は存続させたが、規模は縮小させた。
翌12歳時は英ダービー馬デュルバルとの間に7番子の牝駒レスプレデザを産んだ。レスプレデザは競走馬としては勝ち星こそ挙げたが、特に活躍はしないまま繁殖入りした。
13歳時は同じくデュルバルとの間に8番子の牝駒デュルゼッタを産んだ。
14歳時は9番子の牝駒プリンセスパラタイン(父プリンスパラタイン)を産んだ。プリンセスパラタインは不出走のまま繁殖入りした。
さて話が前後するが、デュリエー氏が死去した頃に、家業であった繊維業を継いで発展させ、仏国の富豪となっていた人物がいた。その名はマルセル・ブサック氏。彼は競馬にも興味を抱き、1914年に馬主となり、フレズネイルビュファール牧場を所有して競走馬の生産も開始した。さらに後にはエドモン・ブラン氏からジャルディ牧場を購入し、生産規模を拡大していた。本馬が14歳時の1919年、ブサック氏はデュリエー未亡人から1歳馬を複数購入した。その中には、本馬の8番子デュルゼッタと、本馬の初子である仏1000ギニー馬バンシーがやはりデュルバルとの間に産んだ牝駒デュルバンがいた。デュルゼッタは2歳時にモルニ賞とフォレ賞を勝利し、デュルバンは仏グランクリテリウムとヴェルメイユ賞を勝利と、それぞれ優秀な競走成績を収めた。2頭とも競走馬引退後はブサック氏の牧場で繁殖入りし、ブサック氏の基礎繁殖牝馬として活躍する事になる。
一方の本馬は、15歳時に10番子の牝駒オンデュレーション(父スウィーパー)を産んだ。オンデュレーションは不出走馬であるとする資料もあるのだが、実際にはノネット賞を勝つ活躍を見せたようである。このオンデュレーションが結果的には本馬の最後の勝ち上がり産駒となる。
16歳時には11番子の牡駒アンタール(父デュルバル)を産んだが、アンタールは競走馬としても種牡馬としても記録が残っていない。
17歳時には12番子の牝駒フリッツェル(父デュルバル)を産んだが、フリッツェルは不出走のまま繁殖入りした。
18歳時は産駒がおらず、19歳時に13番子の牡駒フリーバー(父デュルバル)を産んだが、これまた競走馬としても種牡馬としても記録が残っていない。20・21歳時には産駒がいなかった。
本馬が21歳時の1926年に、デュリエー未亡人は遂に牧場を手放し、本馬も含めて繋養していた馬も全て売却した。そして本馬はブサック氏によって買い取られた。そして22歳時に14番子にして最後の産駒となる牝駒アラベスク(父ラムス)を産んだが、アラベスクは競走馬としても繁殖牝馬としても記録が残っていない。そして23・24歳時は産駒を産む事が出来なかった。
ブサック氏が本馬を購入した理由は、本馬に繁殖牝馬としてさらなる期待をかけたためであると思われるが、既に老年期に差し掛かっていた本馬はブサック氏のところでは上記のようにあまり産駒を出す事が出来なかった。そして1929年にブサック氏は当時24歳の本馬に見切りをつけて屠殺場送りにしてしまった。確かに不要になった馬を屠殺する事は日本も含めて多くの国で行われており、特に仏国ではごく当たり前の事であった。しかし後に同じく仏国で名繁殖牝馬として活躍したムムタズマハルは産駒を出さなくなった後も繋養先の牧場で余生を過ごし、第二次世界大戦で仏国に侵攻してきたナチスドイツ軍でさえも彼女には手を出さなかった。この逸話から分かるように、普通の人間であれば優れた馬に対して敬意を抱くものである。自身の馬産に多大な貢献をした本馬に対する礼儀も何も無く、屠殺場送りにしたブサック氏の行動を見ると、彼がサラブレッドを生き物ではなく「単なる商品」として考えていた事がよく分かる。後に彼がトウルビヨンの強いインブリードに拘った事実も、良い商品を作るためには何をしても構わない(10頭中9頭が奇形児でも、1頭の活躍馬が出れば構わない)という彼の姿勢を良く表している。そういった考え方の持ち主だったからこそ、彼は繊維業でも馬産事業でも大成功を収めたのだろうが、晩年の彼は繊維業も馬産事業も失敗して破産し、失意のうちに死去した。彼の悪行に対する天罰が下ったのだと思いたい。
後世に与えた影響
閑話休題、本馬の死後も、本馬の牝系はブサック氏の元で発展を続けた。その筆頭格が、本馬の初子バンシーの娘デュルバンの息子である1928年産まれのトウルビヨンである。トウルビヨンは競走馬としても仏ダービー・リュパン賞を勝つ活躍を見せたが、それ以上に種牡馬としての活躍が顕著だった(詳細は当馬の項を参照)。レキシントンの血が流れる本馬を先祖に持つトウルビヨン産駒の大活躍により、悪名高き英国のジャージー規則が撤廃されたほどだった。
トウルビヨン以外にも、バンシーの牝系から登場した著名馬は数多くいる。トウルビヨンの半兄にはバンスター【モルニ賞】がいるし、トウルビヨンの全姉ディアデムの孫にはキャラベル【仏グランクリテリウム・仏1000ギニー・仏オークス・フォレ賞2回】、キャラベルの子にはコルドヴァ【ロベールパパン賞・モルニ賞】とジャニアリ【ヴェルメイユ賞】の姉妹がいる。また、トウルビヨンの半妹マハトマの子にはダオヴァ【サラマンドル賞】がいる。
トウルビヨンの母であるデュルバンの牝系子孫は最近では衰退傾向にあるが、デュルバンの全妹であるヘルディファンの牝系子孫が当時から現代まで繁栄を続けており、プリアム【仏グランクリテリウム・ジャックルマロワ賞・イスパーン賞】、ジェダー【エクリプスS・英チャンピオンS】、コレジャダ【チェヴァリーパークS・仏1000ギニー・愛オークス】、マシップ【ロワイヤルオーク賞・アスコット金杯】、アポロニア【モルニ賞・仏グランクリテリウム・仏1000ギニー・仏オークス】、日本の大種牡馬パーソロン【愛ナショナルS】、アカマス【仏ダービー(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)】、アキーダ【凱旋門賞(仏GⅠ)】、ダルシャーン【仏ダービー(仏GⅠ)】、エバディーラ【愛オークス(愛GⅠ)・ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)】、ダリアプール【コロネーションC(英GⅠ)・香港ヴァーズ(香GⅠ)】、シンダー【英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・凱旋門賞(仏GⅠ)・愛ナショナルS(愛GⅠ)】、プリンセスダンジョー【パリ大障害(仏GⅠ)2回・ラエジュスラン賞(仏GⅠ)】、ダーレミ【プリティポリーS(愛GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)・ドバイシーマクラシック(首GⅠ)】、リワイルディング【ドバイシーマクラシック(首GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)】、メアンドレ【パリ大賞(仏GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)・ベルリン大賞(独GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)】、エスティメイト【アスコット金杯(英GⅠ)】、タグルーダ【英オークス(英GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)】など、活躍馬のオンパレード状態となっている。
また、本馬の6番子フリジュールの牝系子孫も活躍馬のオンパレード状態となっている。特にこの牝系を発展させたのが、フリジュールがブルーラークスパーとの間に産んだ米国顕彰馬マートルウッドで、その子孫には、マートルチャーム【メイトロンS・スピナウェイS】、タイプキャスト【サンタモニカH・ミレイディH・ハリウッドパーク招待ターフH・サンセットH・マンノウォーS】、ベモ【アメリカンダービー(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)】、大種牡馬ミスタープロスペクター、米国三冠馬シアトルスルー【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)・フラミンゴS(米GⅠ)・ウッドメモリアルS(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)】、ロモンド【英2000ギニー(英GⅠ)】、シベリアンエクスプレス【仏2000ギニー(仏GⅠ)・モルニ賞(仏GⅠ)】、スイークレイ【ヴォスバーグS(米GⅠ)2回】、ジョリーズヘイロー【ドンH(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)・フィリップHアイズリンH(米GⅠ)】、バーリ【セントジェームズパレスS(英GⅠ)・クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)】、チーフベアハート【BCターフ(米GⅠ)・加国際S(加GⅠ)・マンハッタンH(米GⅠ)】、エスシーナ【BCディスタフ(米GⅠ)・ラモナH(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅠ)・ヴァニティ招待H(米GⅠ)】、アジーナ【BCディスタフ(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)】、キャッシュラン【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)】、サザンイメージ【マリブS(米GⅠ)・サンタアニタH(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)】、ハリウッドストーリー【ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・ヴァニティ招待H(米GⅠ)】、マルディヴィアン【コックスプレート(豪GⅠ)・ヤルンバS(豪GⅠ)・CFオーアS(豪GⅠ)】、プレシャスパッション【ユナイテッドネーションズS(米GⅠ)2回・クレメントLハーシュ記念ターフCSS(米GⅠ)】、ゼンセーショナル【トリプルベンドH(米GⅠ)・ビングクロスビーS(米GⅠ)・パットオブライエンS(米GⅠ)】、クオリティロード【フロリダダービー(米GⅠ)・ドンH(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)】、日本で走ったプリテイキャスト【天皇賞秋】、オウケンブルースリ【菊花賞(GⅠ)】などがいる。
上記以外のフリジュールの牝系子孫出身馬には、フリジュールの子であるブラックカール【テストS】、孫であるブラックウェイヴ【テストS】、ヘザーブルーム【ブルーグラスS】、デヴィルズサム【ホープフルS】、曾孫であるジェットパイロット【ケンタッキーダービー】、玄孫であるフラッグレイザー【ウッドメモリアルS】、他にディープルーツ【モルニ賞(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ)】などがいる。
本馬の7番子レスプレデザの牝系子孫はそれほど発展しなかったが、ファクトファインダー【サンタバーバラH(米GⅠ)・メイトリアークS(米GⅠ)】などが出ており、現在も残っている。
本馬の8番子デュルゼッタの牝系子孫からは、ゴレスタン【ジャックルマロワ賞】、ジェルファ【仏1000ギニー】などが出たが、牝系としてはあまり発展せず、現在はほぼ見かけなくなっている。
本馬の9番子プリンセスパラタインの牝系子孫はかなり大きく発展しており、バンシー、フリジュールの牝系に匹敵する一大勢力を築いている。その最大の立役者となったのがプリンセスパラタインの孫娘ヴェイグランシー【CCAオークス・テストS・アラバマS・ガゼルH・ベルデイムH・レディーズH】で、その子孫からブラックターキン【英セントレジャー】、フィドルアイル【サンルイレイS・サンフアンカピストラーノ招待H・ハリウッドパーク招待ターフH・アメリカンH】、タラート【サンタバーバラH(米GⅠ)・ヴァニティH(米GⅠ)・オークツリー招待H(米GⅠ)】、ゴールドアンドアイヴォリー【オイロパ賞(独GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)】、プリンストゥルー【サンルイレイS(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)】、ヒドゥンライト【サンタアニタオークス(米GⅠ)・ハリウッドオークス(米GⅠ)】、ファーディナンド【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・BCクラシック(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)】、ディスタントリラティヴ【サセックスS(英GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、エズード【エクリプスS(英GⅠ)・英国際S(英GⅠ)2回】、北米首位種牡馬イルーシヴクオリティ、アニーズ【BCジュヴェナイル(米GⅠ)】、アーティーシラー【BCマイル(米GⅠ)】、グランドクチュリエ【ソードダンサー招待S(米GⅠ)2回・ジョーハーシュターフクラシック招待S(米GⅠ)】、スウィッチ【ラブレアS(米GⅠ)・サンタモニカS(米GⅠ)】、クエスティング【CCAオークス(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)】、日本で走ったサクラチトセオー【天皇賞秋(GⅠ)】、サクラキャンドル【エリザベス女王杯(GⅠ)】、シルクプリマドンナ【優駿牝馬(GⅠ)】、ヘヴンリーロマンス【天皇賞秋(GⅠ)】、タイセイレジェンド【JBCスプリント(GⅠ)】などを出した。
上記以外にもプリンセスパラタインの牝系子孫からは、ヴィカレス【スピナウェイS・デラウェアH・レディーズH】、ハイプノティック【CCAオークス・アラバマS】、シンガクゴーク【モルニ賞・サンクルー大賞】、ボールドリック【英2000ギニー・英チャンピオンS】、ジャッジャー【フロリダダービー(米GⅠ)・ブルーグラスS(米GⅠ)】、ハーフアイスト【ジャパンC】、トセット【シャンペンS(米GⅠ)・ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)】、ダイヤモンドレラ【ジャストアゲームH(米GⅠ)・ファーストレディS(米GⅠ)】、日本で走ったシャダイターキン【優駿牝馬】、レッツゴーターキン【天皇賞秋(GⅠ)】、カレンチャン【スプリンターズS(GⅠ)・高松宮記念(GⅠ)】などが出ている。
本馬の10番子オンデュレーションは、牝系の発展程度としてはバンシー、フリジュール、プリンセスパラタインには及ばないが、オンデュレーションの玄孫には世界的名牝ダリア【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)2回・愛オークス(愛GⅠ)・ワシントンDC国際S(米GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)・ベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ)2回・マンノウォーS(米GⅠ)・ハリウッドパーク招待ターフH(米GⅠ)】が登場し、ダリアの子からはダハール【リュパン賞(仏GⅠ)・センチュリーH(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)】、リヴリア【ハリウッドパーク招待ターフH(米GⅠ)・カールトンFバークH(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)】、デレガント【サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)】、ダリアズドリーマー【フラワーボウル招待H(米GⅠ)】とGⅠ競走勝ち馬が4頭も出た。それ以外のオンデュレーションの牝系子孫出身馬には、レイルリンク【凱旋門賞(仏GⅠ)・パリ大賞(仏GⅠ)】、インタンガルー【サンタモニカH(米GⅠ)・ヒューマナディスタフS(米GⅠ)・バレリーナS(米GⅠ)】などがいる。
本馬の12番子フリッツェルの牝系子孫からは、シラ【仏ダービー・ジャックルマロワ賞】、オウリバン【仏ダービー・ロベールパパン賞・モルニ賞】、カルテック【バドワイザー国際S(米GⅠ)】などが出ているが、主に南米で発展しており、現在でも南米の有力牝系の1つとして残っている。
以上のように、本馬の牝系は本馬を死に追いやったブサック氏の死後も大きく発展を続け、21世紀になっても勢いは衰えていない。そんな本馬の功績を讃えて、本馬の生国米国では1945年にフリゼットSが創設され、1973年のグレード制導入から今日まで一貫してGⅠ競走として施行されている。