プリンスパラタイン

和名:プリンスパラタイン

英名:Prince Palatine

1908年生

鹿毛

父:パーシモン

母:レディライトフット

母父:アイシングラス

英セントレジャー・エクリプスS・アスコット金杯2回などを勝った名長距離馬は不遇な晩年の中から後世に血を残す

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績21戦11勝2着6回3着1回

誕生からデビュー前まで

セントサイモン直子の名種牡馬パーシモンの最終世代で、後のウェバートリー卿ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐により、彼が所有していた愛国キルデア州タリースタッドにおいて生産された。ミノルブランドフォードの生産者でもあるウォーカー大佐やタリースタッドについては、上記2頭の項で詳しく述べているので、ここでは詳細な紹介は省かせてもらう。ウォーカー大佐は、英1000ギニー・英オークスの勝ち馬チェリーラス、英1000ギニーの勝ち馬ウィッチエルム、英2000ギニー・英ダービーの勝ち馬ミノルなどを生産した当時の英国を代表する名馬産家だった。

そんなウォーカー大佐は、1908年に誕生した本馬を、自身がそれまでに生産した馬の中で最も素晴らしいと考えた。そのため、1909年にウォーカー大佐が本馬と同世代の1歳馬をことごとく売却した(その理由は、占星術に凝っていたウォーカー大佐が、それらの馬の誕生日が悪いと判断したためらしい)際にも、本馬のみは自身の所有馬のままにしておくつもりだった。ところが、ウォーカー大佐から1歳馬の売却を任された代理人が、売却馬の中に本馬も含めてしまい、本馬はトマス・ピルキントン卿に2千ギニーで買われてしまった。ウォーカー大佐は売買を無かった事にしたいと考えたが、スポーツマンシップに悖ると判断して結局は諦めた。

ピルキントン卿の所有馬としてヘンリー・ビアズリー調教師に預けられた本馬だったが、父パーシモンと異なり、仕上がりは非常に遅かった。しかも重度の脚部不安を抱えており、現役時代を通じてそれに悩まされた。

競走生活(2・3歳時)

2歳時は6戦して、首差で辛勝したインペリアルプロデュースプレート(T6F)など3勝を挙げた。しかし、デューハーストプレート(T7F)では、同着で勝利したキングウィリアムとフィリクサスの5着に敗れている。

3歳時は、元々英2000ギニーには登録が無かったため、英ダービーを目標とするはずだった。しかし調整が上手くいかず、結局英ダービーは回避する事になった。復帰戦はアスコット競馬場で行われたバイエニアルSとなったが2着。ニューマーケット競馬場で出走した次走のミッドサマーSも2着に敗れた。しかしグッドウッド競馬場で出走したゴードンS(T12F)では、アスコットダービーで2着してきたフィリクサスを3馬身差の2着に破って勝利。

こうして調子を上げ、秋の英セントレジャー(T14F132Y)には間に合った。主戦のフランク・オニール騎手が騎乗した本馬は単勝オッズ4.33倍の評価を受けた。そしてここで圧巻の走りを見せ、馬なりのまま走り、英2000ギニー3着馬リカオンを6馬身差の2着に、アスコットダービーを勝ってきたキングウィリアムをさらに3馬身差の3着に破って圧勝した。

次走はニューベリー競馬場で行われたキングスクレアSとなった。このレースにはステッドファストという強敵も出走していた。ステッドファストは、英2000ギニー・英ダービーこそいずれもサンスターの2着に敗れたが、その後にプリンスオブウェールズS・セントジェームズパレスS・サセックスSなど7連勝していた。直線では本馬とステッドファストの2頭の一騎打ちとなったが、ステッドファストが勝利を収め、本馬は半馬身差の2着に敗れた。しかし斤量はステッドファストより本馬のほうが7ポンド重かったから、実力負けでは無かった。3歳時の成績は5戦2勝だった。

競走生活(4歳時)

翌4歳時はコロネーションC(T12F29Y)から始動した。ここではジョッキークラブCなどを勝ってきたステッドファストと2度目の対戦となり、今回もステッドファストの1馬身差2着に敗れた。

次走のアスコット金杯(T20F)には、ステッドファストは不参加だったが、ヴェルメイユ賞・ロワイヨモン賞・フィユドレール賞・ドーヴィル大賞・グラディアトゥール賞・コンセイユミュニシパル賞・フォルス賞などを勝っていた仏国の名牝バースポワーントが相手となった。しかし単勝オッズ1.57倍の1番人気に支持された本馬がバースポワーントを5馬身差の2着に下して、4分22秒6のコースレコードを樹立して圧勝した。

その後はプリンセスオブウェールズS(T12F)に出走したが、単勝オッズ21倍の伏兵だったランスチェスト(翌年の同競走も勝っている)の1馬身半差2着に敗れた。しかし斤量はランスチェストの120ポンドに対して、本馬は144ポンドだったから、実力負けでない事は明らかだった。

続いて本馬はエクリプスS(T10F)に出走。ここには、ハードウィックSを勝ってきたステッドファスト、チェスターヴァーズを勝ってきた前年の英セントレジャー2着馬リカオンに加えて、英1000ギニーと英ダービーを勝ってきた3歳牝馬タガリーも参戦してきた。しかしレースでは本馬が2着ステッドファストに短頭差、3着リカオンにはさらに6馬身差をつけて勝利した。見せ場無く敗れたタガリーはそのまま現役を引退した。

続いてドンカスターC(T18F)に出走。対戦相手は特に実績が無い5歳牝馬アダリスの1頭のみであり、本馬が単勝オッズ1.05倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースでは馬なりのまま走り、10馬身差で圧勝した。

次走のジョッキークラブS(T14F)では、ステッドファストとの戦いとなった。斤量は本馬が147ポンド、ステッドファストが134ポンドであり、その差は13ポンドもあった。しかしそれでも本馬がステッドファストを半馬身差の2着に破って勝利した。

続いてジョッキークラブC(T18F)に出走した。対戦相手は、この段階では特に実績が無かった3歳牡馬アレッポの1頭のみだった。ところが本馬はアレッポに6馬身差をつけられて敗れてしまった。実はアレッポは翌年のジョッキークラブCも勝ち、そのまた翌年にはアスコット金杯に勝利するほどの長距離得意の馬であり、このレースでその素質がようやく開花したのだった。あと、このレースで本馬に騎乗したのが主戦のオニール騎手ではなく、好敵手ステッドファストの主戦だったF・ウットン騎手だったのも影響していたのかもしれない(乗り代わりの理由は不明)。4歳時の成績は7戦4勝だった。

競走生活(5歳時)

5歳時も現役を続け、再度コロネーションC(T12F29Y)から始動した。この年から主戦を務めることになったW・サクスビー騎手を鞍上に単勝オッズ1.83倍の1番人気に支持されると、2着となったケンブリッジシャーH・リンカンシャーH・ニューベリーサマーC・セレクトSの勝ち馬ロングセット(この年のドンカスターC勝ち馬)を3馬身差の2着に破って快勝し、前年の雪辱を果たした。

続いて2連覇を目指してアスコット金杯(T20F)に参戦。このレースには、前年の英チャンピオンSを勝っていた宿敵ステッドファスト、アレッポの他に、本馬より1歳年下のトラセリーという実力馬も参戦していた。米国の馬産家オーガスト・ベルモント・ジュニア氏により生産・所有された米国産馬であるトラセリーは、1908年にニューヨーク州において制定された悪名高きハート・アグニュー法(通称:反賭博法)のせいでニューヨーク州の競馬が中断した影響のため、英国で競走馬となっていた。そして人気薄の英ダービーでタガリーの3着して名を馳せ、さらにセントジェームズパレスS・サセックスS・英セントレジャーを立て続けに勝利して、同世代最強馬の地位に君臨するに至っていた。

レースでは2番人気のトラセリーが先行し、単勝オッズ3倍の1番人気だった本馬はそれから20馬身も離された後方を追走していた。ところが、ケンブリッジ大学の学生だったハロルド・ジェームス・ヒューイットという若い男が女性参政権運動の旗を持って突然コース内に乱入し、先頭を走っていたトラセリーの前に回転式拳銃を持って立ち塞がり、レースを止めるように要求。しかし走っている馬がそう簡単に止まれるわけはなく、トラセリーはヒューイットにぶつかってしまった。トラセリー鞍上のアルバート・ウォーリー騎手は落馬して、トラセリーはここで競走を中止。一方の本馬は鞍上のサクスビー騎手の手綱捌きで混乱を避けると、そのまま2着ステッドファストに10馬身差、3着アレッポにはさらに4馬身差をつけて先頭でゴールインして2連覇を達成した。

当時の英国では女性に投票権が無く(英国で女性に投票権が認められたのは1928年)、競馬場も含めた各所で一部の女性参政権運動家による度を越した抗議運動(放火など)が発生していた。このアスコット金杯の16日前に行われた英ダービーでは、エミリー・デヴィッドソンという女性参政権運動家がレース中に乱入するという有名な事件が起こっている。馬の下敷きとなったデヴィッドソンは重傷を負い数日後に死亡。この英ダービーは大混乱となり、先頭で入線したクラガヌールは失格となり、単勝オッズ101倍のアボワユールが繰り上がり優勝するという大波乱となった。これらの度を越した抗議運動はあくまで一部過激派によるもので、多くの女性参政権運動家はこれらの行動を支持していなかった事は付記しておく。ただ、このアスコット金杯に乱入したヒューイットは男性であり、この行動が女性の参政権を求めたものであるとは考えにくい。デヴィッドソンの伝記には、この事件は単なる模倣犯であると書かれており、どうも大々的に行われたデヴィッドソンの葬儀の様子を見て触発されたヒューイットが、自分も目立とうとして引き起こした愚行であったらしい。ヒューイットは重傷を負ったが、病院に担ぎ込まれた後に回復し、彼は単に痛い目に逢っただけで、まったく注目される事はなかった。いつの世にもこういう馬鹿な人間はいるものである。

ヒューイットがどうなろうと筆者の知ったことではないが、気になるのはトラセリーとウォーリー騎手のほうである。しかし幸いにもウォーリー騎手は無傷で、トラセリーも軽症で済んでいた。そしてトラセリーはその後に何事も無かったかのようにこの年のエクリプスS・英チャンピオンSに勝利(いずれもウォーリー騎手騎乗による)する活躍を見せている。これによりトラセリーは当時世界最高の名馬の称号をも獲得しているから、何事も無ければこのアスコット金杯は本馬とトラセリーのいずれが勝ったかは分からない。

話がかなり逸れたが、ともあれアスコット金杯を連覇した本馬は、南アフリカのダイヤモンド王ジョエル兄弟の兄ジャック・バーナード・ジョエル氏の注目を受けた。ジョエル氏により4万5千ポンドという当時の英国史上最高価格で購入された本馬は、引退後にジョエル氏の元で種牡馬入りする事が決定した。本馬はその後も現役を続けたが、何故かジョエル氏の所有馬となった後の本馬は、別馬のように振るわなくなっていた(理由はおそらく脚部不安の悪化)。グッドウッドC(T21F)では、前年のプリンスオブウェールズSの勝ち馬キャットミント、アレッポ、プリンセスオブウェールズSを2連覇してきたランスチェストなどに屈して着外に敗れ、3歳以降では初めて着外になった。

その後に脚部不安が悪化したため、5歳時3戦2勝の成績で競走馬引退となった。

馬名は“County Palatine(王権伯領。王国から貴族に特殊な権限が与えられた自治権領)”に由来しており、本馬の生産者ウォーカー大佐が幼少期を過ごしたのが、ランカスター王権伯領の近郊だったためである。ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)が運行していたLNERクラスA1/A3蒸気機関車の60052号には本馬の名前が付けられている。

血統

Persimmon St. Simon Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
St. Angela King Tom Harkaway
Pocahontas
Adeline Ion
Little Fairy
Perdita Hampton Lord Clifden Newminster
The Slave
Lady Langden Kettledrum
Haricot
Hermione Young Melbourne Melbourne
Clarissa
La Belle Helene St. Albans
Teterrima
Lady Lightfoot Isinglass Isonomy Sterling Oxford
Whisper
Isola Bella Stockwell
Isoline
Dead Lock Wenlock Lord Clifden
Mineral
Malpractice Chevalier d'Industrie
The Dutchman's Daughter
Glare Ayrshire Hampton Lord Clifden
Lady Langden
Atalanta Galopin
Feronia
Footlight Cremorne Parmesan
Rigolboche
Paraffin Blair Athol
Paradigm

パーシモンは当馬の項を参照。

母レディライトフットは、ファーンヒルSなどを勝ち、繁殖牝馬としても成功したグレアの娘であり、ウォーカー大佐はかなり期待していたらしいが、下級競走で6勝を挙げた程度で、現役時代後半には障害競走を走るなど、競走馬としてはウォーカー大佐の期待に応えられなかった。しかしレディライトフットは繁殖牝馬としては活躍し、本馬の半弟キャリックファーガス(父カウントショーンバーグ)【セントジェームズパレスS】も産んでいる。

本馬の半妹クイーンオブザバレット(父ロイヤルレルム)の牝系子孫には、仏首位種牡馬2回のケンマール【ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)】、レッドエヴィ【愛メイトロンS(愛GⅠ)・ロッキンジS(英GⅠ)】、ファウンド【BCターフ(米GⅠ)・マルセルブサック賞(仏GⅠ)】、日本で走ったヤマニンゼファー【安田記念(GⅠ)2回・天皇賞秋(GⅠ)】、マカヒキ【東京優駿(GⅠ)】などが、本馬の半妹ティップトゥ(父ロイヤルレルム)の孫にはカイロー【愛1000ギニー】、牝系子孫にはテーヌ【カドラン賞2回・ジャンプラ賞】、名種牡馬アホヌーラ、アルプライド【ビヴァリーヒルズH(米GⅠ)・イエローリボンS(米GⅠ)】などがいる。

レディライトフットの半妹にはフレア(父セントフラスキン)【英1000ギニー・ミドルパークプレート】、レスビア(父セントフラスキン)【ミドルパークプレート・英シャンペンS・コロネーションS・ジュライC】がいる。レディライトフットの全姉グラスアイの子にはジゴロ【ダリュー賞】が、レディライトフットの半姉レディランド(父ケンダル)の子にはレディライク【独オークス】、レティッツァ【独オークス】が、レディライトフットの半妹メンダ(父ガリニュール)の子にはローゼンデール【クレイヴンS・プリンセスオブウェールズS】がいる。

フレアがガリニュールとの間に産んだ息子ガロンは故障のため競走馬としては不出走だったが、血統が評価されて日本に種牡馬として輸入された。そして帝室御賞典の勝ち馬を21頭も輩出し(23頭を出したイボアに次ぐ史上2位)、黎明期の日本競馬に絶大な影響力を有した。直系はとうの昔に途絶えたが、牝系にガロンの血を引く活躍馬は現在も日本競馬界にごろごろしている。

また、フレアの孫であるナイトレイドは競走馬としては35戦2勝と至って平凡だったが、引退後に新国に輸出されて、豪州の歴史的名馬ファーラップの父となっている。

レスビアの孫にはコンドーヴァー【コロネーションC・イスパーン賞】、曾孫にはミラツッオ【伊ジョッキークラブ大賞】、玄孫世代以降にはボーリングブローク【マンハッタンH3回・ホイットニーS・ジョッキークラブ金杯】、トリプリケート【サンフアンカピストラーノ招待H・ハリウッド金杯】などが、メンダの牝系子孫には、エクスチェンジ【サンタアナH(米GⅠ)・サンタバーバラH(米GⅠ)・メイトリアークS(米GⅠ)】、ハハ【ゴールデンスリッパー(豪GⅠ)・フライトS(豪GⅠ)】などがいる。→牝系:F1号族④

母父アイシングラスは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ジョエル氏がハートフォードシャー州セントオールバンズに所有していたチャイルドウィックバリースタッドで種牡馬入りし、初年度の種付け料は400ギニーに設定された。しかし本馬は受精率が悪く、活躍馬を出せなかった。本馬は1918年に仏国の実業家兼馬主だった第4代グリュックスボー公爵ルイ・ジーン・ヴィクター・スターン・ドカーズ卿(仏国の名馬産家として有名なフランソワ・デュプレ氏の競馬仲間だった)に1万8千ギニーで売却され、仏国ウィイー牧場で種牡馬供用された。その2年後の1920年には、さらに米国の馬産家エドワード・フランシス・シムズ氏に転売され、シムズ氏が所有していた米国ケンタッキー州ハラパファーム(ずっと後のことになるが、凱旋門賞馬スワーヴダンサーが誕生する牧場である)で種牡馬生活を続けた。そして1924年10月13日の夜、ハラパファームで電気系統の不具合により発生した火事に巻き込まれた本馬は16歳で焼死した。遺体はハラパファームの木の下に埋葬され、その場所には本馬の名前が刻まれた墓石が置かれ、現在でも残っている。

本馬の種牡馬成績は英愛種牡馬ランキングで1920年の9位が最高と、ほぼ失敗と言える結果に終わった。その原因としては、本馬が種牡馬入りした頃には既にセントサイモン系種牡馬の飽和状態(セントサイモンの悲劇)が英国で発生していた事も大きい。しかし本馬の直系は、直子ローズプリンスからプリンスローズが出た事により、後世に伝わっていく事になる。また、本馬の牝駒ブルーグラスは母として牡駒アンブレーカブレ(父シックル)を産み、アンブレーカブレは父としてポリネシアンを出した。そしてポリネシアンの代表産駒がご存知ネイティヴダンサーである。このようにして、失敗種牡馬の烙印を押された本馬の血は、今日にも脈々と受け継がれているのである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1916

Iron Hand

エボアH

1917

All Prince

プリンスオブウェールズS

1917

He Goes

愛ダービー

1917

Lady Ava

チャイルドS

1917

Prince Galahad

デューハーストS

1918

Hamlet

オールエイジドS2回

1919

Rose Prince

シザレウィッチH

1921

Giambologna

イタリア大賞・伊ジョッキークラブ大賞

1921

Tonton

エクリプス賞

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