ビリーケリー

和名:ビリーケリー

英名:Billy Kelly

1916年生

鹿毛

父:ディックウェルズ

母:グレナ

母父:フリーナイト

小柄な馬体には過酷な斤量を背負いながら2歳戦から短距離路線で大活躍し、好敵手サーバートンより58年遅れで米国競馬の殿堂入りを果たす

競走成績:2~7歳時に米加で走り通算成績69戦39勝2着14回3着7回

はじめに:米国と日本の顕彰馬制度の違いについて

日本の中央競馬には、中央競馬の発展に多大な貢献を果たした競走馬の業績を後世まで伝えるために、殿堂入りに相当する顕彰馬の制度が存在する。しかしながら2004年から、競走馬登録抹消から20年以上経た馬は「その当時を知る人間が少なくなる」という理由で選考対象外となっている。筆者はその一報を耳にして、日本の競馬関係者の見識の低さに呆れ果てたものだった。日本のプロ野球には、たとえ選手引退から20年を経過した人でも選出の可能性を残すエキスパート部門という制度があり、それと比較してしまったからだった。

筆者の知人に某新聞社のスポーツ担当記者をしている人がいるのだが、プロ野球においては選手名の書き誤り等を犯した記者は翌年から投票権を剥奪されるそうである。一方で競馬界においては、以前存在した最優秀父内国産馬の選考において明らかに対象外のハットトリックに2票入る(サッカーボーイ産駒と勘違いした模様。もちろんハットトリックはサンデーサイレンス産駒である)など、普通の競馬ファン以下の知識しか持たない記者も投票権を有しているようである。

こんな状況を見れば、優秀な記者は野球やサッカーなどの担当になり、そうではない記者は競馬の担当に回されているのではと勘ぐってしまうのは筆者だけではないだろう。いや、実際そういう一面はあるのだろう。その証拠に、筆者が所有している宝島社出版の「競馬スーパースター」なる書籍には、某有名記者が「グラスワンダーはエルコンドルパサーやスペシャルウィークより1歳年上」などと書いている(もちろん3頭とも同世代である)始末である。日本の競馬界は、このように競馬界に居ていいのかと思われるレベルの知識しか持たない人間が大きな顔をしているという実に嘆かわしい状況なのである。

前置きが長くなりすぎたが、それに対して米国競馬名誉の殿堂においては、近年の競走馬や競馬関係者だけでなく、過去の競走馬や競馬関係者に関しても歴史的検討を経た上で相応しいと判断すれば殿堂入りさせるという、日本のプロ野球とほぼ同様の制度が存在している。2015年にこの制度に基づいて殿堂入りした競走馬が本馬ビリーケリーである。筆者は以前から本馬のことはある程度知っていた。それは初代米国三冠馬サーバートンの好敵手だったからである。しかし殿堂入りするほどの馬だったとは不覚にも知らなかった。そこで筆者が本馬に関して調べてみると、これは確かに殿堂入りしても何の不思議もない卓越した名短距離馬である事が判明した。それにも関わらず今まで殿堂入りしていなかったのは、後述するように本馬の時代から中長距離馬が以前にも増して注目されるようになり、その陰に隠されてしまっていたからであろう。このようにかなり以前の競走馬であっても、実績を精査すれば殿堂入りに相応しい事が判明するであろう馬は少なからずおり、それは米国だけでなく日本も同様のはずなのだが・・・。それでは本馬の紹介に移ることにする。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ウッドローンファームの生産馬で、1歳時にW・F・ポルソン氏により1500ドルで購入され、ウィリアム・パーキンス調教師に預けられた。かなり小柄な馬だったようで、おそらく成長を促す目的で去勢されたが、結局はあまり大きくならなかったようである。本馬が2歳時に競馬場に姿を現した際には「貧相なラバ」のように見えたという。しかしこの「貧相なラバ」は実にすばしっこかった。

競走生活(2歳時)

レキシントン競馬場で行われた未勝利戦をあっさりと勝ち上がると、次走の一般競走も勝利。さらに同じくレキシントン競馬場で行われたアイドルアワーS(D4.5F)を4馬身差で快勝。チャーチルダウンズ競馬場に場所を移して出走したバッシュフォードマナーS(D4.5F)では、この年のキーンランドブリーダーズフューチュリティ・フォートトマスH・ハロルドSを勝つコロネルリヴィングストンを8馬身差の2着に、後にブリーダーズフューチュリティで2着するコルテイラーを3着に破って圧勝した。

その後はケンタッキー州を飛び出してニューヨーク州に向かい、サラトガ競馬場の夏開催に参戦。フラッシュS(D5.5F)では、この年のデモワゼルSを勝ちスピナウェイSで2着するレディローズバドを5馬身半差の2着に、レインボースプリングSの勝ち馬スターレルムを3着に破り、1分05秒6のコースレコードを計時して圧勝した。その2日後にはユナイテッドステーツホテルS(D6F)に出走。このレースには、後にこの年のベルモントフューチュリティS・グレートアメリカンSを勝つダンボイン、アストリアSの勝ち馬で後にシャンペンS・サラトガスペシャルSで2着する牝馬テレンチアといった強敵が出走していた上に、小柄な本馬に課せられた斤量は2歳馬としては過酷な127ポンドだった。しかし2着ダンボインに1馬身半差をつけて、1分12秒4のレースレコードで勝利した。その4日後には一般競走を勝利。

さらに2日後にはアルバニーH(D6F)に出走したが、ここで本馬に課せられた斤量は133ポンド。さすがにこれは酷だったようで、18ポンドのハンデを与えたコロラドSの勝ち馬スターハンプトンの1馬身差2着に敗退した。しかし斤量差が大きかったために本馬の評価がこれで落ちるようなことは無く、このレース後に本馬を売ってほしいとポルソン氏に申し出てきた人物がいた。それは、カナディアンパシフィック鉄道の創設者であるジェームズ・ロス氏の息子である加国の実業家ジョン・ケネス・レヴィソン・ロス氏だった。彼は、父から受け継いだ1200万~1600万ドルにも及ぶ莫大な財産を元手として、この3年前の1915年から各方面の有力馬を買い漁っていたのだった。2万7500ドル(2万5千ドルとする資料もある)で取引が成立し、本馬はロス氏の所有馬となった。そしてハーヴェイ・ガイ・ベッドウェル調教師の管理馬となった。

転厩したのだから少し間隔を空けてもよさそうなものだが、本馬はアルバニーHから僅か7日後のサンフォードS(D6F)に出走した。前走より斤量は少しましになっていたが、それでも130ポンドの酷量だった。さらに馬場状態は不良であり、余計に斤量が堪える状況だった。しかし後のフォールハイウェイトH・トボガンHの勝ち馬リオンドールを8馬身差の2着に、コロネルリヴィングストンを3着に破って圧勝してしまった。余談だがこの翌年のサンフォードSでは、マンノウォーが本馬と同じく130ポンドを背負って出走したが、生涯唯一の敗北を喫してしまっている。

それから4日後にはグラブバグH(D6F)に出走した。ここで本馬に課せられた斤量は135ポンドであり、コロネルリヴィングストン、後にベルモントS・サバーバンHで2着・プリークネスSで3着するグランドユニオンSの勝ち馬スウィープオンといった他の11頭の出走馬とは14~35ポンドもの差があった。しかし結果は本馬の勝利。本馬はサラトガ競馬場で、フラッシュSからグラブバグHまで20日間で6戦を消化して、5勝2着1回の成績を残した。

その後は少しだけ間隔を空け、9月にはメリーランド州ハヴァードグレイス競馬場に向かった。そしてイースタンショアH(D6F)に出走した。ここでも本馬には135ポンドが課せられたが、アディロンダックSの勝ち馬でユースフルS2着のラウトレッジを2着に破って勝利した。引き続いて同州のローレルパーク競馬場に向かった。まずはアナポリスH(D6F)に出走して勝利。次走のコロンバスH(D6F)は古馬混合戦だったが、ローレルHを勝っていた8歳馬レオカレスを2着に、サンフォードS・ハロルドSを勝っていた5歳馬ブルースを3着に破って勝利した。

次走のジョンRマクリーン記念S(D6F)では、ホープフルS・オークデールHの勝ち馬で後にブルックリンHを勝つエターナルとの2頭立てとなり、マッチレースとなった。しかしここでは本馬は頭差の2着に惜敗してしまい、サンフォードS以来の連勝は7で止まった(数が合わないのは、上記に書いた以外にも出走している模様だからである)。11月にピムリコ競馬場で出走した一般競走では、後にメトロポリタンH2回・ジョッキークラブ金杯2回・サバーバンH・トボガンH・クイーンズカウンティHなどを勝ち、1921年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるマッドハターを破って勝利した。

2歳時はこれが最後のレースで、この年は17戦14勝2着2回の成績を残した。後世になって当然のようにこの年の米最優秀2歳牡馬騙馬に選ばれたが、エターナルとの同時受賞だった。いくらジョンRマクリーン記念Sで負かされていると言っても、この年の本馬とエターナルが同じ評価というのは少し納得がいかない気がする。

競走生活(3歳時)

3歳になった本馬は、まずはハヴァードグレイス競馬場でハートフォードH(D6F)に出走して勝利。同じくハヴァードグレイス競馬場で出走したフィラデルフィアH(D6F)では、ジュヴェナイルSの勝ち馬チャーリーレイデッカーを2着に破って勝利した。ちなみにこの両競走とも古馬混合戦であり、チャーリーレイデッカーは本馬より1歳年上である。さすがに斤量は本馬のほうが軽かったかと思いきや、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトには“Billy Kelly continued his winning ways with conceding weight each time(ビリーケリーはいずれのレースも相手にハンデを与えて連勝しました)”とあるから、古馬より本馬のほうが重い斤量を背負っていたようである。

その後はチャーチルダウンズ競馬場に向かい、ケンタッキーダービー(D10F)に出走した。最大の強敵と目されていたのはエターナルで、1番人気に支持されていた。本馬はエターナルを潰すためのラビット役の馬とのカップリングで、単勝オッズ3.6倍の2番人気だった。このラビット役の馬の名前はサーバートンと言い、本馬が勝ったフラッシュS・ユナイテッドステーツホテルS・サンフォードSの3競走にも出走していたが、いずれも本馬から15馬身以上後方の着外に惨敗していた。しかしスタート直後の加速力だけには見るべきものがあったため、それに目をつけたロス氏によりサンフォードSの直後に1万ドルで購入されて、本馬と同馬主同厩となっていたのだった。ベッドウェル師がスタミナの強化に励んだために、前年暮れのベルモントフューチュリティSではダンボインの2着に入るなど少し素質を開花させていたが、シーズン初戦だったこのケンタッキーダービーでは本馬を援助するためのラビット役としての出走だった。

スタートが切られるとサーバートンが即座に先頭に立ち、エターナルの前を走り続けた。一方の本馬は後方からレースを進めた。サーバートンに競られたエターナルは早い段階で失速したが、サーバートンはまだ先頭を維持していた。それでもそのうちにスタミナが切れて失速すると思われたサーバートンだったが、予想外に逃げ脚は快調で、そのまま逃げ切って優勝。本馬は追い上げたものの、7ポンドのハンデを与えたサーバートンに5馬身差をつけられて2着に敗れてしまった(この当時のケンタッキーダービーは定量戦ではなく別定戦だった)。ロス氏の所有馬がワンツーフィニッシュを決めたわけであり、ロス氏は1・2着賞金だけでなく、馬主兼マフィアのアーノルド・ローススティーン氏から購入した5万ドルの単勝も当てて払い戻しを受けることも出来て大儲けしたが、ロス氏が賭けていたのはサーバートンの勝利ではなく本馬の勝利だったため、彼の心中がいかばかりだったかは謎である。ちなみに同一馬主の所有馬がワンツーフィニッシュを決めたのは同競走史上初だった。

この当時は米国三冠路線なるものが定着していなかったが、プリークネスS・ベルモントSはいずれも3歳戦の大競走としての地位を確立しており、この時期はケンタッキーダービーより明らかに格上だった。しかし本馬陣営は上記2競走にはサーバートンだけを向かわせ、本馬は出走させなかった。サーバートンは上記2競走も完勝して、後年になって初代米国三冠馬という称号を与えられることになった。

一方の本馬は、短距離路線に向かった。まずはトボガンH(D6F)に出走して、ユースフルS・ジュヴェナイルSの勝ち馬でこの年のエッジメアH・マウントヴァーノンH・マンハッタンH・アケダクトHを勝つルクライトを2着に、1歳年上のベルモントフューチュリティS・サンフォードS・ユナイテッドステーツホテルS・フラッシュSなどの勝ち馬パップを3着に破って勝利。ローレルパーク競馬場で出走した新設競走キャピタルH(D6F)でも、パップを2着に破って勝利した。

ハヴァードグレイス競馬場で出走したダート6ハロンの一般競走では、プリークネスS・ベルモントSだけでなくウィザーズSも勝って、今やすっかり同世代最強馬の地位を確立していたサーバートン、そしてトラヴァーズS・デラウェアH・アルバニーH・グレートアメリカンS・グランドユニオンS・サラトガスペシャルS・ホープフルSを勝っていた1歳年上の米最優秀2歳牡馬サンブライヤーと対戦した。しかしこの距離では本馬が一番強かったようで、2着サーバートンに1馬身差をつけて勝利した。しかし次走のポトマックH(D8.5F)では、132ポンドを背負っていたサーバートンに1馬身半差をつけられて2着に敗れた。それでも、ピムリコオークス・ガゼルHを勝ちケンタッキーオークス・アラバマSで2着してこの年の米最優秀3歳牝馬に選ばれることになるミルクメイドは頭差の3着に抑えた。ちなみにミルクメイドもロス氏の所有馬であり、このポトマックHはロス氏の所有馬が上位を独占したことになった。

ローレルパーク競馬場で出走したローレルH(D8F)では、ボルチモアHを勝っていた4歳馬ザポーターの2着に敗れたが、3着サンブライヤーには先着した。アケダクト競馬場で出走したフォールハイウェイトH(D6F)では、前年のマンハッタンH・トボガンHとこの年のカーターH・エクセルシオールH・ロングビーチHの勝ち馬ナチュラリストの2着に敗れたが、ケナーSの勝ち馬でスピナウェイS・アラバマS2着のエンフィレードには先着した。秋に出走したピムリコフォールシリアルナンバー1(D6F)では、泥だらけの不良馬場をものともせずに、前年のイースタンショアH・スピナウェイSを勝っていた同世代の米最優秀2歳牝馬コンスタンシーを2着に破って勝利。コンスタンシーもまたロス氏の所有馬であり、ロス氏がこの時期にいかに有力馬を買い漁っていたのかがよく分かる。

次走のピムリコフォールシリアルナンバー2(D8F)では、サーバートン、ザポーターの2頭に後れを取り、サーバートンの3着に敗退。次走のピムリコフォールシリアルナンバー2(D9F)では、3着ルクライトには先着したものの、サーバートンの2着に敗退。3歳時は19戦9勝2着7回3着2回の成績だった。

競走生活(4歳時)

4歳時は前年と同じく春のハヴァードグレイス競馬場開催から始動した。ハートフォードH(D6F)では、5歳年上のケンタッキーダービー馬オールドローズバドとの対戦となった。しかし後の米国顕彰馬オールドローズバドも既に9歳では全盛期の面影はなく、本馬が勝利を収めて同競走2連覇を達成した。

ベルエアH(D6F)では、サーバートンとの対戦となった。斤量は本馬が132ポンド、サーバートンが133ポンドと、ほぼ互角の設定となった。結果は本馬が勝ち、軽量馬2頭にも後れを取ったサーバートンは4着だった。

その後に出走したフィラデルフィアH(D8.5F)は、前年に本馬が勝ったレースであるが、距離は前年の6ハロンから8.5ハロンに延長されていた。このレースにもサーバートンが出走してきた。この距離なら本馬よりサーバートンのほうが実力上位と判断されたようで、斤量はサーバートンが132ポンド、本馬が126ポンドと設定された。また、このレースには前年のクイーンズカウンティHの勝ち馬でカーターH・マンハッタンH・エクセルシオールH2着・メトロポリタンH3着のスターマスターも出走してきて、本馬より1ポンド重い127ポンドに設定されていた。ところが結果は、斤量100ポンドだった前年のドワイヤーS3着馬クリスタルフォードが勝ってしまい、スターマスターが首差の2着、本馬はさらに首差の3着、サーバートンはさらに1馬身差の4着と共倒れになってしまった。

アケダクト競馬場で出走したポーモノクH(D6F)では、一昨年のユナイテッドステーツホテルSで本馬の2着に敗れていた前年のローレンスリアライゼーションS2着馬ダンボインとの対戦となり、ここではダンボインの2着に敗れた。

秋に出走したピムリコフォールシリアルナンバー1(D6F)では、139ポンドという、小柄な本馬には過酷すぎる斤量が課せられた。それでも、一昨年のウィザーズS・サラナクHの勝ち馬モーターコップを2着に、この年のカーターHの勝ち馬で後にカーターH2勝を追加しサバーバンHなども勝つオーダシャスを3着に破って勝利を収め、同競走2連覇を達成した。

次走のピムリコフォールシリアルナンバー2(D8F)では、サーバートンに加えて、前月のヨークタウンHを勝ってようやく本格化の兆しが見えたマッドハターが対戦相手となった。ここではマッドハターが勝利を収め、本馬は2着に敗れたが、3着サーバートンには先着した。

次走のピムリコフォールシリアルナンバー3(D9F)では、サーバートンと12度目にして最後の対戦となった。マッドハターも出走してきており、距離面からすれば本馬が明らかに不利だった。しかし本馬がサーバートンを1馬身半差の2着に、マッドハターを3着に破って勝利。このレースを最後に競走馬を引退したサーバートンとの対戦成績を8勝4敗とした。本馬が勝った8回のうち6回はサーバートンにハンデを与えてのもので、その最大斤量差はサンフォードSにおける18ポンドだった。本馬の4歳時の成績は12戦6勝2着3回3着2回だった。

競走生活(5~7歳時)

サーバートンは牡馬だから種牡馬入りするために4歳限りで競走馬を引退したわけだが、騙馬である本馬に種牡馬入りの道は無く、5歳以降も現役を続行。まずはハートフォードH(D6F)に出走すると、132ポンドを背負いながらも勝利を収め、同競走3連覇を達成した。同じくハヴァードグレイス競馬場で出走したエアロH(D6F)では、前年のポーモノクHで本馬を破ったダンボインが挑んできたが、本馬がその挑戦を退けて勝利した。ロス氏の地元である加国モントリオールのブルーボンネッツ競馬場で出走したコンナートHでは、135ポンドを背負いながらも勝利を収めた。キャピタルH(D6F)では、この年のサラナクH・フォールハイウェイトHの勝ち馬クロッカス、前年のイースタンショアH・スカイラヴィルSの勝ち馬でこの年のピムリコオークスの勝ち馬ケアフルといった若き3歳牝馬が挑んできたが、本馬がその挑戦を退けて勝利した。

ピムリコ競馬場で出走したゴーヴァンH(D6F)では、泥だらけの不良馬場を平気で走って勝利した。一昨年に2着したローレルH(D8F)では、ケアフル、キーン記念S・ユースフルS・サラトガスペシャルS・ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬で後にジェロームH・ポーモノクH・ピムリコフォールシリアルナンバー1・ピムリコフォールシリアルナンバー2・ピムリコフォールシリアルナンバー3を勝つ2歳年下の米最優秀2歳牡馬トライスターの2頭に後れを取り、ケアフルの3着だった。5歳時の成績は17戦9勝3着1回だった。5歳時は初戦から6連勝したそうで、そのうち4戦で130ポンドの斤量を背負っていたという。

6歳時も現役を続け、まずは4連覇を目指してハートフォードH(D6F)に出走した。しかしこのレースには、サーバートンに匹敵するかそれ以上に手強いと思われる1頭の強敵が出走してきた。それは、ケンタッキーダービー・ベンアリH・サラトガC3回・ロングビーチH2回・ブルックデールH・マーチャンツ&シチズンズHなど数々のステークス競走を勝っていた1歳年上のエクスターミネーターだった。斤量は2頭とも132ポンドに設定された。結果はエクスターミネーターが差し切って勝ち、1馬身差の2着に敗れた本馬は同競走4連覇に失敗。その後に故障を発生してしまい、非常に長い期間レースに出る事は出来なくなった。6歳時に復帰することは無く、この年の成績は1戦未勝利だった。

7歳時もなかなか競馬場に姿を現さず、ようやく復帰したのは前走から17か月後の7歳9月のことだった。ブルーボンネッツ競馬場に姿を現した本馬は、無名のハンデ競走に出走して勝利を収めた。その後はローレル競馬場に向かい、2戦して2着1回・3着1回の成績を挙げたが、その後はレースに出ることなく、この年を限りに完全に競走馬生活に終止符を打った。

血統

Dick Welles King Eric King Ernest King Tom Harkaway
Pocahontas
Ernestine Touchstone
Lady Geraldine
Cyclone Parmesan Sweetmeat
Gruyere
Typhoon Wild Dayrell
Midia
Tea's Over Hanover Hindoo Virgil
Florence
Bourbon Belle Bonnie Scotland
Ella D
Tea Rose King Alfonso Phaeton
Capitola
Tuberose Vigil
Buttercup
Glena Free Knight Ten Broeck Phaeton King Tom
Merry Sunshine
Fanny Holton Lexington
Nantura
Belle Knight Knighthood Knight of St. George
Glycera
Kentucky Belle Goodwood
Nora
Fautress Faustus Enquirer Leamington
Lida
Lizzie G War Dance
Lecomte Mare 
Can Dance War Dance Lexington
Reel
Bank Stock Bayonet
Scythian Mare

父ディックウェルズは現役成績25戦20勝。ハイドパークS・ドレクセルS・プレミアS・スペキュレーションS・スピードS・ブルワーズズエクスチェンジHの勝ち馬で、ワシントンパーク競馬場で出走したダート6ハロンの一般競走では1分11秒4、シカゴのハーレム競馬場で出走したダート1マイルの一般競走では1分37秒4と、2度の全米レコードを計時した快速馬だった。種牡馬としては1909年のケンタッキーダービー馬ウインターグリーンも出している。ディックウェルズの父キングエリックはウィザーズSの勝ち馬。キングエリックの父キングアーネストはキングトム産駒の英国産馬で、米国に輸入されているが競走馬としての経歴はよく分からない。

母グレナの競走馬としての経歴は不明。近親には全くと言ってよいほど活躍馬がいない。→牝系:F9号族③

母父フリーナイトはテンブロック産駒で、クラークS2着、ケンタッキーダービー3着の実績がある。種牡馬としては1904年のケンタッキーダービー馬エルウッドを出している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ロス氏がモントリオールの近郊の小集落ベルシェールに所有していた牧場で余生を送ることになった。しかし本馬の余生は短く、1926年に10歳の若さで夭折。遺体は加国のみならず世界有数の大河川でもあるセントローレンス川の岸辺に埋葬された。

競走馬としての特徴と評価

本馬の競走馬としての能力は明らかに短距離向きであり、勝ったステークス競走の距離は最長でも9ハロンで、それを超える距離のステークス競走を勝ったことは無かった(ステークス競走以外なら10ハロンのレースを勝った事はあるそうである)。しかし短距離戦であれば、小柄な馬体には一層酷な非常に重い斤量を背負っても活躍しており、1920年前後の米国競馬界における最高の短距離馬と言われていた。

ところで米国では1870年代まではヒート競走に代表される長距離のレースが主流だったが、それから20世紀初頭までは、ドミノコリンに代表されるように仕上がり早い快速馬の評価が高い期間が存在した。しかしちょうど本馬が競走馬生活を送っていた時期から、短距離馬よりも、10ハロン前後の距離以上で活躍する中長距離馬が評価されるようになった。その理由には、本馬の1歳年上のエクスターミネーター、同世代のサーバートン、そして本馬と戦う機会が無かった1歳年下のマンノウォーといった馬達の存在が大きく、1930年にギャラントフォックスがプリークネスS・ケンタッキーダービー・ベルモントSを全て制覇して「米国三冠路線」が確立されると、その傾向に一層拍車がかかった。

同じ一流短距離馬でも本馬より少し前に走ったローズベンパンザレタは比較的早い段階で米国競馬の殿堂入りを果たした(前者は制度創設翌年の1956年、後者は1972年に殿堂入り)のに対して、本馬は忘れ去られていた。しかし米国競馬名誉の殿堂博物館の歴史研究家は、埋もれていた本馬の業績を精査し、顕彰馬として相応しいと判断したのである。こうして本馬は1957年に既に殿堂入りしていた好敵手サーバートンから遅れること実に58年目にして米国顕彰馬の仲間入りを果たし、ようやくその実績に見合うだけの評価を得ることが出来たのだった。

筆者のように素性を隠している人間がこんなことを書いても殆ど効果はないだろうが、それでも筆者は改めてこう主張したい。「日本においても、古い時代の競走馬の成績を精査して、殿堂入りに相応しい馬を発掘するべきである」と。

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