ダンシングブレーヴ

和名:ダンシングブレーヴ

英名:Dancing Brave

1983年生

鹿毛

父:リファール

母:ナヴァホプリンセス

母父:ドローン

驚異的末脚を武器に凱旋門賞など欧州の大競走を次々に制覇した1980年代欧州最強馬は、数奇な運命により日本を終の棲家とする

競走成績:2・3歳時に英仏米で走り通算成績10戦8勝2着1回

その驚異的な末脚から、1980年代欧州最強馬と言われる無双の名馬。日本における知名度も抜群だが、その理由は卓越した競走能力だけではなく、諸々の事情により欧州では種牡馬として見切りをつけられてしまい、日本に輸入されて成功を収めたためでもある。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州の共同馬主団体だったグレンオークファームが、母ナヴァホプリンセスを預託していたケンタッキー州テイラーメイドファームにおいて誕生した。幼少期は取り立てて目立つ馬ではなく、「上顎と下顎の咬み合わせがオウムのように悪く、顔にへばりつくように付いた両目は小さかった。前脚は不完全であり、前のめりになって歩いていた」と酷評されている。父リファールもあまり見栄えが良い馬ではなく、本馬は後にリファール産駒の典型的な見本であるとも言われた。ただし「体格的には全体的に美しくバランスが取れた馬」とも評されている。

1歳時に出品されたのは、期待馬が集まるセレクトセールではなく、ファシグティプトン社が実施したセリの方だった。このセリにおける本馬の紹介文が当時のカタログに残っている。その内容は「歩様が良い優れた子馬ですので、もう1度よく見てあげてください」という、執筆者の苦労が見え隠れするものだった。

このセリにおいて本馬は、サウジアラビアのハーリド・ビン・アブドゥッラー王子の代理人だったジェームズ・デラフーク氏により20万ドルで購入された。同じセリでは、後に名マイラーとして鳴らすソニックレディもドバイのシェイク・モハメド殿下により購入されているのだが、その取引価格は50万ドルであり、この当時における本馬の評価はその程度のものだった。もっとも「1歳馬を見る目では世界最高の人物」と評されたデラフーク氏は「ダンシングブレーヴよりソニックレディのほうが良い子馬でした」としながらも、「外見的な欠点を補って余りある、自由で伸び伸びとした動きと、強靭な心臓を有していました」と評価している。本馬の馬名「勇敢な踊り」はこの伸び伸びとした動きから来ているようである。

アブドゥッラー王子の所有馬となった本馬は、当初は英国ジェレミー・ツリー調教師(やはりアブドゥッラー王子の所有馬だった凱旋門賞馬レインボークエストを手掛けていた)に預けられる予定だった。しかしツリー師が本馬を評価しなかったため、代わりに英国ガイ・ハーウッド調教師に預けられた。ハーウッド師は、米国流の調教方法や、当時は一般的ではなかったコンピュータ管理システムを導入するなど、様々な近代的調教方法を試みていた新進気鋭の調教師だった。

誕生日が5月11日と北半球産馬としては遅生まれだった本馬は、調教を開始するのは生誕後2年と3か月が経ってからという英国競馬の常識に照らすと、初期は比較的軽い調教から始められるのが普通だった。しかしハーウッド師の考え方は違っており、2歳5月という早い段階から本馬を鍛え上げていった。しかし7月に風邪を引いたこともあって、デビュー自体は少々遅くなった。

競走生活(2歳時)

2歳10月にサンダウンパーク競馬場で行われたドーキングS(T8F)で、主戦となるグレヴィル・スターキー騎手を鞍上にデビューした。単勝オッズ2倍で4頭立ての1番人気に支持されると、2着マイティメモリーに3馬身差をつけて楽勝した。

11月にニューマーケット競馬場で行われたソーハムハウスS(T8F)が2戦目となった。事前の調教において、ウィリアムヒルフューチュリティS・チェシャムSの勝ち馬でデューハーストS2着の実績があった同馬主同厩馬バカロフとの併せ馬で楽々と先着していたことが報道されたため、ここでも11頭立ての1番人気に支持された。そして残り1ハロン半地点でスパートすると、2着ノーザンアメジストや3着ニスナス以下に2馬身半差で快勝した。

2歳時はこの2戦のみでグループ競走出走は無く、国際クラシフィケーションにおいても2歳馬トップのバカロフより11ポンドも低い112ポンド止まりであった。それにも関わらず、翌年の英2000ギニーの前売りオッズにおいては11倍の1番人気に支持されたことから、如何にその素質が高く評価されていたかが伺える。

競走生活(3歳初期)

3歳時は4月のクレイヴンS(英GⅢ・T8F)から始動して、単勝オッズ2.375倍の1番人気に支持された。重馬場でのレースだったためか、スタート後はなかなか行き脚が付かなかった。それでも11頭立ての5番手追走から、残り2ハロン地点で弾けて先頭に立った。そして2着ファラウェイダンサーに1馬身差、3着マシュクールにはさらに半馬身差をつけて勝利した。

次走の英2000ギニー(英GⅠ・T8F)では、英シャンペンS・コヴェントリーSの勝ち馬でデューハーストS3着のシュアブレード、デューハーストSの勝ち馬ハンティングデール、レパーズダウンS・レパーズタウン2000ギニートライアルSの勝ち馬トカマデラ、サドラーズウェルズの2歳年下の全弟である愛ナショナルSの勝ち馬テートギャラリー、ジュライS・フライングチルダースS・ヨーロピアンフリーHの勝ち馬グリーンデザート、ヴィンテージS・グリーナムSの勝ち馬ファウストゥス、後にビワハヤヒデの父となるシャルード、ジョエルSの勝ち馬でグリーナムS3着のホールゲート、ギシュ賞2着馬ヘイルトゥロベルトなど14頭との対戦となった。本馬が単勝オッズ2.875倍の1番人気に支持され、シュアブレードが単勝オッズ4倍の2番人気、ハンティングデールが単勝オッズ9倍の3番人気、トカマデラとテートギャラリーが並んで単勝オッズ11倍の4番人気となった。

このレースには積極的に行こうとする馬がいなかったため、先頭に押し出されたヘイルトゥロベルトが作り出すペースは極端なスローとなり、本馬は4番手を進む先行策を採った。残り2ハロン地点で単勝オッズ13倍の6番人気馬グリーンデザートが抜け出して先頭に立とうとしたが、その後方から来た本馬がグリーンデザートを瞬く間に差し切った。最後は2着グリーンデザートに3馬身差、3着ハンティングデールにはさらに1馬身半差をつけて楽勝した。グリーンデザート鞍上のウォルター・スウィンバーン騎手は後年になって「勝てると思った次の瞬間にダンシングブレーヴに差されてしまいました」と述懐している。

英ダービー

しかし英2000ギニーは確かに楽勝ではあったが、これだけの快速馬にとって英ダービーでは距離が長いのではないかという距離不安説が囁かれるようになった。英2000ギニーのレース後にスターキー騎手は「(英)ダービーの距離でも問題はありません」と自信を見せたが、ハーウッド師はそれほど楽観視していなかったという。しかし、同厩馬のバカロフがリングフィールドダービートライアルSで2着に負けてしまった事もあり、陣営はバカロフを仏ダービーに向かわせ、本馬を英ダービー(英GⅠ・T12F)に参戦させることを決定した。

対戦相手は、サンダウンクラシックトライアルS・ダンテSを連勝してきたシャーラスタニ、プレドミネートSを勝ってきたアレミロード、クレイヴンSで本馬の2着に敗れた後にディーSを勝ってきたファラウェイダンサー、クレイヴンSで本馬の3着に敗れた後にリングフィールドダービートライアルSを勝ってきたマシュクール、ソラリオSの勝ち馬で仏グランクリテリウム2着・遠征先の米国で参戦したケンタッキーダービーでもファーディナンドの2着と好走していたボールドアレンジメント、後に日本で種牡馬入りするデリンズタウンスタッドダービートライアルS2着馬ワイズカウンセラー、グレフュール賞・サンロマン賞の勝ち馬でリュパン賞2着の仏国調教馬アロカー、チェスターヴァーズを勝ってきたウィリアムヒルフューチュリティS2着馬ノムルード、愛2000ギニー・ベレスフォードS・テトラークSなど5連勝中のフラッシュオブスティール、英2000ギニーで着外だったシャルードなど16頭だった。距離不安説にも関わらず本馬が単勝オッズ3倍の1番人気(日本では単勝オッズ1.5倍だったという説がまかり通っているが計算誤りである)に支持され、シャーラスタニが単勝オッズ6.5倍の2番人気となった。

スタートが切られるとノムルードが逃げを打ち、シャーラスタニなどがそれを追走。一方、前走後に見せた自信とは裏腹に、スターキー騎手は本馬のスタミナ能力に不安を抱いていたようで、後方待機策を採った。しかしレースは極端なスローペースとなり、しかも本馬は馬群に包まれて進出することが出来なかった。そして後方のまま、17頭立ての14番手で直線を向くことになった。前方では、逃げ粘るノムルードを残り2ハロン地点でシャーラスタニがかわして先頭に立ち、そのまま一目散にゴールを目指していた。しかしそこへ大外から本馬が鬼脚を使って猛然と追い上げてきた。残り2ハロン地点では12馬身ほどあったシャーラスタニとの差をみるみる縮めてきたが、シャーラスタニをかわしたのはゴールラインを過ぎた直後だった。粘り切ったシャーラスタニが栄冠を手にし、本馬は半馬身差の2着に敗れてしまった。

ラスト1ハロンにおける本馬の走破タイムは10秒3であり、芝が深い上にゴール直前は急な登り坂となっているエプソム競馬場で出せるようなタイムではなかった(しかもこの日の馬場は稍重だった)。しかしこのような究極の末脚をもってしても届かなかった事は、要するに道中の位置取りが後方過ぎたことを証明するものでもあった。そのため、消極的なレース運びをしたとして、鞍上のスターキー騎手は各方面から轟々たる非難にさらされる事になった。しかし、この敗因はペースが異常に遅すぎたためであって、スターキー騎手の責任ではないとする意見も散見され、ハーウッド師も同意見であった。しかし今日においても、英ダービーの敗因は騎乗ミスであるとする意見が主流となっているようである。いずれにしても欧州において本馬が語られる際には、凱旋門賞勝利や種牡馬入り後の数奇な経緯よりも、この英ダービーの事が取り上げられることが多く、「史上最も不運な英ダービーの敗者」「英ダービーを勝てなかった史上最高の馬」と言われている。このレースも「シャーラスタニが勝った英ダービー」ではなく「ダンシングブレーヴが勝てなかった英ダービー」として語られる場合が殆どである。

なお、このレース後にドバイのシェイク・モハメド殿下が本馬の種牡馬権利を売ってほしいとアブドゥッラー王子に持ちかけ、取引が成立して引退後はモハメド殿下所有のダルハムホールスタッドで種牡馬入りすることが決定したが、現役中はアブドゥッラー王子所有のまま走ることになった。

競走生活(3歳中期)

次走は愛ダービーではなくエクリプスS(英GⅠ・T10F)となった。対戦相手は、マルセルブサック賞・愛2000ギニーを勝ち英オークス・コロネーションCで2着していた4歳牝馬トリプティク、前年のアーリントンミリオンを筆頭にクイーンエリザベスⅡ世S・愛国際S2回などを勝ちクイーンエリザベスⅡ世S・ロッキンジSで2着していたテレプロンプター、英ダービーで着外だったボールドアレンジメントなどだった。本馬が単勝オッズ1.44倍という圧倒的な1番人気に支持され、トリプティクとテレプロンプターが並んで単勝オッズ10倍の2番人気となった。スタートが切られるとボールドアレンジメントが先手を取り、本馬やトリプティクは馬群の中団5~6番手辺りを追走した。四角手前で外側をまくったトリプティクが本馬に先んじて残り2ハロン地点で先頭に立ったが、ここから「息を呑むほどの」豪脚を繰り出した本馬が一瞬にして差し切り、2着トリプティクに4馬身差をつけて圧勝した。

次走のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ・T12F)では、首の怪我で騎乗できなかったスターキー騎手に代わって、パット・エデリー騎手が騎乗した。ここでは、トリプティクに加えて、英ダービー勝利後に出走した愛ダービーを8馬身差で圧勝してきたシャーラスタニ、前年の同競走とプリンセスオブウェールズSの勝ち馬でコロネーションC・プリンセスオブウェールズSで3着してきたペトスキ、プリンセスオブウェールズS・カンバーランドロッジS・セントサイモンSを勝っていた4歳牡馬シャーダリなどが対戦相手となった。シャーラスタニが単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持され、単勝オッズ2.5倍の本馬は生涯唯一の2番人気だった。

スタートが切られると、ペトスキのペースメーカー役だったボールドインとバウチセーフの2頭が猛然と先頭を飛ばして後続を引き離し、大きく離れた3番手をシャーダリ、4番手をシャーラスタニが追走。一方の本馬は当初こそ後方2番手を進んだが、過去に同競走において後方からレースを進めて勝った馬はダリアなど数頭しかおらず少数派だったことから、エデリー騎手の判断によりいつもより早めに三角辺りで仕掛けた。そして四角で外に持ち出すと、先に抜け出していたシャーダリを残り1ハロン地点でかわして先頭に立った。ゴール前で少し脚が鈍ったが、そのまま押し切って2着シャーダリに3/4馬身差、3着トリプティクにはさらに4馬身差をつけて勝利した。レース前に焦れ込んで発汗していたシャーラスタニはトリプティクからさらに5馬身差の4着だった。もっとも、一度かわしたシャーダリにゴール前で迫られたことから、レース後にエデリー騎手は「早く仕掛けすぎました」と語っている。

なお、日本では英ダービーの敗戦が原因でスターキー騎手は本馬の鞍上を降ろされたと言われる事が多いのだが、それはまったく間違いではないにしても、あまり正確な論調とは言えない。陣営は英ダービー後もスターキー騎手を本馬に乗せ続けるつもりであり、現に英ダービーの次走エクリプスSではスターキー騎手が騎乗している。キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSにおいて負傷欠場したスターキー騎手に代わって騎乗したエデリー騎手も「私はこのレースだけ乗るつもりでした」と語っている。しかしこのキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSが終わった後になって、エデリー騎手は陣営から「凱旋門賞でも乗ってもらう」と言われたという。首の怪我が災いして本馬の主戦を降板することになったスターキー騎手も、1989年に引退するまでの33年間の騎手生活において、シャーリーハイツで制した英ダービーを含む英国クラシック競走5勝や、スターアピールで制した凱旋門賞など、合計1989勝を挙げた一流騎手なのだが、彼が2010年に癌のため70歳で死去した事実を報じる新聞記事はどれもこれも「英ダービーでダンシングブレーヴに騎乗して失敗した」という注釈付きであり、殆どの読者はそれを無条件に受け入れたという。歴史的名馬は時に関わった人間の人生をも狂わせると言うが、競馬史上にはスターキー騎手以外にも肝心なところで失敗をしでかした騎手が少なくない(1957年のケンタッキーダービーでギャラントマンに騎乗したウィリアム・シューメーカー騎手や、1970年の凱旋門賞でニジンスキーに騎乗したレスター・ピゴット騎手など)中で、彼一人だけが他の多くの功績を無視して一つのレースのことばかり言われ続けるのは不条理だと感じるのは筆者だけであろうか。

競走生活(3歳後期)

秋は凱旋門賞を目指して、地元英国のグッドウッド競馬場で行われるセレクトS(英GⅢ・T10F)から始動した。このレースにおける鞍上はスターキー騎手だった。道中は逃げ馬を見るように4番手を先行し、残り2ハロン地点で抜け出すと、鞍上のスターキー騎手が一回も鞭も使うことなく、2着オゾプルマンに10馬身差をつけて2分04秒81のコースレコードで圧勝した。

次走が本番の凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)となった。この年の凱旋門賞は、シーバードが優勝した1965年に匹敵すると言われるほど史上稀に見る豪華メンバーが揃った。キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSから直行してきたシャーラスタニ、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS2着後にマッチメイカー国際S(現・英国際S)を勝ってきたスターキー騎手騎乗のシャーダリ、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS3着後にマッチメイカー国際S2着・愛チャンピオンS3着だったトリプティクといった既対戦組の他に、驚異的なレコードタイムで完勝した仏ダービーを筆頭にノアイユ賞・オカール賞・ニエル賞など5連勝中だった当時の仏国最強馬ベーリング、独ダービー・アラルポカル2回・サンクルー大賞・ベルリン大賞・バーデン大賞・ヘルティー国際大賞・ウニオンレネン・メルセデスベンツ大賞・ゲルリング賞など12連勝中だった当時の独国最強馬アカテナンゴ、ヴェルメイユ賞・プシシェ賞を勝ってきたダララ、コロネーションC・モーリスドニュイユ賞・アルクール賞の勝ち馬でサンクルー大賞2着のサンテステフ、ロワイヤルオーク賞・ロワイヤリュー賞・フォワ賞の勝ち馬でガネー賞2着のマージー、ハードウィックS・セプテンバーSの勝ち馬ディヒスタン、ドラール賞・リス賞の勝ち馬イアデス、ドーヴィル大賞・エドヴィル賞の勝ち馬で前走オイロパ賞2着のベイビーターク、ブランドフォードS2連覇のネメイン、南米のチリから挑戦してきたラスオークスの勝ち馬マリアフマタ、日本から欧州に長期遠征に旅立ち前走のフォワ賞でマージーの首差2着と好走していた東京優駿優勝馬シリウスシンボリなど、世界各国の有力馬が参戦していた。どの馬達も順調に調整されており、目移りするほどだったが、単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持されたのは本馬であった。

スタートが切られると、まずはダララが先頭に立ち、しばらくしてベイビータークが先頭を奪った。一方、エデリー騎手鞍上の本馬は後方待機策を採った。レースはスローペースで進行したが、それでもキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSで早く仕掛けすぎたと感じていたエデリー騎手はひたすら後方で我慢していた。そして直線に入ると、シャーダリ、ダララ、シャーラスタニ、ベーリング、トリプティクなどが抜け出して横一線に広がり、叩き合いを開始した。残り200m地点でも本馬の姿は上位10頭以内におらず、先に抜け出した馬達のいずれか、特にその中で最も脚色が良かったベーリングが勝ち馬になるかと思われた。しかし次の瞬間、大外から突如出現した本馬が、「衝撃的な爆発力」で瞬く間に内側の馬達をごぼう抜きにしてしまった。最後は2着ベーリングに1馬身半差をつけ、2分27秒7のコースレコードで優勝。ラスト1ハロンの走破タイムは10秒8と言われており、まさしく他馬が止まっているかのように見える素晴らしい末脚であった。

「凱旋門賞史上最も素晴らしいレース」といわれたこの1戦で、本馬はシーバード、リボー、ニジンスキー、ブリガディアジェラードミルリーフといった歴代欧州最強馬の系譜を受け継ぐ存在としての地位を確立したと言える。

続いて米国遠征した本馬は、サンタアニタパーク競馬場で行われたBCターフ(米GⅠ・T12F)に出走した。対戦相手は、アーリントンミリオン・サンタアナH・ゲイムリーH・ラスパルマスH・イエローリボン招待S・オークツリー招待SとGⅠ競走6勝の名牝エストラペイド、ユナイテッドネーションズH・ターフクラシックS・シネマH・レキシントンS・スコッチクラシックSと5連勝中のマニラ、日本から遠征してきた皇帝シンボリルドルフを破った7か月前のサンルイレイSを筆頭にリュパン賞・センチュリーH・サンフアンカピストラーノ招待Hなどを勝っていたダハール、凱旋門賞で6着だったダララ、前走オークツリー招待Sで2着だった前年のデリンズタウンスタッドダービートライアルSの勝ち馬で愛ダービー2着のシアトリカル、ダイアナH・ボーゲイHの勝ち馬でマンノウォーS2着のデューティーダンス、伊オークス・EPテイラーSの勝ち馬アイバーズイメージ、レムセンS・ラトガーズHなどの勝ち馬でマンノウォーS3着のピラスターの計8頭だった。かなり強力なメンバー構成ではあったが、本馬が単勝オッズ1.5倍という圧倒的な1番人気に支持され、エストラペイドとシアトリカルのカップリングが単勝オッズ3.7倍の2番人気、マニラが単勝オッズ9.8倍の3番人気となった。ここでは本馬が勝てるかどうかではなく、本馬がどのように勝つのかが焦点とされるほどだった。

スタートが切られるとエストラペイドが猛然と飛ばして先頭に立ち、本馬は例によって後方を追走した。向こう正面に入るところで外側から位置取りを上げていき、三角手前では4番手まで押し上げてきた。そして四角で外側を通ってさらに位置取りを上げようとしたが、今ひとつ伸びが無く、結局は4番手のままで直線を向くことになった。そして直線でも伸びずに、前を行くエストラペイド、シアトリカル、マニラの3頭に引き離されていった。結局はマニラが優勝し、本馬は6馬身3/4差の4着と完敗してしまった。

この敗因については色々取り沙汰されているが、海外の資料において言われている主要な意見は「レース中にダートコースを横切った際に、土の塊が目に入ってしまい、視界不良のまま走っていた(サンタアニタパーク競馬場の芝12ハロン戦はスタート後3ハロン地点でダートコースを横切る形態になっている。同年のサンルイレイSでシンボリルドルフが同じ場所で脚を痛めて敗戦したのも有名な話である)」と「この年のカリフォルニア州は猛暑に襲われており、ひどい脱水症状を起こしていた」の2説である。他にも「米国の平坦小回りコースが、後方からレースを進めるタイプの馬には合わなかった」「長距離遠征により食欲が落ちて体調が万全でなかった」という説も有力である。日本では「英ダービーでも負けているように実は左回りが苦手だった」説も言われているが、英ダービーのレース内容をよく知る海外の識者で、そのような論調を張る者はおそらく皆無である。

このレースを最後に3歳時8戦6勝の成績で競走馬を引退した。この年の英年度代表馬には満票で選出された。英年度代表馬が満票で選出されたのは1971年のブリガディアジェラード以来15年ぶりだった。

競走馬としての評価

国際クラシフィケーションにおいては、当時史上最高値となる141ポンドが与えられた。英国・愛国・仏国・独国・伊国・西国・北欧・瑞国・墺国が加盟していた、1977年から始まったこの国際クラシフィケーションにおいて最高値が与えられたことにより、本馬は1977年以降における欧州史上最強馬として公式に認められる事になった。

この数値は長らく史上最高値として君臨していたが、国際クラシフィケーションがワールド・サラブレッド・レースホース・ランキングと名前を変えた後の2013年になって過去のレーティングの見直しが行われ、本馬の141ポンドは138ポンドに下方修正された。2012年まで現役だったフランケルが140ポンドの評価を受けたため、本馬は史上1位の座から陥落することになった。この報を耳にしたハーウッド師は「フランケルが上位の評価を受けたのでれば、ダンシングブレーヴより高い数値を与えればよいのであって、わざわざ数値を下げるというのは論理的意味を成さない」と激怒した上で、「数十年も世代が違う馬を比較することは出来ないでしょうから、ダンシングブレーヴが最高の競走馬であることに変わりはありません」とも述べた。

英タイムフォーム社のレーティングでは140ポンドであり、英タイムフォーム社のレーティングが総じて国際クラシフィケーションより5ポンド程度高いことを考慮すると、相対的に評価がやや辛めとなっている。もっとも、それでも高い数値であることには変わりが無く、英タイムフォーム者の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が1999年に出した“A Century of Champions”においても、「過去25年における英国平地競馬において最も偉大な馬」という評価をされている。

競走馬としての特徴

競走馬としての本馬の最大の特徴は、やはりその尋常ならざる瞬発力であろう。スタート直後の加速力には欠けており、そのために後方からのレースとなる場合が殆どだったが、非常に低い姿勢で走りながら徐々にストライドを伸ばしていき、そしてそのストライドが十分なものに達すると、ジェット機のような爆発的な末脚を発揮した。

体格については、幼少期こそ目立たなかったが、最終的には体高16.1ハンドまで達している。しかし姿勢が低い走り方のためか、映像などで本馬を見ても、それほど大きい馬という印象は受けない。

あと気性面に関してだが、種牡馬として出した産駒は全体的に気性が難しかったことから、父である本馬も気性難だったのではと考える人もいるようだが、本馬自身は気性難とはまったく無縁の馬であり、担当厩務員のビリー・グラハム氏は「とても穏やかで落ち着いており、最も従順な部類の馬でした」と述懐している。

血統

Lyphard Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos
Nogara
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
Natalma Native Dancer Polynesian
Geisha
Almahmoud Mahmoud
Arbitrator
Goofed Court Martial Fair Trial Fairway
Lady Juror
Instantaneous Hurry On
Picture
Barra Formor Ksar
Formose
La Favorite Biribi
La Pompadour
Navajo Princess Drone Sir Gaylord Turn-to Royal Charger
Source Sucree
Somethingroyal Princequillo
Imperatrice
Cap and Bells Tom Fool Menow
Gaga
Ghazni Mahmoud
Sun Miss
Olmec Pago Pago Matrice Masthead
La Patrice
Pompilia Abbots Fell
Pagan Queen
Chocolate Beau Beau Max Bull Lea
Bee Mac
Otra Equipoise
Tenez

リファールは当馬の項を参照。

母ナヴァホプリンセスは米国産馬で、グレンオークファームの所有馬として米国で走り35戦16勝。モリーピッチャーH(米GⅡ)・フォールズシティH(米GⅢ)・ヴァイオレットH・プリンセスドリーンH・リグレットH・レッドバンクH・プロミスH・スワニーリヴァーHなどに勝利した活躍馬である。繁殖牝馬としても優秀で、本馬の全妹ジョリファ【仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)・3着BCクラシック(米GⅠ)】などを産んでいる。本馬の半姉エピルネイ(父ササフラ)の孫には日本で走ったバグパイプウィンド【大井金盃】、曾孫にはビービーコモン【ステイヤーズC・王冠賞】が、ジョリファの孫にはレッドウッド【ノーザンダンサーターフS(加GⅠ)】がいる。

ナヴァホプリンセスの半弟にはソルジャーボーイ(父テュミガ)【マサチューセッツH(米GⅢ)】がいるほか、ナヴァホプリンセスの全妹パサマクォディーの孫には日本で走ったメイショウベルーガ【日経新春杯(GⅡ)・京都大賞典(GⅡ)・2着エリザベス女王杯(GⅠ)】が、ナヴァホプリンセスの半妹ダーリングレディ(父アレッジド)の孫にはサンドスプリングス【ダイアナH(米GⅠ)・レイクプラシッドH(米GⅡ)・ジャストアゲームBCH(米GⅡ)】が、ナヴァホプリンセスの半妹アルズダーリン(父アリダー)の子にはグリーンダーリン【デラウェアH(米GⅡ)】がいる。

ナヴァホプリンセスの母オルメックの半妹チップオチョコレートの孫には日本で走ったタイセイブレーヴ【兵庫ジュニアグランプリ(GⅢ)】、曾孫にはバンブーアズーリ【尾張名古屋杯】がいる。オルメックの母チョコレートビューの半姉レタマの子にはレサカ【CCAオークス】、タマロナ【セリマS】が、チョコレートビューの半妹ボニーグーグルの子にはボニーアンドゲイ【メイトロンS】、玄孫世代以降には日本で走ったデルタブルース【菊花賞(GⅠ)・メルボルンC(豪GⅠ)・ステイヤーズS(GⅡ)】、レッドデイヴィス【シンザン記念(GⅢ)・毎日杯(GⅢ)・鳴尾記念(GⅢ)】がいる。→牝系:F3号族②

母父ドローンはサーゲイロードの直子で、現役時代にグループ競走の出走は無いが4戦無敗の成績を残した。種牡馬としても複数のGⅠ競走勝ち馬を含む44頭のステークスウイナーを出して成功したが、母父としては100頭以上のステークスウイナーを出して大成功している。

競走馬引退後(英国時代)

競走馬を引退した本馬は、総額1400万ポンド(当時の為替レートで約35億円)という巨額のシンジケートが組まれ、英国ダルハムホールスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料も12万ポンドと破格の金額だった。

しかし、種牡馬生活最初のシーズンが終わった1987年の11月、本馬はマリー病(肥大性肺骨種)という病気を発症してしまった。これは基本的には鳥の病気であり、馬が発症することは稀なのだが、馬の罹患例が少ないだけに研究は進んでおらず、予後も悪いことから、奇病として知られているものである。どうやら結核の一種であるらしく、症状は骨の肥大や骨膜の腫れ、それに伴う痛みや高熱などであり、進行すると死に至る難病である(なお、人間にも同名のマリー病という病気があるが、正式名称シャルコー・マリー・トゥース病というこの病気は、神経に異常をきたす遺伝性疾患であり、本馬が罹患したマリー病とは別物らしい)。抗生物質の投与などによる治療が施され、症状は一段落して、生命の危機は脱した。しかしその後遺症かどうかは不明だが、翌1988年には受精率が大幅に低下してしまった(同年3月20日付けのニュー・サンデー・タイムズ紙の記事より)。

関係者が本馬の取扱いに頭を悩ませているうちに時は流れ、1990年になった。この年に本馬の初年度産駒がデビューしたが、その成績は極めて不振であり、翌1991年になっても成績向上の兆しは見られなかった。そのためダルハムホールスタッドは種牡馬としての将来に見切りをつけて売却先を模索し、もし見つからなければ安楽死も止むを得ないという判断に至ったという。

その話を聞きつけたのが日本中央競馬会だった。東京優駿優勝馬シリウスシンボリが出走していた凱旋門賞は多くの日本競馬関係者が注目して見ており、その凱旋門賞を完勝した本馬の知名度も日本ではかなり高かったのである。日本中央競馬会は早速、本馬の購入について検討を開始した。喧々諤々の大議論になったものの、最終的には「これほどの名馬を日本に導入する機会は滅多に無い」という意見が勝ったため購入を決断。

競走馬引退後(来日後)

350万ポンド(当時の為替レートで約8億2千万円)という、シンジケート額の4分の1の値段で買われた本馬は、1991年12月に日本の地を踏むこととなった。そして1992年から日本軽種馬協会静内種馬場において種牡馬生活を開始した。しかしマリー病という厄介な病気に罹患している事が嫌われて、日本においても当初はそれほど人気抜群の種牡馬というわけではなかった。初年度は50頭の繁殖牝馬が集まったが、マックスビューティ、エイシンサニー、サマンサトウショウなど一部の例外を除いて質的にはそれほど優秀とは言えなかった。

ところがこの1992年の秋にデビューした、欧州に残してきた3世代目産駒が大活躍したのである。まず、2歳戦ではイヴァンカがフィリーズマイルを勝つ活躍を見せた。イヴァンカは脚の骨折のため3歳戦を走ることなくこの世を去ったが、その代わりにコマンダーインチーフホワイトマズル、ウィームズバイトの3頭が1993年の欧州クラシック競走の勝ち馬となった。39頭しかいない3世代目産駒のうち8頭がグループ競走勝利馬となるという活躍ぶりを目の当たりにしてしまった欧州の競馬関係者は大いに嘆いた。なお、英国の一般紙で「早計な判断から起きた国家的な損失」という内容の社説が掲載されたと日本ではよく言われるが、具体的な新聞名が不明であり、筆者はその裏付けを取ることが出来なかった。

それはともかく、日本に輸入されていた愛国産馬のダンシングサーパスが1994年の宝塚記念で3着するなど活躍したこともあり、本馬は日本においても人気種牡馬となった。2年目はリンデンリリー、トウカイローマン、コスモドリーム、アラホウトクなど65頭の繁殖牝馬が、3年目もグッバイヘイロー、サクラレイコといった海外のGⅠ競走の勝ち馬を含む65頭の繁殖牝馬が集まった。

しかし4年目の1995年になって再び本馬をマリー病が襲った。僅かな気温の変化で体調を崩すほど状態は常に不安定で、抗生物質の副作用にも苦しめられたが、空調を導入して馬房の温度を徹底管理したり、専属スタッフと獣医師が傍に交代で常駐したりと、関係者の尽力もあって種牡馬生活を続行することができた。健康面を考慮して、毎年の種付け頭数は制限された。4年目は35頭、5年目は20頭、6年目の1997年は40頭の交配数だった。この1997年には、日本における2年目産駒キョウエイマーチが桜花賞を、日本における初年度産駒エリモシックがエリザベス女王杯を勝つなど活躍して、全日本種牡馬ランキングでは第6位に入った。そのために交配申し込みがさらに殺到し、翌7年目から種付け頭数制限は少し緩和されて50頭となった。それでも7年目・8年目の1999年ともに上限いっぱいの50頭の繁殖牝馬が集まった。

しかし1999年8月2日の早朝に本馬の体調が急変した。懸命の治療の甲斐なくその日の午後に心不全のため16歳で他界した。呼吸が止まり心臓も停止した後でも倒れることなく、4本の脚で立ち続けたままだったという、まさに名馬に相応しい最期であった。なお、日本に輸出された当時は、マリー病は完治したという触れ込みであり、日本における本馬の体調がまるで伝わっていなかったらしい欧州では、現在においても「ダンシングブレーヴはマリー病を克服した後に日本に輸出されており、彼の早世は欧州で病気と戦った後遺症のストレスによるものかもしれません」などという論調がまかり通っているようだが、それが誤りなのは日本人だけが知っている事である。海外の資料では日本輸出後における本馬の動向に関して全くといってよいほど触れられていないため、本馬の来日後からその死までの経緯に関しては、日本中央競馬会のウェブサイトに載っている吉沢譲治氏の文章を参考にさせていただいている。本馬の遺体は現在、静内種馬場軽種馬生産技術総合研修センターで剥製になっており、そこに行けば本馬の雄姿を見る事ができるという。

本馬の死後も産駒は活躍を続け、1997年から2001年まで5年連続で全日本種牡馬ランキング15位以内に入った。産駒のステークスウイナーは欧州と日本とを合わせて31頭以上となっているそうである。本馬の産駒は、欧州においては中距離戦を得意としたが、日本においては父同様に優秀な瞬発力を武器とする快速馬が多い。しかし穏やかな性格で現役時代に故障とは無縁だった父とは異なり、気性や体質に難がある産駒が多く、そのためかレースぶりにはムラがあった。

欧州に残してきた代表産駒のコマンダーインチーフやホワイトマズルはいずれも日本に輸入され、共にGⅠ競走勝ち馬を出している。日本における牡馬の代表産駒キングヘイローもGⅠ競走勝ち馬を出して成功している。しかし近年はサンデーサイレンスの直系に押されて目立たなくなっており、本馬の直系が残る可能性は小さくなっている。もっとも、本馬の血は仮に直系が途絶えたとしても、母系等を経由して日本に根付いていくものと思われる。既に母父としてメイショウサムソンやスイープトウショウなどを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1988

Glowing Ardour

シルケングライダーS(愛GⅢ)

1988

Zabar

エッティンゲンレネン(独GⅢ)・パース賞(仏GⅢ)・ミュゲ賞(仏GⅢ)・シュマンドフェルデュノール賞(仏GⅢ)

1990

Commander in Chief

英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)

1990

Infrasonic

クイーンズヴァーズ(英GⅢ)

1990

Ivanka

フィリーズマイル(英GⅠ)

1990

Rayseka

ロイヤルホイップS(愛GⅢ)

1990

Regency

オカール賞(仏GⅡ)

1990

Revere

ナポリ市大賞(伊GⅢ)

1990

Wemyss Bight

愛オークス(愛GⅠ)・マルレ賞(仏GⅡ)・ペネロープ賞(仏GⅢ)・クレオパトル賞(仏GⅢ)

1990

White Muzzle

伊ダービー(伊GⅠ)・ドーヴィル大賞(仏GⅡ)

1991

Brave Note

ニューハンプシャースウィープH(米GⅢ)

1991

Cherokee Rose

モーリスドギース賞(仏GⅠ)・スプリントC(英GⅠ)・パレロワイヤル賞(仏GⅢ)・ポルトマイヨ賞(仏GⅢ)

1991

Yenda

ロングアイランドH(米GⅡ)

1993

エリモシック

エリザベス女王杯(GⅠ)

1994

キョウエイマーチ

桜花賞(GⅠ)・桜花賞トライアル四歳牝馬特別(GⅡ)・ローズS(GⅡ)・阪急杯(GⅢ)・京都金杯(GⅢ)

1994

テイエムトップダン

毎日杯(GⅢ)

1995

エイシンワンサイド

新潟ジャンプS(JGⅢ)

1995

キングヘイロー

高松宮記念(GⅠ)・中山記念(GⅡ)・東京スポーツ杯三歳S(GⅢ)・東京新聞杯(GⅢ)

1995

ダンシングターナー

阪神スプリングジャンプ(JGⅢ)

1995

チアズニューパワー

新潟ジャンプS(JGⅢ)

1995

レオリュウホウ

セントライト記念(GⅡ)・日経賞(GⅡ)

1997

ジョウテンブレーヴ

マイラーズC(GⅡ)・東京スポーツ杯三歳S(GⅢ)・京阪杯(GⅢ)・エプソムC(GⅢ)

1998

テイエムオーシャン

阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)・桜花賞(GⅠ)・秋華賞(GⅠ)・札幌記念(GⅡ)・チューリップ賞(GⅢ)

1999

インターハイクラス

九州王冠(KG3)

2000

イシノダンシング

スパーキングサマーC(南関GⅢ)

2000

ノースダンシング

九州記念(KJ3)

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