タンティエーム

和名:タンティエーム

英名:Tantieme

1947年生

黒鹿

父:デュプールサン

母:テルカ

母父:インダス

欧州最強馬決定戦としての地位を確立した後の凱旋門賞を初めて連覇した歴史的名馬は種牡馬としても2度の仏首位種牡馬に輝く

競走成績:2~4歳時に仏英で走り通算成績15戦12勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

仏国ノルマンディー地方カルヴァドス県にあるウイイー牧場において、フランソワ・デュプレ氏により生産・所有された。ウイイー牧場は19世紀に設立された仏国の名門牧場で、1916年に仏国の事業家兼馬産家だった第4代ドゥカズ公爵ルイ・ジャン・ヴィクトル卿によって購入され、1930年にヴィクトル卿の友人だったデュプレ氏の所有となった。デュプレ氏は第一次世界大戦に従軍して負傷し、長期入院を余儀なくされたが、退院後にホテル事業に進出して成功を収めた人物で、1921年頃から友人ヴィクトル卿の影響で馬産にも興味を持つようになった。本馬は彼が所有した最初の超大物競走馬であり、後に彼の馬産家人生が成功する鍵を握る馬ともなった。後に数々の名馬を手掛けて仏国を代表する名伯楽となるフランソワ・マテ調教師に預けられ、2歳時にデビュー。

競走生活(2歳時)

デビュー戦のヴィラルマン賞(T900m)を3馬身差で快勝して勝ち上がった。しかし次走のロベールパパン賞(T1100m)では、後に英国でデューハーストSも制するエンペラー、後のシェーヌ賞・シュマンドフェルデュノール賞・ロンポワン賞の勝ち馬エピドールなどに屈して、エンペラーの6着に敗れてしまった。その後にロンシャン競馬場で出走したヴェリエ賞では、2着シャンデルに5馬身差をつけて圧勝。

次走の仏グランクリテリウム(T1600m)では、モルニ賞を勝ってきたクサリノールが強敵だったが、好位から鋭く伸びてゴール前で差し切り、2着クサリノールに頭差、3着ラミラルにはさらに鼻差をつけて勝利した。次走は当時2歳馬も出走可能だったフォレ賞(T1400m)となり、2着となった同世代のアランベール賞の勝ち馬カルダニルに2馬身半差をつけて勝利した。2歳時の成績は5戦4勝だった。

競走生活(3歳時)

3歳時は仏2000ギニーを目指してセーヴル賞(T1600m)から始動して、3馬身差で難なく勝利。本番の仏2000ギニー(T1600m)では、仏グランクリテリウム2着馬クサリノール、ダフニ賞など2戦無敗だった後の英ダービー馬ガルカドールなどが対戦相手となったが、ロジェ・ポワンスレ騎手を鞍上に迎えた本馬が、ガルカドールを半馬身差の2着に、クサリノールをさらに2馬身差の3着に退けて勝利した。

続くリュパン賞(T2100m)では、ノアイユ賞を勝ってきたラカドゥヴ、ダリュー賞の勝ち馬ダマスコなどが対戦相手となったが、2着ラカドゥヴに1馬身差で勝利した。

次走の仏ダービー(T2400m)では、ラカドゥヴ、グレフュール賞・ギシュ賞の勝ち馬スクラッチなどを抑えて1番人気に支持された。しかしレースではスクラッチと直線での大激戦となり、2頭が殆ど並んでゴールインした。結果はスクラッチが勝ち、本馬は短頭差2着だったが、この当時の仏国競馬では写真判定が未導入であり、この採決に不満を抱いたポワンスレ騎手は猛抗議をしたそうである。

その後は渡英して、アスコット競馬場でクイーンエリザベスS(T8F)に出走した。前年の凱旋門賞・仏1000ギニーの勝ち馬コロネーション、レゼルヴォワ賞・ギシュ賞の勝ち馬で前年の英ダービー2着のロイヤルドレイクなどが対戦相手となった。レースでは3着ロイヤルドレイクを6馬身引き離して本馬とコロネーションが接戦を演じた末に、本馬が頭差で勝利した。

その後は4か月間の休養を経て、秋の凱旋門賞(T2400m)に直行した。この凱旋門賞は2年前まではパリ大賞より格下のレースだったが、前年に優勝賞金が5倍に引き上げられ、欧州最強馬決定戦としての地位を獲得していた。対戦相手は、2連覇を狙うコロネーション、仏ダービーで本馬を破った後に英セントレジャーも勝っていたスクラッチ、本馬不在のパリ大賞で2着していたドーヴィル大賞・フォルス賞・リス賞の勝ち馬アリジェ、イスパーン賞・ジャックルマロワ賞・トーマブリョン賞・クリテリウムドメゾンラフィットの勝ち馬フォートナポレオン、ロワイヤルオーク賞・エスペランス賞を勝ってきたパン、サンクルー大賞・プランスドランジュ賞の勝ち馬ミディアム、オカール賞でラカドゥヴを2着に破って勝っていた仏グランクリテリウム3着馬ラミラル、前年のパリ大賞・仏オークス・ヴェルメイユ賞を勝ちこの年のカドラン賞・アスコット金杯で2着していたバゲーラ、ヴァントー賞の勝ち馬で前年の凱旋門賞2着のダブルローズ、愛ダービー・ベレスフォードS・ガリニュールSの勝ち馬ダークウォリアーなど11頭だった。コロネーションとスクラッチのカップリングが1番人気となり、ポワンスレ騎手に代わってジャック・ドワイヤベール騎手を主戦に迎えた本馬が単独の2番人気だった。しかしレースでは1番人気の2頭が伸びを欠くのを尻目に直線で伸びた本馬が、2着アリジェに1馬身半差、3着ラミラルにさらに2馬身差をつけて完勝。3歳馬にして仏国最強馬の地位を確立した。3歳時の成績は6戦5勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、まずは初戦のガネー賞(T2000m)を4馬身差で圧勝した。続いて英国に向かい、コロネーションC(T12F)に参戦。単勝オッズ1.29倍という断然の1番人気に応えて、2着サターンに3/4馬身差をつけて勝利した。

続いてこの年に創設されたばかりのキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(T12F)に向かった。この年は大英博覧会100周年記念行事として実施されたため、この年のみ正式名称は「キングジョージⅥ世&クイーンエリザベス英国博覧会S」だった。記念すべき第一回の優勝馬になりたいところだったが、ホーリスヒルS・チェスターヴァーズ・キングエドワードⅦ世Sの勝ち馬シュプリームコートが、2着となった後のコロネーションCの勝ち馬ズクロを3/4馬身差の2着に抑えて勝ち、本馬はズクロからさらに6馬身差をつけられた3着に敗退した。

その後はしばらく休養に充て、秋の凱旋門賞(T2400m)に直行した。仏1000ギニー・アランベール賞の勝ち馬でヴェルメイユ賞3着のジェルファ、イスパーン賞の勝ち馬ダイナマイター、ロベールパパン賞・フォレ賞・ラクープドメゾンラフィットの勝ち馬で仏グランクリテリム2着のファルサル、サンクルー大賞・アルクール賞・エドヴィル賞2回・ラクープドメゾンラフィット・コンセイユミュニシパル賞の勝ち馬ヴァイオロンセル、仏2000ギニー・ダフニ賞の勝ち馬で仏ダービー2着のフリーマン、サセックスS・オックスフォードシャーSの勝ち馬ルサージュ、前年の凱旋門賞6着後にアスコット金杯・グッドウッドCを勝っていたパン、前年の凱旋門賞3着後にプランタン大賞を勝っていたラミラル、伊共和国大統領賞・イタリア大賞を勝ってきた伊国最強馬ヌッチオ、コンデ賞・クリテリウムドメゾンラフィット・ジャンプラ賞の勝ち馬ルティロル、愛ダービー・ロイヤルロッジSの勝ち馬で英セントレジャー2着のフレイズデュボワ、リュパン賞・ユジェーヌアダム賞・トーマブリョン賞の勝ち馬でロワイヤルオーク賞3着のマッドコケーニュ、コロネーションC2着後にハードウィックSを勝っていたサターン、ドンカスターCの勝ち馬でロワイヤルオーク賞3着のファストフォックス、フィユドレール賞の勝ち馬ヒーロー、オーモンドSの勝ち馬オレインズグレイスなど18頭が対戦相手となった。今回は本馬が堂々の1番人気に支持された。そしてレースでは2着ヌッチオ(翌年に凱旋門賞を優勝する)に2馬身差をつけて完勝し、1922年のクサール、1937年のコリーダ以来14年ぶり史上3頭目の凱旋門賞連覇を達成した。ただし、クサールやコリーダの時代は凱旋門賞の格がそれほど高くなかったため、事実上本馬が史上初とも言える。このレースを最後に4歳時4戦3勝の成績で競走馬を引退した。

血統

Deux-Pour-Cent Deiri Aethelstan Teddy Ajax
Rondeau
Dedicace Val Suzon
Disadvantage 
Desra Corcyra Polymelus
Pearmain
Desna Desmond
Dympna
Dix Pour Cent Feridoon Hurry On Marcovil
Tout Suite
Ecurie Radium
Cheshire Cat
La Chansonnerie Mesilim Sans Souci
Malatesta
La Francaise Simonian
Keltoum
Terka Indus Alcantara Perth War Dance
Primrose Dame
Toison d'or Le Sancy
Harfleur
Himalaya Sardanapale Prestige
Gemma
Mountain Lass Ladas
Rydal Mount
La Furka Blandford Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Blanche White Eagle
Black Cherry
Brenta Sans Souci Le Roi Soleil
Sanctimony
Beaute de Neige Saint Just
Bellezza

父デュプールサンは、現役成績9戦3勝。パリ大賞・エスペランス賞・バダホス賞に勝ち、凱旋門賞で3着、ロワイヤルオーク賞で4着している。種牡馬としては本馬の活躍により1950年の仏首位種牡馬となったが、本馬以外にはあまり活躍馬はいない。デュプールサンの父デイリはロワイヤルオーク賞・ケルゴルレイ賞の勝ち馬。デイリの父エゼルスタンはテディ産駒で、主な勝ち鞍はダフニ賞・ゴントービロン賞と、現役時代はそれほど目立たなかったが、種牡馬としては1936年の仏国種牡馬ランキングで3位に入るなど一定の成功を収め、後に米国に輸出された。

母テルカは現役成績1戦未勝利。10頭の子のうち本馬を含む4頭がステークスウイナーとなっているが、本馬以外に目立つ活躍馬はいない。テルカの半弟にはチェスターフィールド(父アドミラルドレイク)【ロベールパパン賞・グレフュール賞】が、テルカの半妹ラトスカ(父メヘメトアリ)の曾孫には日本で走ったメイショウキング【カブトヤマ記念】が、テルカの母ラフルカの半弟にはタクソディウム【バルブヴィル賞・ラクープ・アルクール賞】、キャップノール【マレショー賞(現モーリスドニュイユ賞)】が、ラフルカの母ブレンタの半兄にはモンブラン【仏2000ギニー】、半弟にはモンベルニナ【ジョッキークラブC】、テレフェリック【仏グランクリテリウム・ユジェーヌアダム賞】がいるなど、本馬が誕生した当時は仏国におけるなかなかの名門牝系だった。しかしこの牝系は現在は平地競走馬の系統としてはあまり繁栄しておらず、テルカの牝系子孫も殆ど発展していない。→牝系:F20号族②

母父インダスは仏グランクリテリウム・クリテリウムドメゾンラフィット・仏2000ギニーを制した仕上がり早い快速馬だった。インダスの父アルカンタラは19世紀末における仏国最強馬パースの子で、競走馬としてはリュパン賞・仏ダービー・エクリプス賞・プランスドランジュ賞に勝ち、種牡馬としても1920・28年の仏首位種牡馬、1932・33年の仏母父首位種牡馬に輝く成功を収めた。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のウイイー牧場で種牡馬入りした。そして1962・65年の仏首位種牡馬に輝くなど成功を収めた。1966年に19歳で他界した。典型的な長距離血統で、代表産駒のマッチリライアンス兄弟やタネルコを経て直系はしばらく生きながらえ、タネルコの末裔にはメジロデュレンも出たが、現在ではほぼ見かけない血統となっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1953

Tanerko

リュパン賞・ガネー賞2回・サンクルー大賞2回・ノアイユ賞・アルクール賞・プランスドランジュ賞2回

1954

Brioche

グレートヴォルティジュールS・ヨークシャーC・ハードウィックS

1955

Agio

ベルリン大賞

1956

Regent

トーマブリョン賞・アルクール賞

1957

Marie Jolie

ロワイヨモン賞

1957

Tanata

シェーヌ賞・モートリー賞

1957

Tehuelche

リス賞

1958

Match

キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・ワシントンDC国際S・ロワイヤルオーク賞・サンクルー大賞・ノアイユ賞・ボイアール賞

1958

Oakville

ディーS

1959

La Sega

仏1000ギニー・仏オークス・サンタラリ賞・イスパーン賞・ロシェット賞・プティクヴェール賞・グロット賞

1960

Felicia

グロット賞

1961

Trade Mark

リス賞

1962

Reliance

仏ダービー・パリ大賞・ロワイヤルオーク賞・オカール賞

1963

Danseur

パリ大賞・ジャンプラ賞・カドラン賞・リス賞

1965

Zorba

クイーンズヴァーズ

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