ブッシャー
和名:ブッシャー |
英名:Busher |
1942年生 |
牝 |
栗毛 |
父:ウォーアドミラル |
母:ベビーリーグ |
母父:バブリングオーヴァー |
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同世代の牡馬や古馬より重い斤量を背負いながら活躍し3歳にして米年度代表馬に選出された第二次世界大戦中の米国競馬のヒロイン |
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競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績21戦15勝2着3回3着1回 |
牡馬相手に大競走を勝利したために男勝りの女傑と呼ばれる牝馬は少なくない。しかし通常、牝馬は牡馬よりも斤量面で優遇されており、牡馬と同斤量かそれより重い斤量を背負いながら大競走を勝利したという「真の」男勝りの女傑はかなり稀である、本馬は、牡馬(場合によっては古馬牡馬)より重い斤量を背負いながらも牡馬相手の大競走で勝ち星を積み重ねた馬であり、「真の」男勝りの女傑と呼ぶに相応しい馬である。現役時代の所有者がハリウッド映画の関係者だった事もあって、ハリウッド女優にも例えられる、米国競馬史上5本の指に入る名牝中の名牝である。
誕生からデビュー前まで
本馬の祖母ラトロワンヌをマルセル・ブサック氏から購入した米国の事業家兼馬産家エドワード・ライリー・ブラッドリー大佐により、彼が所有するケンタッキー州アイドルアワーストックファームにおいて生産・所有され、ジェームズ・スミス調教師に預けられた。小柄な馬として有名だった父ウォーアドミラルと同様に、本馬もかなり小柄な馬だったようである。
競走生活(2歳時)
2歳5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート4.5ハロンの未勝利戦で、テッド・アトキンソン騎手を鞍上にデビュー。2着ピンナップガールに半馬身差の僅差ながらデビュー戦勝利を挙げた。その後は小柄な本馬の成長を少し待つべきだと考えたスミス師の判断によりしばらく間隔を空け、8月のベルモントパーク競馬場ダート5.5ハロンの一般競走で復帰。そして4馬身半差で圧勝して期待に応えた。
2週間後のスピナウェイS(D6F)では、プリンスレベル、スカイラヴィルSの勝ち馬エースカード(後に1952年の米年度代表馬ワンカウントを産んで同年のケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選出)、翌年のテストSの勝ち馬セーフガードの3頭に届かず、勝ったプリンスレベルから3馬身3/4差の4着に敗れてしまった。しかしスタートで思いっきり出遅れて12頭立ての最後尾を走りながらも、ゴール前で4着まで追い込んできた強烈な末脚は逆に将来を期待させるものだったという。さらに2週間後に出走したアディロンダックH(D6F)では、エディ・アーキャロ騎手を鞍上に迎えた。ここでもスタートは悪かったが、9ポンドのハンデを与えた2着ウォーデイト(翌年にモデスティH・アーリントンメイトロンH・ベルデイムH・レディーズHを勝っている)に2馬身差をつけて勝利した。このときの勝ちタイム1分11秒6は、同条件で行われた前走スピナウェイSにおけるプリンスレベルの勝ちタイム1分12秒2より0秒6速く、本馬が確実に成長している事を示すものだった。
その後は9月のメイトロンSを目標として、本番4日前にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走。しかし11ポンドのハンデを与えたノマディックの頭差2着に敗れた。しかし走破タイムは1分08秒6(同条件で行われた前走アディロンダックHより3秒も速い)というとんでもないもの(今日で言えば、BCスプリントで十分に勝ち負けできる。しかし速すぎてこの数字は本当に正確なのだろうかという疑念も感じざるを得ないのだが・・・)であり、これは勝ったノマディックと本馬のいずれも褒めるべきだろう。
本番のメイトロンS(D6F)では、ケンタッキーオークス馬トゥーボブの娘で、米国顕彰馬トゥーリーの全姉であるトゥーズィーを首差の2着に、プリンスレベルを3着に、ノマディックを4着に抑えて勝利した。勝ちタイムは前走よりは遅かったが、それでも1分09秒4というかなり優れたものだった。次走のセリマS(D8.5F)では、同世代の名牝ギャロレットと最初で最後の顔合わせとなった。本馬にとって生涯唯一の重馬場でのレースとなった上に、やはりスタートダッシュが悪かった。しかし向こう正面で早めに進出すると、2着エースカードに3馬身差をつけて完勝。ギャロレットはエースカードからさらに2馬身半差の3着に敗れた。2歳時は7戦5勝の成績で、この年の米最優秀2歳牝馬に選ばれた。
競走生活(3歳前半)
3歳時は第二次世界大戦の激化によって競馬が1月から5月まで行われなかった事に加えて、既にブラッドリー大佐が高齢になっていた(この翌年1946年に86歳で死去)事もあり、彼は所有馬の多くを手放した。3月に本馬はルイス・バート・メイヤー氏によって5万ドルで購入され、スミス厩舎からジョージ・オドム厩舎に転厩し、今までの米国東海岸から米国西海岸を主戦場とする事になった。メイヤー氏は米国の大映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(通称MGM。全盛期には星の数よりも多いスターを擁すると評された)の創設者の一人で、ハリウッドの最高権力者として長年に渡り君臨した人物で、この時期には馬主活動にも熱心だった。
3歳時は5月にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動した。新たに主戦となったジョニー・ロングデン騎手を鞍上に、2着グローリータイムに5馬身差をつけて圧勝した。翌週のサンタスサナH(D7F・現サンタアニタオークス)では、ファッションSの勝ち馬ミストを7馬身差の2着に、グローリータイムを3着に破って圧勝した。
さらに翌週に出たサンヴィンセントH(D8F)は、初の牡馬相手のレースとなった。それなのに他の牡馬勢よりも重い121ポンドのトップハンデを課されたが、それでも単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持されたという事実が、当時における本馬の評価を物語っている。レースでは道中で騎手を振り落として空馬になったクイックリワードという馬に進路を塞がれるというアクシデントがあったが、それに動じる事もなく、2着となったサンタカタリナHの勝ち馬シーソヴリン(シービスケットの代表産駒の1頭で、その当時に作成されたシービスケットを主人公とした映画でシービスケット役を演じている)に1馬身1/4差、3着ビスマークシーにはさらに7馬身差をつけて勝利を収め、1935年に創設された同競走初の牝馬制覇を達成した。勝ちタイム1分36秒6は、この年にサンタアニタパーク競馬場で行われた全てのダート1マイル競走の中で最速だった。
その2週間後には、牡馬相手のサンタアニタダービー(D9F)に参戦した。このレースは例年2月頃に施行されるのが通例(現在は4月)だったのだが、この年はケンタッキーダービーより1か月半遅れの6月下旬に施行されていた。その理由はサンタアニタパーク競馬場が1941年の真珠湾攻撃をきっかけに、この年の始めまで日系米国人の強制収容所として使用されていたため(本馬の3歳時は第二次世界大戦終戦の年である)であり、サンタアニタダービーの施行自体が4年ぶりだった(日系米国人の強制収容は米国のとんでもない黒歴史であるが、本馬には直接関係無いため、ここでは詳しく触れない)。本馬はここでも単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されたが、直線入り口3番手から末脚を伸ばすも、ブリーダーズフューチュリティ2着・ケンタッキーダービー6着の実績があった牡馬バイアミーボンド(この馬もかつてブラッドリー大佐の所有馬だったが、本馬と同じく他の馬主に売られていた)に捕まって半馬身差の2着に敗れた。敗因は外側を回しすぎたためであるとして、ロングデン騎手は批判を受けた。
それから11日後に出走したサンタマルガリータH(D8.5F)では、古馬に混ざって126ポンドのトップハンデを課せられた。しかし、デビュータントS・オータムデイS・テストS・ガゼルH・ダイアナHなどを勝っていた1歳年上のワーラボウトを1馬身半差の2着に、ケンタッキーオークスを勝っていた1歳年上のカニーナ(翌年のサンタマルガリータHはこの馬が勝っている)を3着に破って勝利した。
競走生活(3歳後半)
その後は東上して、シカゴにあるワシントンパーク競馬場の開催に参戦。初戦のクレオパトラH(D8F)では、2着トゥーズィーに4馬身半差、3着ウォーデイトにはさらに2馬身差をつけて圧勝した。次走は古馬牡馬相手のアーリントンH(D10F)となった。3歳牝馬である本馬は古馬牡馬よりも当然軽い斤量で出走できた、かと思いきや全然そんな事は無く、逆に本馬が古馬牡馬にハンデを与える側だった。それでも本馬は強く、2着となったスターズ&ストライプスH・リンカーンHの勝ち馬テイクウイングに5馬身差、3着となったこの年のハリウッド金杯3着馬サーデにさらに鼻差をつけて圧勝した。1929年に創設されて2015年現在まで続いているこのアーリントンHを勝った牝馬は歴史上本馬唯1頭である。
続いてビヴァリーH(D9F)に出走したが、牝馬としては酷な128ポンドを課せられた影響か、12ポンドのハンデを与えた1歳年上のデュラズナ(ブリーダーズフューチュリティS・ホーソーンジュヴェナイルHなどを制して、前年の米年度代表馬トワイライトティアーと並んで一昨年の米最優秀2歳牝馬に選ばれていた)と、26ポンドのハンデを与えたレットミーナウ(後にこの年のベルデイムHで2着している)の2頭に屈して、勝ったデュラズナから3馬身3/4差、2着レットミーナウから1馬身1/4差の3着に敗れた。デュラズナに騎乗していたジョージ・ウルフ騎手は、7年前のピムリコスペシャルにおいてシービスケットに騎乗して、本馬の父ウォーアドミラルを粉砕した憎むべき(?)相手だった。さらに書けば、サンタアニタダービーで本馬を負かしたバイアミーボンドに騎乗していたのも他ならぬウルフ騎手だった。
こうした因縁は当時の競馬関係者達も感じていたようで、それから11日後、ワシントンパーク競馬場ダート8ハロンにおいて、ロングデン騎手騎乗の本馬と、ウルフ騎手騎乗のデュラズナによる、米最優秀2歳牝馬同士の同斤量マッチレースが企画された。スタートが切られると、本馬とデュラズナが徹底的に競り合い、最初の2ハロンを23秒で通過した。この時点では僅かに本馬が前だったのだが、45秒6で通過した半マイル時点ではデュラズナが僅かに前だった。7年前のピムリコスペシャルと異なり、ゴール直前まで一騎打ちが続いたが、本馬が3/4馬身差で競り勝ち、父と自身の雪辱を果たした(しかし負けたデュラズナも見事な走りであった)。
このマッチレースの僅か5日後の9月3日、本馬はワシントンパークH(D10F)に出走。このレースには、シェリダンHを勝ちシカゴHで2着するなど頭角を現し始めていた後の米年度代表馬アームド(デュラズナと同じカルメットファームの生産・所有馬だった)も出走していた。年齢は本馬よりアームドのほうが1歳上だったのだが、斤量は本馬のほうが4ポンド重い設定となっていた。アームドより前の3番手につけた本馬は、ロングデン騎手が合図を送ると即座に反応して抜け出し、追い上げてきた2着アームドに1馬身半差、3着テイクウイングにはさらに1馬身差をつけて、コースレコードを13年ぶりに更新する2分01秒8の好タイムで完勝した。
その後は西海岸に戻り、ウィルロジャーズH(D8F)に出走。しかしさすがに疲労が出たのか、かつてのサンヴィンセントHで空馬になって本馬の邪魔をした牡馬クイックリワード(123ポンドの本馬より11ポンド斤量が軽かった)の頭差2着と苦杯を舐めた。しかし2週間後のハリウッドダービー(D9F)では早くも立ち直った。最初のコーナーを回る際に進路を失う場面がありながらも、かつて本馬を負かしたバイアミーボンドやクイックリワードなどの牡馬を蹴散らして、2着マンノグローリーに1馬身半差で勝利を収め、1938年に創設された同競走初の牝馬制覇を果たした。続いてヴァニティH(D8.5F)に出走した。ここでは126ポンドを課されたが、サンタマルガリータH3着後にラモナHを勝っていたカニーナを2馬身差の2着に破って快勝した。このレース後に脚に腫れ物が出来てしまったために、この年の出走はこれが最後となった。
3歳時の本馬は13戦10勝2着2回3着1回の見事な成績。しかも3度の敗戦で敗れた相手は全てその後のレースで打ち負かしていた。競馬作家のウィリアム・H・P・ロバートソン氏は著書“History of Thoroughbred Racing in America(アメリカのサラブレッド競馬の歴史)”の中で「ウォーアドミラルの小さな娘は必ず復讐を果たすという個性を持っていました」と書いている。そしてこの年の米最優秀3歳牝馬のタイトルは勿論、前年のトワイライトティアーに続いて牝馬として史上5頭目の米年度代表馬にも選出された(この年の最優秀ハンデ牡馬スタイミーが、本馬に敗れたアームドとの対戦で完敗した事や、米国三冠競走の勝ち馬が全て異なっていた事の影響もあったのだろう)。さらには3歳馬にして米最優秀ハンデ牝馬も単独で獲得。これも前年のトワイライトティアーに続く快挙だった(最初にこれを達成したのは1942年のヴェイグランシーであり、本馬は史上3頭目である)。なお、3歳で米最優秀ハンデ牝馬を獲得した馬は本馬以降にも6頭存在するが、そのうち単独で受賞したのは1947年のバットホワイノット(ちなみに本馬の従姉妹の子である)のみであり、他の5頭は古馬牝馬との同時受賞である。「サルヴェイター」の筆名で知られた米国の伝説的競馬作家ジョン・ハーヴェイ氏は、ブラッドホース誌の50周年記念号において、本馬はヨタンビエン(通算成績73戦44勝で1890年代米国におけるターフの女王と呼ばれた)を上回る米国競馬史上最高の女王であると賞賛した。
競走生活(5歳時)
4歳時は前年末に脚に出来た腫れ物が治癒せずに一戦も出来ず、5歳1月にサンタアニタパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走で復帰したが、ミスドリーン(米国顕彰馬プリンセスドリーンの娘)の5馬身差5着に敗退。次走に予定されていた11日後のサンパスカルHは、レース数時間前に回避した。
その直後の2月、所有者のメイヤー氏は、馬主業に手を広げすぎて本業の映画事業がおろそかになってしまったという名目で、所有馬全てをサンタアニタパーク競馬場で実施したセリで売却した(実際には、復帰初戦を飾れなかった本馬では、この年の目標に据えていたサンタアニタHを勝てそうに無かったために、競馬に対する情熱が一時的に薄れてしまったためだと言われている)。本馬は、メイヤー氏の部下だったネイル・マッカーシー氏によって13万5千ドルで購買された。しかしその後は1度もレースに出ることは無く、そのまま競走馬引退となった。
獲得賞金総額は33万4035ドルで、当時の北米賞金女王になった。なお、本馬は現役生活を通して2番人気以下になった事は一度も無く、人気も実力も抜群だった。馬名は英語で「(野球の)マイナーリーグの選手」という意味で、母の名前ベイビーリーグに由来するだけでなく、ブラッドリー大佐は自分の名前がBで始まるためか、所有馬にもBで始まる名前を付ける事が殆どだったためでもある。
血統
War Admiral | Man o'War | Fair Play | Hastings | Spendthrift |
Cinderella | ||||
Fairy Gold | Bend Or | |||
Dame Masham | ||||
Mahubah | Rock Sand | Sainfoin | ||
Roquebrune | ||||
Merry Token | Merry Hampton | |||
Mizpah | ||||
Brushup | Sweep | Ben Brush | Bramble | |
Roseville | ||||
Pink Domino | Domino | |||
Belle Rose | ||||
Annette K. | Harry of Hereford | John o'Gaunt | ||
Canterbury Pilgrim | ||||
Bathing Girl | Spearmint | |||
Summer Girl | ||||
Baby League | Bubbling Over | North Star | Sunstar | Sundridge |
Doris | ||||
Angelic | St. Angelo | |||
Fota | ||||
Beaming Beauty | Sweep | Ben Brush | ||
Pink Domino | ||||
Bellisario | Hippodrome | |||
Biturica | ||||
La Troienne | Teddy | Ajax | Flying Fox | |
Amie | ||||
Rondeau | Bay Ronald | |||
Doremi | ||||
Helene de Troie | Helicon | Cyllene | ||
Vain Duchess | ||||
Lady of Pedigree | St. Denis | |||
Doxa |
父ウォーアドミラルは当馬の項を参照。
母ベイビーリーグは米で走り11戦1勝だが、本馬の全弟ミスターブッシャー【アーリントンフューチュリティ・ナショナルスタリオンS】、全妹ストリーキング【スカイラヴィルS】、半弟ハーモナイジング(父カウンターポイント)【マンノウォーS・ナイアガラH】などを産んだ名繁殖牝馬である。
本馬の生産者ブラッドリー大佐は、気性が激しい事で有名だったヘイスティングス、フェアプレイ、マンノウォー、ウォーアドミラルと続く血統を“hot blood(激しすぎる血統)”と呼んで敬遠していたのだが、ウォーアドミラルとベイビーリーグの交配だけは例外的に実行していた。その理由はウォーアドミラルと、ベイビーリーグの父バブリングオーヴァーがいずれもベルモントSの勝ち馬スウィープを母の父に持っていた事と、ウォーアドミラルの小柄な馬体はその父マンノウォー似ではなくスウィープ似であるから、ヘイスティングスからウォーアドミラルまで続いた気性難はウォーアドミラル産駒には受け継がれにくいと周囲から説得を受けた事にあったという(しかし本馬自身の気性がどうだったのは資料に記載が無く不明)。
本馬の全妹ストライキングの子には、グラムール【テストS】、ヒッティングアウェー【ウィザーズS・ドワイヤーH・ロイヤルパームH2回・エクセルシオールH・バーナードバルークH】、バターアップ【ソロリティS・ブラックアイドスーザンS】、マイボスレディ【プライオレスS】と多くの活躍馬がいるが、それ以上にストライキングの牝系子孫の発展ぶりは素晴らしく、孫には、ボールドアンドブレーヴ【ジェロームH】、ポーカー【ボーリンググリーンH】、ブッチャー【英セントレジャー(英GⅠ)】、ランドスケイパー【センチュリーH(米GⅠ)】、エファヴェシング【マンノウォーS(米GⅠ)】が、曾孫には、ナンバードアカウント【スカイラヴィルS・スピナウェイS・メイトロンS・フリゼットS・セリマS・プライオレスS・テストS・マスケットH・マッチメイカーS・スピンスターS】、バジー【デラウェアH(米GⅠ)】が、玄孫世代以降には、プライヴェートアカウント【ワイドナーH(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)】、名種牡馬ウッドマン、リズム【BCジュヴェナイル(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)】、アサティス【伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)】、プロスペクターズディライト【アッシュランドS(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)】、ヘリテージオブゴールド【アップルブロッサムH(米GⅠ)・ゴーフォーワンドH(米GⅠ)】、トミシューズディライト【ラフィアンH(米GⅠ)・パーソナルエンスンH(米GⅠ)】、リダットーレ【エディリードH(米GⅠ)・シューメーカーマイルS(米GⅠ)】、マインシャフト【ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】、スマーティジョーンズ【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)】、フォルクローレ【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)】、フリートインディアン【パーソナルエンスンS(米GⅠ)・ベルデイムS(米GⅠ)】、シェイクスピア【ジョーハーシュターフクラシック招待S(米GⅠ)・ウッドバインマイル(加GⅠ)】、ディスタントウェイ【伊共和国大統領賞(伊GⅠ)2回】、スーパーセイヴァー【ケンタッキーダービー(米GⅠ)】、パーフェクトシャール【BCフィリー&メアターフ(米GⅠ)】など、書くのが嫌になるほどの活躍馬がいる。
それもそのはず、ベイビーリーグの母は米国のみならず世界屈指の名牝系の祖といえる根幹繁殖牝馬ラトロワンヌである。本馬の半妹ベッティーファーリー(父ジェームスタウン)の牝系子孫にはダンスカード【ガゼルS(米GⅠ)】がいる。また、本馬の半妹グランドリーグ(父グランドスラム)の孫マジックゴディスは日本に繁殖牝馬として輸入されて牝系を伸ばした。マジックゴディスの子にはモデルスポート【牝馬東京タイムズ杯・ダービー卿チャレンジトロフィー】、孫にはダイナアクトレス【毎日王冠(GⅡ)・スプリンターズS(GⅡ)・京王杯スプリングC(GⅡ)・函館三歳S(GⅢ)・京王杯オータムH(GⅢ)】、曾孫にはステージチャンプ【日経賞(GⅡ)・ステイヤーズS(GⅢ)】、プライムステージ【札幌三歳S(GⅢ)・フェアリーS(GⅢ)】、プリンシパルリバー【全日本2歳優駿(GⅡ)・羽田盃】、玄孫にはサンプレイス【新潟記念(GⅢ)】、マルカラスカル【中山大障害(JGⅠ)・中山グランドジャンプ(JGⅠ)】、スクリーンヒーロー【ジャパンC(GⅠ)・アルゼンチン共和国杯(GⅡ)】、アブソリュート【東京新聞杯(GⅢ)・富士S(GⅢ)】、トーワベガ【阪神スプリングジャンプ(JGⅡ)】などがいる。ベイビーリーグの姉弟には、ブラックヘレン(父ブラックトニー)【フロリダダービー・CCAオークス・アメリカンダービー】と、バイムレック(父ブラックトニー)【プリークネスS・ベルモントS・サラトガスペシャルS・ベルモントフューチュリティS・ホープフルS・ピムリコフューチュリティ・ブルーグラスS】の2頭の米国顕彰馬がいるが、これ以上ベイビーリーグの近親を書いているときりが無いので、詳しくはラトロワンヌ等の項を参照してもらうことにして、ここではこの辺で止めておく。→牝系:F1号族②
母父バブリングオーヴァーはアイドルアワーストックファーム産馬で、現役成績は13戦10勝。ケンタッキーダービー・シャンペンS・ブルーグラスSの勝ち馬だが、ケンタッキーダービーのレース前から視力が低下しており(その後に完全に失明)、生涯最高の勝利を最後に、底を見せないまま引退してしまった。種牡馬としてもケンタッキーダービー・プリークネスS勝ち馬バーグーキングを出したが、むしろ母父としての活躍のほうが顕著で、本馬以外にもヒルプリンスを出している。バブリングオーヴァーの父ノーススターはブルーラークスパーの項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、翌6歳時にマッカーシー氏からエリザベス・アーデン夫人に15万ドルで転売された。アーデン夫人(本名フィレンツェ・ナイチンゲール・グラハム)は当時米国最大の化粧品ブランドだったエリザベス・アーデンの代表者で、当時米国で最も裕福な女性として知られていた。彼女は1943年にケンタッキー州メインチャンスファームを設立して馬主・馬産活動も開始しており、この前年1947年には、専属調教師として任用していたトム・スミス調教師(シービスケットを育てた事であまりにも有名)が手掛けたジェットパイロットでケンタッキーダービーを制覇する栄光も手にしていた。そんなわけで、本馬はメインチャンスファームで繁殖入りしたのだが、1955年3月に出産時の事故により13歳の若さで早世したため、5頭の産駒しか残せなかった。そのうち競走馬になったのは僅か1頭だけだが、その1頭である3番子の牡駒ジェットアクション(父ジェットパイロット)は、ワシントンパークH・ウィザーズS・ローマーH勝ちなど40戦11勝の成績を挙げた活躍馬となった。ジェットアクションはシアトルスルーの祖母の父であるから、本馬の血を引く競走馬は山のように存在している。
また、本馬の牝系自体も初子である牝駒ミスブッシャー(父アリバイ)からの流れが現在でも続いており、ミスブッシャーの曾孫であるボウズイーグル【サンアントニオH(米GⅠ)】、玄孫であるフェイヴァリットファンタイム【サンタマリアH(米GⅠ)】や、ビショップコートヒル【カーターH(米GⅠ)】といった活躍馬が出ている。また、2番子の牝駒ポピュラリティ(父アリバイ)の玄孫には、ハギノカムイオーを皐月賞で潰した鉄砲玉として知られるゲイルスポートがいる。
1955年に米国調教師協会がデラウェアパーク競馬場において実施した、米国競馬史上最も偉大な牝馬はどの馬かを決める調教師間の投票において、本馬は第6位にランクされた(1位はギャロレット)。1964年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選では第40位であり、牝馬の中ではラフィアン(第35位)に次ぐ2番目にランクされている(ギャロレットは第45位で牝馬中3位)。