スタイミー

和名:スタイミー

英名:Stymie

1941年生

栗毛

父:イクエストリアン

母:ストップウォッチ

母父:オンウォッチ

デビュー60戦目にして初のステークス競走勝利を挙げると米国最強馬の座まで上り詰めた豪快な追い込みとサクセスストーリーが魅力のシンデレラホース

競走成績:2~8歳時に米で走り通算成績131戦35勝2着33回3着27回

誕生からデビュー前まで

名馬グレイラグサラゼンなどを手掛けた名調教師マックス・ハーシュ師により、テキサス州キングランチ牧場において生産・所有された。父イクエストリアンは競走馬としてはほとんど実績を残せず、血統が評価されて辛うじて種牡馬入りできたという馬で、母ストップウォッチも未勝利馬という地味な血統だった上に、気性に問題があって人間を恐れるところがあった本馬は、デビュー当初は全くといってよいほど評価されていなかった。

競走生活(2歳時)

2歳5月にジャマイカ競馬場で行われたダート5ハロンのクレーミング競走(譲渡要求額2500ドル)でデビュー。デビュー戦がいきなりクレーミング競走というところに本馬に対する期待の低さが如実に現れている。しかし単勝オッズ32倍の人気薄だった本馬を買おうという物好きは現れず、レースでも勝ったサーレッテから8馬身差の7着に敗れた。3週間後に出走したベルモントパーク競馬場ダート5ハロンの未勝利戦では、後に何度か顔を合わせるスターアップの16馬身差11着と惨敗。

その4日後に同コースで行われた未勝利クレーミング競走(譲渡要求額1500ドル)も4馬身半差の7着に終わったが、このレース前に本馬を譲渡要求していた奇特な人物がいたのである。その人物とはハーシュ・ジェイコブス調教師だった。ジェイコブス師は自身で馬を所有して(名義自体は妻のエセル夫人にしていた)、自身で調教して走らせるという、当時の米国では珍しいタイプのトップ調教師だった。明らかに未勝利のまま終わりそうな馬を平気で勝ち上がらせる事から、「まるでブードゥー教の魔術師のようだ」と評された彼は、毎年の獲得賞金ランキングでいつも上位争いをする名伯楽として既に名を馳せていたが、管理馬がステークス競走を勝った実績には乏しく、質よりも量を重視する人物だった。エセル夫人の名義となり、ジェイコブス師の管理馬となった本馬は、その後も延々とレースに出走を続けた。

前走から6日後に出走したベルモントパーク競馬場ダート5.5ハロンの未勝利クレーミング競走(譲渡要求額2000ドル)では、追い込んで1馬身半差2着と、初めてまともな競馬を見せた。その4日後のアケダクト競馬場ダート5ハロンの未勝利クレーミング競走(譲渡要求額3500ドル)では、追い込んでモアワインの首差2着と、初勝利まであと一息まで漕ぎ着けた。さらに5日後のアケダクト競馬場ダート5.5ハロンのクレーミング競走(譲渡要求額5000ドル)では4馬身差2着。さらに4日後の同コースの未勝利戦では1馬身差2着。さらに4日後の同コースのクレーミング競走ではスウィーピングタイムの首差2着。さらに3日後のジャマイカ競馬場ダート5.5ハロンの未勝利戦では、後にユナイテッドステーツホテルS・スウィフトSなどを勝つボーイナイトの4馬身3/4差4着。ちょうど1か月間で9戦を消化したが、2着が5回と初勝利は近くて遠かった。

血統も気性もスタートダッシュも良くない本馬だったが、頑丈さだけは折り紙付きだったらしく、ラガービッグワンにも引けを取らないほどの過密出走ぶりである。なお、この時期はクレーミング競走を中心に出走しており、ジェイコブス夫妻は他の所有馬と同様に、他者に購入されても一向に構わないと考えていたようである(結局本馬を再び譲渡要求する者が現れることは無く、本馬は引退までジェイコブス夫妻の元で過ごすことになる)。

その後は珍しく3週間以上の休養が与えられたが、7月末に復帰すると再び過密出走の日々が待っていた。ジャマイカ競馬場ダート5.5ハロンの未勝利戦では、クランスマンの3馬身半差5着。その5日後のベルモントパーク競馬場ダート5.5ハロンの未勝利クレーミング競走では、6馬身1/4差の7着。その8日後の同コースの未勝利戦では、スモレンスコの11馬身差19着。どんどん初勝利から遠ざかっているように見えたが、その6日後のベルモントパーク競馬場ダート6ハロンのクレーミング競走で1馬身半差3着に入ると、その7日後に同コースで行われた未勝利クレーミング競走を5馬身差で圧勝して、デビュー14戦目にして念願の初勝利を挙げた。

その後も休養などは与えられることなく、初勝利から2日後には同コースのクレーミング競走に出走して、後のメキシコダービー馬シーイングアイの3/4馬身差2着。その6日後の同コースの一般競走では、メッサーリの7馬身差7着。その2日後の同コースのクレーミング競走では頭差3着。その4日後のアケダクト競馬場ダート6ハロンのクレーミング競走では、ペピーミスの6馬身半差4着。なお、これが本馬にとって最後のクレーミング競走出走となった。その10日後の同コースの一般競走では、クェホラの7馬身1/4差5着。その5日後の同コースの一般競走では1馬身半差で勝利。その6日後のベルモントパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走では、後のシャンペンSの勝ち馬プッカジンの4馬身1/4差7着。その15日後のベルモントパーク競馬場ダート8ハロンの一般競走では、後のケンタッキーダービー2着馬ブロードクロスの4馬身半差4着。その5日後のジャマイカ競馬場ダート6ハロンの一般競走では、2着スウィーピングタイムに鼻差で勝利。その8日後のジャマイカ競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走では、ウェヤノケの3馬身差2着。

その3日後には初のステークス競走となる分割競走アーズリーH(D8F70Y)に出て、ベルレイの1馬身差2着。ちなみにアーズリーHのもう1戦はウェヤノケが勝利を収めている。その9日後にはジャマイカ競馬場ダート6ハロンのハンデ競走に出て、スウィーピングタイムの首差3着。その5日後にはピムリコ競馬場でトマスKリンチ記念H(D8.5F)に出て、ロイヤルプリンスの首差3着。その4日後にはジャマイカ競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走に出て、10ポンドのハンデを与えた2着ペピーミスに5馬身差で圧勝。初勝利後から2歳11月までに14戦して3勝を挙げ、2歳時の成績は28戦4勝となった。

2歳時の獲得賞金総額は1万5935ドルであり、取引価格1500ドルの10倍を稼いでいるから、ジェイコブス師にとってはこの時点で既になかなか良い買い物をしたといったところであった。なお、人間を怖がる本馬の気性を改善するために、ジェイコブス師は本馬を無理やり服従させるのではなく、かなり多くの時間を割いてじっくりと人間に慣れさせていった。その結果、本馬の気性は徐々に改善されていったという。

競走生活(3歳時)

3歳時は元日にトロピカルパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走して、後のブルーグラスSの勝ち馬スカイトレイサーの3/4馬身差2着。その1週間後に、ハイアリアパーク競馬場でハイアリアS(D6F)に出走したが、ブラックバッジの2馬身差4着に敗れた。その後もハイアリアパーク競馬場に留まり、ダート6ハロンの一般競走でジミーの5馬身差6着。バハマズH(D7F)では、アリエルフライトの8馬身差7着。ダート7ハロンの一般競走では、ブラックバッジの1馬身3/4差7着。ダート9ハロンの一般競走では、ディレクタージェイイーの5馬身3/4差の3着。フラミンゴS(D9F)では、スターアップ、スカイトレイサーの2頭に続き、スターアップの5馬身差3着。ダート9ハロンの一般競走では、アディロンダックHの勝ち馬ファイアスティッキーを頭差の2着に抑えて勝利。3月初めまでに8戦して何とか1勝を挙げた。

ニューヨーク州に戻ると、ジャマイカ競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走に出て、5歳馬グレイウイングの5馬身差2着。次走の同コースの一般競走では、後のルイジアナダービー馬オリンピックゼニスを4馬身差の2着に破って勝利。そして同コースの分割競走ウッドメモリアルS(D8.5F)に出走して、ケンタッキーダービーで有力視されることになるスターアップの3馬身差2着に入った。ちなみにウッドメモリアルSのもう1戦はラッキードローが勝利している。次走のチェサピークS(D8.5F)では、グランプスイメージの7馬身半差4着。この1週間後に行われたケンタッキーダービーには不参戦であり、米国東海岸に留まった。ちなみにそのケンタッキーダービーはチェサピークSで2着だったペンシヴが優勝している。

ケンタッキーダービーには出なかった本馬だが、プリークネスS(D9.5F)には1500ドルの登録料を支払って出走した。ケンタッキーダービー馬ペンシヴ、ケンタッキーダービー3着馬スターアップ、ケンタッキーダービーで8着に終わっていたグランプスイメージ、前年の米最優秀2歳牡馬に選ばれていたピムリコフューチュリティ・ウォルデンSの勝ち馬プラッターなどの強敵が対戦相手となった。購入額と同額の登録料を支払ってまで参戦したからには、ジェイコブス師にとってはある程度の目算があったと思われるのだが、優勝したペンシヴから12馬身差の6着に終わった。

その後は絶不調に陥り、アケダクト競馬場ダート7ハロンのハンデ競走では、この年の米最優秀3歳牡馬に選ばれるグランドユニオンホテルSの勝ち馬バイジミニー、ラッキードローに屈して、バイジミニーの9馬身差3着。シェヴリンS(D8.5F)でも、バイジミニー、スターアップに屈して、バイジミニーの4馬身差3着。バイジミニー、ラッキードロー、スターアップとの対戦となったドワイヤーS(D10F)では、上記3頭が上位を独占した遥か後方に沈み、バイジミニーの16馬身差8着に敗れた。ここでようやく2か月間の休養が与えられた。

9月に復帰した当初の成績も振るわず、アケダクト競馬場ダート6ハロンの一般競走では、フォックスブラウニーの6馬身1/4差5着。ベルモントパーク競馬場ダート8.5ハロンの一般競走では、グッドシング(米国顕彰馬ベッドオローゼズの母)の16馬身差6着。同コースの一般競走でも、サワロの5馬身半差4着と敗退。しかし10月の同コースの一般競走では、4歳牡馬ヴィクトリードライヴの1馬身半差3着と好走。ジャマイカ競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走では、本馬が出走したウッドメモリアルSで本馬より下の3着だったオートクラットの半馬身差2着。同コースの一般競走では、3馬身差2着と好走を続けた。10月中旬に出た同コースのハンデ競走では、2着サワロに2馬身差で勝利した。

ここからハンデ戦のステークス競走に軽量で出走を続けるようになるが、対戦相手のレベルも上昇しており、勝ち鞍にはなかなか恵まれなかった。まずはギャラントフォックスH(D13F)に出走して、2歳年上のベルモントフューチュリティS・ナショナルスタリオンSの勝ち馬サムチャンスの4馬身差3着。ちなみにこのレースには、サンフォードS・ホープフルS・ブリーダーズフューチュリティS・メトロポリタンH2回・ブルックリンH・ホイットニーS・トボガンH2回・カーターH・マンハッタンHなどを勝っていた当時の米国最強古馬デヴィルダイヴァーも参戦していたが、本馬より11ポンド重い斤量が影響したのか5着に敗れている。次走のワシントンH(D10F)では、メゴゴの10馬身差6着最下位に惨敗。ウエストチェスターH(D9.5F)では、アーカンソーダービー馬セブンハーツ、メイトロンSを勝っていたグッドモーニングの2頭の4歳馬に屈して、セブンハーツの4馬身差3着。ヴィクトリーH(D8F)では、ドーラディアーの3馬身半差7着。リグスH(D9.5F)では、セブンハーツの5馬身差3着。ピムリコカップH(D20F)では、ワシントンHで本馬を10馬身ちぎったピムリコスペシャル3着馬メゴゴ、マンハッタンH3回・ホイットニーS・ジョッキークラブ金杯を勝っていた7歳馬ボーリングブロークに歯が立たず、メゴゴの11馬身差3着。3着には何度も入っているが、勝利には程遠い内容だった。3歳時の成績は29戦3勝だった。

競走生活(4歳時)

デビュー以来延々と走り続けた本馬だったが、3歳12月から4歳4月まで、珍しく6か月間の休養が与えられた。その理由は第二次世界大戦が大詰めを迎えていたため、米国政府が競馬の施行を4か月間ほど中止させたためである。どうやらこの休養が功を奏したらしく、気分一新して競走に復帰した本馬は前年までとは別馬のように強くなっていた。

復帰初戦となった5月のジャマイカ競馬場ダート8.5ハロンの一般競走では、例によって出遅れながらも、グレートラッシュの首差2着と好走。1週間後の同コースのハンデ競走では、2着トランスフォーマーに3馬身半差で快勝。

4歳3戦目となった6月のグレイラグH(D9F)では、前年のベルモントSの勝ち馬でピーターパンS・ローレンスリアライゼーションS・ジェロームH2着のバウンディングホームとの対戦となった。本馬は道中で先頭から11馬身も後方を走っていたが、鮮やかな追い込みを決めて2着アレックスバースに半馬身差で勝利(バウンディングホームは3着だった)。デビュー60戦目にして遂に初のステークス競走勝ちを収めた。

次走のサバーバンH(D10F)では、メトロポリタンHを勝ってきたデヴィルダイヴァーと2度目の対戦となった。本馬はデヴィルダイヴァーより13ポンドも斤量が軽かったが捕らえる事が出来ず、2馬身差の2着に敗れた。ただし自身が13ポンドのハンデを与えたオリンピックゼニスは3着に抑え込んでいる。続くクイーンズカウンティH(D8.5F)では、12ポンドのハンデを与えたオリンピックゼニスの2馬身差2着だった。翌月のブルックリンH(D10F)では、再度デヴィルダイヴァーと対戦。そして16ポンドという斤量差にも助けられてデヴィルダイヴァーを1馬身1/4差の2着に、オリンピックゼニスを3着に下して優勝。デヴィルダイヴァーのニューヨークハンデキャップ三冠の夢を打ち砕いた。なお、デヴィルダイヴァーはこのレースを最後に引退したため、本馬が引導を渡した格好になった。

一方の本馬は、ステークス競走の常連として出走を繰り返し、勝ち星も増やし続けた。ブルックリンHから12日後のヨンカーズH(D8.5F)では、ヴォスバーグH・カーターHの勝ち馬ウェイトアビットの1馬身3/4差2着(オリンピックゼニスは3着)。バトラーH(D9.5F)では、グレイラグH・クイーンズカウンティH・マサチューセッツH2回を勝っていた6歳馬ファーストフィドルを1馬身差の2着に抑えて勝利。ホイットニーS(D10F)では、ベルモントS・ベルモントフューチュリティS・サラトガスペシャルS・ホープフルS・グランドユニオンホテルS・ユナイテッドステーツホテルSを勝っていた前年の米最優秀2歳牡馬パヴォットとの対戦となった。しかし本馬はパヴォット共々トライミーナウという馬に足を掬われ、本馬は勝ったトライミーナウから7馬身差の3着に敗退した(パヴォットは2着だった)。

次走のサラトガH(D10F)でも、18ポンドのハンデを与えたオリンピックゼニス、ファーストフィドル達に屈して、オリンピックゼニスの6馬身差6着に敗れた。しかし定量戦のサラトガC(D14F)では、2着オリンピックゼニスに3馬身差で快勝した。マーチャンツ&シチズンズH(D9.5F)では、コロナル、オリンピックゼニスの2頭に屈して、コロナルの6馬身半差3着に敗退。ジョッキークラブ金杯(D16F)では、シャンペンS・ピムリコフューチュリティ・アーリントンクラシックSの勝ち馬でケンタッキーダービー2着の3歳馬ポットオラックの6馬身差3着に敗れた。不良馬場で行われたコンチネンタルH(D9.5F)では馬なりのまま走り、8ポンドのハンデを与えたチーフバーカーを5馬身差の2着に、バウンディングホームを3着に破って圧勝。ギャラントフォックスH(D13F)では、リプライペイドの3馬身3/4差6着だった(本馬が2位入線したとする資料があり、降着になった可能性がある)。次走のウエストチェスターH(D9.5F)では、この年のジェロームH・ヴォスバーグHを勝ってきたバズファズとオリンピックゼニスが逃げ込みを図るところを際どく差し切り、2着バズファズに頭差で勝利した。

しかしこの時期、本馬と同い年のアームドがシェリダンH・ワシントンHを勝つなど一気に頭角を現し始めていた。両馬はウエストチェスターHから2週間後のピムリコスペシャルS(D9.5F)で初めて対戦。結果はアームドが2着ファーストフィドルに4馬身差をつけて圧勝し、本馬はさらに2馬身遅れた3着に終わった。完敗を喫した本馬だが、その後はアームドが不在のリグスH(D9.5F)で2着ファーストフィドルに首差で勝利した。そしてこの年最後のレースとなったピムリコカップH(D20F)では128ポンドを背負いながらも、重馬場の中を「まるで風の中を飛ぶように」快走して、ジョッキークラブ金杯で苦杯を舐めさせられたポットオラックを8馬身差の2着に、トライミーナウを3着に破って圧勝。4歳時は19戦9勝の成績で、この年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた。

競走生活(5歳時)

5歳時は4月にジャマイカ競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走から始動して、前年のアメリカンダービー・ホーソーンオータムHなどを勝って米最優秀3歳牡馬に選ばれたファイティングステップを2馬身半差の2着に破って勝利。5日後に出走した同コースの一般競走はスノーブーツの2馬身半差2着だった。127ポンドを背負って出たグレイラグH(D9F)では、11ポンドのハンデを与えたバウンディングホームを2馬身差の2着に、ファイティングステップを3着に退けて2連覇を達成。しかし次走ディキシーH(D9.5F)では、ワイドナーH・フィラデルフィアHなどを勝ってきたアームドに3馬身半差をつけられて2着。続くサバーバンH(D10F)では、勝ったアームドに2馬身半差をつけられ、前年のギャラントフォックスHで本馬を破ったリプライペイドにも後れを取って3着に敗れた。この後、本馬とアームドはいずれも長きに渡り現役を続けたが、同じレースに出る事は2度となく、対戦成績は本馬の3戦全敗になってしまった。

しかし本馬にはすぐに新たな好敵手が出現した。それは、メトロポリタンH・エイコーンS・ピムリコオークス・デラウェアオークスなどを勝っていた1歳年下の牝馬ギャロレットだった。実は本馬とギャロレットは既に過去3回(ウエストチェスターH・ピムリコスペシャルS・グレイラグH)対戦していたが、いずれも本馬が先着(ギャロレットは3戦とも4着)しており、特に名勝負にはなっていなかった。しかし、サバーバンHの2週間後に行われたサセックスH(D10F)では、本馬、パヴォット、ギャロレットの三つ巴の争いとなり、パヴォットが勝利してギャロレットが首差2着、本馬はさらに鼻差の3着となった。さらに続くブルックリンH(D10F)でも、大激戦の末に118ポンドのギャロレットが128ポンドの本馬を首差抑えて勝利したのである(前年のトラヴァーズS2着馬バーニングドリームが3着だった)。本馬とは3回ずつしか対戦しなかったデヴィルダイヴァーやアームドと異なり、ギャロレットは最終的に本馬と19回も対戦する事になる。

ブルックリンHで負けた本馬は、次走バトラーH(D9.5F)でも、20ポンドのハンデを与えたラッキードロー、9ポンドのハンデを与えたギャロレットに後れを取り、ラッキードローの1馬身半差3着に敗れた。モンマスH(D10F)では、10ポンドのハンデを与えたラッキードローに6馬身ちぎられて2着に敗れた。続くウィルソンS(D8F)でもパヴォットの3/4馬身差5着に終わり、首差2着だったギャロレットやさらに首差3着だったラッキードローに先着を許した。次走ホイットニーS(D10F)では得意な重馬場に助けられて、ピーターパンHの勝ち馬マハウト、前年の同競走の勝ち馬トライミーナウ、前年のプリークネスS・ウィザーズSの勝ち馬ポリネシアン達を撃破して、2着マハウトに2馬身差で勝利した。しかしサラトガ競馬場ダート8ハロンの一般競走では得意の重馬場にも関わらず、キングドルセットの3/4馬身差2着に敗退(3着ギャロレットには先着した)。サラトガH(D10F)では、3ポンドのハンデを与えたラッキードロー、11ポンドのハンデを与えたポリネシアンの2頭に屈して、ラッキードローの4馬身3/4差3着に敗れた。定量戦のサラトガC(D14F)では対戦相手が集まらず単走で勝利した。

そしてエッジメアH(D9F)でこの年最後のギャロレットとの対戦となった。結果は本馬がギャロレットを1馬身半差の2着に破って勝利したが、斤量は本馬が2ポンド軽く、むしろ負けてなお強しだったギャロレットのほうが目立つ結果となってしまった。次走のマンハッタンH(D12F)では、2着パヴォットに3/4馬身差をつけて勝利した。ジョッキークラブ金杯(D16F)では、パヴォットに5馬身差をつけられて2着に敗退。その後、128ポンドを背負って出たニューヨークH(D18F)では大雨で泥だらけになった馬場にも助けられて、珍しく早め先頭から、前走ジョッキークラブ金杯で3着だったリコモンテを1馬身1/4差の2着に、名馬サーアイヴァーの祖母アテニアをさらに2馬身差の3着に破って勝利した。次走のギャラントフォックスH(D13F)でも早め先頭から押し切り、2着リコモンテに2馬身半差をつけて2分42秒8のコースレコード勝ちを演じた。

しかし次走ピムリコスペシャルS(D9.5F)では新たなる強敵が出現した。それはケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーSを勝利していたこの年の米国三冠馬アソールトであった。アソールトは本馬と同じくキングランチ牧場で誕生した馬で、管理調教師は本馬の生産者ハーシュ師だったため、本馬とアソールトの戦いは因縁の対決でもあった。実は本馬とアソールトの対戦は過去に2回(マンハッタンH・ギャラントフォックスH)あり、いずれも本馬が10ポンドほど重い斤量を背負いながら勝利を収め、アソールトが3着だった。そのため1番人気に推されたのは本馬だったが、結果は以前より強さを増していたアソールトが圧勝。本馬は9ポンドのハンデを与えた3着ブライダルフラワー(デラウェアH・ガゼルH・ベルデイムHを勝ってこの年の米最優秀3歳牝馬に選ばれる)には3馬身先着したものの、アソールトから6馬身差をつけられて2着に敗れた。この年の本馬の出走はこれが最後で、5歳時は20戦8勝の成績だった。米最優秀ハンデ牡馬騙馬の座はアームドに譲ることになった。

競走生活(6歳時)

6歳時も前年に引き続き4月のジャマイカ競馬場から始動。初戦となったダート6ハロンのハンデ競走では、ブラウンモーグルの7馬身半差5着に敗れた。2戦目のグレイラグH(D9F)では、前年の米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に選ばれたアソールトと対戦。斤量は本馬が2ポンド軽かったが、結果は勝ったアソールトから2馬身半差の4着に終わり、3連覇は成らなかった。次走のメトロポリタンH(D8F)にはアソールトは不参戦だったが、前年の同競走の勝ち馬でもあったギャロレットが参戦してきた。レースでは一時期は先頭から13馬身も離されていた本馬が追い込みを決めて、2着ブラウンモーグルに1馬身差で優勝した(本馬より7ポンド斤量が軽かったギャロレットは3着だった)。

次走のサバーバンH(D10F)にはギャロレットは不参戦だったが、アソールトが参戦してきた。本馬はアソールトより4ポンド斤量が軽かったのだが、勝ったアソールトから10馬身差の4着と大敗し、前年のトラヴァーズSの勝ち馬でベルモントS2着のナッチェズや、後のサンタアニタHの勝ち馬タロンにも先着を許した。次走クイーンズカウンティH(D8.5F)では9ポンドのハンデを与えたギャロレットに首差競り負けて2着。ブルックリンH(D10F)では本馬より10ポンド重い133ポンドを背負っていたアソールトに3馬身差をつけられて2着と、敗戦が続いた。

クエスチョネアーH(D8.5F)では2着ブラウンモーグルに2馬身差で勝利。サセックスH(D10F)では2分02秒4のコースレコードを計時して、2着ナッチェズに3馬身差で勝利した。しかしこの2戦はいずれも好敵手2頭が不在のレースだった。そして次走バトラーH(D9.5F)では本馬と好敵手2頭が同時に顔を揃えた。レースでは後方から追い込んできた本馬が直線でいったんは先頭に立ったが、本馬より9ポンド斤量が重い134ポンドを背負っていたアソールトがゴール直前で差し返して頭差で勝ち、本馬より9ポンド斤量が軽いギャロレットが1馬身3/4差の3着だった。

次走のベルモント国際金杯(D13F)では、ベルモントS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーSの勝ち馬でこの年の米最優秀3歳牡馬に選ばれるファランクスやナッチェズの他に、アソールトも参戦してきた。このレースは定量戦のため本馬とアソールトの斤量は互角だった。また、馬場状態は本馬の得意な不良馬場だったが、アソールトも不良馬場のケンタッキーダービーを圧勝した実績があり、重の巧拙は関係ない実力勝負となった。結果は本馬がナッチェズとの接戦を首差制して勝ち、アソールトはナッチェズから4馬身差の3着に敗れた。この後、アソールトはアームドとのマッチレース中に故障を発生し、一線級のレースからはしばらく遠ざかる事になり、本馬と対戦する機会は当分の間お預けとなる。

さて、ベルモント国際金杯を勝った本馬は、次走マサチューセッツH(D9F)で128ポンドを背負いながらも、2年前のCCAオークス馬エルピスを1馬身半差の2着に破って勝利した。続くホイットニーS(D10F)ではリコモンテ、ギャロレットに後れを取り、勝ったリコモンテから1馬身半差の3着だった。次走のアケダクトH(D8.5F)では、ギャロレット、エルピス、ブライダルフラワーといった同時代の有力牝馬勢が大挙して本馬に挑んできた。しかし本馬が10ポンドのハンデを与えたギャロレットを半馬身差の2着に破って勝利した。このレースで132ポンドを背負っていた本馬は、次走エッジメアH(D9F)では134ポンドを課せられてしまい、20ポンドのハンデを与えたエルピスの1馬身半差2着に敗れた(21ポンドのハンデを与えたブライダルフラワーは3着、12ポンドのハンデを与えたギャロレットは4着だった)。続くマンハッタンH(D12F)でも132ポンドを背負った本馬は、9ポンドのハンデを与えたリコモンテの1馬身半差2着に敗れた(3着がタロン)。

これらの激闘に次ぐ激闘が本馬の体力を奪ったのか、次走ジョッキークラブ金杯(D16F)では写真判定の大接戦を演じて勝利したファランクスとタロンの2頭に12馬身差をつけられ3着最下位。続くニューヨークH(D18F)も124ポンドと比較的軽量だったにも関わらず、リコモンテ、タロン、ファランクスの3頭に屈して、勝ったリコモンテから12馬身差の4着に終わった。しかし次走のギャラントフォックスH(D13F)では、タロンを1馬身3/4差の2着に、ダイアナH2回・ブラックヘレンH・ピムリコカップHの勝ち馬でトップフライトH・ベルデイムH2着のミスグリロ(デュランダルの牝系先祖)を3着に破って勝利。この勝利により、この16日前のサイソンビーマイルSでアームドが更新したばかりの北米最多獲得賞金記録を再度更新した。

スカーズデールH(D8.5F)では130ポンドを課せられた上に、いつも以上にスタートが悪かった。その結果、ギャロレット、ヴォスバーグH・エクワポイズマイルH・シェリダンHなどの勝ち馬ウィズプレジャー、ガーデンステートS・ケンタッキージョッキークラブS・ジャージーHを勝っていた前年の米最優秀2歳牡馬ダブルジェイなどに後れを取り、勝ったウィズプレジャーから7馬身半差の6着に大敗(ギャロレットは2着だった)。この後、本馬は右前脚種子骨の亀裂骨折を発症したため休養入りし、この年の出走はこれが最後となった。6歳時は19戦7勝の成績で、米最優秀ハンデ牡馬騙馬の座は2年連続でアームドに譲ることになった。

競走生活(7歳時)

怪我を治して7歳時も現役を続けた本馬は、例によって4月のジャマイカ競馬場から始動。しかし復帰初戦となったエクセルシオールH(D8.5F)では、カウディンS・サンタアニタダービーの勝ち馬ノックダウン、サンタアニタHでタロンの3着してきたダブルジェイの2頭に後れを取り、ノックダウンの3馬身1/4差3着。ディキシーH(D9.5F)では、ウォルデンS・アメリカンダービー・ピムリコスペシャルを勝っていたファーヴェントの1馬身半差2着に敗れた。ギャラントフォックスH(D9.5F)では、ギャロレット、前年のプリークネスS・フラミンゴS・ブルーグラスS・ウィザーズS勝ち馬フォールトレス、ファーヴェントなどに先着され、フォールトレスの4馬身半差5着に敗れた(ギャロレットは3着だった)。

しかしメトロポリタンH(D8F)では、7ポンドのハンデを与えたギャロレットを4着に破り、2着コロサルに3/4馬身差で勝利を収めて2連覇を果たした。続くベルモントパーク競馬場ダート9ハロンの一般競走も、2着ヴァーティゴに2馬身差で勝利した。128ポンドを背負って出たサバーバンH(D10F)では得意の不良馬場ではあったが、19ポンドのハンデを与えた前年のCCAオークス馬ハーモニカの1馬身3/4差2着に敗れた。132ポンドを課されたクイーンズカウンティH(D8.5F)では、やはり19ポンドのハンデを与えたノックダウンの2馬身差2着に敗れた。しかし130ポンドを背負ったアケダクトH(D8.5F)では、この年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれるコンナイバーを頭差の2着に、ダブルジェイを3着に破って勝利。同じく130ポンドのサセックスH(D10F)では2分02秒0のコースレコードを計時して、2着となったガルフストリームパークHの勝ち馬ランパートに1馬身半差で勝利した。

次走ブルックリンH(D10F)でも本馬には130ポンドが課せられ、コンナイバー、ギャロレットの牝馬2頭に後れを取り、2着ギャロレットを頭差抑えて勝ったコンナイバーから3馬身差の3着に敗戦。そしてこのレースが本馬とギャロレットの最後の対戦となった。対戦成績は本馬の10勝9敗だった。日本では牡馬と牝馬のライバル関係はそれほど珍しくない(カブラヤオーとテスコガビー、ダイタクヘリオスとダイイチルビー、サクラバクシンオーとノースフライト、ナリタブライアンとヒシアマゾンなど)が、牡馬と牝馬が対戦する機会が少ない米国ではかなり珍しい。日本であれば、あの2頭は恋に落ちているという噂が立ったりするのだが、本馬とギャロレットの間にそういう噂があったかどうかは定かではない。

本馬は129ポンドを課せられた次走モンマスH(D10F)でタイドリップスの12馬身差4着に敗れた後に、種子骨の骨折が再発したために休養入り。この年の米国三冠馬に輝いたサイテーションとの対戦は一度も無く、7歳時の成績は11戦4勝だった。

競走生活(8歳時)

1年以上の休養を経て8歳9月にアケダクト競馬場で行われたエッジメアH(D9F)で復帰した。既にギャロレットも前年限りで引退しており、かつて本馬と激戦を演じてきた馬達の殆どは競馬場から姿を消していた。種牡馬入りする道が無い騙馬ならいざ知らず、本馬は騙馬ではないため7歳限りで引退して種牡馬入りという選択肢もあったはずである。それにも関わらず現役を続行した理由は、本馬を史上初の100万ドル馬にしたいというジェイコブス師の希望があったためであるらしい。このエッジメアHには、かつての好敵手アソールトも参戦していた。いったんは種牡馬入りしながら受精能力の低さから競走馬に復帰させられていたアソールトからもかつての強さは失われかけていたが、それでもブルックリンHを勝つなど健在ぶりを見せていた。しかし一方の本馬からは既に往年の力は完全に失われていた。レースはグランドユニオンホテルS・カウディンS・ユナイテッドステーツホテルS・ナショナルスタリオンS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーSの勝ち馬で前年のケンタッキーダービー3着のマイリクエストが勝利を収め、アソールトが3馬身3/4差3着と一定の走りを見せたのに対して、本馬はアソールトからさらに10馬身1/4差の9着と惨敗。これが本馬とアソールトの最後の対戦で、対戦成績は本馬の3勝6敗だった。

次走のアケダクト競馬場ダート8.5ハロンの一般競走では、メリーランドH・ワシントンHの勝ち馬クオーターポールの4馬身差3着。ベルモントパーク競馬場ダート8ハロンの一般競走では、スタンツの2馬身半差3着と、本馬は一般競走でも勝てなかった。マンハッタンH(D12F)では、シャンペンS・サプリングS・サンフォードS・ジェロームH・バトラーHなどの勝ち馬ドノア、マイリクエスト、スタンツの3頭に後れを取り、ドノアの8馬身3/4差4着に敗退。そしてニューヨークH(D18F)でドノアの3馬身半差2着に敗れたのを最後に、8歳時5戦未勝利の成績で競走馬を引退した。

競走馬としての評価など

本馬の通算ステークス勝利数は25勝。獲得賞金は91万8485ドルで、前述したとおり、アームドの記録を抜いて北米賞金王の座に就いた(この記録を抜いたのは史上初の100万ドル馬となったサイテーション)。馬名のスタイミーは「障害物・困難な状態」という意味(元々はゴルフ用語で、「球とホールの間に他選手の球などの障害物がある状態」を指す)で、その名前どおり数々の強敵と戦い、酷量や過密出走などの厳しい状況を乗り越えた。スタートが不得手だったため、後方からレースを進めて直線で追い上げる典型的な追い込み馬だった。時には20馬身以上も後方から追い込んで勝っており、その「心臓が止まるほど」と評されたレースぶりは、最下級馬から最上級馬へと駆け上がったサクセスストーリーとも相まって根強い人気を博していた。本馬が獲得賞金70万ドルを突破した6歳時のマサチューセッツHでは、あまりにも本馬に人気が集中したために、サフォークダウンズ競馬場は赤字になってしまったという。追い込み馬の宿命で、自分でペースを作ることができず、追い込み不発で敗れる事もしばしばあったが、他馬より断然重い斤量を背負いながら繰り出す豪脚は、勝っても負けても見る者を魅了した。米国競馬史上最も直線で強い馬だったとまで評されている。

本馬は僅か1500ドルで取引されながら最終的にその600倍以上の賞金を稼いでいる。激安価格で取引されながら多額の賞金を稼ぎ出して「掘り出し物の競走馬」と言われたのは、700ドルで取引されながら最終的にその500倍以上の賞金を稼いだ、本馬より2歳年上のアルサブが代表例だったが、本馬はアルサブを上回る史上最高の掘り出し物として名を馳せた。

そんな本馬に対するジェイコブス夫妻の感謝の念は大きかったようで、1946年にメリーランド州に設立した馬産団体にスタイミーマナーと命名している。スタイミーマナー産馬は、1969年までに3513勝を挙げ、合計で1831万1412ドルを稼ぎ出している。その中には大種牡馬ヘイルトゥリーズン、米国顕彰馬アフェクショネイトリーとその半妹プライスレスジェム(凱旋門賞馬アレフランスの母)、1967年の米最優秀ハンデ牝馬ストレートディール、1966年の米最優秀2歳牝馬リーガルグリームなどが含まれている。それまでは安い馬を買ってきて育てる事を主眼に置いていたジェイコブス夫妻が、スタイミーマナーを設立して馬産を本格的に開始したのは、本馬の活躍あってこそであるから、ヘイルトゥリーズンやアレフランスがこの世に生を受けたのは本馬のおかげであると言えなくもない。

血統

Equestrian Equipoise Pennant Peter Pan Commando
Cinderella
Royal Rose Royal Hampton
Belle Rose
Swinging Broomstick Ben Brush
Elf
Balancoire Meddler
Ballantrae
Frilette Man o'War Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Frillery Broomstick Ben Brush
Elf
Petticoat Hamburg
Elusive
Stop Watch On Watch Colin Commando Domino
Emma C.
Pastorella Springfield
Griselda
Rubia Granda Greenman St. Simon
Sunrise
The Great Ruby Artillery
Aella
Sunset Gun Man o'War Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Eventide Uncle Star Shoot
The Niece
Noontide Colin
Noonday

父イクエストリアンはエクワポイズ産駒で、現役成績は8戦2勝、獲得賞金総額は1580ドルという平凡な馬だったが、半姉ジャボットがセリマS・サンカルロスHの勝ち馬で、半兄クラヴァトはジェロームH・サンフアンカピストラーノ招待H・ブルックリンH・サバーバンH・ジョッキークラブ金杯の勝ち馬という良血に加えて、父エクワポイズが早世した影響もあったのか、種牡馬入りを果たした。種牡馬としては本馬以外にもサセックスHの勝ち馬フライングミサイルや、クォーターホースの名種牡馬であるトップデックなどを輩出したが、本馬が大活躍する最中の1946年に10歳の若さで夭折している。

母ストップウォッチは現役成績4戦未勝利で、入着も1度も無かった。ストップウォッチの母サンセットガンの従兄弟にはギリー【サンタアニタダービー】がいるけれども、それほど活躍馬が続出するような牝系ではなく、それが本馬の当初の低評価の一因ともなったわけだが、本馬以降にはこの牝系から活躍馬が複数登場している。ストップウォッチの半妹だが甥である本馬より2歳年少のロケットガン(父ブラザド)の子には、1954年の米最優秀3歳牡馬及び1955年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた名馬ハイガン【ベルモントS・ピーターパンS・マンハッタンH・ドワイヤーS・ジョッキークラブ金杯・メトロポリタンH・ブルックリンH】がいるし、ギリーの半妹スウィートパトリスの牝系子孫には名種牡馬アフリート【ジェロームH(米GⅠ)】が、やはりギリーの半妹であるドガナの牝系子孫には、ブルートム【仏2000ギニー・サラマンドル賞】、アンバーラマ【ロベールパパン賞・モルニ賞・キングズスタンドS】、ファストトパーズ【仏2000ギニー(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)】、ティエルセ【豪シャンペンS(豪GⅠ)・ゴールデンスリッパー(豪GⅠ)・AJCサイアーズプロデュースS(豪GⅠ)】、クリンプリン【愛1000ギニー(愛GⅠ)・コロネーションS(英GⅠ)・ナッソーS(英GⅠ)】、日本で走ったコスモサンビーム【朝日杯フューチュリティS(GⅠ)】などが出ている。→牝系:F1号族⑥

母父オンウォッチはコリンの直子で、現役時代はマックス・ハーシュ調教師の管理馬として走り、59戦23勝。ナショナルS・マナーH・クイーンシティH・ベイビューH・グラマティアンH・イロコイH・ミネオラH・ピムリコオータムH・ポーモノクH・レインボーH・ボールドウィンHを勝ち、ケンタッキーダービーでポールジョーンズ、アップセットに次ぐ3着に入っている。マンノウォーとは同世代であり、キーン記念SやユースフルSではマンノウォーの2着に終わっている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はヴァージニア州で種牡馬入りした。引退してすぐの1950年には再び競走馬復帰を目指す試みが行われたらしいが不成功に終わり、その後はジェイコブス師と親しかったチャールズ・ハギャード博士(ラフンタンブルの生産者として知られる。アフェクショネイトリーもジェイコブス師とハギャード博士の共同生産である)が所有するケンタッキー州グリーンリッジファームに移動して本格的な種牡馬生活に入った。大物競走馬を出すことは出来なかったが、ステークスウイナー率は6%であり、平均より上である。1962年に21歳で他界した。1975年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第41位。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1950

Joe Jones

ジョンBキャンベルH

1952

Rare Treat

フィレンツェH・ヴァインランドH・レディーズH

1953

Born Rich

サンタマルガリータ招待H・ミレイディH

1954

Pertshire

ジャマイカH

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