トワイライトティアー

和名:トワイライトティアー

英名:Twilight Tear

1941年生

鹿毛

父:ブルリー

母:レディーラーク

母父:ブルーラークスパー

3歳時に怒涛の11連勝を記録、同世代の最強牡馬や古馬の最強牡馬をも蹴散らして米年度代表馬に選出された稀代の名牝

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績24戦18勝2着2回3着2回

誕生からデビュー前まで

母レディーラークは競走馬としては1勝を挙げただけという平凡な馬だった。しかし繁殖牝馬の父として非常に優れていたブルーラークスパーの娘であった上に、19世紀末の米国を代表する快速馬ドミノの全妹の曾孫という血統の持ち主だった。そのためにレディーラークを所有していた米国ケンタッキー州の名門牧場カルメットファームの代表者ウォーレン・ライト氏はレディーラークを手放さずにそのままカルメットファームで繁殖入りさせていた。

1940年、ライト氏はレディーラークの交配相手として、種牡馬入りさせたばかりのブルリーを指名した。そして翌1941年に本馬が誕生した。同世代のカルメットファーム産馬には、同父のアームドとドゥラズナ、ハイペリオン産駒のペンシヴといった有力馬がいた。本馬は彼等と一緒にカルメットファームの専属調教師ベン・ジョーンズ師に預けられた。幼少期の評価に関してはよく分からないのだが、アームドの項に記載したように、アームドは本馬の誘導馬として使われていた時期があったらしいから、少なくともアームドよりは上の評価だったようである。牧場における愛称は“Suzie(スージー)”であり、後に一般の競馬ファンの間にも膾炙した。

競走生活(2歳時)

2歳6月にワシントンパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦で、ドゥラズナと共にデビューした。スタートで出遅れてしまったが、即座に他馬との差を縮めると、2着となった後のグレイソンS・ミスアメリカHの勝ち馬レットミーナウに3/4馬身差をつけて勝ち上がった(ドゥラズナは3着だった)。2戦目は翌7月のアーリントンラッシーS(D6F)となった。通常このレースはアーリントンパーク競馬場で施行されるのだが、この年はワシントンパーク競馬場で行われた。ここでは後にトップフライトHなどを勝つ同厩馬ミスキーンランドとの対戦となったが、馬なりのまま走った本馬が、2着ミスキーンランドに2馬身半差をつけて完勝した。

その後はしばらく休養入りし、10月にピムリコ競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰した。しかし不良馬場が災いしてスムーズに先行することができず、スピナウェイS2着馬レッドワンダーの2馬身半差3着に敗退した。それから4日後に出走したピムリコ競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走では、2着ミスキーンランドに2馬身差で勝利した。

それからさらに7日後には、2歳戦の最大目標セリマS(D8.5F)に出走した。しかし生憎と本馬が不得手とする重馬場となってしまい、ミスキーンランドに雪辱されて1馬身差の2着に敗れてしまった。それでも、デビュータントSの勝ち馬で後にテストS・ガゼルH・ダイアナH・ニューイングランドオークス・サンタバーバラHなどを勝つワーラバウトには先着しており、実力の一端を示すことは出来た。2歳最終戦となった翌11月のピムリコ競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走では、以前に敗れた事があるレッドワンダーとミスキーンランドの2頭を一蹴。2着ミスキーンランドに2馬身1/4差をつけて快勝した。

2歳時6戦4勝の成績で、2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)においては、ブリーダーズフューチュリティSとホーソーンジュヴェナイルSを勝ったドゥラズナと、ミスキーンランドの2頭より2ポンド低い2歳牝馬3位の評価だったが、ドゥラズナと並んで米最優秀2歳牝馬に選ばれた。

競走生活(3歳前半)

3歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたリープイヤーH(D6F)から始動した。古馬牡馬相手のレースとなったここでは、レムセンSなどを勝っていた6歳牡馬メトルサムの2馬身差3着に敗れたものの、この後の本馬は脅威の快進撃を見せることになる。

翌2月のトロピカルパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走では、主戦となるコン・マクレアリー騎手と初コンビを組み、2着カムナウに2馬身差で勝利。同月に同コースで出走した一般競走では、本馬が苦手な不良馬場となったのだが、3馬身差で勝利した。ピムリコ競馬場に場所を移して翌4月に出走したダート6ハロンの一般競走も、チェサピークSの勝ち馬で後にケンタッキーダービーにも駒を進めるグランプスイメージを1馬身1/4差の2着に抑えて勝利を収め、3連勝とした。この3連勝はどれも特に労力を費やす必要が無い楽勝だった。

5月にピムリコ競馬場で出走したレナートH(D6F)では、同馬主同厩のアームドと対戦した。しかしこの3年後に米年度代表馬に選ばれるアームドもこの時点では本格化前であり8着に惨敗。レースは本馬が馬なりのまま走り、2着ギャラクティックに1馬身半差で勝利した。この3日後のケンタッキーダービーに向かうのではないかという噂もあったらしい(ワシントンポスト紙が報じている)が、この年のカルメットファームにはペンシヴという有力牡馬がいたために、本馬は出走しなかった(ケンタッキーダービーはそのペンシヴが優勝している)。

本馬はケンタッキーダービーから4日後のピムリコオークス(D8.5F)に出走。後にデラウェアオークスを勝つプラッキーモードを3馬身差の2着に、アストリアSの勝ち馬エヴァーゲットを3着に破って楽勝した。次走のエイコーンS(D8F)では、エヴァーゲット、前年のセリマSで3着だったワーラバウトとの対戦となった。しかしここでも本馬は馬なりのまま走り、ワーラバウトを2馬身半差の2着に下して、1分37秒0のレースレコードタイで勝利した。エイコーンSから2日後、ワシントンポスト紙は、プリークネスSも勝ったペンシヴと本馬が戦ったらどうなるかという記事を掲載した。しかしこの時点においては、カルメットファームは本馬とペンシヴの対戦について否定的だった。次走は過去最長距離となるCCAオークス(D11F)となった。しかし距離不安も何のその、単勝オッズ1.05倍の1番人気に応えて、ローズデールSの勝ち馬デアミーを4馬身差(5馬身差とする説もある)の2着に、プラッキーモードを3着に破って完勝した。本馬に賭けていた人が大多数だったため、ベルモントパーク競馬場はこのレースで赤字になってしまったという。

翌6月に出走したプリンセスドリーンS(D6F)では、ドゥラズナとの顔合わせとなった。斤量はドゥラズナより本馬が3ポンド重かったのだが、本馬が2着ベルソングに1馬身半差で勝利した。このときのレースぶりを見たジョーンズ師は、自身が管理してこの3年前の米国三冠馬に輝いていたワーラウェイを差し置いて、「私がかつて手掛けた最良の馬です」と本馬を評した。ワシントンポスト紙の著名なスポーツ記者シャーリー・ポヴィッチ氏は「トップフライトのようなごく一部の例外を除けば、牝馬が牡馬を負かすのは困難ですが、トワイライトティアーであれば牡馬に引けは取らないのではないでしょうか。トワイライトティアーがケンタッキーダービーに出なかったのは残念でしたが、今からでもケンタッキーダービーの勝ち馬と戦わせてみればどうでしょうか」と、本馬とペンシヴの対決を再び煽った。

競走生活(3歳後半以降)

ようやくカルメットファームもその気になったのか、翌7月にワシントンパーク競馬場で出走したスコキーH(D7F)にはペンシヴも出走しており、ここでようやく同馬主同厩同世代の牡牝最強馬対決が実現した。ペンシヴの主戦もクレアリー騎手だったのだが、彼は本馬を選択した。この対決を制したのは本馬であり、1分22秒6のコースレコードを計時して、後にサンカルロスHを勝ちメトロポリタンHで2着するサーデを1馬身半差の2着に、アーカンソーダービーの勝ち馬で後にハリウッド金杯を勝利するチェレンジミーを3着に破って勝利した。この直後にマクレアリー騎手が自動車事故で右手首を骨折してしまい、その後しばらく本馬にはL・ハーズ騎手が騎乗することになった。

次走のワシントンパーク競馬場ダート8ハロンの一般競走でもペンシヴとの対戦となったが、本馬がペンシヴを1馬身1/4差の2着に破って勝利した。それから5日後には、前年のアーリントンラッシーSと同様にワシントンパーク競馬場で行われたアーリントンクラシックS(D10F)に出走。このレースにはペンシヴも出走していたのだが、本馬が単勝オッズ1.02倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして馬なりのまま走って牡馬勢を蹴散らし、2着オールドケンタックに2馬身差で勝利した。このレースでペンシヴは本馬から7馬身差後方の3着に敗れ去っており、これでペンシヴとの世代最強馬争いには完全に決着をつけた。この勝利は、1929年に創設された同競走史上初の牝馬制覇でもあった。ポヴィッチ氏を始めとする多くの競馬記者達は「彼女は全時代を通じて最高の牝馬でしょう」と賞賛した。

しかし翌8月に出走したアラバマS(D10F)では、12ポンドのハンデを与えた同世代のテストS2着馬ヴィエナに不覚を取って3/4馬身差の2着に敗れ、連勝は11で止まってしまった。敗因は斤量差だけでなく、連戦の影響で疲労がピークに達しており、馬体重も大幅に減少していたためだとされている。本馬を賞賛していた競馬記者達は、1919年のサンフォードSでマンノウォーがアップセットに敗れた時以来の大番狂わせであると書きたてた。

減少していた馬体重を戻すために少し間隔を空けると、10月にベルモントパーク競馬場でメドウヴィルH(D5.5F)に出走した。ここでは126ポンドを背負っての出走だったが、最初で最後の騎乗となるエディ・アーキャロ騎手を鞍上に、古馬牡馬勢を蹴散らして、2着テルミーナウに2馬身半差で快勝した。それから10日後に出走したクイーンイザベラS(D9F)では、スピナウェイS・ベルデイムH・トップフライトHなどを勝って前年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれていた5歳馬マーケルが挑んできた。しかし新たに主戦となったダグ・ドッゾン騎手と初コンビを組んだ本馬が、メイトロンSの勝ち馬グッドモーニングを5馬身差の2着に破って勝利を収め、マーケルは7着に沈んだ。本馬のこの強さのため、9日後に出走したメリーランドH(D10F)では3歳牝馬としては異例の130ポンドという酷量が課せられた(牡馬混合戦にも関わらず、他の出走馬とは約30ポンドの斤量差だった)。しかも本馬が不得手とする重馬場となってしまい、かつてCCAオークスで相手にしなかったデアミー、同厩馬ミスキーンランドなどに後れを取り、勝ったデアミーから15馬身差もつけられた4着と完敗を喫してしまった。

次走は、牝馬として史上初の参戦となるピムリコスペシャルS(D9.5F)となった。ここには、メトロポリタンH2回・ブルックリンH・ホイットニーS・サンフォードS・ホープフルS・ブリーダーズフューチュリティS・トボガンH2回・カーターH・マンハッタンHなどを勝ち、前年とこの年の2年連続で米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる当時の米国最強古馬デヴィルダイヴァーも参戦してきた。出走馬は本馬を含めて僅か3頭(残り1頭はポトマックH・ワシントンHの勝ち馬メゴゴ)だったが、世代と性別を超えたこの年における米国最強馬決定戦となった。しかしスタート後2ハロン地点で決定的なリードを奪った本馬が、そのまま2着デヴィルダイヴァーに6馬身差、3着メゴゴにはさらに10馬身差をつけて圧勝してしまった。勝ちタイム1分56秒6は、この6年前の同競走において、シービスケットウォーアドミラルを破って計時したタイムとまったく同じコースレコードタイだった。斤量的には本馬の117ポンドに対して、デヴィルダイヴァーは126ポンドだったが、3歳牝馬と古馬牡馬であるから、今日の基準と比べても特に不当な斤量差という訳ではなく、実力どおりの結果であった。

その後はリグズHに出走する予定だったが、馬場状態の悪化を理由に回避して、3歳時の出走はピムリコスペシャルSが最後となった。3歳時は17戦14勝の成績で、この年の米最優秀3歳牝馬は勿論、牝馬としては1899年のインプ、1904年のベルデイム、1915年のリグレット以来29年ぶり史上4頭目の米年度代表馬にも選出された(1883・84年にミスウッドフォードが米年度代表馬を受賞しているとする資料もあり、それを含めると史上5頭目である)。さらには3歳馬にして米最優秀ハンデ牝馬も単独で受賞した。

しかしその後に呼吸器官を患ってしまい、4歳時はなかなかレースに出られなかった。8月になってようやくワシントンパーク競馬場でダート6ハロンの一般競走に出走したが、レース中に鼻出血を発症して競走中止。このレースを最後に競走馬を引退した。

血統

Bull Lea Bull Dog Teddy Ajax Flying Fox
Amie
Rondeau Bay Ronald
Doremi
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Rose Leaves Ballot Voter Friar's Balsam
Mavourneen
Cerito Lowland Chief
Merry Dance
Colonial Trenton Musket
Frailty
Thankful Blossom Paradox
The Apple
Lady Lark Blue Larkspur Black Servant Black Toney Peter Pan
Belgravia
Padula Laveno
Padua
Blossom Time North Star Sunstar
Angelic
Vaila Fariman
Padilla
Ladana Lucullite Trap Rock Rock Sand
Topiary
Lucky Lass Ormondale
Lux Casta
Adana Adam Flying Fox
Amie
Mannie Himyar Himyar
Mannie Gray

ブルリーは当馬の項を参照。

母レディーラークは現役成績5戦1勝。本馬の半妹サンレディ(父サンテディ)【サンガブリエルH】も産んでいる。また、本馬の半妹ロイスーブロイ(父ハイラン)の孫には日本で走ったアタックブルー【ステイヤーズS】、玄孫にはアイソパック【エミリオトゥラティ賞(伊GⅠ)】、1986年のエクリプス賞最優秀芝牝馬エストラペイド【バドワイザーミリオン(米GⅠ)・サンタアナH(米GⅠ)・ゲイムリーH(米GⅠ)・イエローリボンS(米GⅠ)・オークツリー招待H(米GⅠ)】、1990年のエクリプス賞年度代表馬クリミナルタイプ【ピムリコスペシャルH・メトロポリタンH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)】の3姉弟がおり、本馬の半妹アロンドラ(父ウォーアドミラル)の曾孫には1990年の中央競馬最優秀三歳牡馬リンドシェーバー【朝日杯三歳S(GⅠ)】がいる。

レディーラークの曾祖母マニーヒムヤーは、米国競馬史上に名を残す快速馬ドミノの3歳年下の全妹である。→牝系:F23号族②

母父ブルーラークスパーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はカルメットファームで繁殖入りした。1954年に13歳の若さで他界したが、繁殖牝馬としても優れた能力を見せ、109戦20勝の成績を挙げた2番子の牡駒コイナー(父ワーラウェイ)【スピアーズS・ポロパークH・ハーヴェストH】、3番子の牝駒アグリーム(父ブレニム)【プリンセスパットS・ミレイディH2回・シネマH・デボネアS・ハリウッドオークス・ウェスターナーS・マリブS】、5番子の牡駒バーズタウン(父アリバイ)【ワイドナーH2回・トレントンH・ガルフストリームパークH・バックアイH・エクワポイズマイルH・ロングポートH・クエーカーシティH2回・アップルトンH・トロピカルH2回・オレンジボウルH】などの活躍馬を出した。

1955年に米国調教師協会がデラウェアパーク競馬場において実施した、米国競馬史上最も偉大な牝馬はどの馬かを決める調教師間の投票においては、ギャロレットに次ぐ第2位にランクされた。1963年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第59位。

後世に与えた影響

本馬の牝系子孫はそれほど大きく発展しなかったが、一定の繁栄を示した。アグリームの子にはアグリッター【CCAオークス・モンマスオークス・モデスティH】、グリーミング【ブーゲンヴィリアH(米GⅡ)・ハイアリアターフカップ(米GⅡ)2回・ロングブランチS】、孫には1981年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬ビフォードーン【スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)・アスタリタS(米GⅡ)・フェアグラウンズオークス(米GⅢ)】、曾孫にはバンタン【ホーソーンダービー(米GⅢ)】、玄孫世代以降には、テラインコグニタ【アルキビアデスS(米GⅡ)】、プロウル【ゴールデンスリッパーS(豪GⅠ)】、マルティロ【独2000ギニー(独GⅡ)・ポルシェ大賞(独GⅡ)・ミュゲ賞(仏GⅡ)2回・ベルリンブランデンブルクトロフィー(独GⅡ)・エッティンゲンレネン(独GⅡ)】、ナイトメアアフェアー【スマイルスプリントH(米GⅡ)】、日本で走ったビッグゴールド【中山金杯(GⅢ)・2着天皇賞春(GⅠ)】などがいる。

また、本馬の6番子の牝駒ダイヤモンドティアー(父カウントフリート)の娘にはサングリント【ヴェイグランシーH】、孫にはサニーティム【スウィフトS・ベイショアS】、牝系子孫にはジェイビーズサンダー【ブリーダーズフューチュリティS(米GⅠ)】、カルペディエム【ブリーダーズフューチュリティS(米GⅠ)・ブルーグラスS(米GⅠ)・タンパベイダービー(米GⅡ)】がおり、歴史的名牝トワイライトティアーの牝系を現代に伝えている。

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