ベルデイム

和名:ベルデイム

英名:Beldame

1901年生

栗毛

父:オクタゴン

母:ベラドンナ

母父:ハーミット

3歳時に牡馬とも互角以上に戦い14戦12勝着外無しの成績を残し、後年になって3歳牝馬として初の米年度代表馬に選ばれる

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績31戦17勝2着6回3着4回

誕生からデビュー前まで

銀行家兼馬産家だった父オーガスト・ベルモント氏の後を受け継いで成功を収めた事業家にして、米国ジョッキークラブの初代会長、及び本馬の2歳時に建設が開始されたベルモントパーク競馬場の初代オーナーでもあったオーガスト・ベルモント・ジュニア氏により、ケンタッキー州ナーサリースタッドにおいて生産・所有され、ジョン・J・ハイランド調教師に預けられた。

マンノウォーを筆頭に通算で129頭ものステークスウイナーを生産することになる名馬産家でもあったベルモント・ジュニア氏の所有馬として走った馬の中では、本馬が最高の名馬であるとされている(マンノウォーはベルモント・ジュニア氏の所有馬としては走っていない)。

気性はあまり良くなかったようで、あくまでも自分の意思で行動する我の強い馬だったらしい。それは食事においても偏食傾向として現れており、普通の馬が好むオート麦は大嫌いであり、とうもろこしを穂軸についたままの状態で齧るのが好きだった。また、後述するが、スタートで出遅れたり、レース前に放馬して逃げ回ったりと、問題行動も多かったようである。

競走生活(2歳時)

2歳6月にグレーヴセンド競馬場で行われたクローバーS(D5F)でデビューした。スタートで致命的な出遅れを犯してしまったが、それでもゴール前で猛然と追い込んで、勝ったコンテンシャスから1馬身半差の2着に入った。3週間後にシープスヘッドベイ競馬場で出たヴァーナルS(D5F)では2着モンスーンに1馬身差で勝ち、初勝利をステークス競走で挙げた。

ところが、それからしばらくした頃に本馬は皮膚疾患を発症。この皮膚疾患の原因をめぐってベルモント・ジュニア氏とハイランド師が対立する事態となった。ベルモント・ジュニア氏は原因を蕁麻疹又は帯状疱疹と主張したが、ハイランド師は蚊に刺されただけと主張した。結局そのまま本馬は8月にサラトガ競馬場で行われたダート5.5ハロンの一般競走に出走したが、勝った牝馬ハンブルグベルから8馬身差の6着と惨敗した。ハイランド師は敗因をスタートの失敗に求めたが、ベルモント・ジュニア氏は体調不良が敗因であると判断し、次走に予定していたベルモントフューチュリティSを回避させた(このベルモントフューチュリティSはハンブルグベルが勝っている)。その代わりに出走したグレートフィリーS(D6F)では、アストリアSの勝ち馬オーシャンタイドを頭差の2着に抑えて勝利した。

しかし次走のメイトロンS(D6F)では、ゴール前の猛追及ばずに、アルメニアの2馬身差3着に敗退。10月のナーサリーH(D6F)では、ブーケセリングS・エルムハーストセリングS・リッジウッドH・ゼファーSの勝ち馬で古馬になってメトロポリタンHに勝利するレースキング、ランチョデルパソSの勝ち馬グレナデ、ホワイトプレインズH・マーキュリーHの勝ち馬ディヴィネーションの3頭に屈して、勝ったレースキングから2馬身半差の4着に敗退した。

この頃、ベルモント・ジュニア氏は本業の投資事業においてニューヨークの地下鉄建設に携わっており(ニューヨークに最初の地下鉄が開業したのは翌1904年)、さらには前述のとおりベルモントパーク競馬場の建設にもこの年から取り掛かっていたため、自身の所有馬を気に掛ける暇が無くなっていた。そのためにベルモント・ジュニア氏は本馬を、事業仲間だった友人のニュートン・ベニントン氏にリースし、しばらく本馬はベニントン氏の名義で走る事になった。それと同時に本馬はフレッド・ブリュー厩舎に転厩した。ブリュー師は75頭のステークスウイナーを手掛けることになる名伯楽だった。なお、各種資料において同時期にハイランド師はベルモント・ジュニア氏の専属調教師を辞したと書かれているのだが、本馬が後にベルモント・ジュニア氏の名義に戻った際には再びハイランド師が本馬を預かっている(4歳時に本馬が勝利したサバーバンHの勝利調教師はハイランド師である)から、例の皮膚疾患の件で2名の仲が険悪となったのは事実であっても、完全に喧嘩別れしたわけではないようである。

ベニントン氏名義における初出走となった11月のアケダクト競馬場ダート6ハロンのハンデ競走では、主戦となるフランク・オニール騎手(後に欧州でも活躍して米国競馬の殿堂入りを果たす名手)と初コンビを組み、不良馬場の中を快走して、2着ハラング(後に種牡馬として日本に輸入されているが成功しなかった)に4馬身差で勝利した。しかし結局2歳時は7戦3勝と目立たない成績に終わった。なお、後年になって選定された同年の米最優秀2歳牝馬はハンブルグベルが受賞している。

競走生活(3歳時)

3歳時は4月のカーターH(D7F)から始動。いきなり古馬牡馬相手のレースとなったが、102ポンドの軽斤量にも助けられた本馬が馬なりのまま走り、2着となった4歳牝馬ダズリングに2馬身差で勝利した。このレースで3着だったウォータンは後にプリークネスSで2着している。次走も古馬牡馬相手のメトロポリタンH(D8F)となった。このレースでは98ポンドの斤量だったが、サラトガスペシャルS・ブルックリンHなどに勝っていた一昨年の米最優秀2歳牡馬アイリッシュラッドとトボガンの4歳牡馬2頭に屈して、勝ったアイリッシュラッドから4馬身差の3着に敗れた。

その後は牝馬競走路線に進み、レディーズS(D8F)に出走。ここではダズリングに加えて、ケンタッキーオークス・プリオデュースSの勝ち馬オーディエンス(後に史上初のニューヨークハンデキャップ三冠馬ウィスクブルームの母となる)との対戦となった。ここではオニール騎手ではなく、ジーン・ヒルデブランド騎手が騎乗したのだが、それが影響したのか本馬はレース前にいつも以上に焦れ込んでいた。そのためにヒルデブランド騎手はいったん下馬して本馬を落ち着かせようとしたのだが、一瞬の油断を突いて本馬は放馬してしまった。逃走した本馬は、おそらく1マイルは走り回った挙句に厩舎に逃げ戻ったところをようやく捕獲された。柵の内側のみを走ったために、何かにぶつかって負傷したような事は無かったが、かなりの距離を走ってしまったために、常識的にはそのまま出走回避になるはずだった。しかし競馬場に再度連行された本馬はそのままレースに臨むことになり、本馬の勝利に賭けていた人々をパニックに陥れた。しかしレースでは2着オーディエンスに3/4馬身差で勝利した。着差は小さかったが、ゴール前では馬なりであり、内容的には完勝だった。

次走のグレーヴセンド競馬場ダート6ハロンの一般競走では、2着マミーワースに1馬身差で勝利した。続くガゼルS(D8.5F)では、泥だらけの不良馬場の中を快走して、2着グレースフルに10馬身差をつけて圧勝。ちなみに本馬は重馬場が得意だったらしく、現役時代に重・不良馬場のレースを9回走ったが、4着以下は一度も無かった。もちろん単なる重馬場専用馬などではなく、次走のマーメイドS(D9F)では良馬場の中を快走して、ゴール前では馬なりのまま走り、2着リトルエムに7馬身差で圧勝した。続くシープスヘッドベイ競馬場ダート8ハロンの一般競走も、ベイビューH・コロトナHの勝ち馬で、ベルモントフューチュリティS・アラバマS・マンハッタンHで2着、メトロポリタンHで3着していた5歳牝馬ルクスカスタを2馬身差の2着に抑えて勝利。

牝馬限定競走を5連勝した本馬は、メトロポリタンH以来の牡馬混合戦となるテストH(D8F・現在の牝馬限定GⅠ競走テストSとは全くの別競走)に出走した。ここでは、トラヴァーズS・ジェロームH・オーシャンビューH・サラナクH・ブライトンC・マーチャンツ&シチズンズH・エッジメアH・オーシャンHなどを勝ち、後年になって一昨年と前年の米年度代表馬に選ばれる事になる5歳牡馬ハーミス(この年もサバーバンHに勝利しており、米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている)と対戦した。ここでは1分38秒0のコースレコードで走ったハーミスに追いつけずに、1馬身差の2着に敗れた。

次走のアラバマS(D9F)は牝馬限定競走だった。ここでも例によって馬群の後方を追走していたが、道中でオニール騎手が抑えきれなくなって爆走を開始。後続に瞬く間に8馬身差をつけた段階で全力疾走を止めて、ゴール前では流して2着ディンプルに6馬身差で圧勝。「レースではなく調教だった」と評された圧勝ぶりだった。

続くサラトガC(D14F)では、前年にベルモントS・サバーバンH・サラトガC・ローレンスリアライゼーションS・アドヴァンスS・シャンプレインHなどを勝利して、後年になって米最優秀3歳牡馬に選ばれる事になる4歳馬アフリカンダーとの対戦となった。アフリカンダーの前年のサラトガC勝ちはコースレコードであり、かなりの難敵だった。他にも、一昨年のローレンスリアライゼーションS・ブルックリンダービー・タイダルSなどを勝ちプリークネスSで2着していた5歳馬メジャーデインジャーフィールド、前年のアメリカンダービーとこの年のブルックリンHを勝っていたザピケット、ダズリングなどが出走していた。しかし馬場状態は本馬の得意な不良馬場であり、しかも斤量は108ポンドと軽量だった。これらの条件にも助けられた本馬が、珍しくスタートして間もなく逃げを打った。そのまま後続を6馬身ほど引き離して逃げ続けると、ゴール前ではオニール騎手が抑える余裕ぶりで、2着アフリカンダーに4馬身差をつけて圧勝した。

続くドルフィンS(D9F)も牡馬相手の競走であり、翌年のカーターHを勝つオーモンデスライトなどの強敵が出走していたが、2着オーモンデスライトに4馬身差をつけて完勝した。次走のセプテンバーS(D11F)では、この年のシープスヘッドベイSの勝ち馬でベルモントS2着のグラツィアーノ、ローレンスリアライゼーションS・ブライトンダービー・タイダルS・コモンウェルスHなどを勝利して後年になってこの年の米最優秀3歳牡馬に選ばれるオルトウェルズなどが対戦相手となったが、本馬が2着グラツィアーノに2馬身半差で勝利した。

快進撃を続ける本馬は、ファーストスペシャルS(D10F)に出走。シャンペンS・プロデュースS・スウィフトS・センチュリーSなどの勝ち馬でグレートアメリカンS2着のストールワート、ツインシティSの勝ち馬カフナワーケなどの強豪牡馬勢が対戦相手となったが、本馬が2着カフナワーケに1馬身半差で勝利した。スタートからゴールまで一貫して馬なりのまま走り続けた末の逃げ切りであり、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトには、このレースが本馬の最高のパフォーマンスであると書かれている。

5日後のセカンドスペシャルS(D12F)では、アフリカンダーに加えて、トラヴァーズS・グレートアメリカンS・ジュヴェナイルS・ブライトンHなどを勝っていたブルームスティック(前述のウィスクブルームの父)、マーチャンズCで他馬より19ポンド重い132ポンドを背負いながら勝ってきたマックチェスニーなどが対戦相手となり、本馬が出走してきたレースの中で最高のメンバー構成となった。しかし蓋を開けてみれば、本馬が2着ブルームスティックに5馬身差をつけて圧勝していた。

4月中旬のカーターHから9月下旬のセカンドスペシャルSまで5か月強で14戦した本馬は、ここで3歳時の出走を終えた。これだけの強行軍にも関わらず、14戦12勝、しかも牡馬混合戦に8回出走して6勝した(つまり牝馬限定戦では6戦全勝だった)本馬は、後年になってこの年の米最優秀3歳牝馬はもちろん、米年度代表馬にも選出された。牝馬が年度代表馬になったのは1899年のインプ以来5年ぶり史上2頭目で、3歳牝馬が年度代表馬になったのは、米国競馬史上初めての快挙だった。

競走生活(4歳時)

4歳時は、本馬をベニントン氏にリースした事を後悔していたらしいベルモント・ジュニア氏の名義に戻り、前述のとおりハイランド師が再び管理調教師となった。まずは5月のメトロポリタンH(D8F)から始動したが、前年より24ポンドも重い122ポンドが課せられた。しかも牡馬相手のレースでは分が悪く、この年の米年度代表馬に選ばれる歴史的名馬サイソンビーとレースキングの同着勝利から15馬身差の9着と、本格化以降では初めての大敗を喫した。

次走のグレーヴセンド競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走でも125ポンドを課せられてしまい、19ポンドのハンデを与えた牡馬ガーニッシュの1馬身半差2着に敗退した。しかしスタンダードS(D10F)では、1歳年下のプリークネスSの勝ち馬ケアンゴーム、メジャーデインジャーフィールドなどを蹴散らして、2着ケアンゴームに1馬身差で勝利した。

次走のサバーバンH(D10F)では、前年のベルモントS・ウィザーズSを勝ち後年になってオルトウェルズと並んで米最優秀3歳牡馬に選ばれる事になる同世代馬デリーとの顔合わせとなった。性差を考慮しても本馬のほうがデリーより強いと判断されたらしく、123ポンドのトップハンデを課せられたのは本馬のほうだった。しかしハンデキャッパーの判断は正しく、メトロポリタンHの大敗が嘘のような走りを披露して、2着プロパー(前年のブルックリンH3着馬)に1馬身差で勝利した。サバーバンHを牝馬が勝ったのは1899年のインプ以来6年ぶり2頭目であり、本馬以降は1929年のバトーまで24年間現れなかった。ここで着外に敗れたデリーはこの直後にブルックリンHを勝ち、この年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる事になる。

次走のアドヴァンスS(D11F)では、10ポンドのハンデを与えた1歳年下のケンタッキーダービー馬アジャイルの鼻差2着に敗れた(グラツィアーノが3着だった)。このレース後に本馬はベルモント・ジュニア氏の新しい専属調教師となったアンドリュー・J・ジョイナー師の元に転厩となった。

新設競走ブライトンマイルS(D8F)では、デリーに加えて、前年のセプテンバーSで本馬が打ち負かしたオルトウェルズとの対戦となった。ここではデリーと並んでこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるオルトウェルズが牡馬の意地を見せて勝利し、本馬は3/4馬身差の2着に敗れた(デリーは3着だった)。次走のブライトンH(D10F)では得意の重馬場にも関わらず、勝ち馬から9馬身差の3着と完敗。勝ったのはこれが引退レースだった1歳年下の名牝アートフルで、オルトウェルズが2着だった。

次走のサラトガH(D10F)では、前年のファーストスペシャルSで2着に負かした前年の同競走3着馬カフナワーケの3馬身半差3着。デラウェアH(D8F・現在の牝馬限定GⅠ競走とは無関係の牡馬混合競走)では、前年の同競走を勝っていた牝馬モリーブラントの2馬身半差5着(エッジメアH・サラナクHなどを勝っていた同世代の牡馬ドリースパンカーが2着で、ケアンゴームが3着)と、敗戦が続いた。連覇を目指して出走したサラトガC(D14F)では、直線の追い上げ及ばず、前年のファーストスペシャルSで2着に負かしたカフナワーケの1馬身半差2着に敗退。これが現役最後のレースとなった。4歳時の成績は10戦2勝だったが、後年になってこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれている。また、獲得賞金総額は10万2570ドルであり、ミスウッドフォードフィレンツェに続く、牝馬としては米国競馬史上3頭目の10万ドルホースとなった。

血統

Octagon Rayon d'Or Flageolet Plutus Trumpeter
Britannia 
La Favorite Monarque
Constance
Araucaria Ambrose Touchstone
Annette
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Ortegal Bend Or Doncaster Stockwell
Marigold
Rouge Rose Thormanby
Ellen Horne
Lizzie Agnes Macaroni Sweetmeat
Jocose
Polly Agnes The Cure
Miss Agnes
Bella Donna Hermit Newminster Touchstone Camel
Banter
Beeswing Doctor Syntax
Ardrossan Mare
Seclusion Tadmor Ion
Palmyra
Miss Sellon Cowl
Belle Dame
Bonnie Doon Rapid Rhone Young Melbourne Melbourne
Clarissa
Lanercost Mare Lanercost
Physalis
Queen Mary Gladiator Partisan
Pauline
Plenipotentiary Mare  Plenipotentiary
Myrrha

父オクタゴンは、19世紀末欧州の名馬レヨンドールの産駒。米国に輸入されて北米種牡馬になるなど活躍していたレヨンドールを後に買い取ったベルモント・ジュニア氏により生産・所有された。競走馬としては、トボガンH2回・ウィザーズS・ブルックリンダービーを勝ち、ベルモントS・メトロポリタンHで3着している。種牡馬としては本馬を出した他に、本馬より4歳年下である牡駒のノルマンが英国に輸出されて英2000ギニーを勝っている。そのため、オクタゴン自身も後に欧州に輸出されたが、あまり成功できなかった。

母ベラドンナは、名種牡馬ボニースコットランドや英ダービー・英オークスを制した名牝ブリンクボニー達の半妹であるボニードーンの娘で、世界的名牝系の祖であるクイーンメアリーの孫、英ダービー・英セントレジャー勝ち馬ブレアアソールの従姉妹に当たる良血馬。ベルモント・ジュニア氏により6歳時の1891年に8800ドルで購買されて米国に輸入されていた。繁殖牝馬としては本馬の半弟ドンエンリケ(父ヘイスティングス)【プリークネスS】も産んでいる。

ベラドンナの全姉ワーフェデールの子には、英国から米国に種牡馬として輸入されて活躍したウォータークレス【プリンスオブウェールズS・ハードウィックS】が、半妹ボニーギャル(父ガロピン)の子には、これまた英国から米国に種牡馬として輸入されて活躍したディスガイズ【ジョッキークラブS】がいる。ワーフェデールの牝系子孫には名種牡馬プリンスローズ、凱旋門賞馬ラインゴールド、凱旋門賞馬エリシオなどが、ベラドンナの全妹ブバルディアの牝系子孫にはエクリプスS2連覇のホーリング、ジャパンC馬アルカセット、ドバイワールドCの勝ち馬アフリカンストーリーなどが、ボニーギャルの牝系子孫には名種牡馬ブラックトニー、イスパーン賞の勝ち馬ハイエストオナーなどがおり、ボニードーンはクイーンメアリーの系統が世界的名牝系となった功労馬の1頭となっている。

ベラドンナもそれに一役買っており、本馬の半姉ドンナミア(父ジイルユーズト)の子にミゼン【トボガンH】、曾孫にはダンリン【ホープフルS・ドワイヤーS】、ヴァランシエンヌ【アーリントンメイトロンH】、玄孫世代以降にはヨーキー【ワイドナーH2回】、ザファクター【パットオブライエンS(米GⅠ)・マリブS(米GⅠ)】といった活躍馬が出ている。また、本馬の半姉ベラミア(父ヘンリーオブナヴァル)の牝系子孫には、カナディアナ【クイーンズプレート・テストS】、その甥でノーザンテーストの母父として知られるヴィクトリアパーク【クイーンズプレート】、そのまた甥で加国の大種牡馬であるヴァイスリージェントや加年度代表馬ヴァイスリーガルといった加国の名馬達、サラヴァ【ベルモントS(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F10号族②

母父ハーミットは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ナーサリースタッドに戻って繁殖牝馬になった。しかし本馬は繁殖牝馬としては成功しなかった。その理由について「サルヴェイター」の筆名で知られた米国の伝説的競馬作家ジョン・ハーヴェイ氏は、競走馬としてはプラスに働いた本馬の気性の強さが繁殖牝馬としてはマイナスに働いたからだと推測しているが、本馬の一時的な所有者だったベニントン氏はその意見を否定している。本馬が他界した年に関しては異説があり、英語版ウィキペディアでは1924年に23歳で他界したとあるし、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトでは1923年に22歳で他界したとある。普通であれば米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトのほうを信用するところだが、同サイトの本馬の項目には「サバーバンHで本馬がブルームスティックを5馬身差で破った」と誤った記述がある(本馬がブルームスティックを5馬身差で破ったのはセカンドスペシャルSである)から、どちらもいま一つ信憑性に欠けており、いずれが正しいのかちょっと判断しかねる。なお、所有者ベルモント・ジュニア氏の没年は1924年である。

1939年にアケダクト競馬場において本馬の名を冠した競走ベルデイムH(現在はベルデイムS)が創設された。このレースはその後ベルモントパーク競馬場に開催場所が移り、1973年のグレード制施行時点から今日まで一貫してGⅠ競走として実施されている。1955年に米国調教師協会がデラウェアパーク競馬場において実施した、米国競馬史上最も偉大な牝馬はどの馬かを決める調教師間の投票において本馬は第7位にランクされた。1956年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第98位。

本馬の直子には特筆できる活躍馬はいないが、牝駒ベルヴェイル(父ウォーターヴェイル)から牝系が伸びており、ベルヴェイルの曾孫にベイビュー【サンタアニタH】、玄孫世代以降にウインドアンドワザリング【デューハーストS(英GⅠ)】、ライオンハート【ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)・ハスケル招待H(米GⅠ)】などが出ており、今世紀も残っている。

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