マイスワロー

和名:マイスワロー

英名:My Swallow

1968年生

鹿毛

父:ルルヴァンステル

母:ダリグル

母父:ヴィルモレイ

2歳時7戦全勝の成績を残して同世代のミルリーフやブリガディアジェラードを上回る評価を受けるも、英2000ギニーではその2頭の前に敗北してしまう

競走成績:2・3歳時に英仏で走り通算成績11戦8勝2着2回3着1回

誕生からデビュー前まで

マイルズ・ウォルシュ氏により生産された愛国産馬(公式には英国産馬となっている)で、1歳時にダブリンで実施されたセリにおいて、デイビッド・ロビンソン卿により5千ギニーで購入された。ラジオやテレビのレンタル業で成功した事業家のロビンソン卿は、ケンブリッジに新しい大学を創設したり(彼の名前にちなんでロビンソン大学と命名された)、彼の母親の名前にちなんで命名されたロージー病院に300万ポンドを寄付したりと慈善事業に勤しんでナイトの称号を与えられた一方で、1960年代当時の英国において最も多くの競走馬を所有する馬主でもあった。彼が過去に所有した主な馬は、1955年の英2000ギニー馬アワバブーである。

彼が購入して所有したニューマーケットにあるクレアヘイヴン・ステーブルズ(創設は20世紀始め頃)は当時英国最大の調教場であり、最盛期には120~150頭もの馬がいた(現在でもジョン・ゴスデン調教師の調教場として数々の有力馬が巣立っている)。それらの馬達は彼の専属調教師だったマイケル・ジャーヴィス師とポール・デイビー師に分けて委ねられており、本馬はデイビー師のほうに任された。成長すると体高16.3ハンドに達した非常に力強い馬であり、将来を嘱望されていた。主戦はレスター・ピゴット騎手が務めた。

競走生活(2歳時)

2歳5月にヨーク競馬場で行われたゼトランドS(T5F)でデビューして、2着ウインドストームに3馬身差で完勝。翌月にエプソム競馬場で出走したウッドコートS(T6F)も、2着ルージョに半馬身差で勝利した。すると陣営は本馬を仏国に向かわせ、仏国主要2歳路線に参戦させた。まずは6月下旬にロンシャン競馬場でボワ賞(T1000m)に出走して、2着プリマティッチオに4馬身差で圧勝。

次走は7月にメゾンラフィット競馬場で行われたロベールパパン賞(T1100m)となった。このレースには前走のコヴェントリーSを8馬身差で圧勝してきた2戦2勝のミルリーフも英国から遠征してきており、仏国の競走なのに英国調教馬による2強対決となった。本馬が単勝オッズ2.9倍の1番人気に支持され、ミルリーフは2番人気だった。レースでは終盤でやはり本馬とミルリーフの一騎打ちとなった。“magnificent duel(壮大な決闘)”と評された2頭の激闘は最後に短頭差で本馬に軍配が上がった(3着馬アバントはさらに4馬身後方だった)。

1か月後にドーヴィル競馬場で出走したモルニ賞(T1200m)には、英国に戻ったミルリーフの姿は無かった。仏国には本馬に敵う馬がおらず、本馬が2着アンペールチヌに2馬身差をつけ、後にリュパン賞を勝ち仏2000ギニーで2着、フォレ賞・仏ダービー・サンクルー大賞で3着するタルブをさらに2馬身半差の3着に破って勝利した。

翌9月にはロンシャン競馬場でサラマンドル賞(T1400m)に出走。このレースには、やはり英国から遠征してきた無敗のニューS・ジュライS・リッチモンドSの勝ち馬スウィングイージーが出走しており、これまた仏国の競走なのに英国調教馬による2強対決となった。しかしミルリーフと異なりスウィングイージーは本馬の敵ではなかった。本馬が2着となった仏国調教の牝馬ラミーオーロワイユに2馬身差をつけて快勝し、後に短距離路線に転向してキングズスタンドS・ナンソープSに勝利するスウィングイージーはさらに1馬身半後方の3着に終わった。

10月には仏グランクリテリウム(T1600m)に参戦。2着ボナミに半馬身差、3着マルシェペルサンにはさらに5馬身差をつけて勝利を収めた。これで本馬はロベールパパン賞・モルニ賞・仏グランクリテリウムの“French juvenile Triple Crown(仏国2歳三冠競走)”を全勝した事になり、これは1933年のブラントーム、1935年のミストレスフォード、1945年のニルガルに次ぐ25年ぶり史上4頭目の快挙だった。なお、この3競走だけでなくサラマンドル賞にも勝ったのは本馬が史上初である。

日本の競馬雑誌「優駿」には後に日本で種牡馬入りした本馬を紹介する際に「(ロベールパパン賞・モルニ賞・サラマンドル賞・仏グランクリテリウムを勝った)仏国2歳四冠馬です」と書かれているが、「仏国2歳四冠」なる表現は海外の資料には見当たらない。本馬を紹介する海外の資料には、「ロベールパパン賞・モルニ賞・(仏)グランクリテリウムの3競走だけでなく、サラマンドル賞にも勝った史上初めての馬です」と、筆者が上記に書いたとおりの表現となっている。本馬だけでなく、後にこの4競走を全て勝利したブラッシンググルームアラジの資料や、上記4競走について述べられた資料にも全く載っていないところを見ると、日本人が勝手にそう呼んだだけであると思われる。同様の事例は、同世代のミルリーフが達成した「欧州三冠」など枚挙に暇がない。別にそれが悪いとまでは言わないが、海外の情報をなるべく正確に伝えようという観点には欠けている。そもそも“French juvenile Triple Crown”というのも英語圏の表現であり、仏語の資料には該当する表現が無いところを見ると、仏国2歳三冠競走なる名称自体、英国の人が勝手にそう呼んでいるだけだと思われる。

それはさておき、仏グランクリテリウムを勝った本馬は2歳時を7戦全勝の成績で終えた。本馬がこの年に獲得した賞金の総額は8万8千ポンド以上に達し、これは2歳馬としては当時の欧州新記録だった。英タイムフォーム社のレーティングにおいては134ポンドの評価が与えられた。英タイムフォーム社の2歳馬レーティングにおいて過去にこれより高い数値を獲得した馬は6頭いた(具体的には、142ポンドを獲得した1951年のウインディシティ、138ポンドを獲得した1955年のスターオブインディア、136ポンドを獲得した1957年のテクサナ、いずれも135ポンドを獲得した1960年のフロリバンダ、1961年のラテンドレス、1967年のペティンゴ)から、この時点で本馬が英国史上最高の2歳馬と讃えられたわけではないが、前年にデューハーストSなど5戦全勝の成績を残したニジンスキーでも131ポンドの評価だった事を考えると、やはりかなりの高評価ではあった。なお、英タイムフォーム社の2歳馬レーティングにおいて同年第2位となる133ポンドの評価を得たのは、ロベールパパン賞敗戦後にデューハーストS・ジムクラックSなどを勝って6戦5勝の成績としていたミルリーフと、仏グランクリテリウム2着馬ボナミの2頭で、ミドルパークSなど4戦全勝の成績を残したブリガディアジェラードが132ポンドで第4位、クイーンメアリーS・モールコームS・ロウザーS・コーンウォリスSなど8戦全勝の成績を残した牝馬コーストンズプライド(日本で種牡馬入りしたマンオブビィジョンなどの母)が131ポンドで第5位、ミドルパークSでも完敗してしまったスウィングイージーは120ポンドで第22位タイに留まった。また、英国の2歳馬フリーハンデでは本馬が133ポンドでやはり単独1位、ミルリーフが132ポンドで2位、ブリガディアジェラードが131ポンドで3位、コーストンズプライドが130ポンドで4位だった(ボナミは仏国調教馬なので英国の2歳馬フリーハンデでは対象外である)。

競走生活(3歳時)

3歳時は4月にケンプトンパーク競馬場で行われたアッシャーS(T7F)から始動した。このレースは英2000ギニーのトライアル競走として位置付けられていたものだが、特にこれと言った相手は出走しておらず、本馬が1馬身半差で勝利した。

そして次走が英2000ギニー(英GⅠ・T8F)となった。この年の英2000ギニーの出走馬は、ニジンスキーが勝利した前年の14頭立てから半分以下の6頭立てとなっていた。その理由はおそらく、本馬、ミルリーフ、ブリガディアジェラードの3頭が揃って参戦を表明していたため、勝ち目が無いと判断した他馬陣営の多くが逃げ出したためである。出走6頭の中には上記3頭の他に、レイルウェイS・ベレスフォードS・グラッドネスSを勝ってきた愛国調教馬ミンスキーも含まれていた。そして本馬の主戦だったピゴット騎手は、自身の愛馬だったニジンスキーの1歳年下の全弟であるミンスキーに騎乗することを選び、本馬にはフランキー・デュール騎手が騎乗する事になった。この乗り代わりが影響したのか、単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持されたのはミルリーフで、本馬が単勝オッズ3倍の2番人気、ブリガディアジェラードが単勝オッズ6.5倍の3番人気、ミンスキーが単勝オッズ8.5倍の4番人気となった。

スタートが切られると本馬が先頭に立ち、ミルリーフも先行態勢を取った。残り3ハロン地点でミルリーフが本馬に並びかけてきて2頭の叩き合いが始まった。ミルリーフをマークするように少し後方を走っていたブリガディアジェラードも残り2ハロン地点で並びかけてきて、ここで3頭が横一線となった。しかしここからブリガディアジェラードが瞬く間に本馬とミルリーフの2頭を置き去りにして突き抜けていった。本馬とミルリーフの叩き合いはゴールまで続いたが、本馬は3/4馬身差で競り負けて3着。そして2着ミルリーフより3馬身前方でブリガディアジェラードがゴールしていた。本馬も4着ミンスキーには5馬身差をつけていたから決して凡走したわけではなく、ブリガディアジェラードやミルリーフの後の活躍を考えると、これは相手が悪かったとしか言いようが無い。

その後は距離不安を理由に英ダービーを回避し、験が良い仏国ロンシャン競馬場のポルトマイヨ賞(仏GⅢ・T1400m)に向かった。しかし、クリテリウムドメゾンラフィット・ジョンシェール賞を勝ち、フォレ賞・ムーランドロンシャン賞で2着、仏グランクリテリウム・仏2000ギニーで3着(厳密には仏2000ギニーは1位入線するも進路妨害で降着)していた仏国調教の4歳馬ファラウェイサン(後にムーランドロンシャン賞・フォレ賞・ロンポワン賞を勝っている)に6馬身差をつけられて2着に敗れた。

その後は英国に戻ってジュライC(英GⅠ・T6F)に参戦。当初は出走してくるのではと言われていたブリガディアジェラードの姿は結局無く、鞍上にピゴット騎手が戻ってきた本馬が今度こそ勝てると思われた。しかし勝ったのは前年のダイアデムS・チャレンジSを勝ちジュライC・ロッキンジSで2着していた4歳馬リアルムで、本馬は3着ヘクラ(チェリーヒントンSを8馬身差で圧勝した馬で、インペリアルSではミルリーフの1馬身差2着だった)には6馬身差をつけたものの、半馬身差の2着に敗退。結局このレースを最後に、3歳時4戦1勝の成績で競走馬を引退した。

競走馬としての評価

本馬の2歳時における評価は同世代では最高だったが、前述のとおり数値的には過去最高だったというわけではない。それに、英タイムフォーム社のレーティングにおいては本馬以降に本馬より高い数値を獲得した馬が存在する。具体的には、1973年のアパラチーが137ポンド、1991年のアラジが135ポンド、1994年のケルティックスウィングが138ポンドの評価を得ている。

しかしながら、当の英タイムフォーム社の記者だったジョン・ランドール氏とトニー・モリス氏は著書“A Century of Champions”の中で、本馬は、レーティングにおいて本馬より高い数値を獲得した前述のどの馬よりも上位の2歳馬であると評価している。これによると、20世紀において本馬より上位の2歳馬は、1913年のザテトラーク、1919年のテトラテーマ、1946年のテューダーミンストレルの3頭のみ(いずれもその当時は英タイムフォーム社のレーティングが存在しなかった。もっとも2歳馬フリーハンデは存在しており、3頭共に群を抜く評価を受けている)であり、本馬は第4位だとされている。ランドール氏やモリス氏の思想は筆者と乖離する部分が大きいために“A Century of Champions”をあまり当てにしていない筆者であるが、2歳馬に関するこれらの評価に関しては妥当であると思っている。

血統

Le Levanstell Le Lavandou Djebel Tourbillon Ksar
Durban
Loika Gay Crusader
Coeur a Coeur
Lavande Rustom Pasha Son-in-Law
Cos
Livadia Epinard
Lady Kroon
Stella's Sister Ballyogan Fair Trial Fairway
Lady Juror
Serial Solario
Booktalk
My Aid Knight of the Garter Son-in-Law
Castelline
Flying Aid Flying Orb
Aideen
Darrigle Vilmoray Vilmorin Gold Bridge Golden Boss
Flying Diadem
Queen of the Meadows Fairway
Queen of the Blues
Iverley Way Apron Son-in-Law
Aprille
Smoke Alley Drinmore
Mella
Dollar Help Falls of Clyde Fair Trial Fairway
Lady Juror
Hyndford Bridge Beresford
Portree
Dollar Crisis Pink Flower Oleander
Plymstock
Silver Loan Loaningdale
Silver Steel

父ルルヴァンステルはレヴモスの項を参照。

母ダリグルは現役成績22戦2勝。本馬の半弟ドロブニー(父ファルコン)【ピサ賞(伊GⅢ)】も産んでいるが、牝系子孫は発展しておらず、近親にこれといった活躍馬もいない。ダリグルの4代母フラッシュオブスティールの半妹ハーピーから7代目には米国の歴史的名馬シガー、8代目には米国芝王者ジオポンティが出ているが、ここまで来ると近親とはとても言えない。→牝系:F2号族②

母父ヴィルモレイは現役成績33戦13勝。ジュライCで1着と2着が1度ずつある短距離馬だった。遡ると、キングズスタンドSの勝ち馬ヴィルモリン、キングズスタンドS2連覇・ナンソープS勝ちのゴールドブリッジ、同じくキングズスタンドS2連覇・ナンソープS勝ちのゴールデンボス、そしてザボス、オービーへと遡る完全な短距離血統である。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、有名な映画プロデューサーであるアーヴィング・アレン氏(後にヘイローを英国で種牡馬入りさせようとして失敗した人物でもある)によって40万ポンドで購入され、彼がニューマーケットに所有していたデリスレイウッドスタッドで種牡馬入りした。しかし産駒成績が期待を下回るものだったため、英国における種牡馬生活は6年間で終了し、1978年に、テンポイントなどを生産した事で知られる吉田牧場の牧場主である吉田重雄氏に購入されて来日し、同年から吉田牧場で種牡馬生活を続けた。初年度は56頭、2年目は72頭、3年目は67頭、4年目の1981年は63頭の繁殖牝馬を集めた。日本における初年度産駒から、1982年のきさらぎ賞を勝ち、同年の皐月賞と東京優駿でいずれも2着に入ったワカテンザンが出て注目された。そのために5年目は70頭、6年目は62頭、7年目の1984年は51頭と交配数は確保されていた。しかしワカテンザンに続く活躍馬が、左目を失明しながら走り続けた1984年の高松宮杯の勝ち馬キョウエイレアしか出なかったため、8年目は33頭、9年目の1986年は3頭まで交配数が減少。この3頭はいずれも不受胎だったため、その後は種付けを行わなかった。そして1988年9月に20歳で他界した(日本では1988年に種牡馬を引退したというオブラートで包んだ表現をされる事が多いが、要するに「廃用(=屠殺場送り)」である)。全日本種牡馬ランキングでは、1984年の41位が最高だった。

本馬の直系は、米国の名牝タイプキャストとの間に産まれた牡駒で、天皇賞馬プリテイキャストの半弟に当たる不出走馬ラッキーキャストが、ワカテンザンの半妹ワカスズランとの間にフジヤマケンザンを出した事で、しばらく伸びたが、現在では途絶えている。一応牝系の中には本馬の血は残っているようである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1973

Northern Spring

伊グランクリテリウム(伊GⅠ)

1974

Aviatik

独1000ギニー(独GⅢ)

1974

Command Freddy

ロシェット賞(仏GⅢ)

1979

キョウエイレア

高松宮杯(GⅡ)

1979

ワカテンザン

きさらぎ賞

1984

マイスパータン

あすなろ賞(金沢)

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