ブラントーム

和名:ブラントーム

英名:Brantome

1931年生

鹿毛

父:ブランドフォード

母:ヴィタミン

母父:クラリシマス

非常に小柄で貧相な馬体ながらも仏国2歳三冠完全制覇・凱旋門賞優勝などデビューから11連勝を達成した仏国競馬史上有数の名馬

競走成績:2~4歳時に仏英で走り通算成績14戦12勝

20世紀における仏国競馬史上最高の競走馬とされるのはシーバードであり、第二次世界大戦中の英雄ファリスもそれに匹敵する評価を受けているが、本馬はその2頭と並び称せられる存在であり、20世紀仏国における名馬を3頭挙げる場合には、本馬、ファリス、シーバードの名前が挙がるのが普通である。

誕生からデビュー前まで

銀行家一族として世界的に知られたロスチャイルド家の仏国分家ロートシルト家の第3代当主であるエドワール・アルフォンス・ド・ロートシルト男爵により、彼が所有する仏国モートリー牧場において生産・所有された。自身も乗馬が趣味で、1900年のパリ五輪において団体銅メダルを獲得したロートシルト男爵は、競馬に熱中し過ぎてロートシルト家の財産を食い潰した駄目息子だった。しかし馬産家としては優秀であり、自身が所有する繁殖牝馬の交配相手には、モートリー牧場に繋養されていた多くの種牡馬ではなく、英国や愛国にいたより優秀な種牡馬を選択することが多く、それによって多くの活躍馬を世に送り出した。

そのロートシルト男爵の最高傑作が本馬であるが、その馬体は非常に小柄であった。成長しても体高は15.1ハンドにしかならなかった上に、体格もとても細身だった。後に英国に来た本馬を見た英国の競馬記者は、まるでポニーのように見えたと批評している。これが仏国と仲が悪い英国人だけの評価であれば単なる悪口とも取れるが、地元仏国の競馬記者さえも、どう見ても優秀な競走馬になれそうな馬体では無かった旨を認めているから、本当に見栄えがしない馬体だったのであろう。筆者は現存する本馬の写真を見たが、先入観を抜きにしても一目で小さいと分かるほどである。同じく小柄な事で知られていた1歳年上のハイペリオン(やはり成長しても体高は15.1ハンドだった)の写真と比較すると、確かにハイペリオンは背が低いが胴体や脚にはかなりの筋肉がついているように見受けられるのに対して、本馬の胴体や脚には骨が浮き出ているように見受けられる。本馬の馬体はバランスが取れていたと評価する向きもあるようだが、それは低い身長相応に身体が細かったという事の裏返しでもある。これは、やはり小柄だった父ブランドフォードの馬格を強く受け継いだのだと推察されている。しかも気性が激しくて扱い辛かったというから、短所ばかり目立つ馬だった。しかし唯一かつ最大の長所は、その軽快な動きにより発揮される圧倒的なスピード能力だった。馬名は仏国ドルドーニュ県にある同名の町に由来するが、おそらく父ブランドフォードの名前からの連想もあったと思われる。本馬はロートシルト男爵の専属調教師で、仏国シャンティに厩舎を構えていたリュシアン・ロベール師に預けられた。ロベール師は、小柄な本馬のために2歳時はあまり無理に調教する事を避け、出走間隔も十分に取る事を心がけた。

競走生活(2歳時)

2歳6月にロンシャン競馬場で行われたマルタンヴァス賞(T1000m)で、主戦となるシャルル・ブイヨン騎手を鞍上にデビューした。ここでは馬なりのまま走り、6頭の対戦相手を蹴散らし、1馬身差で勝利した。翌月にはロベールパパン賞(T1200m)に出走した。ここでは10頭の対戦相手を蹴散らし、1分15秒2のレースレコードを計時して、2着マセスタルに2馬身差で完勝した。8月にはモルニ賞(T1200m)に出走。2着ファナールに1馬身半差をつけて、これまた難なく勝利した。

そして10月には仏国2歳王者決定戦の仏グランクリテリウム(T1600m)に出走した。後に仏1000ギニー・ヴェルメイユ賞・クロエ賞・アルクール賞を勝ち仏オークスで2着するメアリーテューダーという強豪牝馬も参戦していたのだが、本馬が2着となった牝馬サパラーデに1馬身半差をつける余裕勝ちを収め、メアリーテューダーは3着に終わった。これで本馬はロベールパパン賞・モルニ賞・仏グランクリテリウムの“French juvenile Triple Crown(仏国2歳三冠競走)”を史上初めて全勝した競走馬となった(ただし、この3競走を総称して「仏国2歳三冠競走」と呼ぶのは英語圏だけであるらしく、地元仏国の資料でこういった表現を見かけたことは無い)。しかも3競走全てが馬なりの勝利だったことから、2歳にして既に歴史的名馬の称号を得た。2歳時は4戦全勝の成績で終え、この年の仏国フリーハンデでは63kg(139ポンド)の高評価を得た。

競走生活(3歳時)

3歳時は5月にロンシャン競馬場で行われたセヴレ賞(T1600m)から始動して、6馬身差で圧勝。10日後に出走した仏2000ギニー(T1600m)では、名繁殖牝馬プラッキーリエージュの息子アドミラルドレイク、アランベール賞・プティクヴェール賞・グロシェーヌ賞の勝ち馬シャイニングトーア(後にこの年のジャックルマロワ賞を勝利)など5頭の対戦相手を抑えて、当然のように単勝オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして直線で爆発的な末脚を繰り出して、2着アドミラルドレイクに3馬身差をつけて完勝した。

さらに2週間後には、リュパン賞(T2100m)に出走した。前走3着のシャイニングトーア、後にユジェーヌアダム賞・ゴントービロン賞を勝つアストロノメールなど7頭が対戦相手となった。鞍上のブイヨン騎手は、まるで観客席を見物させるように本馬を馬なりで走らせ続けると、直線で少しだけ仕掛けた。すると例によって爆発的な末脚を繰り出し、2着シャイニングトーアに2馬身半差で完勝した。

その後は仏ダービーを経てパリ大賞に向かう予定だった(英ダービーに出る予定だったとする説もある)が、リュパン賞の直後に仏国で大流行した風邪に罹患してしまい、両競走とも無念の回避となってしまった。この時期に、本馬と同じくブランドフォードを父に持つ同世代の英ダービー馬ウインザーラッド、本馬が不在の仏ダービーで3着した後に英2000ギニー・英ダービーの両方で2着していたイーストンを3着に破ってパリ大賞を勝利したアドミラルドレイク、そして本馬の3頭を米国に招待して、この3頭と同世代であるケンタッキーダービー馬カヴァルケイドとを対戦させるという国際競走を米国ベルモントパーク競馬場が企画したのだが、結局実現はしなかった。

復帰戦は9月のロワイヤルオーク賞(T3000m)となった。ここではアドミラルドレイクとの再戦となった。本馬はまだ咳が完全には収まっておらず本調子ではなかったためか、いつもよりも行き脚が悪かった上に、道中は外側を回らされてしまった。そのために直線入り口でもまだ後方だったが、ゴール直前で逃げるアストロフェルを首差捕らえて勝ち、無敗記録を守った。

次走は凱旋門賞(T2400m)となった。本馬が不在の仏ダービーを勝っていたフォンテーヌブロー賞の勝ち馬デュプレ、前走で着外だったアドミラルドレイク、アストロフェル、仏グランクリテリウムで本馬の2着だったポモーヌ賞・ラクープドメゾンラフィットの勝ち馬サパラーデ、フォレ賞・セーネワーズ賞・コンセイユミュニシパル賞・アルクール賞・仏共和国大統領賞(現サンクルー大賞)の勝ち馬アシュリュー、グレフュール賞・オカール賞の勝ち馬で前走ロワイヤルオーク賞3着のマラヴェディス、ロシェット賞・ユジェーヌアダム賞・プランスドランジュ賞の勝ち馬でバーデン大賞2着のネグンド、コンデ賞・シェーヌ賞・マレショー賞(現モーリスドニュイユ賞)の勝ち馬デンバー、ドーヴィル大賞の勝ち馬モルヴィラル、フォルス賞勝ち馬シルバープレーテッドといった仏国内の有力馬勢に加えて、英国からも、この年のアスコット金杯でハイペリオンを破って圧勝していたミドルパークS・ジョッキークラブC・ジョンポーターSの勝ち馬で英セントレジャー2着のフェリシテーションも参戦してきた。鞍上のブイヨン騎手はフェリシテーションを最大の強敵と見ていたようで、逃げるフェリシテーションをマークするように、単勝オッズ1.1倍(2.1倍とする資料もある)の1番人気に支持されていた本馬を通常よりも前目で走らせた。そして本馬とフェリシテーションが並ぶように直線に入ってきたが、直線半ばで本馬がフェリシテーションを置き去りにして抜け出し、追い込んで2着に入ったアシュエリュに2馬身半差、3着フェリシテーションにはさらに1馬身半差をつけて完勝を収めた。そしてロンシャン競馬場に詰め掛けていた観衆を熱狂の渦に巻き込み、「かつて仏国の競馬場で見られた中で最も人気を博した馬」の称号を得た。ロートシルト男爵は、1925年の凱旋門賞で所有馬のカドゥムが1位入線しながら2着降着となった苦い過去があり、本馬で9年越しの凱旋門賞初制覇を達成した。3歳時の成績は5戦全勝で、この年の仏国フリーハンデでは68kg(150ポンド)という稀に見る高評価を得た。

競走生活(4歳時)

4歳時は、英国のアスコット金杯を目標として、まずは5月に仏国レトランブレー競馬場で行われたエドガールジロワ賞(T3800m)から始動して、2馬身半差で軽く勝利した。11日後のカドラン賞(T4000m)では、この数週間前に同コースで行われたビエナル賞を勝ってきたアドミラルドレイクと4度目の対戦となった。しかし結果はあまりにも呆気なく、本馬が2着ルアンディジェーヌに15馬身もの大差をつけて、4分23秒04のコースレコードを樹立して圧勝を収めた。3着には前年のコンセイユミュニシパル賞の勝ち馬カドムが入り、アドミラルドレイクは5着に沈んだ。

これで本番のアスコット金杯に向けて何の死角も無いように見えたのだが、ここで思わぬ落とし穴が待っていた。アスコット金杯の11日前に調教代わりに出走する予定だったダング賞に出るために競馬場に向かう途中で、本馬は放馬してしまったのである。本馬は自動車が行き交うシャンティの大通りを数百メートルに渡って走り回った末にようやく捕獲されたが、蹄鉄を3つ紛失し、馬体のあちこちに切り傷が出来ている状態だった。当然ダング賞には出られるわけも無く出走を回避。外傷を負っていたために、破傷風予防のためのワクチンが接種された。調教もろくに出来なかったために、これでアスコット金杯出走は無理と思われたのだが、ロートシルト男爵は出走を決断し、各方面から驚きをもって迎えられた。実はこの年のアスコット金杯には、英ダービーに加えて英セントレジャー・コロネーションCも勝ち、「英国競馬界において見られた最上級の馬の一頭」とまで評されていたウインザーラッドも当初出走予定であり、英仏最強馬対決が期待されていた。しかし前年にウインザーラッドの所有者となっていた英国のブックメーカー運営者マーティン・ベンソン氏が、名馬の経歴に傷をつけたくないという理由で回避を決定していた。ウインザーラッドに続いて本馬まで回避したら、英国のファンをさらに失望させる事になるとロートシルト男爵は判断したらしく、アスコット金杯のレース後に「正直厳しいと思っていましたが、あまりにも注目を集めていましたので出走させました」と述懐している。

そして迎えたアスコット金杯(T20F)では、逃げ馬を射程圏内に捉えた位置取りでレースを進めた。しかし勝負どころに差し掛かっても反応が悪く、ブイヨン騎手はロワイヤルオーク賞以来久々に本馬に鞭を使用する事になった。ロワイヤルオーク賞ではそれで豪脚を繰り出して差し切ったのだが、ここではいつもの伸びは全く見られず、ニューマーケットセントレジャーの勝ち馬ティベリウス(前年の英セントレジャーと一昨年のデューハーストSで2着していた)、ドンカスターC・チェスターフィールドC・エボアHの勝ち馬アルカザールなどに後れを取り、2着アルカザールに8馬身差をつけて圧勝したティベリウスから10馬身以上の差をつけられて5着に敗れ、無敗記録は11で止まった。仏国の競馬ファンの中には、本馬が敗れたというニュースが信じられずに、英国に国際電話をかける者もいたという。かつて1904年に16戦無敗の英国牝馬三冠馬プリティポリーが仏国に遠征して出走したコンセイユミュニシパル賞において、格下馬のプレストの2着に敗れて無敗記録が止まった際に、英国の競馬ファンは同じ行動を取ったとされており、今度は立場が逆になった。カドラン賞で本馬から20馬身差をつけられていたデンバーがこのアスコット金杯で3着に入った事などもあり、本馬の敗因は件の放馬事件であるとほぼ断定されている。

仏国に戻った本馬は凱旋門賞2連覇を目指して、9月のプランスドランジュ賞(T2400m)に向かった。このレースで4頭の対戦相手を蹴散らして勝利した本馬は、続いて凱旋門賞(T2400m)に参戦。前年の凱旋門賞において牝馬の出走はサパラーデのみだったが、この年はサパラーデに加えて、この年の仏オークス馬ペニシェ、前年のモルニ賞の勝ち馬で仏グランクリテリウム2着のコリーダ、マルレ賞の勝ち馬サモスという3頭の3歳牝馬も参戦してきた。他の出走馬は、前年の凱旋門賞2着馬アシュエリュ、アドミラルドレイク、アストロフェルといった既対戦組と、この年の仏2000ギニー馬カン、ギシュ賞の勝ち馬ウィリアムオブバランス、前年の仏グランクリテリウムの勝ち馬パンペイロ、シェーヌ賞・ゴントービロン賞・ドーヴィル大賞の勝ち馬で仏ダービー2着・仏共和国大統領賞3着のピングポングだった。しかしレースの結果は、サモスが1着、首差の2着にペニシェ、さらに首差の3着にコリーダと3歳牝馬が上位を独占し、本馬はコリーダから1馬身半差の4着に敗れた。コース横に置かれていた残り距離を示す棒を蹴飛ばそうとする仕草が走る途中で見られた事から、本馬は既に競走を走ることに飽きていたのだと、この敗因は説明されている。しかし、コリーダが翌年と2年後の凱旋門賞を連覇している事を考えると、この年の仏国3歳牝馬勢はかなりレベルが高かった事も伺える。いずれにしても有終の美を飾れなかった本馬は4歳時5戦3勝の成績で引退した。

血統

Blandford Swynford John o'Gaunt Isinglass Isonomy
Dead Lock
La Fleche St. Simon
Quiver
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit
Thrift
Pilgrimage The Palmer
Lady Audley
Blanche White Eagle Gallinule Isonomy
Moorhen
Merry Gal Galopin
Mary Seaton
Black Cherry Bendigo Ben Battle
Hasty Girl
Black Duchess Galliard
Black Corrie
Vitamine Clarissimus Radium Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Taia Donovan
Eira
Quintessence St. Frusquin St. Simon
Isabel
Margarine Petrarch
Margarita
Viridiflora Sans Souci Le Roi Soleil Heaume
Mlle de la Valliere
Sanctimony St. Serf
Golden Iris
Rose Nini Le Sancy Atlantic
Gem of Gems
Rosewood Silvester
Rosary

ブランドフォードは当馬の項を参照。

母ヴィタミンはジャックルマロワ賞など4勝を挙げた活躍馬であるだけでなく優秀な繁殖牝馬でもあり、本馬の1歳年下の半妹クルディテ(父ラファリナ)は、本馬が出走できなかったパリ大賞を優勝している。本馬の半妹パールヴァティの子にはフィラクティス【メシドール賞】が、ヴィタミンの半兄にはヴィブルヌム(父ベイチェリー)【エドヴィル賞】がいるし、ヴィタミンの母である不出走馬ヴィリディフローラの半姉ロゼヴェールは仏オークス馬であるから、優秀な牝系であると言いたいところだが、ここに掲載した馬以外に近親にはあまり活躍馬が見当たらない。ヴィタミンの牝系子孫もあまり発展しておらず、南米で何頭かの活躍馬が出ている程度である。その理由の一つとして、第二次世界大戦で仏国の馬産が壊滅したこともあるのだろう。比較的近い著名馬としては、ヴィリディフローラの祖母ローズウッドの半妹ラグーリュの曾孫である第二次世界大戦前における日本の大種牡馬トウルヌソルが筆頭格である。→牝系:F27号族

母父クラリッシマスは英2000ギニー・英チャンピオンSの勝ち馬で、本馬の他にもファリスの母父となっている。クラリッシマスの父ラディウムはベンドア産駒で、ジョッキークラブC2回・グッドウッドC・ドンカスターCを勝利した長距離馬だった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のモートリー牧場で種牡馬入りした。初年度の種付け料は4万5千フランに設定された。しかし本馬が8歳時の1939年に第二次世界大戦が勃発して、翌1940年に独国軍が仏国に侵攻してくると、所有者のロートシルト男爵は仏国を捨てて米国に亡命した。ロートシルト男爵が属するロスチャイルド家はユダヤ系であり、彼が仏国に所有していた財産は、ユダヤ人を目の敵にするナチスドイツの格好の標的となった。そしてモートリー牧場に繋養されていた本馬、リュパン賞・仏共和国大統領賞の勝ち馬バブルス、バブルスの息子である凱旋門賞馬エクレールオショコラ、ロワイヤルオーク賞・仏共和国大統領賞の勝ち馬ヴィクトリクスといった種牡馬達はことごとく独国軍により接収されて独国に連れ去られてしまった。この4頭のうち、エクレールオショコラのみが独国グラディツ牧場に送られ、本馬を含む残り3頭はドイツ陸軍が所有する国立アルテフェルト牧場に連れて行かれた。そしてやはり独国に連行されていたファリスと共に独国で種牡馬生活を続けた。本馬が仏国に残してきた産駒はどれも、独国や独国の同盟国だったハンガリー王国で売りさばかれ、本馬が独国で送り出した産駒と一緒に独国内の競馬で走ったり、軍馬として使役されたりした。1945年に独国が降伏すると、既に消息不明となっていたエクレールオショコラを除く上記の種牡馬達は仏国に帰還する事ができ、本馬も同年にモートリー牧場に戻ってきた。生きて戻ってこられただけエクレールオショコラよりは幸いだったが、本馬の片方の目の視力は失われていたという。1952年7月に腎臓を患ったために、21歳で安楽死の措置が執られた。この3年前の1949年には、やはり終戦後に仏国に戻ってきていたロートシルト男爵も81歳で死去している。

本馬は1950年に仏種牡馬ランキングで2位に入っているが、他の年に仏種牡馬ランキングでトップ10入りした事はなく、その種牡馬成績は、似たような境遇だったファリスが独国連行前も帰国後も種牡馬として活躍したのとは対照的に寂しいものだった。むしろ繁殖牝馬の父として活躍しており、仏母父種牡馬ランキングでは1952年に7位、1953年に5位、1960年に3位に入っている。

後世に与えた影響

後継種牡馬としては、ヴューマノワールが1958年の仏首位種牡馬になるなど成功を収めた。ヴューマノワールからはさらに仏首位種牡馬3回のヴァルドロワールが出て、本馬の直系子孫は仏国で一時代を築いた。1963年の凱旋門賞馬エクスビュリや、1969年の仏首位種牡馬スノッブはヴューマノワールの直系子孫、1988年のジャパンC勝ち馬ペイザバトラーもヴァルドロワールの直系子孫である。しかし本馬の直系子孫は現在では仏国でもほぼ見かけなくなっている。日本との関わりでは、スノッブがメジロティターンの母父となっているから、メジロティターンの息子メジロマックイーンの血を引いているドリームジャーニー、オルフェーヴル、ゴールドシップには本馬の血が入っている事になる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1938

Ludovic Le More

仏チャンピオンハードル

1940

Pensbury

パリ大賞・リュパン賞・クリテリウムドメゾンラフィット・グレフュール賞

1947

Vieux Manoir

パリ大賞

1950

Coquelin

モーリスドニュイユ賞

1950

Dragon Blanc

仏グランクリテリウム

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