エクレールオショコラ

和名:エクレールオショコラ

英名:Eclair Au Chocolat

1935年生

鹿毛

父:バブルス

母:ハニースウィート

母父:カーキュビン

第二次世界大戦混乱の最中に仏国から独国に連れ去られて消息不明となった悲運の凱旋門賞馬

競走成績:2・3歳時に仏で走り通算成績8戦5勝2着1回

誕生からデビュー前まで

ブラントームの所有者としても知られる銀行家エドワール・アルフォンス・ド・ロートシルト男爵により生産・所有され、仏国ルシアン・ロベルト調教師に預けられた。

競走生活

2歳10月にシャンティ競馬場で行われた距離1000mの競走でデビューしたが、14頭立ての6着に敗れ、2歳時の出走はこれだけだった。3歳時は初戦を勝利し、2戦目のマッチェム賞(T2300m)ではコンデ賞勝ち馬カステルフサノの2着。その後は果敢に仏ダービー(T2400m)に挑戦したが、グレフュール賞勝ち馬シラスの10着に終わった。6月にロッカンクール賞で2勝目を挙げると、8月にはヴィシー大賞(T2600m)も勝利した。

さらに9月にはロワイヤルオーク賞(T3000m)に出走。かつてマッチェム賞で本馬を2着に破った後にリュパン賞を勝利したカステルフサノ、仏ダービーでシラスの1馬身半差2着、パリ大賞でネアルコの1馬身半差2着だったクリテリウムドサンクルー・ジャンプラ賞勝ち馬カノといった同世代を代表する強敵が対戦相手となった。しかし3000mという長丁場を物ともせずに、2着カステルフサノに2馬身差をつける鮮やかな逃げ切り勝ちを収めた。

次走は凱旋門賞(T2400m)となった。当時の欧州は第二次世界大戦勃発直前であり、パリ大賞を制した伊国最強3歳馬ネアルコや、ロワイヤルオーク賞・仏共和国大統領賞(現サンクルー大賞)などを制した仏国古馬最強の4歳馬ヴィクトリクスを始めとする多くの有力馬が、戦火を避けるかのように既に競走馬引退を表明していたため、この凱旋門賞には出走していなかった。それでも、ジャックルマロワ賞も制した仏ダービー馬シラス、カステルフサノ、前走3着のカノ、前年の仏共和国大統領賞勝ち馬で仏ダービー・仏共和国大統領賞・カドラン賞2回・ダスブラウネバンドフォンドイッチェランド(ナチスドイツが創設した独国の国際競走)2回・バーデン大賞で各2着していたヴァトラー、仏ダービーでカノから1馬身差の3着だったベルリン大賞・ダスブラウネバンドフォンドイッチェランドの勝ち馬アントニムなどの実力馬が参戦していた。そんな中で1番人気に推されたのは本馬だった。不良馬場で行われたレースでは、主戦を務めたC・ブイヨン騎手騎乗の本馬は、ペースメーカー役を務めた同厩のブーガンヴィルを見る形で先行し、直線に入るとすぐに抜け出した。最後は2着アントニムに2馬身差をつけて優勝した。このレースを最後に本馬も競走生活に終止符を打った。3歳時の成績は7戦5勝だった。馬名は「チョコエクレア」の意味で、母ハニースウィートの名前と、光沢のある美しい鹿毛色の馬体から連想されたものと推測されている。

血統

Bubbles La Farina Sans Souci Le Roi Soleil Heaume
Mlle de la Valliere
Sanctimony St. Serf
Golden Iris
Malatesta Isinglass Isonomy
Dead Lock
Parisina St. Simon
Princess Katinka
Spring Cleaning Neil Gow Marco Barcaldine
Novitiate
Chelandry Goldfinch
Illuminata
Spring Night Chesterfield Wisdom
Bramble
Silent Night St. Hilaire
Waima
Honey Sweet Kircubbin Captivation Cyllene Bona Vista
Arcadia
Charm St. Simon
Tact
Avon Hack Hackler Petrarch
Hackness
Avonbeg Queen's Birthday
Avoca
Honeysuckle Bay Cherry Bay Ronald Hampton
Black Duchess
Saintfield St. Simon
Daisy Chain
Honey Sans Souci Le Roi Soleil
Sanctimony
Ambrosine Ayrshire
Ambrizette

父バブルスは現役成績12戦5勝、リュパン賞・仏共和国大統領賞・コンデ賞・シェーヌ賞・フォルス賞を勝ち、ドーヴィル大賞で2着、パリ大賞で3着している。1938年には本馬の活躍により仏首位種牡馬に輝いている。本馬以外の産駒には日本で種牡馬として活躍したガーサントがいる。

バブルスの父ラファリナはリュパン賞・ダリュー賞の勝ち馬で、仏首位種牡馬にはなれなかったが、仏種牡馬ランキングで10位以内に5度入る成功を収めた。ラファリナの父サンスーシはパリ大賞・リュパン賞・ダリュー賞の勝ち馬で、仏首位種牡馬にも1916・25年の2度輝いている。さらに遡るとパリ大賞・ロワイヤルオーク賞・カドラン賞・グレフュール賞の勝ち馬ルロワソレイユ、仏2000ギニー・仏ダービーの勝ち馬オームを経てハーミットに行きつく。オームから本馬まで全てモートリー牧場で種牡馬入りしているという、仏国の土着血統である。

母ハニースウィートは仏国で走り1勝。第二次世界大戦が悪影響を及ぼしたのか牝系子孫は発展しておらず、本馬の1歳年上の半姉カネル(父ビリビ)の子孫に米国で1966年のカーターHを勝った亜国産馬デイヴィスがいる程度であり、近親にも殆ど活躍馬は見当たらず、ハニースウィートの半弟にジュドレザン(父サンジュスト)【フォレ賞】がいるくらいである。→牝系:F4号族③

母父キルクビンは愛セントレジャー・イスパーン賞・仏共和国大統領賞の勝ち馬で、1930年には仏首位種牡馬にもなった。その父キャプティヴェーションはサイリーン産駒で、競走馬としては1戦未勝利だったが、種牡馬としてはキルクビンを含めて愛セントレジャー勝ち馬を3頭出す活躍を見せた。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は仏国モートリー牧場で種牡馬入りした。しかし本馬が種牡馬生活を開始した1939年は第二次世界大戦が勃発したまさにその年だった。翌1940年には独国軍が仏国を占領。本馬の所有者ロートシルト男爵はユダヤ人だったため、ユダヤ人を眼の敵にするナチスドイツが仏国に侵攻してくる前に米国に亡命していた。仏国に置き去りにされてしまった本馬は、父バブルス、ブラントーム、ヴィクトリクスなどと共に独国に連れ去られてしまった。本馬を除く3頭はドイツ陸軍が所有する国立アルテフェルト牧場に連行され、同じく独国に接収されていたファリスと共に独国で種牡馬生活を続けた。この4頭は第二次世界大戦が終結すると仏国に生きて戻ることが出来た。一方、独国グラディツ牧場に連行された本馬は1944年までは生存していた事が確認されているが、独国の敗戦の混乱の中で消息不明になってしまった。一説ではソ連に連れ去られたともされるが、真相は未だに不明である。本馬の産駒には活躍馬はおらず、現在本馬の血を引く馬は存在しないと思われる。

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