ガーサント

和名:ガーサント

英名:Guersant

1949年生

鹿毛

父:バブルス

母:モンタニャーナ

母父:ブラントーム

種牡馬としてスタミナ豊富な名馬や優秀な障害競走馬を多く出して社台グループの屋台骨を支え続けた仏2000ギニー馬

競走成績:2~4歳時に仏英で走り通算成績14戦8勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

有名なロスチャイルド一族の一員で、仏国の銀行家として活躍しただけでなく仏国を代表する名馬産家・馬主でもあったガイ・エドワール・アルフォンス・ポール・ド・ロートシルト男爵(ロスチャイルドの独語読みがロートシルト)により生産・所有され、仏国ジェフリー・ワトソン調教師に預けられた。

競走生活(2・3歳時)

2歳時はデビュー戦のフェブ賞(T1400m)で勝利を挙げたのみの出走だった。3歳時は初戦のジェベル賞(T1600m)を勝利。次走のグレフュール賞(T2100m)では、サンロマン賞の勝ち馬シルネー(後に仏ダービーで3着、凱旋門賞で2着している)の3着に終わった。

しかし仏2000ギニー(T1600m)では、英2000ギニー馬サンダーヘッドを2馬身差の2着に、仏グランクリテリウム2着馬フォーブール(次走の英ダービーでタルヤーの3着している)を3着に破り、1分37秒47のコースレコードを樹立して優勝した。

続くリュパン賞(T2100m)でヴァモの4着に敗れると、仏ダービーには向かわずマイル路線に進んだ。まずはポルトマイヨ賞(T1600m)に出走して勝利した。しかしジャックルマロワ賞(T1600m)では、イスパーン賞を勝ってきた3歳牝馬アルベルの4着に敗れた。次走のシャンティ賞(T2000m・現ニエル賞)も4着に敗退。しかしフォレ賞(T1400m)では、翌年のジャックルマロワ賞を勝つ2歳馬カンタールを2着に破って勝利。3歳時を8戦4勝の成績で終えた。

競走生活(4歳時)

4歳時は3月のエドモンブラン賞(T1500m)から始動するも、前年の英ダービー3着後にバーデン大賞で2着していたフォーブールなど3頭に屈して、フォーブールの4着に敗退。その後は10ハロン路線に進み、ガネー賞(T2000m)に出走。ここでもフォーブールが対戦相手となったが、今回は本馬がフォーブールを5馬身差の2着に破って勝利した。さらに英国に移動して出走したコロネーションS(T10F・現ブリガディアジェラードS)では、前年の第1回ワシントンDC国際Sを筆頭にロウス記念S・グレートヨークシャーS・ジョンポーターSなどを勝っていたウィルウィン(皐月賞馬ウイルディールの父)、プリンセスオブウェールズSの勝ち馬でキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS2着・ワシントンDC国際S3着のズクロ(2か月後のコロネーションCを勝っている)といった強敵を撃破。2着ウィルウィンに1馬身差、3着ズクロにはさらに2馬身差をつけて勝利した。続くハードウィックS(T12F)では、リッチモンドS・ゴードンSの勝ち馬で英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS2着のゲイタイムを抑えて、単勝オッズ2倍の1番人気に支持された。そして2着となったクリテリウムドメゾンラフィットの勝ち馬ファラドに8馬身差をつけて圧勝した。

なお、以下は少し余談だが、ここで3着に敗れたゲイタイムは後に日本に種牡馬として輸入され、二冠馬メイズイを始めとして多くの活躍馬を出して成功を収めている。本馬の産駒とゲイタイムの産駒がレースで戦う場面も時々見受けられ、例えば1968年の天皇賞秋では本馬の息子ニットエイトがゲイタイムの息子である宝塚記念勝ち馬タイヨウを破って勝っている。しかし本馬が日本に種牡馬として導入された時期はゲイタイムよりかなり後だったため、種牡馬としても戦いを繰り広げたというほどの感じではなかった。

閑話休題、本馬は続いてエクリプスS(T10F)に出走した。しかし英ダービー2着馬オリオール(3着)には僅かに先着したものの、同じ仏国調教馬アーガー(クイーンアンSの勝ち馬で英2000ギニーではサンダーヘッドの3着だった)に9馬身差をつけられて2着に敗退。このレースを最後に4歳時5戦3勝の成績で競走馬を引退した。なお日本語版ウィキペディアには、本馬は現GⅠ級競走を4勝したと記載されているが、本馬が勝利した現GⅠ級競走は仏2000ギニー・フォレ賞・ガネー賞の3勝である。おそらく本馬が勝ったコロネーションS(現ブリガディアジェラードS)を現GⅠ競走のコロネーションSと混同している模様である。

血統

Bubbles La Farina Sans Souci Le Roi Soleil Heaume
Mlle de la Valliere
Sanctimony St. Serf
Golden Iris
Malatesta Isinglass Isonomy
Dead Lock
Parisina St. Simon
Princess Katinka
Spring Cleaning Neil Gow Marco Barcaldine
Novitiate
Chelandry Goldfinch
Illuminata
Spring Night Chesterfield Wisdom
Bramble
Silent Night St. Hilaire
Waima
Montagnana Brantome Blandford Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Blanche White Eagle
Black Cherry
Vitamine Clarissimus Radium
Quintessence
Viridiflora Sans Souci
Rose Nini
Mauretania Tetratema The Tetrarch Roi Herode
Vahren
Scotch Gift Symington
Maund
Lady Maureen Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Molly Desmond Desmond
Pretty Polly

父バブルスはエクレールオショコラの項を参照。第二次世界大戦が勃発するとエクレールオショコラ共々繋養先の仏国から独国へ連れ去られたが、そのまま消息不明となったエクレールオショコラと異なり大戦終結後に仏国に帰国を果たし、その後に送り出したのが本馬である。直系を遡ると19世紀後半の英国の大種牡馬ハーミットに行きつくが、本馬はハーミットの直系種牡馬としては(全兄のオカリナと共に)最後の活躍種牡馬である。

母モンタニャーナは現役成績4戦1勝。バブルスと同様に第二次世界大戦が勃発すると独国へ連れ去られ、大戦終結まで独国で繁殖入りしていた。仏国に帰国を果たすと繁殖牝馬として大きな成功を収め、本馬の2歳年上の半兄ヴァイオロンセル(父クラナック)【サンクルー大賞・アルクール賞・エドヴィル賞2回・ラクープ・コンセイユミュニシパル賞】、1歳年上の全兄で4戦無敗のオカリナ【サンクルー大賞】、2歳年下の半妹フルートアンシャンテ(父クラナック)【ドーヴィル大賞】を産んだ。フルートアンシャンテの子には名種牡馬リュティエ【リュパン賞・ジャックルマロワ賞・ノアイユ賞】がいる。モンタニャーナの曾祖母モリーデスモンドはチェヴァリーパークSの勝ち馬で、その母は20世紀初頭の歴史的名牝プリティポリーである。→牝系:F14号族①

母父ブラントームは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は引退翌年の1954年から愛国で種牡馬入りし、愛セントレジャーの勝ち馬バークレイなどを輩出した。12歳時の1961年、社台グループの吉田善哉氏によって3200万円で購入され、日本に輸入された。吉田氏は後に「当時の日本は競馬の世界では馬鹿にされていたのに、これだけの大物をよく売ってくれたものだ」と回想したという。

日本では当初から人気種牡馬であり、供用初年度の1962年は56頭の繁殖牝馬を集めた。2年目と3年目は58頭ずつ、日本における初年度産駒がデビューした1965年は73頭の繁殖牝馬を集めた。その後は年齢的な問題もあって交配数がこれより多くなることは無かったが、日本で送り出した産駒の成績はかなり優秀であり、晩年まで安定した交配数が確保された。

5年目である1966年の交配数は69頭で、この年には初年度産駒の1頭ヒロヨシが優駿牝馬を勝つ活躍を見せて全日本種牡馬ランキングで5位に入っただけでなく、全日本2歳首位種牡馬に輝いた。6年目の交配数は58頭、7年目は51頭、8年目の1969年は47頭だった。この1969年には優駿牝馬を勝ったシャダイターキンなどの活躍により、ヒンドスタンを破って全日本首位種牡馬を獲得した(日本語版ウィキペディアには1970年に首位種牡馬を獲得したとあるが、他のいかなる資料にも1969年とあるため、これは書き誤りであろう。ちなみに1970年の全日本首位種牡馬はネヴァービートである)。

9年目は55頭、10年目は41頭、11年目は29頭と交配したが、この11年目の産駒数は7頭しかおらず、この年から受精率が急激に低下した。そして12年目の1973年に5頭と交配して1頭も受胎しなかったのを最後に、種牡馬を引退。翌1974年に社台ファーム白老から、錦岡の分場に移動した。しかし到着の翌日に馬房内で心臓麻痺を起こして25歳で急死した。一説によると、分場にいた牝馬を見て興奮したために心臓麻痺を発症したともいう(この説は「競馬 感涙劇場」等に記載があるが信憑性は不明)。遺体は社台ファーム白老に埋葬されたが、墓は建てられなかった。埋葬場所は当初、人気の少ない場所であったが、後に社台グループの発展と共に施設が拡張し、埋葬地の真上に道路が敷設された。生前の本馬を担当していた従業員がその件を吉田善哉氏に問い質すと、吉田氏は「みんな元気に働いている、社台もよくやっているなって、人や車が通るたびにガーサントが喜んでいる」と諭したという。

本馬の産駒は豊富なスタミナが武器で、長距離偏重だった当時の日本競馬によく適合していた。また、激しい気性が障害を恐れない闘争心に転化されたようで、障害競走でも数多くの名馬を輩出し、当時は本馬以外に有力種牡馬が殆どおらず厳しい経営状態に置かれていた社台グループの屋台骨を支え続けた。本馬がいなければ社台グループはとうの昔に倒産し、後年にノーザンテーストサンデーサイレンスが日本に来る事も無かったと思われる。

後世に与えた影響

数多くの活躍馬を出した本馬だが、牝馬の活躍馬が多かった事と、牡馬の代表産駒ニットエイトが種牡馬として失敗に終わった事などもあって、後継種牡馬には恵まれなかった。ヨドヒーローが出したアスコットセブンとアスコットエイトの兄弟がいずれも1992年に種牡馬を引退した事により、本馬の直系は途絶えた(本馬の全兄オカリナの直系は1970年のアスコット金杯勝ち馬プレシピスウッドを最後に活躍馬は出ておらず、本馬の直系が途絶えたことによりハーミットの直系は事実上完全に滅亡した)。しかし母系に入っての影響力は現在も大きい。例えば、2015年の皐月賞と東京優駿を勝ったドゥラメンテの4代母の父は本馬である。当然、ドゥラメンテの母アドマイヤグルーヴ、その母エアグルーヴ、その母ダイナカールにも本馬の血が入っている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1955

Guersillus

ゴードンS

1956

Barclay

愛セントレジャー

1956

Light Horseman

オーモンドS

1963

タイシュウ

きさらぎ賞・京都大障害春

1963

ハイアデス

京成杯三歳S・七夕賞

1963

ヒロヨシ

優駿牝馬

1963

フリートターフ

東京障害特別秋

1964

ニットエイト

菊花賞・天皇賞秋

1964

ヒガシランド

師走特別(宇都宮)

1964

マーブルアーチ

金杯(浦和)・川崎記念(川崎)

1965

コウユウ

桜花賞・デイリー杯三歳S

1966

アラートターフ

東京障害特別秋

1966

インターヒカリ

阪神障害S秋・京都大障害秋・京都大障害春

1966

シャダイターキン

優駿牝馬

1966

ダッシュリュー

福島記念

1967

ダイニヘルスオー

羽田盃(大井)・東京大賞典(大井)

1967

ハイプリンス

北海道三歳S・シンザン記念

1967

ヒガシライト

日本短波賞・関屋記念

1967

プリーズターフ

オークストライアル四歳牝馬特別

1968

オーナーズタイフウ

NTV盃(船橋)・東京盃(大井)

1968

ハクコンゴウ

東京障害特別秋

1968

ヒデトミ

中京盃(中京)

1969

ゴールデンスネップ

キヨフジ記念(川崎)・クイーン賞(船橋)・川崎記念(川崎)

1970

タツノタイヨー

ニューイヤーC(浦和)

1970

ヌアージターフ

セントライト記念

1971

ミスファラリス

浦和桜花賞(浦和)

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