コンキスタドールシエロ

和名:コンキスタドールシエロ

英名:Conquistador Cielo

1979年生

鹿毛

父:ミスタープロスペクター

母:ケーディープリンセス

母父:ボールドコマンダー

メトロポリタンHを7馬身1/4差で圧勝した僅か6日後にベルモントSを14馬身差で圧勝してエクリプス賞年度代表馬に選ばれる

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績13戦9勝3着2回

誕生からデビュー前まで

米国の馬産家ルイス・E・ランドリー氏によりフロリダ州ヘザーヒルズファームにおいて生産された。1歳時のサラトガセールにおいて、ロングアイランド航空機製造会社の代表者で、大種牡馬ダンチヒの競走馬時代の所有者としても知られるヘンリク・デ・クフャトコフスキー氏の代理人ウッドフォード・C・スティーブンス調教師(ダンチヒの競走馬時代の調教師でもあった)により15万ドルで購入され、クフャトコフスキー氏の所有馬となった。

競走生活(2歳時)

スティーブンス師の調教を受け、2歳6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦でデビューしたが、ここではアンティグアバードの3/4馬身差3着に敗れた。それから11日後に出走した同コースの未勝利戦では、2着ハイアセントに8馬身差をつけて勝ち上がった。

1か月後のサラトガスペシャルS(GⅡ・D6F)では、主戦となるエディー・メイプル騎手と初コンビを組んだ。そして後方からまくって先頭に立つと、後のベルモントフューチュリティS2着馬ハーシェルウォーカーとの叩き合いを制して、半馬身差で勝利した。このレースには後にホープフルS・シャンペンS・フラミンゴS・フロリダダービーとGⅠ競走を4勝するタイムリーライターも出走していたが、3着に終わっている。

しかし翌週のサンフォードS(GⅡ・D6F)では馬群に包まれて仕掛けが遅れてしまい、勝ち馬マヤネシアンから僅か半馬身差の4着に終わった。しかもレース後に左前脚の亀裂骨折が判明して、休養を余儀なくされた。結局2歳時の成績は4戦2勝だった。

競走生活(3歳初期)

3歳2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走で復帰。この復帰戦は、勝ったスターギャラントから7馬身1/4差の4着に敗れた。それから10日後に同コースで行われた一般競走では4馬身差で完勝した。

ところがこの直後に左前脚亀裂骨折の再発が判明。米国三冠競走出走は絶望視された。しかしここで陣営は最新式の電気治療機械(脚の周りにパッドを巻いて、微弱な電流を流し、この刺激で細胞を活性化させ、骨折の回復を早める効果が見込める機械)を導入した。この機械は当時試験段階だったが、その効果があったのか、本馬の骨折は短期間で癒えた。

そのため、クフャトコフスキー氏は本馬のケンタッキーダービー参戦を希望したが、脚が完全に治癒するまでは無理をさせるべきでないとするスティーブンス師の意見により、ケンタッキーダービーは回避となった。そこで今度はプリークネスSが目標となったが、前哨戦として予定されていたウィザーズSの直前に咳が出てしまい、ウィザーズSは回避となった。

結局復帰初戦はプリークネスSの前週5月8日にピムリコ競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走となり、2着ダブルノーに3馬身差で快勝した。翌週のプリークネスSに出ようと思えば出られた身ではあったが、スティーブンス師は慎重な姿勢を崩さず、プリークネスSも回避させ、目標を5月31日に行われる古馬混合の米国マイル王決定戦メトロポリタンHに据えた。

メトロポリタンH

まずは5月19日にメトロポリタンHと同コースで行われる一般競走に調教代わりに出走した。古馬相手のレースだったが、スタートから先頭争いに加わると、三角途中から後続馬との差を広げ始め、最後は2着となった4歳馬スウィンギングライトに11馬身差をつけて圧勝した。

そして予定どおり5月31日にメトロポリタンH(米GⅠ・D8F)に出走した。3歳初戦の一般競走で本馬を破って勝った後にファウンテンオブユースS・イリノイダービーを勝ちフロリダダービーで2着していたスターギャラント、ワイドナーH・ガルフストリームパークHの勝ち馬ロードダーンリー、メドウランズCH・ナッソーカウンティH・ディスカヴァリーHの勝ち馬でサンフェルナンドS2着のプリンスレット、グレイラグH・エクセルシオールHを連勝してきたグローブ、オークローンH・レイザーバックHの勝ち馬エミネンシー、オハイオダービー・カーターH・ジャマイカHの勝ち馬パスザタブ、セクレタリアトSの勝ち馬シングシング、ウッドローンS・ローマーHの勝ち馬サーティエイトペイシズ、ボールドルーラーSの勝ち馬オールウェイズランラッキー、ジェロームH2着馬モードリン、カーターH2着馬ロイヤルヒエラルキーなどが対戦相手となった。しかし本馬が111ポンドという軽量にも恵まれた事もあり、単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。

スタートが切られると即座に本馬が先頭に立った。そして道中で他馬に絡まれながらも焦らずに馬なりのまま逃げ続けた。そして四角で後続を振り切ると、直線では独走態勢に入り、最後は2着シルヴァーバック(この後にサバーバンH・ホイットニーHを連勝してウッドワードSで2着している)に7馬身1/4差をつける圧勝劇を演じた。3歳馬の同レース勝利は1969年のアーツアンドレターズ以来13年ぶりだった。さらに勝ちタイム1分33秒0は1973年にストップザミュージックが計時した1分33秒6を9年ぶりに更新するコースレコードだった。

ベルモントS

メトロポリタンHの直後、スティーブンス師は本馬を6月6日に行われる米国三冠競走最終戦のベルモントS(GⅠ・D12F)に出走させる旨を発表して、米国競馬関係者や競馬ファン達を大いに驚かせた。何しろ、ベルモントSはメトロポリタンHの僅か6日後で、距離は1.5倍に伸びるという常識破りの出走日程だったのである。それまで慎重だったスティーブンス師が急に積極的になった理由は正確な定かではないが、本馬の状態に陣営はよほど自信を持っていたのだろう。

本馬の敵はこの厳しい日程だけではなかった。本馬の主戦を務めてきたメイプル騎手がレース前日に落馬負傷したために、急遽テン乗りのラフィット・ピンカイ・ジュニア騎手に乗り代わるというアクシデントがあった。さらに本馬の父ミスタープロスペクターは競走馬時代に明らかに距離の限界があり、その子である本馬にとってベルモントSは距離が長すぎるのではないかという懸念もあった。さらに対戦相手も、ケンタッキーダービー・デルマーフューチュリティの勝ち馬でブルーグラスS2着のガトデルソル、プリークネスS・ウィザーズSの勝ち馬アロマズルーラー、ブルーグラスS勝利まで10戦8勝の快進撃を演じたプリークネスS2着馬リンケージ、エヴァーグレイズHの勝ち馬ロイヤルロベルト、サンフォードSで本馬に先着する3着だったルジョリー、プリークネスS3着馬カットアウェイなどの強豪馬とあっては、さすがの本馬も苦戦が予想された。

レースは当日朝からの大雨のため、スタミナを消耗する不良馬場で行われた。リンケージが単勝オッズ3.2倍の1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ5.1倍の2番人気となった。

大外枠発走の本馬は、スタート自体はそれほど良くは無かったが、すぐに先頭を奪うと、外側を大きく回るように最初のコーナーに入っていった。このコースロスが影響して向こう正面ではいったん2番手に下がったが、すぐに先頭を奪い返した。その後は本馬が後続を引き離して後続が追い上げて差を縮めるという事が1度ほどあったが、三角から四角にかけて本馬が再度後続を引き離し、そのまま先頭で直線に入ってきた。直線では後続馬勢が揃いも揃ってスタミナ切れを起こして喘いでいる中、先頭をひた走ってきた本馬のみがのびのびとした走りを続けて後続をぐんぐん引き離し、最後は2着ガトデルソルに14馬身差という記録的大差をつけて圧勝した(この着差でも同競走史上当時5位の着差だった。ちなみに上位4つは、1973年セクレタリアトの31馬身差、1943年カウントフリートの25馬身差、1920年マンノウォーの20馬身差、1887年ハノーヴァーの15馬身差(ただし推定30馬身差とする説もある)。後の1988年にリズンスターが14馬身3/4差で勝ったため現在は史上6位となっている)。

例えば日本で2週続けて施行される東京優駿と安田記念を同一馬が同年に制することなどまず考えられないが、本馬はそれに匹敵することを易々とやってのけたのである。このパフォーマンスで本馬は一躍米国のスターホースになり、当時既にフロリダ州からケンタッキー州に栄転していたとは言え、まだ種牡馬としての評価が群を抜いて高いわけではなかった父ミスタープロスペクターの種牡馬人気にも大きく貢献することになった。

競走生活(3歳後半)

その後はベルモントSから1か月後のドワイヤーS(GⅡ・D9F)に出走。鞍上に復帰したメイプル騎手と共にスタートから快調に逃げて、そのまま2着ジョンズゴールドに4馬身差をつけて、1分46秒8のレースレコードで圧勝した。

次走のジムダンディS(GⅢ・D9F)では、他の出走馬3頭がいずれも斤量114ポンドだったのに対して、本馬は128ポンドだった。それでも本馬が単勝オッズ1.1倍という断然の1番人気に支持された。スタートが切られると本馬が先頭を伺ったが、それにテイファンという馬が競りかけてきて、2頭が激しく先頭を争った。三角でテイファンは失速したが、今度は後方にいた他2頭が加速して本馬との差を詰めてきた。特にレヨリという馬の脚色が良く、直線入り口では本馬に並びかける勢いだったが、本馬が14ポンドの斤量差をものともせずに押し切り、2着レヨリに1馬身差で勝利した。

この頃、本馬の馬主クフャトコフスキー氏のもとには、本馬を売ってほしいという申し込みが続々と来ていた。クフャトコフスキー氏は熟考の末、ジムダンディSの3日後に、本馬の権利の4分の3を米国ケンタッキー州クレイボーンファーム(本馬の父ミスタープロスペクターや、クフャトコフスキー氏がかつて所有していたダンチヒも繋養されていた)が組織した種牡馬シンジケートに売却した旨を発表した。売却額は2730万ドルであり、これが4分の3であるから、本馬の種牡馬としての価値は実に3640万ドル(91万ドル×40株。当時の為替レートで約85億円)という凄まじいものとなった。これは前年にストームバードが記録した種牡馬シンジケート額のレコード2800万ドルをさらに上回る、当時の世界最高額だった。

次走のトラヴァーズS(GⅠ・D10F)では、ガトデルソル、ベルモントS9着後にジャージーダービーを勝ちサバーバンH3着・ハスケル招待H2着だったアロマズルーラーとの米国三冠競走勝ち馬対決となったが、他2頭をベルモントSで圧殺していた本馬が当然のように圧倒的1番人気に支持された。しかし本馬はレース中に左前脚の靭帯を負傷し(前走ジムダンディSのレース中に既に膝を負傷していたともいう)、最低人気馬ラナウェイグルーム(ただし生国の加国では加プリンスオブウェールズSを勝ちクイーンズプレートで2着していたトップホースだった)とアロマズルーラーの2頭に屈して、ラナウェイグルームの1馬身1/4差3着と敗退。

前述のとおり既に超高額の種牡馬シンジケートが組まれていたこともあり、このレースを最後に3歳時9戦7勝の成績で競走馬引退となった。結局本馬のGⅠ競走勝ちは2つだったが、その勝ち方の凄まじさが評価されて、この年のエクリプス賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬のタイトルを獲得した。本馬が競走馬として得た賞金増額は47万4328ドルであり、これは本馬の種牡馬シンジケート1株の半分程度に過ぎないものだった。

馬名はスペイン語で「天空の征服者(16世紀に中南米を征服したスペイン人のこと)」という意味で、クフャトコフスキー氏が所属していたハングライダーサークルの名前から採られた。

血統

Mr. Prospector Raise a Native Native Dancer Polynesian Unbreakable
Black Polly
Geisha Discovery
Miyako
Raise You Case Ace Teddy
Sweetheart
Lady Glory American Flag
Beloved 
Gold Digger Nashua Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Segula Johnstown
Sekhmet
Sequence Count Fleet Reigh Count
Quickly
Miss Dogwood Bull Dog
Myrtlewood
K. D. Princess Bold Commander Bold Ruler Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Miss Disco Discovery
Outdone
High Voltage Ambiorix Tourbillon
Lavendula
Dynamo Menow
Bransome
タミーズターン Turn-to Royal Charger Nearco
Sun Princess
Source Sucree Admiral Drake
Lavendula 
Tammy Twist Tim Tam Tom Fool
Two Lea
Whirl Right Blenheim
Dustwhirl

ミスタープロスペクターは当馬の項を参照。

母ケーディープリンセスは現役成績60戦6勝で、本馬が初子である。本馬の活躍を受けて、1982年の繁殖牝馬セールにおいて172万5千ドルという高額で取引されたが、本馬以外にはこれといった活躍馬を産んでいない。本馬の全妹ソルドテールの子にレイクウィリアム【サンシメオンH(米GⅢ)】がいる。ケーディープリンセスの母タミーズターンは日本に繁殖牝馬として輸入されている。ケーディープリンセスの半姉ミスフルハウス(父ポーカー)の孫にはオーヴァーオール【スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)】が、ケーディープリンセスの半妹である日本産馬ダイナバーディ(父ノーザンテースト)の曾孫にはヒットザターゲット【京都大賞典(GⅡ)・目黒記念(GⅡ)・新潟大賞典(GⅢ)・小倉大賞典(GⅢ)】がいる。タミーズターンの祖母ウイールライトは米国三冠馬ワーラウェイの全妹。→牝系:F8号族③

母父ボールドコマンダーはボールドルーラーの直子で、現役時代はチェサピークS勝ちなど41戦7勝。種牡馬としてはケンタッキーダービー馬ダストコマンダーや仏2000ギニー馬インフィジャーなどを出した。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はクレイボーンファームで種牡馬入りした。超高額のシンジケート額に見合うだけの成績は残せなかったが、複数のGⅠ競走勝ち馬を含む65頭以上のステークスウイナーを輩出しており、平均以上の種牡馬成績は残した。2001年に小腸の腫瘍による疝痛の手術を受けた。手術自体は成功したのだが、その後の療養中に右前脚を負傷し、それを庇って左前脚も痛めてしまった。そして左前脚の患部から蹄葉炎を発症してしまい、症状が悪化したために2002年12月に23歳で安楽死の措置が執られた。遺体はクレイボーンファーム内の墓地(前年に他界したアンブライドルドの隣)に埋葬された。マーケトリーやエルモキシーが後継種牡馬として活躍した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1984

Conquistarose

ヤングアメリカS(米GⅠ)

1984

Royal Cielo

フォールズシティH(米GⅢ)

1985

Zelphi

グリーナムS(英GⅢ)

1986

Norquestor

ペガサスH(米GⅠ)・レッドバンクH(米GⅢ)

1987

Dotsero

イリノイダービー(米GⅡ)

1987

Forty Niner Days

ゴールデンゲートH(米GⅡ)・ベイメドウズH(米GⅡ)・サンフランシスコマイルH(米GⅢ)・オールアメリカンH(米GⅢ)

1987

Marquetry

ハリウッド金杯(米GⅠ)・エディリードH(米GⅠ)・メドウランズCH(米GⅠ)・サンアントニオH(米GⅡ)・マーヴィンルロイH(米GⅡ)・ベルエアH(米GⅡ)

1989

Stuck

プリミパッシ賞(伊GⅢ)

1990

Mi Cielo

キングズビショップS(米GⅡ)・ジャマイカH(米GⅡ)・クラークH(米GⅢ)

1991

Cielo del Nord

グイドベラルデリ賞(伊GⅡ)

1992

Peruvian

イロコイS(米GⅢ)

1992

Sierra Diablo

ボールドウィンS(米GⅢ)

1994

Freeport Flight

プリンセスS(米GⅡ)

1994

Wagon Limit

ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・ウエストチェスターH(米GⅢ)

1995

Lexicon

エインシェントタイトルBCH(米GⅡ)・ベイメドウズBCスプリントH(米GⅢ)2回

1995

Truluck

フィフスシーズンBCS(米GⅢ)・サルヴェイターマイルH(米GⅢ)

1996

Alannan

コモンウェルスBCS(米GⅡ)・チャーチルダウンズH(米GⅡ)

1997

Unrullah Bull

テキサスマイルS(米GⅢ)

1999

Taste of Paradise

ヴォスバーグS(米GⅠ)・サンディエゴH(米GⅡ)・ヴァーノンOアンダーウッドS(米GⅢ)

2000

Lone Star Sky

バッシュフォードマナーS(米GⅢ)

2003

Cielo Gold

インディアナダービー(米GⅡ)

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