ジョンヘンリー

和名:ジョンヘンリー

英名:John Henry

1975年生

鹿毛

父:オールボブバワーズ

母:ワンスダブル

母父:ダブルジェイ

評価を低くする全ての要素を有していた最下級馬から大出世して6歳と9歳でエクリプス賞年度代表馬に輝いた雑草の強さを誇る米国の歴史的名馬

競走成績:2~9歳時に米日で走り通算成績83戦39勝2着15回3着9回

血統が悪い、見栄えがしない、気性に問題がある、健康面に不安がある、デビュー後しばらくは活躍しなかったなど、様々な理由により当初の評価が低かったにも関わらず、最終的に歴史的名馬に上り詰めた馬は結構いるものである。英国のブリガディアジェラード、愛国のアレッジド、仏国のシーバード、豪州のファーラップ、日本のタマモクロスやオグリキャップなどは当初の評価が低かったにも関わらず、各国の競馬史に燦然と名を残す名馬となった馬達である。米国においてもそうした馬はかなり多く、シービスケットカウントフリートスタイミーケルソシアトルスルーサンデーサイレンスなど枚挙に暇が無いほどである。

それでも、本馬ほど当初の評価を低くするあらゆる条件が揃っていた歴史的名馬はなかなか見当たらないだろう。血統は悪い、気性は最悪、身体は小柄、脚にも問題を抱えているという有様であり、しかもデビュー後しばらくはほとんど活躍できず、3歳夏までにクレーミング競走に何度か出走している。血統的にはむしろ良血と言っても良かったシービスケットや、3歳春時点で既にケンタッキーダービーの有力馬として認知されていたサンデーサイレンスよりも悪条件が揃っていたのである。1歳時のセリにおいて僅か1100ドルで購入され、その後も何度か転売された本馬だが、上記条件からすれば至極当然の評価だったと言える。そんな馬が、現在でも北米最多記録(世界記録でもある)であるGⅠ競走16勝を挙げ、2度のエクリプス賞年度代表馬に選ばれ、660万ドル近くも稼ぎ出して北米賞金王に輝いたのだから、当初の本馬を知る者達にとっては狐につままれたような気持ちだったのではないだろうか。「安い馬は売っちゃだめだ。売って走られたら悔しいからだ」とは、オグリキャップの好敵手スーパークリークの所有者だった木倉誠氏の言葉だが、本馬はこの言葉を体現したかのような馬なのである。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ゴールデンチャンスファームにおいて、ベルナ・レーマン女史により生産された。父オールボブバワーズはゴールデンチャンスファームに繋養されていたが、本馬が誕生した年に900ドルという激安価格で転売されていったほどの無名種牡馬で、母ワンスダブルも凡庸な競走馬で近親からは長らく活躍馬が出ていないという平凡な血統の持ち主であり、血統上の売りは母父ダブルジェイが既に北米母父首位種牡馬に輝いていたという程度だった。しかも身体は小柄で、見栄えは醜く、気性は激しかった。前脚の膝は前方に直線状に伸びていて(いわゆる凹膝と言われるものである)、見るからに簡単に故障を発生しそうであった。

このようにあらゆる悪条件が重なっていた本馬を評価する者はおらず、生産者レーマン女史は1歳になったばかりの本馬を、安馬が集まるキーンランド1月混合セールに出品した。そして本馬はジョン・キャロウェイ氏により1100ドルという破格の安値で購入された。本馬の気性の激しさは折り紙つきであり、このセリにおいて頭を壁に叩きつけて出血し、顔は血塗れになっていた。このときの本馬の様子をキャロウェイ氏は「まるで濡れたネズミのように見えた」と後にスポーツ・イラストレイテッド誌の取材で話している。

キャロウェイ氏の所有馬となった本馬だったが、問題行動はさらに悪化し、食料や水を与えるための鋼鉄製の桶を破壊して、それらを踏みつけてぺちゃんこにするという悪癖を発揮していた。この振る舞いを見たキャロウェイ氏は、19世紀米国の伝説的黒人英雄ジョン・ヘンリーが、鉄道建設現場においてハンマーで鋼鉄を打つ作業をしている姿を想起したため、この英雄の名をそのまま本馬に与えた。英雄ジョン・ヘンリーは“Steel Driving Man(鋼鉄を打つ男)”の愛称で親しまれていたため、本馬も後に活躍するようになると同じ愛称で呼ばれるようになる。

キャロウェイ氏は、懇意にしていた調教師や厩務員が気性の悪い本馬を担当するのを嫌がった(彼等は生命の危険を感じたらしい)ことや、膝の状態が改善されるどころかますます悪化したことなどから、獣医の勧めによって翌2歳1月のキーンランドセールに本馬を再度出品した。そして今度はハロルド・スノーデン・ジュニア氏により2200ドルで購入された。スノーデン・ジュニア氏が本馬を買ったときの状況についてキャロウェイ氏は「零下10度の寒さでした。他の誰もそこにいませんでした。それはセリの最後でした」と語っている。

「ずんぐりと太っていた」と本馬を評したスノーデン・ジュニア氏だったが、本馬の調教における走り自体には満足していた。しかしその制御不能な気性難と、成長の遅さについては悩みの種であり、それらを改善するために獣医の勧めに従って本馬を去勢した。しかし気性の激しさは改善されず、さらに膝の状態も相変わらず良くならなかったため、スノーデン・ジュニア氏は知人のアキコ・マクヴァリッシュ女史に7500ドルで本馬を売ろうとした。しかしマクヴァリッシュ女史の担当獣医が本馬を一目見ただけで、売却話は流れてしまった。

それからしばらくして、ルイジアナ州在住のドーサ・リンゴ氏と息子のジョン・リンゴ氏、コリーン・マデール女史の3名が、フィル・マリノ調教師を伴い、馬を買うためにケンタッキー州を訪れた。スノーデン・ジュニア氏の厩舎を訪れた彼等はドラム缶をひたすら蹴って馬房の壁を揺らし続けていた本馬の元気さを気に入り、本馬を1万ドルで購入した。

競走生活(2歳時)

このような経緯を経て、マリノ師の管理馬となった本馬は、ようやく2歳5月にジェファーソンダウンズ競馬場で行われたダート4ハロンの未勝利戦でデビューを迎えた。このデビュー戦はスターティングゲートを歩くように出て大きく出遅れたにも関わらず、2着ユーセクシーシングに鼻差で勝利を収めた。2戦目のダート4ハロンの一般競走は1馬身差3着、3戦目のダート5ハロンの一般競走は3馬身差2着であり、デビューするとそれなりに走った。4戦目となったダート6ハロンのハンデ競走は落馬競走中止だったが、エヴァンジェリンダウンズ競馬場に場所を移して出走したダート5ハロンの一般競走を3馬身差で快勝。さらにダート6ハロンのハンデ競走で半馬身差2着。そしてラファイエットフューチュリティ(D6F)では、ハリケーン襲来による超不良馬場の中を先頭で走り抜けて、2着リルリザジェーンに頭差、3着サウンドノートにはさらに1馬身差をつけて勝利を収めステークスウイナーとなるなど、デビューから7戦は3勝2着2回3着1回の好成績だった。

しかし今までのレースは小規模の競馬場におけるものばかりであった。秋になって出走馬のレベルが高いフェアグラウンズ競馬場に主戦場を移してからは、勝ち星に恵まれなくなった。サザンホスピタリティS(D6F)では、カブリニグリーンの9馬身差5着と大敗。次走のダート6ハロンの一般競走では、ドラゴンテイマーの3馬身半差4着。同コースで出た一般競走もカブリニグリーンの1馬身1/4差4着に敗退。そして年末のシュガーボールS(D6F)ではカブリニグリーンの14馬身差11着と惨敗し、結局2歳時は11戦3勝の成績となった。

競走生活(3歳前半)

3歳時も1月から休み無く走ったが、ダート8ハロンの一般競走では、カブリニグリーンの6馬身半差8着。同コースで出た一般競走も、サザンホスピタリティSで3着だったホグタウンの5馬身3/4差5着と、2戦連続で大敗。次走はフェアグラウンズ競馬場ダート6ハロンのクレーミング競走となったが、6馬身1/4差の6着と大敗。その後も2戦続けて同コースのクレーミング競走に出たが、20馬身差10着、4馬身差3着と振るわず、買い手も現れなかった。

この状況から本馬に見切りを付けたマデール女史達は、かつての所有者スノーデン・ジュニア氏に連絡を取り、本馬の購入を持ちかけた。その結果、本馬はスノーデン・ジュニア氏の所有馬2頭とのトレード(2万5千ドルを支払ったとする資料もある)で、再び彼の持ち馬となった。そしてキーンランド競馬場に場所を移してダート6ハロンの一般競走に出走したが、ジョニーブレードの9馬身半差4着に終わり、とうとう10連敗となってしまった。

この頃、自転車輸入販売業で財を築いたサム・ルービン氏とドロシー夫人の老夫婦がニューヨークに住んでいた。前年4月に結婚したばかりの2人は、いずれも2回目の結婚だった。ルービン氏の最初の妻リリアン夫人と、ドロシー夫人の最初の夫コートニー・レビンソン氏が従兄弟同士だったことから2人は知り合い、当初は友人として接していた。しかしルービン氏とレビンソン氏の間に金銭トラブルが生じ、長年にわたって疎遠になっていた。そのうちに2人ともに配偶者を亡くして独身になった。たまたまマイアミのホテルで35年ぶりに再会した際に、お互いを見て叫び、その場でキスをかわして周囲の見知らぬ他人達から拍手を受けた。そしてその半年後に再婚したのであった。

結婚後1年ほど経った頃、競走馬を所有しようと思い立ったルービン氏は、ドロシー夫人の了解を得て、長年の友人である全米プロバスケットボール協会(NBA)所属のニュージャージー・ネッツの社長ジョー・タウブ氏に、2万5千~5万ドル程度で買える適当な馬を探してもらうように依頼した。タウブ氏が、競走馬取引の代理人をしていた知人のジミー・フェラーラ氏に相談したところ、フェラーラ氏の脳裏に浮かんだのが、スノーデン・ジュニア氏が所有していた本馬のことだったのである。フェラーラ氏はスノーデン・ジュニア氏に交渉を持ちかけ、2万5千ドルで取引を成立させた。こうして、ルービン夫妻は本馬を一度も目にすることなく購入したのであった。

後の2001年に、タイムズ紙のインタビューに応じたルービン氏は「彼と過ごした時間は、私がそれまで経験してきたこと全てと異なる空想的な時間でした。私は馬について詳しく知りませんでした。しかし妻と私は彼によって非常に幸運になりました。今でも人と会うたびに、あなたはジョンヘンリーという馬を所有していませんでしたかと聞かれます」と語っているが、まさしく本馬は夫妻にとって幸運の天使であった。

ルービン夫妻の名前を繋げたドットサムステーブル名義で走ることになった本馬は、元フィラデルフィア市の警察官だったロバート・A・ドナート調教師に預けられた。

その後5月にアケダクト競馬場ダート6ハロンで行われた2万5千ドルのクレーミング競走に出走すると、2着プリーズシーミーに2馬身半差をつけて、久々の勝利を挙げた。続いて6月にベルモントパーク競馬場芝8.5ハロンで行われた3万5千ドルのクレーミング競走に出走したのが本馬の転機となる。初の芝レースを走った本馬は四角先頭から直線で後続をどんどん引き離し、最後は2着コンチネンタルカズンに14馬身差をつける大圧勝を収めたのである(このレースの映像を筆者は見た事があるが、カメラが2着争いに注目したために、ゴール時の本馬が映っていなかった)。本馬は小柄だったが脚は大きかったために芝向きではないかと感じていたドナート師は、この結果を見て自分の考えは正しかったと確信し、芝を中心に本馬を出走させていく事になる。なお、ルービン夫妻にとって結果的に幸いだった事だが、この2度のクレーミング競走において買い手は現れず、彼等は本馬を手放さずに済んだ。本馬はこの後にクレーミング競走に出ることはなく、引退までルービン夫妻の所有馬として走ることになる。

競走生活(3歳後半)

そして同コースで行われた次走の一般競走では、サンフォードS・トレモントSの勝ち馬でサラトガスペシャルS・ホープフルS2着のターンオブコインを首差の2着に抑えて3連勝とした。続いてグレード競走初出走となるランプライターH(米GⅢ・T8.5F)に参戦。分割競走となって出走馬の層が薄くなった事も影響したようで、1番人気に支持された。レースでは2番手追走から直線半ばでいったんは先頭に立ったが、後方から来た馬達との叩き合いに敗れて、勝ったノースコースから半馬身差、2着ホラティウス(米国顕彰馬セイフリーケプトの父)から首差の3着に惜敗した。次走のヒルプリンスH(T8F)では、前月のベルモントSでアファームドアリダーに続く3着(13馬身差をつけられていたが)していたサラトガスペシャルSの勝ち馬ダービークリークロードの1馬身半差2着と好走。

続くレキシントンH(米GⅡ・T8.5F)では、ロングブランチS・レオナルドリチャーズSのグレード競走2戦を含む芝競走を7連勝中だったマックディアーミダとの対戦となった。そして勝ったマックディアーミダに頭差まで食い下がって2着と健闘した。マックディアーミダは後に加国際S・ワシントンDC国際SとGⅠ競走を2勝して、芝のGⅠ競走を4勝したエクセラーを抑えて同年のエクリプス賞最優秀芝牡馬に選出されるほどの実力馬であり、それと互角に張り合ったのだから、褒められるべき好走だった。しかしこの激走の反動が出たのか、次走サラトガ競馬場ダート7ハロンの一般競走では、コースレコードで走破したダービークリークロードの14馬身差5着と大敗。続く芝8.5ハロンの一般競走も、前月のソードダンサーHで3着していたブルーバロンの7馬身1/4差4着に敗れた。

しかし9月のベルモントパーク競馬場芝7ハロンの一般競走では、ローレンスリアライゼーションSの勝ち馬ギャブバッグを1馬身半差の2着に破った。そして臨んだラウンドテーブルH(米GⅢ・T8.5F)では1番人気に応えて、2着ゴーディエイチを12馬身もちぎり捨てて圧勝し、グレード競走初勝利を挙げた。もっとも、この圧勝ぶりは騎乗したJ・エイミー騎手が無駄に鞭を使った結果であるらしく、それに激怒したルービン氏はエイミー騎手を二度と本馬に乗せなかった。

その後は米国西海岸に遠征して、ヴォランテH(米GⅢ・T9F)に出走。しかし道中で不利を受けて、ウェイサイドステーション、エイプリルアックスの2頭に後れを取り、ウェイサイドステーションの半馬身差3着と惜敗した。分割競走カールトンFバークH(米GⅡ・T10F)では先行して失速してしまい、勝ったスターオブエリンから5馬身差の6着に敗れた(チャールズHストラブS・サンガブリエルHの勝ち馬ミスターリドイが3着だった)。しかし、3歳最後の出走となった分割競走チョコレートタウンH(T8.5F)を2着スキタイアンゴールドに1馬身差で勝って、シーズンを締めくくった。ちなみにこのチョコレートタウンHの優勝賞品にはチョコレートで充たされた杯が含まれており、甘党のルービン氏はそれを残らず平らげてしまったという。3歳時の成績は19戦6勝だった。

競走生活(4歳時)

本馬が4歳になった頃、ルービン氏とドナート師の間に意見の相違があり、この結果として本馬はドナート厩舎からレフティ・ニッカーソン厩舎に転厩することになった。ニッカーソン師は、ルービン氏から本馬のことを「小柄で気性の荒い馬」と聞いていたのだが、いざ目にしてみると思っていたより大人しい馬だと感じたという。この頃から本馬の気性難は改善傾向にあったのではないかと彼は語っている。

この年は5月にモンマスパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動して、リアリーアンドトゥルーリーの半馬身差2着。前年の成績から、本馬はダートよりも芝に適性があるのは明らかだったはずだが、当時の米国競馬は一昔前に比べれば芝路線が整備されてきたと言っても、まだダートと芝の格差は大きく、本馬も芝を主戦場としながらもダート戦にも時折出走するという方針でいくことになる。

そして4歳2戦目のモンマスパーク競馬場ダート8ハロンの一般競走では、14馬身差で大圧勝した。この勢いを駆ってマサチューセッツH(米GⅡ・D9F)に出走してみたが、アイランドスルタンの8馬身半差10着と惨敗。そこで芝路線に戻ると、サンライズH(T8.5F)でチャティの2馬身1/4差2着。ソードダンサーS(T8.5F)でダービークリークロードの2馬身半差2着と続けて好走。ダート競走のキャピタルシティH(D8.5F)ではホラティウスの2馬身差4着だったが、夏場に出走したサラトガ競馬場芝9ハロンの一般競走では、サラナクSの勝ち馬トールドを2馬身半差の2着に破って勝利。さらに、マンノウォーS・サンタバーバラH・トップフライトHなどを勝っていた名牝ワヤ(後にベルデイムSも勝ってこの年のエクリプス賞最優秀古馬牝馬に選ばれる)との対戦となったベルモントパーク競馬場芝8.5ハロンの一般競走も、2着となったローマーHの勝ち馬サイレントカルに2馬身差で勝利した。

この後、ニューヨーク州の競馬場で双眼鏡を販売していたコーエン・ジョンソン氏という人物がルービン氏に対して、米国では東海岸よりも西海岸のほうが芝の大競走が豊富なので、ニューヨーク州で実施される芝の大競走が概ね終わったこのタイミングで西海岸に本拠地を移してはどうかと助言した。西海岸には前年後半に一度遠征していたが、その時には結果は出ていなかった。しかし本格的に本拠地を移せばまた違った結果になるかもと考えたルービン氏はその気になった。

ルービン氏は最初に、後にサンデーサイレンスを管理するチャールズ・ウィッティンガム調教師に声を掛けた。ウィッティンガム師は、もし私の元に馬を送るつもりがあるのなら、私は厩舎を空けられるかどうか確かめましょうと応じた。しかしウィッティンガム師は迂闊にも本馬の存在を知らなかったらしく、ルービン氏が立ち去ると、バディ・ハーシュ調教師の妻サンディ夫人に、「ジョンヘンリーとはどのような馬ですか」と尋ねた。サンディ夫人は「いくつかの競走に勝った、小さいけれど良い馬です」と応じた。このまま話が進めば、物語はまた違った展開を見せた可能性もあるのだが、プライドが高いルービン氏は、大雑把な印象を受けたウィッティンガム師のことを気に入らなかったらしく、改めて本馬を管理していたニッカーソン師に相談を持ちかけた。

ルービン氏から相談を受けたニッカーソン師は、友人のロン・マッカナリー師を西海岸における新たな調教師として推薦した。かつて西海岸の伝説的追い込み馬シルキーサリヴァンを手掛けたレジー・コーネル調教師の甥であるニッカーソン師は、コーネル厩舎で学んで開業しており、差し追い込み馬の育成には定評があったが、当時はまだこれといった有力馬を手掛けた経験が無かった。しかしルービン氏は本馬をマッカナリー師に任せることに決めた。当初は、東海岸ではニッカーソン師が、西海岸ではマッカナリー師が担当する計画だったらしいが、結局本馬は引退までマッカナリー厩舎に所属する事になった。しかしマッカナリー師と仲が良かったニッカーソン師はこの決定に特に異を唱えることはなく、マッカナリー師も本馬の走りで得た収入をニッカーソン師と半分ずつ分け合うようにしたという。

「人参と林檎と愛で馬を育てる」と評されたマッカナリー師の元にやって来た本馬は、マッカナリー師をとても信頼するようになったという(実際に自らの手から本馬に林檎を食べさせるマッカナリー師の姿を映した映像が残っている)。

そして気分一新の本馬は、転厩後初戦のカールトンFバークH(米GⅡ・T10F)において、主戦となるD・マクハーグ騎手を鞍上に迎え、シルヴァーイーグルの1馬身1/4差2着と上々のスタートを切った。分割競走ヘンリーPラッセルH(T9F)では、スタート直後の先行争いを制して、2着ラスティーキャニオンに3馬身半差、豪州でエプソムH・チッピングノートンSとGⅠ競走2勝を挙げて米国に移籍してきたばかりの3着レオノチスにはさらに頭差をつけて逃げ切り快勝。次走のベイメドウズH(T9F)では、レオノチスの1馬身1/4差2着と好走して、4歳シーズンを終えた。4歳時の成績は11戦4勝だった。

競走生活(5歳前半)

5歳時は早くも元日のサンガブリエルH(米GⅢ・T9F)から始動。12ポンドのハンデを与えたサンフェリペSの勝ち馬スマッシャーを頭差の2着に抑えて勝利を収め、久々のグレード競走制覇を成し遂げたところから本馬の快進撃が始まる。次走のサンマルコスH(米GⅢ・D10F)はダート競走だったが、鮮やかに逃げ切って2着エルファンタスティコに2馬身半差、3着コンメモラティーボにはさらに2馬身1/4差をつけて勝利。フロリダ州に遠征して出走したハイアリアターフC(米GⅡ・T12F)も、2着ダンシングマスターに半馬身差、3着アイボリーハンターにはさらに5馬身差をつけて、グレード競走3連勝。

次走はいよいよGⅠ競走初挑戦となるサンルイレイS(米GⅠ・T12F)となった。レースでは後に名種牡馬となるラホヤマイルS・デルマーダービーの勝ち馬リローンチが芦毛の馬体を光らせながら逃げ、本馬はその直後2番手を追走。そして直線に入るとすぐにリローンチに並びかけて抜き去り、そのまま2着リローンチに1馬身半差をつけて、2分23秒0のレースレコード及びコースレコードタイで勝利。2年前にはクレーミング競走に出走していた馬が遂にGⅠ競走を制覇した瞬間だった。本馬を西海岸に連れてきたルービン氏の考えは見事に当たったのである。

勢いづく本馬は、次走のサンフアンカピストラーノH(米GⅠ・T14F)では1番人気に応えてスタートからゴールまで先頭を走り続け、2着となったチリのGⅠ競走ポリャデポトリリョス賞の勝ち馬フィーステロに1馬身1/4差、3着となったディキシーHなどの勝ち馬で後のジャパンC3着馬ザベリワンにはさらに首差をつけて勝利。さらに128ポンドを課されたハリウッド招待H(米GⅠ・T12F)も、オークツリー招待H・ノーフォークSの勝ち馬バルザックを首差の2着に、センチュリーH・デルマーフューチュリティの勝ち馬ゴーウェストヤングマン(次走のハリウッド金杯を勝利)を3着に破って勝利を収め、GⅠ競走3連勝(グレード競走は6連勝)とした。

競走生活(5歳後半)

この強さなら東海岸でも勝負になるかもと考えたルービン氏は、本馬をベルモントパーク競馬場に遠征させた。しかし遠征初戦のボーリンググリーンH(米GⅡ・T11F)は道中で不利を受けた上に128ポンドの斤量にも泣いて、11ポンドのハンデを与えたフォートマーシーHの勝ち馬ステンの首差2着に敗れた(2か月後のユナイテッドネーションズHを勝つリファーズウィッシュが3着だった)。続くソードダンサーS(T12F)では3着ステンを5馬身ちぎったが、サンアントニオH・サンフアンカピストラーノ招待H・ボーリンググリーンH・タイダルH2回などを勝っていたティラーの1馬身1/4差2着に敗退。マクハーグ騎手に代わってアンヘル・コルデロ・ジュニア騎手とコンビを組んだブライトンビーチH(T10F)では、ブーゲンヴィリアH・バーナードバルークHを勝ってきたプリミエミニストルを首差の2着に抑えて勝った。

ジョッキークラブ金杯(米GⅠ・D12F)では、ベルモントS・トラヴァーズS・アーカンソーダービーの勝ち馬でこの年のエクリプス賞最優秀3歳牡馬に選ばれるテンパランスヒルから5馬身半差をつけられて2着に敗れた。このレースは本馬の不得手なダート戦だったが、芝のターフクラシックS(米GⅠ・T12F)でも、あまり得意ではない重馬場に苦しみ、ミネルヴ賞・グラディアトゥール賞を勝って仏国から来た牝馬アニファ、前年の加国際CSS・ルイジアナダービー・アーカンソーダービー・セクレタリアトS・ローレンスリアライゼーションSを勝っていたゴールデンアクトの2頭に後れを取り、勝ったアニファから8馬身差をつけられた3着に敗れた。

結局東海岸では思うような結果を出せないまま西海岸に戻ってきたが、ターフクラシックSで初コンビを組んだラフィット・ピンカイ・ジュニア騎手は本馬の素質を認めたらしく、本馬が西海岸に戻った以降も乗り続けた。西海岸では本馬は無敵で、オークツリー招待H(米GⅠ・T12F)では、絶望的な後方の位置取りから馬群の間を縫うように追い上げて、バルザックを1馬身半差の2着に、2週間前のカールトンFバークHを勝ってきたレイクサイドH・アメリカンHの勝ち馬ボールドトロピックを3着に退けて優勝。5歳シーズンを勝利で締めくくった。ピンカイ・ジュニア騎手はこのレースにおける本馬の走りについて「信じられませんでした。私がかつて見た中で最も印象的な動きでした」と語った。5歳時は12戦8勝(うちGⅠ競走4勝)の成績で、この年のエクリプス賞最優秀芝牡馬騙馬に選出された。あの安馬がこれだけの成績を残したのだから見事なものだが、まだまだ本馬の活躍は終わらない。

競走生活(6歳前半)

6歳時は2月のサンルイオビスポH(米GⅡ・T12F)から始動。スタートから先頭をひた走り、この年のマンノウォーSやサンセットHを勝つことになるギャラクシーライブラを1馬身半差の2着に抑えて勝利した。

続いて西海岸有数の大競走サンタアニタH(米GⅠ・D10F)に参戦した。苦手なダート戦の上に、本馬には128ポンドという厳しい斤量が課せられた。最大の強敵は、サンタアニタダービー・ハリウッドダービー・サンアントニオH・デルマーフューチュリティ・ノーフォークS・サンカルロスH・サンパスカルHを勝ち、前年のサンタアニタHでスペクタキュラービッドの2着していた、現在グレード競走3連勝中のフライングパスターだった。レースでは馬群の中団好位の内埒沿いを走り、向こう正面で徐々に位置取りを押し上げていった。そして三角で仕掛けて2番手で直線を向くと、11ポンドのハンデを与えたキングゴーゴーとの叩き合いを1馬身差で制して優勝した(4着に敗れたフライングパスターはそのまま引退した)。かつてダート競走ではほとんど活躍しなかった馬がダートでもGⅠ競走を制覇したのだから、単に芝に転向したから素質が開花しただけではなく、本馬の競走能力自体が以前とは比較にならないほど向上していたとしか言いようが無い。

次走のサンルイレイS(米GⅠ・T12F)では芝に戻った上に125ポンドの斤量であり、もらったも同然で、欧州でハードウィックSなどを勝って米国に移籍してきたオブラツォヴィを2馬身1/4差の2着に破り、2分25秒2のコースレコードで勝利した。サンフアンカピストラーノHは回避(オブラツォヴィが勝利している)したが、130ポンドを課せられたハリウッド招待H(米GⅠ・T12F)は2番手追走の積極策から三角途中で先頭に立ち、そのまま押し切って、2週間前のゴールデンゲートHを勝ってきたキャッターマンを3/4馬身差の2着に、ギャラクシーライブラを3着に抑えて勝利した。同じく130ポンドを課されたハリウッド金杯(米GⅠ・D10F)では、キャッターマンに進路妨害を受けてしまい、カリフォルニアンSを勝ってきたイレヴンスティッチズ、チャールズHストラブSの勝ち馬スーパーモーメントの2頭にも後れを取って、4位入線。2位入線のキャッターマンが降着となったために繰り上がったが、イレヴンスティッチズの3着に敗れた。

その後は再び東海岸に遠征。遠征初戦のソードダンサーS(米GⅢ・T12F)では、新たな主戦に迎えたウィリー・シューメーカー騎手を鞍上に、2着パッシングゾーンに3馬身半差で勝利。

続いてシカゴのアーリントンパーク競馬場に向かい、新設されたばかりでグレード競走の格付けがまだ無かった、史上初の100万ドル競走バドワイザーミリオン(T10F・現アーリントンミリオン)に参戦。前年の凱旋門賞でデトロワの半馬身差2着していたワシントンDC国際S・ガネー賞・アルクール賞の勝ち馬アーギュメント、この年の仏オークス馬マダムゲイ、前走ユナイテッドネーションズHを勝ってきたサラナクS・フォートマーシーHの勝ち馬キートゥコンテント、欧州でロイヤルホイップSを勝った後に米国に移籍していたザバート(後にハイアリアターフカップH・センチュリーHとGⅠ競走を2勝する)などが対戦相手となった。重馬場で行われたレースではスタートで脚を滑らせて出遅れてしまい、勝利は絶望的と思われたが、直線入り口で4番手まで押し上げると、逃げるザバートを外側から猛追。そして最後はほとんど並んでゴールインした。ザバートの馬主達が勝ったと喜んで飛び跳ねるほどであり、最初はザバートが勝ったかに思えた(レース直後にテレビ画面に映し出された非公式着順表で本馬は2着にされていた)が、写真判定の結果は本馬が鼻差で勝利しており、同競走の初代王者に輝いた。騎乗したシューメーカー騎手は「それはおそらく、私がかつて経験した中で最も偉大なレースの一つでした」と語っている。このレースは全米でテレビ放送されていたため、この名勝負を制した本馬は、西海岸だけでなく全米の英雄として認知されることになり、ファンをどんどん増やしていくことになる。翌日の新聞でも、“John Henry The Hero”の文字が躍っている。本馬が大逆転したこのレースを記念して、後にアーリントンパーク競馬場には“Against All Odds(あらゆる見込みを引っくり返す馬)”と刻まれた本馬の銅像が建てられた。

競走生活(6歳後半)

さらにニューヨーク州に戻って、前年は敗れたジョッキークラブ金杯(米GⅠ・D12F)に出走。この年のケンタッキーダービー・プリークネスS・ウッドワードSを勝っていた3歳最強のプレザントコロニーは回避して不在だったが、前年の同競走の勝ち馬テンパランスヒル、デラウェアH・ラフィアンHを勝ってきたリラクシング(イージーゴアの母)、スワップスS・マールボロカップ招待Hを勝ってきたノーブルナシュア、後にサバーバンH・ホイットニーHを勝利するシルヴァーバック(シルバーチャームの父)、この年のベルモントSの勝ち馬サミング、ディスプレイHの勝ち馬でブルックリンH3着のピートモスなど当時の米国ダート路線を代表する強豪馬達が出走していた。1番人気は単勝オッズ4倍のリラクシングに譲り、単勝オッズ4.5倍の2番人気での出走となった。レースでは馬群の中団を追走し、四角で位置取りを上げて、サミングに次ぐ2番手で直線を向いた。前を行くサミングをすぐに抜き去ると、内埒沿いを追い上げてきたピートモスの追撃を頭差抑えて勝利を収めた。これで東海岸でもダートGⅠ競走を制覇した本馬は、名実共に米国最強馬としての地位を確立したばかりか、この時点でスペクタキュラービッドが保持していた獲得賞金北米記録を早くも更新した。

西海岸に戻るとオークツリー招待H(米GⅠ・T12F)に出走。バドワイザーミリオンで激戦を演じたザバート、ハリウッド金杯で本馬に先着する2着だったスーパーモーメント、センチュリーH・カールトンFバークHの勝ち馬スペンスベイなどが対戦相手となった。スタート直後は3番手を追走したが、第1コーナーで前の馬達が外側に膨らんだ隙を突いて先頭に躍り出た。そのままザバートやスーパーモーメントを引き連れて逃げ続けたが、四角で外側から一気に上がってきたスペンスベイに並びかけられた。そのまま直線の叩き合いに持ち込まれ、途中までは明らかに体勢不利であったが、ゴール寸前で猛然と差し返した。最後は首差で勝利を収め、1972年のクーガー以来9年ぶり史上2頭目となる同競走の2連覇を果たした。

同年最後のレースとなった新設競走ハリウッドターフC(T12F)では疲労が出たのか、ワシントンDC国際Sを勝ってきたクリテリウムドサンクルー・グレフュール賞の勝ち馬プロヴィデンシャル、イエローリボンS・ラモナH2回などの勝ち馬クイーントゥコンカー、ルイジアナダウンズHの勝ち馬ゴルディコの3頭に後れを取り、プロヴィデンシャルの2馬身差4着に終わった。しかし6歳時10戦8勝(うちGⅠ競走5勝)の成績で、この年のエクリプス賞年度代表馬・最優秀古馬牡馬騙馬・最優秀芝牡馬騙馬のタイトルを受賞した。1100ドルで取引された馬が米国競馬の頂点を極めた瞬間だった。GⅠ競走を4勝していた3歳馬プレザントコロニーがいたにも関わらず年度代表馬は満票で選ばれているのだが、今日に至るまでエクリプス賞年度代表馬が満票で選ばれたのはこれが唯一の例である(1995年にGⅠ競走8勝を含む10戦全勝の成績を挙げたシガーですらも満票ではなかった)。追記:2015年の米国三冠馬アメリカンファラオが満票でエクリプス賞年度代表馬に選出されて2例目となった。

競走生活(7歳時)

翌7歳時はサンタアニタH(米GⅠ・D10F)から始動。馬群の中団後方追走から四角で外側をまくって4番手で直線を向いた。そしてすぐ内側を走るペロー(モーリスドニュイユ賞・ドーヴィル大賞の勝ち馬で、米国に移籍して前走アーケイディアHを勝って臨んできていた)との叩き合いとなり、最後はほとんど並んで先頭でゴールインした。結果はペローが1位入線、本馬は鼻差で2位入線だったが、直線半ばで外側によれたペローに接触した本馬が失速する場面があり、しかもゴール前でペローが延々と外側に斜行したために本馬も仕方なく斜めに走らざるを得ないという状態だった。そして当然進路妨害を取られたペローは2着に降着。繰り上がった本馬が史上初のサンタアニタH2勝馬となった。このレースはダート競走の上に、斤量も130ポンドと過酷なものだったし、サンフェルナンドS・チャールズHストラブSとGⅠ競走を2連勝して臨んできたイッツジワン(3着)などに先着しているから、繰り上がりであっても勝利したのは立派と言える。

しかし次走のサンルイレイS(米GⅠ・T12F)では斤量125ポンドの芝競走にも関わらず、ペロー、前年のサンタアニタHで本馬の3着だったデルマーダービーの勝ち馬エクスプローデッド(2か月後のハリウッドパーク招待ターフHを勝っている)の2頭に後れを取って、勝ったペローから4馬身3/4差の3着と完敗してしまった。その後に体調を崩して半年間休養を取った。

10月の復帰戦カールトンFバークH(米GⅡ・T10F)では、休み明けと129ポンドの斤量の影響もあっただろうが、マーヴィンルロイH・フィリップHアイズリンHを勝ってきたメーメット、後のサンセットHの勝ち馬クラーリアス、イッツジワンの3頭に屈して、メーメットの1馬身半差3着に敗戦。しかし125ポンドで出走したオークツリー招待H(米GⅠ・T12F)は、4番手追走から三角で仕掛けて直線半ばで先頭に立ち、2着クラーリアスに2馬身半差で勝利を収め、史上初(現在でも唯一)の同競走3連覇を達成した。129ポンドを課せられたメドウランズCH(米GⅡ・D10F)では、メーメット、ウッドローンS・ローマーHの勝ち馬サーティエイトペイシズの2頭に後れを取り、勝ったメーメットから5馬身3/4差の3着に終わった。

このレースの2週間後、本馬の姿は日本の東京競馬場にあった。第2回ジャパンC(T2400m)の最大の目玉として招待されて参戦したのである。米国最強馬の名は日本国内にも轟いており、ヴェルメイユ賞・ターフクラシックS2回・ワシントンDC国際SとGⅠ競走4勝を挙げていた名牝エイプリルラン、翌年に凱旋門賞・ロスマンズ国際S・ターフクラシックS・ワシントンDC国際Sを勝ってエクリプス賞年度代表馬に選ばれるヴェルメイユ賞の勝ち馬オールアロング、前年のジャパンC2着馬フロストキング、新ダービー・ローズヒルギニーの勝ち馬アイルオブマンなどを抑えて1番人気の支持を受けた。レースでは中団好位を追走し、三角では2番手まで上がっていったが、直線で失速。勝ったハーフアイストから8馬身差の13着と大敗してしまった。この敗因は不明だが、前走から僅か2週間後に母国から遠く離れた日本で出走するという強行軍が影響したのではないかと考えられる。なお、血統評論家の水上学氏は、宝島社発行の「競馬裏事件史」の中で、本馬の参戦について「典型的な物見遊山組」と評している。しかし悪い言い方をすれば「金の成る木」である大切な本馬をルービン氏が遊びで日本まで連れてくるわけは無く、水上氏の見解はあまり的を得たものとは言えない。

7歳時の出走はこれが最後で、成績は6戦2勝(うちGⅠ競走2勝)に留まり、エクリプス賞の年度表彰では無冠に終わった(年度代表馬はメトロポリタンH・ベルモントSを共に圧勝したコンキスタドールシエロが、最優秀古馬牡馬はサンフアンカピストラーノ招待H・マールボロカップ招待H・ジョッキークラブ金杯を制したレムヒゴールドが、最優秀芝牡馬はサンルイレイS・ハリウッド金杯・バドワイザーミリオンを制したペローが受賞)。

競走生活(8歳時)

8歳時は日本への遠征疲れを取り除くのに時間を要し、7月のアメリカンH(米GⅡ・T9F)が初戦となった。このレースからは最後の主戦となるクリス・マッキャロン騎手とコンビを組むことになった。ケンタッキーダービー・デルマーフューチュリティの勝ち馬ガトデルソルなどが対戦相手となった新コンビ初戦は、3番手追走から直線で逃げるプリンスフロリマンドに並びかけて、叩き合いを1馬身1/4差で制した。

しかし東海岸に移動する途中で出走したバドワイザーミリオン(米GⅠ・T10F)は、単勝オッズ36倍の伏兵トロメオに足をすくわれて首差2着に惜敗。

東海岸で出走したジョッキークラブ金杯(米GⅠ・D12F)では、ウッドメモリアルS・ウッドワードSなどの勝ち馬スルーオゴールド、ブルーグラスS・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・トラヴァーズSの勝ち馬プレイフェロー、パンアメリカンS・ブルックリンH・マールボロカップ招待Hなどの勝ち馬ハイランドブレイド、ウッドメモリアルSの勝ち馬バウンディングバスクなどが対戦相手となった。そしてもはや本馬にはダート戦は無理なのか、上記4頭全てに屈して、勝ったスルーオゴールドから6馬身3/4差の5着と完敗した。余談だが、このジョッキークラブ金杯当日には、本馬と並んで1960年代から1980年代までの米国競馬における “a Triumvirate of Renowned Geldings(高名な騙馬3頭組)”と呼ばれるようになるケルソとフォアゴーの2頭が、引退競走馬財団の資金調達行事の一環として特別招待を受けて、ベルモントパーク競馬場に来場していた。そしてケルソとフォアゴーがファンの前で行進を行ったのだが、これに本馬も加わったとする資料が複数存在する。まだ現役競走馬だった本馬が本当にこの行進に参加したかは、日本人の常識からすると微妙なのだが、本馬も加わったほうが盛り上がる事は間違いないため、お祭り好きな米国人なら本当にやりかねないだろう。それにしても、ケルソ、フォアゴー、本馬の3頭が一緒に行進する光景なら筆者も見てみたかったものである。フォアゴーと本馬は後に同じケンタッキーホースパークで余生を過ごすことになるため顔を合わせる機会はその後もあったはずだが、ケルソはこの翌日に他界しているため、本馬との邂逅はこのとき限りであった。

西海岸に戻って出走したオークツリー招待H(米GⅠ・T12F)では、仏国でポモーヌ賞2回・ドーヴィル大賞を勝った後に渡米してきた牝馬ザラタイアの半馬身差2着に敗れ、同競走の4連覇は成らなかった。暮れのハリウッドターフC(米GⅠ・T11F)では、ザラタイアに加えて、ヴァニティ招待H・イエローリボンS・メイトリアークS・イエルバブエナH・ビヴァリーヒルズH・サンタマリアH・ラモナHなどを勝っていたグレード競走5連勝中のサングが参戦してきた。勢いからすれば衰えが見え始めていた本馬よりも牝馬2頭のほうが明らかに上だったのだが、結果は本馬がザラタイアを半馬身差の2着に、サングを4着に破って勝利を収め、まだまだやれることをアピールした。また、この勝利で獲得賞金総額が400万ドルを突破した。8歳時の成績は5戦2勝(うちGⅠ競走1勝)に終わったが、それでも3度目のエクリプス賞最優秀芝牡馬騙馬に選出された。

競走生活(9歳前半)

そして9歳になった本馬は、何と2度目の全盛期を迎える。もっともシーズン当初は今ひとつであり、ガトデルソル、サンフェルナンドS・ベイメドウズHなどの勝ち馬インテルコ、スワップスS・シルヴァースクリーンHの勝ち馬ジャーニーアットシー、前年のオークツリー招待Hで3着だったモーリスドニュイユ賞の勝ち馬ロードザキャノンズなどとの対戦となった初戦のサンタアニタH(米GⅠ・D10F)では、スタートで躓いて、4連勝で臨んできた勝ち馬インテルコから8馬身差の5着に敗退。次走のサンルイレイS(米GⅠ・T12F)も、インテルコとガトデルソルの2頭に敗れて、6連勝目を飾ったインテルコから3/4馬身差の3着に終わった。

しかしゴールデンゲートH(米GⅢ・T11F)では、6頭立ての3番手追走から直線入り口で先頭を走るハリウッドダービー馬シルヴィーヴィルに並びかけると、直線半ばで突き放して、2分13秒0のコースレコードを計時して、2着シルヴィーヴィルに2馬身差、3着となったラウンドテーブルH・サンマルコスHの勝ち馬ルーセンスにはさらに6馬身差をつけて勝利を収め、米国史上初の9歳馬によるグレード競走勝利を達成した。

次走のハリウッド招待H(米GⅠ・T12F)では、2着ギャラントバートに2馬身差をつけて、サンタアニタH7着後にサンフアンカピストラーノ招待Hを勝っていたロードザキャノンズを3着に破って同競走3年ぶりの勝利を収め、米国史上初の9歳馬によるGⅠ競走勝利も成し遂げた。

ハリウッド金杯(米GⅠ・D10F)では、チャールズHストラブS・カリフォルニアンSとダートGⅠ競走2連勝中だった前年のケンタッキーダービー・プリークネスS2着馬デザートワインに敗れて、2馬身差の2着だった。次走のサンセットH(米GⅠ・T12F)では、ガトデルソル、ロードザキャノンズなどの他馬勢より8~15ポンドも重い斤量を課せられた。しかし5番手追走から直線入り口で3番手まで押し上げると、先行勢を一気に差し切り、追い上げてきた2着ロードザキャノンズに1馬身差をつけて勝利した。

競走生活(9歳後半)

そして本馬はまたも西海岸から東海岸に向かい、途中のシカゴでバドワイザーミリオン(米GⅠ・T10F)に参戦。ロスマンズ国際S・マンノウォーS・ソードダンサーH2回・レキシントンSなどを勝っていたマジェスティーズプリンス、ハリウッドダービー・オペラ賞・ビヴァリーヒルズHなどの勝ち馬でこの年のBCマイルを勝つ名牝ロイヤルヒロイン、デザートワイン、ガトデルソル、リュパン賞の勝ち馬ダハール、イスパーン賞2連覇のクリスタルグリッターズなど、国内外の強敵達が対戦相手となった。レースはスタートからロイヤルヒロインが逃げを打ち、ニジンスキーズシークレットやデザートワインがそれを追走。本馬は4番手辺りの好位につけた。そしてロイヤルヒロインに次ぐ2番手で直線を向くと、前を行くロイヤルヒロインを直線半ばで一気に抜き去った。最後は2着ロイヤルヒロインに1馬身3/4差、3着ガトデルソルにはさらに3馬身差をつけて、3年ぶりの同競走制覇を果たした。バドワイザーミリオン(アーリントンミリオン)を2度勝利したのは今日に至るまで本馬のみである。

さらに東海岸に到着した本馬はターフクラシックS(米GⅠ・T12F)に出走。ジャパンC以来の対戦となった前年のエクリプス賞年度代表馬オールアロングを筆頭に、バドワイザーミリオン6着後にマンノウォーSの2連覇を果たしてきたマジェスティーズプリンス、マンハッタンH・ラトガーズH・タイダルH・バーナードバルークHの勝ち馬で前走マンノウォーS2着のウインなどの強豪馬が名を連ねていたが、本馬が単勝オッズ2倍の1番人気に支持された。今回はスタートから逃げを打ち、ずっと先頭を維持し続けた。三角で外側からウインに並びかけられたが、直線に入っても一度も先頭を譲ることは無く、ウインとの叩き合いを首差で制してGⅠ競走16勝目を挙げた。

そしてメドウランズ競馬場で行われたバランタインズスコッチクラシックH(T11F)に出走。このレースは新設競走のためにグレード競走の格付けこそ無かったが、賞金は40万ドルとかなり高額だった。ウイン、この年のボーリンググリーンH・ユナイテッドネーションズH・レッドスミスH・フォートマーシーHを勝っていたヒーローズオナー、アーリントンHの勝ち馬フーズフォーディナーなどが対戦相手となった。道中は8番手を追走し、直線入り口でもまだ5番手だったが、直線に入ると外側から先行馬勢をまとめて抜き去り、2着フーズフォーディナーに2馬身3/4差をつけて、2分13秒0のコースレコードタイで勝利を収めた。

引退

この後は、この年から開催されることになったブリーダーズカップ(この年はハリウッドパーク競馬場で行われる事になっていた)参戦が期待されていたが、本馬の父オールボブバワーズはブリーダーズカップ登録が無かったため、BCターフに出走するには賞金の20%に相当する40万ドルという高額の追加登録料を支払わなければならなかった。ルービン氏は「そんな馬鹿な事はしません」として、右前脚の脚部不安を理由に回避した。そのためにこの年はバランタインズスコッチクラシックHが最後のレースとなったが、9歳時9戦6勝(うちGⅠ競走4勝)の活躍で、ホイットニーH・ウッドワードS・マールボロCH・ジョッキークラブ金杯を勝ったスルーオゴールド、サンフェルナンドS・サンタアニタH・サンルイレイS・センチュリーHを勝ったインテルコとのGⅠ競走4勝馬対決を制して、3年ぶり2度目のエクリプス賞年度代表馬と、4度目の最優秀芝牡馬騙馬のタイトルを獲得した(最優秀古馬牡馬はスルーオゴールドが受賞)。本馬は史上最年長のエクリプス賞年度代表馬選出馬である。

この年の本馬の獲得賞金額は233万6650ドルであり、これは1頭の競走馬が1シーズンで稼いだ賞金の北米記録だった。これは「新・世界の名馬」で原田俊治氏が指摘しているように、米国競馬の賞金額の高騰ぶりを如実に示しているものではあるが、それ以上に、通常は明らかに競走馬としての全盛期を過ぎているはずの9歳でこれだけの賞金を稼いだ事が讃えられるべきであろう(しかもブリーダーズカップ不参戦であり、もし出走して好走していればさらに増えていたはずである)。

かつて本馬を預かりそこなったウィッティンガム師(本馬が西海岸に移籍してきて以来、バルザックやロードザキャノンズなど自身の管理馬が10回も本馬の2着に敗れ去っていた)は、この年の本馬について「4~5歳時よりも9歳時のほうが調子が良い。私が管理している馬達の大半は9歳まで走る事さえも難しいだろうに」と、呆れたような感心したような発言を残している。

翌10歳時も現役続行予定だったが、7月中旬にハリウッドパーク競馬場で行われた調教中に右前脚の屈腱炎を発症したために引退が決定した。

競走馬としての評価、特徴、人気など

本馬は、最初の購買価格1100ドルの約6000倍に当たる659万7947ドルを稼いだ。GⅠ競走16勝、グレード競走25勝は現在でも北米史上最多記録である。ステークス競走の勝利数は30勝で、これはエクスターミネーターネイティヴダイヴァーの34勝に次ぐ北米史上3位である。本馬は46戦のグレード競走に出走し、走った競馬場は米国だけで18箇所(東京競馬場を含めると19箇所)、勝ち星を挙げた競馬場は13箇所に上ったが、いずれも北米最多記録である。

逃げたり先行したりして勝ったレースも多かったが、基本的には差し追い込み馬であり、最後の直線で前の馬を抜き去る勝ち方が真骨頂であった。このレースぶりも本馬の人気の要因だったようである。黄色いシャドーロールがトレードマークであり、遠目からでもよく判別できた。

本馬の人気は抜群で、本馬が出走するだけで当該競馬場の入場人数が通常の2倍になったという。

ルービン氏が印象に残った競走は、3歳最後のレースだったチョコレートタウンH(最も楽しかった)、最初のバドワイザーミリオン勝利(最も特別な勝利)、現役最後のレースとなったバランタインズスコッチクラシックH(とても信じられない差し切り勝ち)の3競走だそうである。

また、マッカナリー師が印象に残った競走は、最初のバドワイザーミリオン勝利と現役最後のレースとなったバランタインズスコッチクラシックHのほかに、5歳時のサンフアンカピストラーノH(126ポンドを背負いながら14ハロンという長距離を逃げ切り勝ち)、繰り上がり勝利した7歳時のサンタアニタH(史上初の同競走2回目の優勝)、2度目のバドワイザーミリオン勝利(9歳にしてロイヤルヒロインを撃破)の5競走だそうである。

本馬はレース終了直後に電光掲示板の方向を向く癖があった。それがあたかも、勝ちタイムやオッズを確認しているように見えた(マッキャロン騎手は実際に「彼は自分がどのくらい速く走ったか確かめようとしていました」と語っている)ため、本馬を応援するファンからは「彼は競馬のことを理解している」と好評だった。実際に本馬は気性が激しいながらも頭は良い馬であり、自分で勝手にレースを進めていたらしく、マッキャロン騎手は「私は彼に跨っているだけでした」と語っている。レースで負けたにも関わらず、厩務員を引きずって勝ち馬表彰式場に歩いていったという逸話もあり、サンデーサイレンスと同様に負けん気が強い馬だったようである。

膝に問題を抱えていたにも関わらず長年にわたって走り続けることが出来たことについても、本馬の頭の良さが理由の一つであるという。マッカナリー師は、調教に向かう途中の本馬が、地面に落ちていた石を踏まないように避けて進むのを見て、これが彼の健康さの理由だと悟ったというのである。

血統

Ole Bob Bowers Prince Blessed Princequillo Prince Rose Rose Prince
Indolence
Cosquilla Papyrus
Quick Thought
Dog Blessed Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Blessed Again Blue Larkspur
Clonaslee
Blue Jeans Bull Lea Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Rose Leaves Ballot
Colonial
Blue Grass Blue Larkspur Black Servant
Blossom Time
Camelot Sir Gallahad
Cross of Gold
Once Double Double Jay Balladier Black Toney Peter Pan
Belgravia
Blue Warbler North Star
May Bird
Broomshot Whisk Broom Broomstick
Audience
Centre Shot Sain
Grand Shot
Intent One Intent War Relic Man o'War
Friar's Carse
Liz F. Bubbling Over
Weno 
Dusty Legs Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Dustemall Chicle
Miss Whisk

父オールボブバワーズは現役成績30戦6勝で、唯一のステークス競走の勝利はタンフォランH。その競走能力よりも気性の激しさで知られた馬だった。また、2・3歳時にはレースに出ておらず、本馬と同様に仕上がりが遅い馬だったようである。競走馬引退後は5千ドルで取引されてゴールデンチャンスファームで種牡馬入りしていたが、前述のとおり、本馬が誕生した1975年に900ドルで転売されていった。本馬の活躍を受けて注目されたはずであるが、その後も特に陽が当たる事は無く、1988年に25歳で他界している。種牡馬としては本馬以外にGⅠ競走勝ち馬を出してはいないが、とにかく頑健な産駒が多く、100戦以上した産駒が6頭、50戦以上した産駒は本馬を含めて27頭もいた。

オールボブバワーズの父プリンスブレシドはプリンスキロ産駒で、現役成績は35戦8勝。米国西海岸を主戦場として、ハリウッド金杯・アメリカンHなどを勝利している。種牡馬としてもカリフォルニア州で供用されたが、産駒のステークスウイナーはオールボブバワーズを含めて4頭とあまり活躍は出来なかった。

母ワンスダブルは現役成績19戦2勝。ワンスダブルの祖母ダスティレッグスはメイトロンSの勝ち馬ダストモールの娘で、ダスティレッグスの半兄にはレッドレイン【サラトガスペシャルS・ホープフルS】が、ダストモールの伯父にはドワイヤーSでマンノウォーと激戦を演じたジョンピーグリアがいるのだが、レッドレインが活躍したのは1935年の話であり、本馬が誕生するまで約40年間この牝系から活躍馬は出ていなかった。本馬以降もこの牝系からは活躍馬が出ておらず、ワンスダブルの半姉イストリア(父リボー)の孫にプライドオブサマー【フォースターデイヴH(米GⅢ)】がいる程度である。→牝系:F8号族③

母父ダブルジェイは現役成績48戦17勝、2歳時にガーデンステートS・ケンタッキージョッキークラブSなどを勝って米最優秀2歳牡馬に選ばれた。3歳以降もアメリカンH・リグスH・ベンジャミンフランクリンH・トレントンHなどを勝った。繁殖牝馬の父として非常に優秀で、本馬の他にファーディナンド、ノーダブルなどを出し、1971・75・77・81年と4度の北米母父首位種牡馬に輝いた。本馬が最も賞金を稼いだ1984年はバックパサーに阻止されて5度目のタイトルを逃しているが、1969年から81年までの13年間、プリンスキロ、プリンスジョン、バックパサーなどと張り合いながら、1度も北米母父種牡馬ランキング5位以内から名前が消えることが無かったというから、たいしたものである。ダブルジェイの父バラディアはブラックトニー産駒。米国三冠馬オマハの同期で、ユナイテッドステーツホテルS・シャンペンSではオマハを破り米最優秀2歳牡馬となった。しかし故障のため早々に引退、通算成績は5戦3勝に終わった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬に対しては、全米各地から引き取りたいという申し出が相次いだが、ルービン氏の判断により、同じ騙馬の名馬フォアゴーが余生を送っていたケンタッキーホースパークに委ねられた。本馬は気性が激しかったために普通の場所では扱いかねるだろうと判断されたためだったという。本馬が来た事が、今日のケンタッキーホースパーク隆盛のきっかけになったと言われている。

引退の翌年11歳時に、ルービン氏が本馬の現役復帰を発表して米国競馬界を大いに驚かせた。これは冗談ではなく、9月のバランタインズスコッチクラシックHを目指して、マッカナリー厩舎に戻って実際に調教が再開されたが、屈腱炎が再発したために断念となり、ケンタッキーホースパークに戻ってきた。これ以降は現役復帰の話が出る事は無く、ケンタッキーホースパークにおいて牧場を訪れる多くのファンに囲まれながら余生を過ごした。

1990年には管理していたマッカナリー師と共に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第23位。2000年には、かつて本馬が勝利したジョッキークラブ金杯を回避してそのまま競走馬を引退したプレザントコロニーが、種牡馬引退後の余生を送るためにケンタッキーホースパークにやって来た。小屋の窓から顔を出す本馬と、牧場内に佇むプレザントコロニーが視線を合わせている写真が残っているのだが、それはあたかも功成り名を遂げた2頭の老雄が語り合っているように見えて、何とも微笑ましい光景である。プレザントコロニーが2002年に他界した後も本馬は長寿を保ち続け、毎年3月9日の誕生日にはファンや関係者が集まり本馬を祝福した。

2006年2月にルービン氏が91歳で死去した後も本馬は生き続けたが、2007年の夏にケンタッキー州を襲った猛暑は、32歳の本馬の身体には相当堪えたらしく、同年8月に腎臓疾患を発症してしまった。脱水症状のため体重が激減し、そして10月には治癒の見込みが無くなったため、ケンタッキーホースパークの重役ジョン・ニコルソン氏や、ルービン氏の妻ドロシー夫人が先夫との間にもうけた息子のトム・レビンソン氏、そしてマッキャロン騎手を始めとするかつての仕事仲間達に看取られながら、10月8日に安楽死の措置が執られた。その死は日本の一般紙でも報じられた。遺体は本馬が過ごしたケンタッキーホースパークのパドック前に埋葬された。この場所には“John Henry, A Lasting Legend(ジョンヘンリー:永遠の伝説)”と刻まれた本馬の銅像が建てられている。

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