ダリア
和名:ダリア |
英名:Dahlia |
1970年生 |
牝 |
栗毛 |
父:ヴェイグリーノーブル |
母:チャーミングアリバイ |
母父:ハニーズアリバイ |
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キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS2連覇など欧米5か国でGⅠ競走を10勝し、繁殖入り後も大活躍した20世紀屈指の名牝 |
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競走成績:2~6歳時に仏愛英米加伊で走り通算成績48戦15勝2着3回3着7回 |
誕生からデビュー前まで
米国テキサス州の石油業者ネルソン・バンカー・ハント氏により米国ケンタッキー州において生産・所有された。ハント氏は父ヴェイグリーノーブルの所有者でもあった大富豪である。本馬を管理することになった仏国のモーリス・ジルベール調教師は、元々は仏国の画商で大馬主でもあったダニエル・ウィルデンシュタイン氏の元で働いており、後に本馬の好敵手となるアレフランスをセリで購入した人物でもあったが、それから間もなくしてハント氏の招聘を受けてウィルデンシュタイン氏の元を去り、ハント氏の専属調教師となっていたのだった。
競走生活(2歳時)
2歳8月にドーヴィル競馬場で行われたヤコウレフ賞(T1000m)でデビュー。英国の名手レスター・ピゴット騎手を鞍上に、2着チャレンジに2馬身差をつけて勝ち上がった。しかし同じドーヴィル競馬場で行われた次走のカルヴァドス賞(T1300m)では、同年のクリテリウムデプーリッシュでアレフランスの3着することになるプリンセスマーガレットSの勝ち馬ファイアリーディプロマットに8馬身差をつけられた5着と完敗。
翌9月のアランベール賞(仏GⅢ・T1000m)でも、エニトラムの5馬身差5着に敗れ去った。アランベール賞が行われるのはロンシャン競馬場であり、以降も本馬にとって鬼門的存在の競馬場となる。2歳最後のレースとなったのは、ロンシャン競馬場で行われるレゼルヴォワール賞(T1600m)だったが、ここでもベガラの1馬身差2着に敗退。2歳時の成績は4戦1勝止まりだった。
競走生活(3歳前半)
3歳時は4月にロンシャン競馬場で行われたグロット賞(仏GⅢ・T1600m)から始動した。このレースからピゴット騎手に代わってビル・パイアーズ騎手が本馬の主戦を務めるようになる。新コンビ初戦は、2着ゲイスタイルに3/4馬身差をつけた本馬が勝利を収め、ロンシャン競馬場で初めて勝ち星を挙げた。続いて仏1000ギニー(仏GⅠ・T1600m)に出走した。しかし生涯の宿敵となるクリテリウムデプーリッシュの勝ち馬アレフランスと、後にアスタルテ賞・ロンポワン賞を勝つプリンセスアルジュマンドの2頭に屈して、勝ったアレフランスから2馬身3/4差の3着に敗れた。
翌5月に出走したサンタラリ賞(仏GⅠ・T2000m)もロンシャン競馬場におけるレースだったが、ここでは後にマルレ賞を勝ちヨークシャーオークスで2着するヴィルンガを3/4馬身差の2着に抑えて勝利を収めた。次走の仏オークス(仏GⅠ・T2100m)では、仏1000ギニー勝利後に牡馬相手のリュパン賞に出るも惨敗していたアレフランスと2度目の対戦となった。しかし今回もアレフランスに敗れて、2馬身半差の2着に終わった(3着ヴィルンガにはさらに4馬身差をつけていた)。
その後は仏国を飛び出して、愛オークス(愛GⅠ・T12F)に出走。英1000ギニー・英オークス・チェリーヒントンS・フレッドダーリンSなど5戦全勝のミステリアス、同年秋の英チャンピオンSでアレフランスを2着に破って勝利するプリティポリーSの勝ち馬ハリーハリエットとの対戦になった。ミステリアスが単勝オッズ1.5倍という断然の1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ9倍止まりだった。しかし直線で楽々とミステリアスを差し切り、2着ミステリアスに3馬身差をつけて勝利した。
その1週間後にはキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ・T12F)に出走した。前年のベンソン&ヘッジズ金杯で英国競馬史上最高の名馬ブリガディアジェラードに生涯唯一の黒星をつけていた英ダービー・コロネーションC・愛ナショナルSなどの勝ち馬ロベルト、仏ダービー・仏グランクリテリウム・リュパン賞・ニエル賞などの勝ち馬ハードツービート、サンクルー大賞2回・ガネー賞・ハードウィックS・ダンテS・ジョンポーターSの勝ち馬で英ダービー・デューハーストS2着のラインゴールド、サラマンドル賞・グレートヴォルティジュールS・プリンセスオブウェールズS・ジョッキークラブSなどの勝ち馬で英セントレジャー・愛セントレジャー2着のアワーミラージュ、愛ダービーを2馬身半差で快勝してきたウィーヴァーズホールといった当時の欧州を代表する強豪牡馬勢が対戦相手となった。単勝オッズ11倍という評価で出走した本馬は徹底した後方待機作戦を採り、最終コーナーを後方3番手で回った(逃げて失速したペースメーカーが最後方に下がっていたため、事実上は後方2番手)。ここから馬群のど真ん中に突っ込むと、残り2ハロン地点で馬群の間を突き抜けて抜け出した。最後は2着ラインゴールドに、2年前の勝ち馬ミルリーフと並ぶ同競走史上最大着差タイとなる6馬身差をつけて、2分30秒43の好タイム(第1回の勝ち馬シュプリームコートが計時した2分29秒66に次ぐ同競走史上当時2位)で優勝。同競走を3歳牝馬が勝ったのは史上初のことだった。当時の強豪牡馬勢を軒並み吹き飛ばしたこのレースにより、本馬の名声は急上昇した。
競走生活(3歳後半)
その後に負傷したために夏場は休養に充てた。秋はニエル賞(仏GⅢ・T2200m)から始動した。このレースにはパリ大賞の勝ち馬で仏ダービー2着のテニソンも出走していたのだが、2着テニソンに半馬身差で勝利した。しかし結果的にはこれが本馬にとってロンシャン競馬場における生涯最後の勝利となるのだった。
次走のヴェルメイユ賞(仏GⅠ・T2400m)では、3度目の対戦となるアレフランスを抑えて1番人気に支持されたが、アレフランス、愛オークスで本馬から7馬身差の3着だったハリーハリエット、ミネルヴ賞を勝ってきたエルミナなどに敗れて、勝ったアレフランスから6馬身半差の5着に終わった。
次走の凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)では、4度目の対戦となるアレフランスを筆頭に、テニソン、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS2着後にベンソン&ヘッジズ金杯で3着してきたラインゴールド、ポモーヌ賞・ロワイヤルオーク賞を勝ってきたレディベリー、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSでは着外だったハードツービート、前年の凱旋門賞・ヴェルメイユ賞の勝ち馬サンサン、ハリーハリエット、ジャンドショードネイ賞・フォワ賞の勝ち馬でサンクルー大賞2着のダイレクトフライト、ヨークシャーオークス・パークヒルS・ジェフリーフリアなどの勝ち馬でコロネーションC2着のアッティカメリ、イスパーン賞・エクスビュリ賞2回・プランスドランジュ賞の勝ち馬ミスターシックトップなどが対戦相手となった。アレフランスが1番人気に支持される一方で、本馬は前走の敗戦が嫌われたのか、過去に負かしたことがあるテニソンやラインゴールドより低い4番人気止まりだった。そして結果はキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSにおいて本馬に圧倒されたはずのラインゴールドが優勝し、本馬はラインゴールドから19馬身差をつけられた16着と大惨敗。ラインゴールドから2馬身半差の2着と好走したアレフランスにはまたも先着できなかった。
しかしこの敗戦にもめげずに米国遠征を敢行した本馬は、ワシントンDC国際S(米GⅠ・T12F)に出走した。本馬がこのレースに出た理由は、現役時代終盤には芝のレースに出走していたこの年の米国三冠馬セクレタリアトを負かしたいとジルベール師が考えたためであるらしいが、肝心のセクレタリアトがこのレースに出ずに引退してしまったため、夢の対決は実現しなかった。その代わりに、メトロポリタンH・ガヴァナーS・ユナイテッドネーションズH・ジムダンディSなどの勝ち馬でトラヴァーズS・ジェロームH・エイモリーLハスケルH・マンノウォーS2着のテンタム、サンルイレイS・ベルモントレキシントンHの勝ち馬でチャールズHストラブS・サンフアンカピストラーノ招待H・加国際CSS2着のビッグスプルース、レナードリチャーズS・ベルモントレキシントンH・マンハッタンHなどの勝ち馬ロンドンカンパニーなどの米国芝路線の有力馬が出走してきた。欧州からも、英チャンピオンSでアレフランスを2着に破ってきたハリーハリエット、愛セントレジャーを勝ってきたコナーパス、エクリプスS・ゴードンS・アールオブセフトンS・ウェストベリーS・カンバーランドロッジSの勝ち馬で愛ダービー・ベンソン&ヘッジズ金杯2着のスコティッシュライフル、ドーヴィル大賞の勝ち馬で前走凱旋門賞4着のカードキング、オイロパ賞を勝ってきたアカーシオダギラールなどが参戦していた。
前々走のヴェルメイユ賞辺りから本馬の調子は下降線を辿っていたらしく、英国の競馬記者リチャード・バエリン氏は、ワシントンDC国際Sに出走する予定だった本馬の様子を見て「本来と比較すると10%の出来しかない」とまで言っているし、ジルベール師も「夏場の出来には程遠い」と、米国まで連れて来たのを後悔するような発言をしている。ところが蓋を開けてみると、後方待機策から外側を通って一気に位置取りを上げた本馬が、直線で鞭を使われることもなく、前を行くビッグスプルースやスコティッシュライフルなどを抜き去り、最後は2着ビッグスプルースに3馬身1/4差、3着スコティッシュライフルにさらに1馬身差をつけて優勝。1952年の同競走創設から22年目にして初の牝馬制覇となった。最後の2ハロンの走破タイムは23秒4という強烈なものであり、本馬の名声は米国内にも轟いたのだった。
3歳時の成績は10戦6勝で、この年の英年度代表馬・英最優秀3歳牝馬・愛最優秀3歳牝馬に選出されている。
競走生活(4歳前半)
半年の休養を経て、4歳時は4月のアルクール賞(仏GⅡ・T2000m)で復帰した。ここでは、サンダウンクラシックトライアルS・リングフィールドダービートライアルSの勝ち馬でオブザーヴァー金杯2着のクサール、前年の凱旋門賞で着外だったミスターシックトップなどに加えて、5度目の顔合わせとなるアレフランスとの対戦となった。しかし結果は勝ったアレフランスから6馬身半差をつけられて4着に敗退。続くガネー賞(仏GⅠ・T2100m)では、前年の凱旋門賞で10着だったテニソンなどに加えて、6度目の顔合わせとなるアレフランスとの対戦となった。しかし今回もアレフランスが勝ち、本馬はアレフランスから15馬身差も離された5着と大敗した。
英国に移動して出走したコロネーションC(英GⅠ・T12F)でも、グレートヴォルティジュールS・ヨークシャーCの勝ち馬で前年の英セントレジャー2着のブイ、ガネー賞で2着だったテニソンの2頭に届かず、ブイの4馬身半差3着に敗れた。
仏国に戻って出走したサンクルー大賞(仏GⅠ・T2500m)にはアレフランスが不在であり、本馬の鞍上はパイアーズ騎手から、アレフランスの主戦を務めていたイヴ・サンマルタン騎手に交代していた。対戦相手は手薄であり、前年の凱旋門賞で着外だったダイレクトフライトくらいしか目立つ対戦相手はいなかった。レースでは本馬が2着オンマイウェイを首差抑えて勝利した。
さらに再度英国に飛び、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ・T12F)に出走した。このレースからは、本馬の2歳時に主戦だったピゴット騎手が再び主戦を務めることになった。英1000ギニー・仏オークスの勝ち馬ハイクレア、前走の英ダービーを勝ってきたスノーナイト、コロネーションCの勝利後にハードウィックSで2着してプリンセスオブウェールズSを勝ってきたブイ、リュパン賞・ダリュー賞・グレフュール賞の勝ち馬で仏ダービー2着のダンカロなどが対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ2.875倍の1番人気に支持された。ジルベール師は本馬にとって有利なペースを作り出すために、クリテリウムデプーリッシュの勝ち馬で仏1000ギニー・サンタラリ賞2着・ロベールパパン賞3着のヒポダミアという有力馬をペースメーカーとして用意するという念の入れようだった。レースはジルベール師の目論見どおりとなった。スタートからかなり速いペースでヒポダミアが飛ばし、それを追いかけたスノーナイトやブイを潰す役割を果たした。そして対照的に馬群の中団後方を追走した本馬は、直線を5番手で向くと、残り1ハロン地点手前で楽々と抜け出した。最後は鞍上のピゴット騎手が左右や後方を見回す余裕を見せながら、2着ハイクレアに2馬身半差、3着ダンカロにはさらに1馬身差をつけて快勝。同競走史上初の連覇を達成した。
競走生活(4歳後半)
次走は創設3年目のベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ・T10F110Y)となった。ハイクレア、前走で6着に終わっていたスノーナイト、英ダービーと愛ダービーで連続2着してきたインペリアルプリンス、アルクール賞で本馬に先着する2着だった後にブリガディアジェラードSを勝ちエクリプスSで2着していたクサールなどを抑えて、単勝オッズ1.53倍の1番人気に支持された。このレースは一昨年にブリガディアジェラードが、前年にラインゴールドが共に圧倒的人気を背負いながら敗北を喫しており、1番人気馬にとって鬼門と言えるレースだった。しかし本馬にはそのようなジンクスは無関係だった。直線に入ってギアチェンジした本馬は、一気に先頭に踊り出ると、後は軽々と走って、2着インペリアルプリンスに2馬身半差、3着スノーナイトにはさらに1馬身半差をつけて勝利したのだった。
仏国に戻ってきた本馬は、凱旋門賞を目指してプランスドランジュ賞(仏GⅢ・T2000m)に出走。しかしここでは仕掛けが早すぎたために直線で伸びを欠き、前年の同競走とアルクール賞を勝っていたトゥジュールプレの半馬身差3着に敗れてしまった。
この結果により凱旋門賞は回避となり、代わりに再度大西洋を渡った。目的はマンノウォーS・加国際CSS・ワシントンDC国際Sの3競走制覇だった。しかしニューヨークのジョンFケネディ国際空港に降り立った本馬に対して、米国側は60マイル離れたニュージャージー州の施設で検疫を受けるように要求してきた。止むを得ず本馬はニュージャージー州に向かったが、ここにおける検疫は時代遅れと言えるほど無駄に厳しく長いものであり、ジルベール師は「悲惨なほどの混乱。恐怖の体験」と憤慨している。
この検疫で本馬の体重はかなり減少してしまったが、検疫終了の僅か2日後にはマンノウォーS(米GⅠ・T12F)に出走した。セネカH・ブライトンビーチHを続けて勝ってきたクラフティハーレ、前年のワシントンDC国際Sでは着外に終わるもこの年にパンアメリカンS・ブーゲンヴィリアH・ディキシーHを勝ちユナイテッドネーションズHで2着してきたロンドンカンパニーという、当時の米国でも指折りの芝の強豪馬2頭が対戦相手となり、体調が悪い本馬にとっては不利ではないかと言われた。このレースでは、かつてセクレタリアトの主戦だったロン・ターコット騎手とコンビを組んだ。前年の同競走ではセクレタリアトに逃げを打たせて勝利していたターコット騎手だったが、本馬に関してはさすがに後方待機策を選択した。そして四角で馬群の中に突っ込んで位置取りを上げると、直線入り口では既に先頭。そしてそのまま2着クラフティハーレに2馬身差、3着ロンドンカンパニーにはさらに頭差をつけて勝利した。1959年に創設されたマンノウォーSを欧州調教馬が勝ったのは16年目にして初めてのことだった。
2週間後の加国際CSS(加GⅡ・T13F)では、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSとベンソン&ヘッジズ金杯で本馬の前に成すすべもなく敗れたショック(?)で北米に移籍してこれが3戦目だったスノーナイト、前年のワシントンDC国際S2着後にギャラントフォックスH・ガヴァナーS・マールボロカップ招待Hを勝ちサンルイレイSで2着していたビッグスプルースなどが対戦相手となった。レースはスノーナイトが果敢に先頭を飛ばし、ピゴット騎手鞍上の本馬は先頭から最大で21馬身差をつけられるほど後方を走っていた。しかし、やはり後半になって爆発的な末脚を繰り出し、スノーナイトをかわして先頭に躍り出ると、追い上げてきた2着ビッグスプルースに1馬身差をつけて、2分40秒0のコースレコードで勝利した。加国際CSSを欧州調教馬が勝ったのも、1938年の同競走創設から37年目にして初のことだった。
さらに13日後のワシントンDC国際S(米GⅠ・T12F)では、エクリプスSの勝ち馬でジャックルマロワ賞3着のクードフー、愛セントレジャーを勝ってきたミスティグリ、独ダービー・バーデン大賞・独セントレジャーを勝ってきたマルドゥク、モーリスドニュイユ賞・エヴリ大賞・プリンスオブウェールズSの勝ち馬アドメトス、オカール賞・ドラール賞・コンデ賞の勝ち馬でイスパーン賞2着・前走凱旋門賞でアレフランスの3着だったマルグイヤ、ビッグスプルース、ミシガンマイル&ワンエイスH・マンハッタンH・ホーソーンダービー・クラークH・バーナードバルークH・ブライトンビーチHの勝ち馬でアメリカンダービー2着のゴールデンドン、ベルデイムS2回・モンマスオークス・デラウェアオークス・アラバマS・マッチメイカーSとGⅠ競走で6勝を挙げていたデザートヴィクスンの計8頭が対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ2.67倍の1番人気に支持された。ここでも本馬は後方待機策を採ったが、先頭を走るデザートヴィクスンが作り出したペースは、最初の6ハロン通過が1分17秒2という超スローであり、「まるでカタツムリのようだ」と評されたほどだった。直線入り口で先頭から6馬身差をつけられていた本馬は、最後の2ハロンを22秒8という豪脚で追い込んできたが、先に抜け出したアドメトスと逃げたデザートヴィクスンの2頭に届かず、勝ったアドメトスから1馬身半差の3着に敗退した。敗因はピゴット騎手の仕掛けが遅すぎたからだという論調が噴出したが、下手に早く仕掛けるとプランスドランジュ賞のように最後に失速してしまうのだから、ピゴット騎手の判断に誤りがあったとは言い難いだろう。
しかし4歳時は10戦5勝の成績を残し、2年連続の英年度代表馬だけでなく、エクリプス賞最優秀芝馬・英最優秀古馬牝馬にも選出された。
競走生活(5歳前半)
翌5歳時も現役を続行。まずはピゴット騎手を鞍上にガネー賞(仏GⅠ・T2100m)から始動した。ここではアレフランスと7度目の対戦となった。アレフランスは前年の同競走で本馬を破った後に、凱旋門賞・イスパーン賞・フォワ賞を勝利しており、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSを2連覇していた本馬と、文字通りの最強牝馬決定戦となるはずだった。しかし結果はまたしてもアレフランスが勝ち、前年のサンタラリ賞の勝ち馬で凱旋門賞・クリテリウムデプーリッシュ・仏オークス・ヴェルメイユ賞2着のコンテスドロワール、一昨年のワシントンDC国際Sで本馬に敗れた後にアルクール賞を勝っていたカードキングといった馬達にも先着された本馬は、アレフランスから8馬身半差をつけられて6着に敗退してしまった。
次走のジャンドショードネイ賞(仏GⅡ・T2400m)では、A・ルクー騎手とコンビを組んだ。このレースにアレフランスは不在だった。しかし、ドーヴィル大賞の勝ち馬アシュモア、エヴリ大賞・フォルス賞の勝ち馬アンコペックといった面々に完膚なきまでに叩きのめされ、勝ったアシュモアから11馬身差をつけられた9着と惨敗した。
その後は隣国伊国に移動して、6月のミラノ大賞(伊GⅠ・T2400m)に、N・ナヴァロ騎手とコンビを組んで出走。しかし独国のGⅡ競走バーデン経済大賞を勝ってきた独国調教馬スターアピール、後にローマ賞を2連覇するデュークオブマーマレード、伊ダービーと伊国のGⅡ競走エマヌエーレフィリベルト賞を勝ってきたオレンジベイといった面々に届かず、勝ったスターアピールから4馬身1/4差の6着に敗退した。
仏国に戻ってきて出走したサンクルー大賞(仏GⅠ・T2500m)では、ピゴット騎手とコンビを組んだ。しかしアンコペック、アシュモア、前年の同競走2着馬オンマイウェイなどに敗れて、勝ったアンコペックから6馬身3/4差をつけられた5着。
長らく勝利から遠ざかっていたが、それでも3連覇を狙ってキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ・T12F)に向かった。しかしこのレースの主役はピゴット騎手騎乗の本馬ではなく、英ダービー・愛ダービー・愛2000ギニー・デューハーストS・英シャンペンSの勝ち馬グランディと、英セントレジャー・コロネーションC・グレートヴォルティジュールS・サンダウンクラシックトライアルS・リングフィールドダービートライアルSの勝ち馬バスティノの2頭だった。本馬は後方待機策から直線で追い込んできたものの、“Race of the Century”として後世に語り継がれる壮絶な一騎打ちを演じたグランディとバスティノに遠く及ばず、勝ったグランディから5馬身半差の3着に敗れた。しかし近走で屈していたオンマイウェイ、カードキング、アシュモア、スターアピールなどには先着しており、健在ぶりを示すことは出来た。
競走生活(5歳後半)
次走のベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ・T10F110Y)ではグランディとの再戦となった。グランディが1番人気で、ピゴット騎手騎乗の本馬は単勝オッズ4.5倍の2番人気だった。しかしここでは直線で早めに先頭に立って押し切り、2着カードキングに1馬身半差、3着スターアピールにはさらに5馬身差、4着グランディにはさらに4馬身半をつけて、同競走初の連覇を成し遂げた。
その後は仏国に戻り、ドーヴィル大賞(仏GⅡ・T2500m)に出たが、7.5kgのハンデを与えた3歳牡馬エルエンソーサラーの首差2着に惜敗。本馬にピゴット騎手が騎乗したのは、このドーヴィル大賞が最後となった。次走のプランスドランジュ賞(仏GⅢ・T2000m)では、ミラノ大賞以来2度目のコンビとなるナヴァロ騎手を鞍上に迎えたが、ここでも3歳牡馬カスティールの3/4馬身差3着に敗れた。
それでも本馬は2度目の凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)に挑んだ。対戦相手は8度目の顔合わせとなるアレフランスを筆頭に、オブザーヴァー金杯・仏2000ギニー・リュパン賞の勝ち馬グリーンダンサー、仏1000ギニー・ヴェルメイユ賞の勝ち馬で翌年の凱旋門賞を制覇するイヴァンジカ、英セントレジャーを10馬身差で圧勝してきたブルーニ、サンタラリ賞の勝ち馬で仏1000ギニー・英ダービー・ヴェルメイユ賞2着のノビリアリー、この年のガネー賞で本馬に先着する3着だった前年の凱旋門賞2着馬コンテスドロワール、米国の名馬主オグデン・ミルズ・フィップス氏が送り込んできたハリウッドダービー・セクレタリアトSの勝ち馬イントレピッドヒーロー、ロワイヤルオーク賞を勝ってきたアンリルバラフル、アンコペック、オンマイウェイ、カードキング、デュークオブマーマレード、カスティール、スターアピールなどだった。連覇を目指すアレフランスが1番人気で、本馬はグリーンダンサーとイヴァンジカのカップリング、ブルーニに次ぐ4番人気だった。過去7回アレフランスと戦って1度も先着できなかった本馬にとっては何としても一矢を報いたいところだったが、レースは単勝オッズ120.7倍の最低人気馬スターアピールが直線一気の競馬で圧勝し、2着にも13番人気のオンマイウェイが入るという大波乱。アレフランスはスターアピールから8馬身半差の5着に敗れたが、本馬はさらにその後方の15着に大敗。これが本馬とアレフランスとの最後の対戦となり、結局本馬はアレフランスとは8回対戦して1度も先着できなかった。
凱旋門賞に惨敗した本馬は、三度米国遠征を決行した。そして加国際CSS(加GⅠ・T13F)に出走。この年に再び米国で開花してマンノウォーS・マンハッタンH・セネカHなど4連勝で臨んできたスノーナイト、凱旋門賞でスターアピールから5馬身半差の3着だったコンテスドロワール、前年の同競走3着馬カーニーズポイントなどを抑えて1番人気に支持された。ここでは、先頭から最大で11馬身差をつけられる後方からよく追い込んできたが、勝ったスノーナイトから2馬身差の4着に敗退した。
続くワシントンDC国際S(米GⅠ・T12F)では、スノーナイト、前走2着のコンテスドロワール、スターアピール、凱旋門賞で2着だったオンマイウェイ、同6着だったノビリアリー、イタリア大賞・伊セントレジャー・伊ジョッキークラブ大賞の勝ち馬ラオメドンテ、ニッカボッカーHを2連覇してきたシェイディキャラクター、日本から参戦してきた札幌記念・函館記念の勝ち馬ツキサムホマレなど8頭との対戦となった。ここでは、アレフランスの引退レースとなったナショナルサラブレットCS国際に出るために米国に来ていたサンマルタン騎手と2度目のコンビを組んだ。しかし結果は勝ったノビリアリーから27馬身差をつけられた8着と大惨敗し、ツキサムホマレ1頭にしか先着できなかった。5歳時は結局11戦して1勝を挙げるに留まったが、それでも英国における健闘が評価されて、2年連続の英最優秀古馬牝馬に選ばれた。
競走生活(6歳前半)
その後、本馬はジルベール厩舎からチャールズ・ウィッティンガム厩舎に転厩して、主戦場を米国に移すことになった。6歳時は1月から米国西海岸のレースに出走を続けた。初戦のサンタマリアH(米GⅡ・D8.5F)では、南米のチリから米国に移籍してきてサンタマルガリータ招待H2回・レディーズH・サンタモニカH・ラモナHなどを勝ち同競走で2年連続2着していたティズナに加えて、かつて本馬がロンシャン競馬場における初勝利を挙げた3歳時のグロット賞で2着に破っていたゲイスタイルと顔を合わせた。ゲイスタイルはグロット賞2着後にロワイヨモン賞・ノネット賞・アスタルテ賞を勝利してから5歳初めに米国に移籍して、前年の同競走やサンタバーバラHなどを勝利していた。結果はゲイスタイルが勝ち、ティズナが3着で、本馬はゲイスタイルから7馬身半差をつけられた4着に敗退してしまった。なお、余談だがゲイスタイルは宝塚記念勝ち馬エイシンデピュティの曾祖母となる。
次走のサンタアニタH(米GⅠ・D10F)では、チャールズHストラブS・イングルウッドH・マリブS・サンフェルナンドS・ロサンゼルスH・サンカルロスHなどを勝っていたエインシャントタイトル、ユナイテッドネーションズH・エイモリーLハスケルH・サンバーナーディノH・アーリントンH・ホーソーン金杯H・グレイラグHなどを勝っていたロイヤルグリントといった強力牡馬騙馬勢に全く歯が立たず、勝ったロイヤルグリントから13馬身差の9着と惨敗した。この2戦に関しては単にダートが合わなかっただけとも思われた。
しかし芝のサンルイレイS(米GⅠ・T12F)でも、前年のベルモントS・サンタアニタダービーを勝ちケンタッキーダービーで2着していたアヴァター、オークツリー招待H・カールトンFバークHの勝ち馬トップコマンドといった面々に歯が立たず、勝ったアヴァターから8馬身3/4差をつけられた7着最下位と惨敗した。4月のゲイムリーH(T9F)では、サンタバーバラHで2着してきたカトンカ(阪神三歳牝馬Sの勝ち馬スティンガーの祖母)、サンタマルガリータ招待Hを勝ってきたファッシネイティングガール、サンタアニタH11着後にサンタバーバラHで3着してきたティズナの3頭に後れを取り、勝ったカトンカから4馬身差の4着に敗退。次走のセンチュリーH(米GⅠ・T11F)では、ウインズオブソート、レイクサイドH・アメリカンH・ゴールデンゲートH2回の勝ち馬パスザグラスの2頭の牡馬に屈して、ウインズオブソートの1馬身差3着に敗れたが、トップコマンドやアヴァターに先着しており、少しずつ西海岸の環境に慣れてきたようだった。
競走生活(6歳後半)
同月に出走したハリウッドパーク競馬場芝9ハロンの一般競走では、米国の名手ウィリアム・シューメーカー騎手を鞍上に、2着となった前年の愛セントレジャー馬コーカサス(マルゼンスキーの叔父)に半馬身差をつけて久々の白星を挙げた。引き続きシューメーカー騎手が騎乗したハリウッド招待ターフH(米GⅠ・T12F)では、ウインズオブソート、パスザグラス、コーカサス、トップコマンド、アヴァター、欧州でガリニュールS・ブランドフォードSを勝ち愛ダービー・英セントレジャーで2着したのちに米国に移籍していたキングペリノア(ヌレイエフの叔父)などを抑えて1番人気に支持された。そして2着コーカサスに半馬身差をつけて優勝し、10個目のGⅠ競走タイトルを獲得した。ハリウッド招待ターフHを牝馬が勝ったのは、1972年のタイプキャスト以来4年ぶり史上2頭目であったが、同競走がチャールズウィッティンガム記念Hと改名された今日になっても、本馬以降に牝馬が勝利した例は40年近く無い。しかしこれが本馬の競走馬時代最後の輝きだった。
翌6月のハリウッド金杯(米GⅠ・D10F)では、前年のケンタッキーダービーを筆頭にサプリングS・ホープフルS・シャンペンS・フラミンゴS・ウッドメモリアルS・カウディンS・ドンHなどを勝っていたフーリッシュプレジャー(5着)、サンタアニタH2着後にカバレロH・カリフォルニアンSを連勝していたエインシャントタイトル(6着)には先着したが、カリフォルニアンS2着馬ペイトリビュート、前走10着のアヴァター、ベルエアHを勝ってきたリオインパリに先着されて、勝ったペイトリビュートから6馬身差の4着に敗退。7月のヴァニティH(米GⅠ・D9F)では、ティズナ(8着)には先着したが、前年のプリティポリーSを勝った後に米国に移籍してきて3連勝でウィルシャーHを勝っていたミストーシバ、南米のブラジルから米国に移籍してきてミレイディHを勝っていたバストネラなどに屈して、勝ったミストーシバから5馬身3/4差の5着に敗退。
サンセットH(米GⅠ・T12F)では、ハリウッド招待ターフH2着後にアメリカンHで3着していたコーカサス、ハリウッド招待ターフH4着後にアメリカンHを勝っていたキングペリノア、ハリウッド金杯3着後にアメリカンHで2着していたリオインパリなどに先着されて、勝ったコーカサスからの13馬身差をつけられた7着。2年ぶりの勝利を目指したマンノウォーS(米GⅠ・T12F)では、コーカサス(10着)には一応先着したが、勝った単勝オッズ25倍の伏兵エファヴェシングから3馬身差の8着。オークツリー招待S(米GⅠ・T12F)では、サンセットH2着後にカールトンFバークHを勝ってきたキングペリノアに27馬身差をつけられて7着。ラスパルマスH(米GⅢ・T9F)では、ラモナHを勝ってきたヴァガボンダの3馬身半差7着に敗れて6連敗を喫し、6歳時13戦2勝の成績で、遂にこの年限りで競走馬を引退した。
競走馬としての評価と特徴
獲得賞金総額は49万7741ポンド、米国ドル換算では148万9105ドルであり、アレフランスに次いで世界競馬史上2頭目の100万ドル牝馬となっている。本馬は黒星もかなり多いが、勝つときは牝馬とは思えない強さを発揮した。
世界5か国に渡りGⅠ競走計10勝を挙げた非常に頑健な馬でもあった(4歳時に勝った加国際CSSをGⅠ競走として、GⅠ競走11勝とする資料もあるが、加国際CSSが国際GⅠ競走となったのは本馬が5歳時の1975年からというのが正しいようである)。しかも3度も欧州から米国に遠征を決行し、その3度ともGⅠ競走で勝利している。本馬が競走馬時代に移動した距離は実に2万6千マイル(約4万1800km)に達し、地球を赤道沿いに一周する距離より少し長かった。欧州調教馬が米国に渡る事例は当時も特に珍しくはなかったが、その多くはワシントンDC国際Sに出走してとんぼ返りするか、米国に移籍してそのままというのが一般的であり、本馬のように、何度も大西洋を渡り、さらにワシントンDC国際S以外のレースにも出走を繰り返し、最後は米国に移籍したという例は、おそらく他に例がないだろう。なお、本馬が3歳時にワシントンDC国際Sを勝った後、同競走は仏国調教馬の草刈り場と化し、その後の10年間で7回も仏国調教馬が制覇している。
なお、本馬のロンシャン競馬場における成績は14戦3勝2着1回3着3回(勝率21%、入着率50%)であり、それ以外の競馬場における最終成績34戦12勝2着2回3着4回(勝率35%、入着率53%)と比べると確かに見劣りする。明らかに競走馬としてのピークを過ぎていたと思われる6歳時を除いて2~5歳時までにおける成績を比べるとさらに顕著で、ロンシャン競馬場以外の競馬場における成績は21戦10勝2着2回3着3回(勝率48%、入着率71%)であり、ロンシャン競馬場における成績は前述のものと変わらないから、数字的には本馬はロンシャン競馬場を苦手としていたと判断せざるを得ない。
本馬とアレフランスの直接対決8戦中7戦がロンシャン競馬場におけるもの(他の1戦はシャンティ競馬場で行われた仏オークスで、2頭の着順及び着差が最も小さかったのはこのレース)であり、アレフランスが“La reine de Longchamp(ロンシャンの女王)”の異名をとったことを鑑みれば、アレフランスとの対戦成績が8戦全敗となった理由は、本馬がアレフランスより弱かったというよりも、ロンシャン競馬場における適性の差が出たというほうが妥当かもしれない。
しかし本馬がロンシャン競馬場を不得手とした理由はよく分からない。強烈な差し脚を武器とする本馬にとって、直線が長いロンシャン競馬場はむしろ能力を発揮できる舞台のような気もするのだが。本馬は急なカーブを苦も無く回れる起用さを有しており(小回りである米国の競馬場や、コーナーがきつい英国の競馬場では好成績を残している)、逆にコーナーが緩い仏国の競馬場は駄目だったのだという説が言われているようである。
いずれにしてもアレフランスと本馬は共に20世紀を代表する名牝中の名牝であり、よく比較対象にされる。いすれが強かったかについては今日でも議論の的であり、直接対決で全勝しているアレフランスが上だとする意見と、仏国外では実績を残せなかったアレフランスよりも世界中を股にかけて活躍した本馬のほうが上だとする意見に二分されている。1981年には米国競馬の殿堂入りも果たしている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第50位。
血統
Vaguely Noble | ヴィエナ | Aureole | Hyperion | Gainsborough |
Selene | ||||
Angelola | Donatello | |||
Feola | ||||
Turkish Blood | Turkhan | Bahram | ||
Theresina | ||||
Rusk | Manna | |||
Baby Polly | ||||
Noble Lassie | Nearco | Pharos | Phalaris | |
Scapa Flow | ||||
Nogara | Havresac | |||
Catnip | ||||
Belle Sauvage | Big Game | Bahram | ||
Myrobella | ||||
Tropical Sun | Hyperion | |||
Brulette | ||||
Charming Alibi | Honeys Alibi | Alibhai | Hyperion | Gainsborough |
Selene | ||||
Teresina | Tracery | |||
Blue Tit | ||||
Honeymoon | Beau Pere | Son-in-Law | ||
Cinna | ||||
Panoramic | Chance Shot | |||
Dustwhirl | ||||
Adorada | Hierocles | Abjer | Asterus | |
Zariba | ||||
Loika | Gay Crusader | |||
Coeur a Coeur | ||||
Gilded Wave | Gallant Fox | Sir Gallahad | ||
Marguerite | ||||
Ondulation | Sweeper | |||
Frizette |
父ヴェイグリーノーブルは当馬の項を参照。
母チャーミングアリバイは現役時代にロッティウルフメムS・ミレットH・オールドハットH・ドミニオンデイS勝ちなど71戦16勝という成績を残した馬で、本馬の頑健さは母譲りであると思われる。本馬以外の子にはあまり活躍馬はおらず、本馬の7歳年下の全弟キャプテンジェネラルがサンマリノHを勝ち、ローリンググリーンH(米GⅢ)で2着、サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)で4着した程度である。本馬の5歳年下の半弟カナディアンバウンドは、セクレタリアトの初年度産駒ということもあって、150万ドルという超高額で取引され、史上初めて100万ドル以上の値がついた1歳馬となったが、4戦未勝利に終わっている。本馬の8歳年下の半妹ゴールデンアリバイ(父エンペリー)も110万ドルという高額で取引されながらも不出走に終わったが、その曾孫にはリンダズラッド【クリテリウムドサンクルー(仏GⅠ)】、レイルリンク【凱旋門賞(仏GⅠ)・パリ大賞(仏GⅠ)】がいる。チャーミングアリバイの曾祖母オンデュレーションは20世紀初頭仏国の根幹繁殖牝馬フリゼットの10番子で、同じ牝系からはここには挙げ切れないほど多数の活躍馬が出ている。→牝系:F13号族②
母父ハニーズアリバイは、ハイペリオンの後継種牡馬の1頭として米国で大活躍した不出走馬アリバイの息子。やはり頑健な馬であり、シカゴアンH・マリブシーケットS・サンディエゴH・サンタカタリナH勝ちなど50戦8勝の成績を挙げた。種牡馬としては好成績を残せなかったが、本馬の活躍により、1973年の英愛母父首位種牡馬になっている。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ハント氏が所有していた米国ケンタッキー州ブルーグラスファームで繁殖入りした。日本では、現役時代に走りすぎた牝馬は繁殖入りして活躍できないという俗説が存在していた(今もあるのだろうか?)が、この当時の欧米競馬界においても同様の説が存在しており、本馬の繁殖能力については疑問符がつけられていたという。しかし仮にその説が事実なのだとしても、本馬のような常識はずれの馬には当てはまらなかったようである。本馬は繁殖牝馬としても、競走馬時代の名声にさらに拍車をかける好成績を残したのだった。当初から繁殖として大活躍したわけではないが、最終的にはGⅠ競走勝ち馬4頭の母となった。本馬とアレフランスの競走馬としての評価はいずれが上なのか判定し難いが、繁殖牝馬としての評価に関しては議論の余地は殆どないだろう。以下に、本馬が産んだ子の名前、父名、競走成績等を列挙してみる。
8歳時には初子の牡駒バルコネス(父ボールドフォーブス)を産んだ。バルコネスは1歳時のキーンランドセールにおいて70万ドルの値がついたが、競走馬としては12戦1勝に終わった。しかし血統が評価されて後にチリで種牡馬入りしている。
9歳時には2番子の牡駒ディカードレム(父ワットアプレジャー)を産んだ。1歳時のキーンランドセールにおいて89万5千ドルの値がついたディカードレムは現役成績44戦6勝。ステークス競走は勝てなかったが、サンセットH(米GⅠ)で3着している。ディカードレムは後に日本に種牡馬として輸入され、ダイヤモンドSを勝ったセンゴクシルバーなどを出した。
10歳時には3番子の牡駒ジェイオーダリア(父ジェイオートービン)を産んだ。ジェイオーダリアは7戦未勝利に終わったが、やはり血統が評価されて新国で種牡馬入りしている。
11歳時には4番子の牡駒ダハール(父リファール)を産んだ。ダハールは母と同じく欧米を股にかけて走り、リュパン賞(仏GⅠ)・センチュリーH(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)・サンガブリエルH(米GⅢ)・サンマルコスH(米GⅢ)勝ちなど29戦7勝を挙げた。特に日本から遠征してきた皇帝シンボリルドルフを破ったサンルイレイSは有名である(詳細は当馬の項を参照)。
12歳時には5番子の牡駒リヴリア(父リヴァーマン)を産んだ。リヴリアは欧州ではエスペランス賞(仏GⅢ)を勝った程度だったが、米国に移籍してハリウッドパーク招待ターフH(米GⅠ)・カールトンFバークH(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)・ゴールデンゲートH(米GⅢ)に勝利し、通算41戦9勝の成績を残した。後に種牡馬として日本に輸入されて、皐月賞馬ナリタタイシンなどを出している(詳細は当馬の項を参照)。
13歳時には6番子で初の牝駒となるベゴニア(父プラグドニックル)を産んだ。しかしベゴニアは競走馬としては3戦未勝利に終わった。ベゴニアは後に繁殖牝馬として日本に輸入され、フサイチシンイチやオースミジャイアンなど勝ち上がり馬を複数出した。
14歳時には7番子の牡駒デレガント(父グレイドーン)を産んだ。デレガントはサンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)勝ちなど36戦7勝の成績を残し、後に米国や西国で種牡馬入りしている。
15歳時には8番子の牝駒ダリアズイメージ(父リファール)を産んだ。ダリアズイメージは17戦未勝利に終わったが、孫にライトオブパッセージ【アスコット金杯(英GⅠ)・英チャンピオンズ長距離C(英GⅢ)】がいる。
17歳時には9番子の牝駒ワジド(父ノーザンダンサー)を産んだ。ワジドはエヴリ大賞(仏GⅡ)・ミネルヴ賞(仏GⅢ)勝ちなど13戦4勝の成績を挙げた。ワジドの引退レースは1991年のジャパンCであり、ここではゴールデンフェザントの6着とまずまずの走りを見せている。ワジドは本馬の後継繁殖牝馬としてもっとも活躍した馬で、子にウォールストリート【カンバーランドロッジS(英GⅢ)】、ネダウィ【英セントレジャー(英GⅠ)・ゴードンS(英GⅢ)】、フィットフルスキーズ【ジャーマントート大賞(独GⅢ)】が、曾孫にミッションクリティカル【新国際S(新GⅠ)】がいる。
こうして本馬が毎年のように子を産んでいる最中の1988年に、その数年前に銀の世界市場の買い占めに失敗していたハント氏の破産申請が認められた。そして彼が所有していた馬達は全て競売にかけられ、本馬は米国の名馬主アレン・E・ポールソン氏の手に渡り、ケンタッキー州ダイヤモンドエーファームで繁殖生活を続けた。既に18歳と繁殖牝馬としての先はそれほど長くないはずだった本馬だが、それでも取引価格は110万ドルに達したという事実が、本馬の評価がいかに高かったかを示している。
19歳時には10番子の牝駒ダリアズドリーマー(父シアトリカル)を産んだ。ダリアズドリーマーはフラワーボウル招待H(米GⅠ)勝ちなど22戦5勝の成績を残した。ダリアズドリーマーの息子レイシードリーマーは障害競走で活躍し、ナショナルハントCハードルSなどを勝っている。
20歳時には11番子の牡駒ラランダフ(父リファール)を産んだ。ラランダフはジャージーダービー(米GⅡ)・レキシントンS(米GⅢ)勝ちなど16戦5勝の成績を残した。種牡馬としてはスイスやポーランドで供用されており、特にスイスではトップクラスの種牡馬として活躍した。
24歳時には12番子の牝駒ミスダリア(父ストロベリーロード)を産んだ。ミスダリアは不出走に終わったが、母としてキャピタルプラン【サンタバーバラH(米GⅡ)・ビヴァリーヒルズH(米GⅢ)】を産んでいる。
26歳時には13番子の牝駒タニ(父シアトリカル)を産んだ。本馬が26歳という高齢で出産したという報は世界中を駆け巡り、多くの競馬関係者達を「現役時代にあれほど牡馬勢を薙ぎ倒しながら、まだそれだけの体力が残っていたのか」と瞠目させた。そしてタニ(結局は不出走に終わっている)を産んだのを最後に繁殖牝馬も引退し、以降はダイヤモンドエーファームで余生を送った。そして2001年4月にダイヤモンドエーファームにおいて他界。享年31歳という大往生だった。繁殖牝馬としても大きな成功を収めた本馬だが、その子孫の血の広がり具合は今ひとつであり、名牝系を構築するところまでは至っていない。もっともそんなことを言うのは贅沢すぎるというものだろうが。