ファーディナンド

和名:ファーディナンド

英名:Ferdinand

1983年生

栗毛

父:ニジンスキー

母:バンジャルカ

母父:ダブルジェイ

ケンタッキーダービー・BCクラシックを制してエクリプス賞年度代表馬に選ばれた名馬だが日本で屠殺されたために米国内で大問題となる

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績29戦8勝2着9回3着6回

本項の主人公であるファーディナンドが日本で屠殺された事件(本当は「状況からして屠殺されたことはほぼ間違いない」というのが正確だが、この名馬列伝集では「屠殺された」と表現する)は日本国内でもそれなりに大きく扱われた。

しかし米国における扱いは我々日本人が想像する以上に大きく、米国連邦政府議会にも影響を与えたほどだった。本件は世界競馬界に占める日本競馬の位置づけに史上最も悪影響を与えた事件である(ディープインパクトの凱旋門賞失格などは本件の比ではない。薬物検査に引っ掛かって失格というのは日本では珍しいが海外では特に珍しくないからである)。特に米国の競馬関係者達からの日本競馬に対する信用性は本件により大きく損なわれた。筆者自身は、米国における本件の扱われ方に必ずしも共感しておらず、むしろ腹立たしく思っているくらいなのだが、今後の日本競馬が世界から取り残されないためには、本件を真摯に受け止める必要があるとは感じている。

そもそも、本件がこれほど大問題になったのは、本馬がそれだけの名馬だったためであり、本馬が並の一流馬であればそこまで大事にはならなかったであろう。そこで、まずは本馬がどんな馬だったのかを紹介した上で、事件の経緯と米国の反応を掲載し、筆者なりの見解等も記載して、読者諸君の考察の材料にしていただきたいと思う。

誕生からデビュー前まで

本馬は、米国の事業家ハワード・ブライトン・ケック氏により米国ケンタッキー州において生産された。ケック氏は、米国最大級の石油会社スペリアー・オイル・カンパニー(現在は世界最大の民間石油会社エクソンモービル社の一部)の創業者ウィリアム・マイロン・ケック氏の息子であり、1963年に父が死去すると後を継いで事業を拡大して成功した人物だった。父と同じく慈善事業に励む一方で、スポーツ活動にも熱心であり、所有するチームが世界有数のモータースポーツイベントであるインディアナポリス500マイルレースで2度優勝したこともある。本馬はケック氏の妻エリザベス・A・ケック夫人の名義で競走馬となり、米国カリフォルニア州の名伯楽チャールズ・ウィッテンガム調教師に預けられた。

競走生活(3歳初期まで)

2歳9月にデルマー競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦で、主戦となるウィリアム・シューメーカー騎手を鞍上にデビューしたが、勝った後のマリブS3着馬ドンビーブルーから11馬身差をつけられた8着と惨敗。サンタアニタパーク競馬場に場所を移して翌月に出走したダート6ハロンの未勝利戦でも、勝った後のハリウッドプレビューSの勝ち馬ジャッジスメルズから11馬身差をつけられた3着に終わった。同月に出走したサンタアニタパーク競馬場ダート8ハロンの未勝利戦は、アクスライカルーラーの鼻差2着。11月に出走した同コースの4戦目の未勝利戦を2着スターリボーに2馬身1/4差で制して、ようやく初勝利を挙げた。

その後は、ハリウッドフューチュリティ(GⅠ・D8F)に果敢に挑戦。ここでは、スピナウェイS・アーリントンワシントンラッシーS・フリゼットSを勝ちBCジュヴェナイルフィリーズ・メイトロンS・デモワゼルSでも2着してこの年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬に選ばれるファミリースタイルに加えて、ノーフォークSの勝ち馬でデルマーフューチュリティ3着のスノーチーフとの対戦となった。後に好敵手同士となる本馬とスノーチーフの初顔合わせは、スノーチーフが2着エレクトリックブルーに6馬身半差をつけて勝利を収め、本馬はさらに鼻差の3着だった(ファミリースタイルは6着だった)。2歳時の成績は5戦1勝で、GⅠ競走2勝を含む9戦5勝のスノーチーフとはかなり大きな差が付いていた。

3歳時も休み無く1月から走った。まずはサンタアニタパーク競馬場でロスフェリスS(D8F)に出走して、バッジャーランドの鼻差2着と好走。次走のサンタカタリナS(D8F)では、前走カリフォルニアブリーダーズチャンピオンSでスノーチーフの2着だったヴァラエティーロードとの対戦となり、本馬が2着ヴァラエティーロードに半馬身差で勝利した。しかし翌2月のサンラファエルS(GⅡ・D8F)では、逆にヴァラエティーロードから半馬身差の2着に敗れた。

次走のサンタアニタダービー(GⅠ・D9F)では、サンラファエルS勝利後にサンフェリペHを勝っていたヴァラエティーロードに加えて、カリフォルニアブリーダーズチャンピオンS・エルカミノリアルダービー・フロリダダービーと3歳時3戦全勝と好調のスノーチーフとの2度目の顔合わせとなった。結果はスノーチーフが2着となったブラッドベリーSの勝ち馬アイシーグルームに6馬身差をつけて鮮やかに逃げ切り、本馬はアイシーグルームから1馬身差の3着に敗れた。

ケンタッキーダービー

それでも本馬は東上してケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)に挑戦した。対戦相手は、スノーチーフ、ロスフェリスS勝利後に出走したエルカミノリアルダービーとフロリダダービーで共にスノーチーフの2着だったがその後にエヴァーグレーズS・フラミンゴSを連勝してきたバッジャーランド、シャンペンSを9馬身3/4差で圧勝した他にゴーサムSを勝ちウッドメモリアル招待Sで2着・カウディンS・ヤングアメリカS・フロリダダービーで3着していたモガンボ、アーカンソーダービーを勝ってきたランペイジ、欧州でソラリオSを勝ち仏グランクリテリウム2着・サラマンドル賞3着などの成績を残した後に渡米してブルーグラスSで3着してきたボールドアレンジメント、カリフォルニアダービーを勝ってきたヴァーノンキャッスル、ウッドメモリアル招待S・ジムビームS・フェデリコテシオSなど4連勝中のブロードブラッシュ、アーカンソーダービー2着馬ウィートリーホール、ベルモントフューチュリティS・シャンペンS・ベイショアS・ゴーサムS2着のグルーヴィ、ブルーグラスSを勝ってきたケンタッキージョッキークラブS2着馬バチェラーボウ、ガーデンステートSを勝ってきたフォビーフォーブス、アイシーグルーム、レキシントンSを勝ってきたワイズタイムズ、ベイショアSの勝ち馬でガーデンステートS2着のザバレタ、ローレルフューチュリティの勝ち馬サザンアピールの合計15頭だった。スノーチーフが単勝オッズ3倍の1番人気、バッジャーランドが単勝オッズ3.5倍の2番人気となり、本馬は単勝オッズ18倍で9番人気の低評価だった。

スタートが切られると、グルーヴィが翌年のエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるほどの快速を活かして先頭に立ち、外枠発走のスノーチーフは4番手、バッジャーランドは馬群の中団につけた。最内1番枠から発走した本馬鞍上のシューメーカー騎手は人気薄の気楽さか、すぐに最後方に下げて内側の経済コースを走るハイリスクハイリターンの作戦に出た。グルーヴィが作り出すペースは最初の2ハロン通過が22秒2、半マイル通過は45秒2とかなり速く、どちらかと言えば後方の馬が有利な展開となった。三角に入ると失速したグルーヴィをかわしてスノーチーフが先頭に立とうとしたが、既にこの時点でスノーチーフの手応えは良くなく、後続馬が一斉に押し寄せてきた。まずは四角で外側からブロードブラッシュ、ボールドアレンジメント、バッジャーランドの3頭がやってきて、スノーチーフをかわして直線へと突入していった。そしてこの3頭の直後からやってきたのが三角で巧みに外側に持ち出していた本馬であった。直線に入るとすぐに本馬はインコースに進路を取り、前を行く3頭を追撃。残り1ハロン地点ではこの4頭が横一線となった。しかし最後方で脚を溜めていた本馬の末脚が最も優れており、ここから一気に他3頭を引き離すと、2着ボールドアレンジメントに2馬身1/4差、3着ブロードブラッシュにはさらに3/4馬身差をつけて見事に優勝。外枠発走とハイペースが災いしたスノーチーフは、本馬から19馬身差の11着と惨敗した。見事な手綱捌きで勝利を収めたシューメーカー騎手にとっては、これが4度目にして最後のケンタッキーダービー制覇となった。

競走生活(3歳後半)

次走のプリークネスS(GⅠ・D9.5F)では前走の16頭立てから一気に出走頭数が減り、本馬、スノーチーフ、ブロードブラッシュ、前走5着のバッジャーランド、同16着最下位のグルーヴィ、ウィザーズSを勝ってきたクリアチョイス、ウォルデンSの勝ち馬でジムビームS・ウッドローンS2着・ローレルフューチュリティ3着のミラクルウッドの7頭立てとなった。クリアチョイスとバッジャーランドがカップリングで1番人気に支持され、スノーチーフは前走の大敗が響いて2番人気、本馬が3番人気、ブロードブラッシュが4番人気だった。

スタートが切られるとグルーヴィが先頭に立ち、スノーチーフが2番手、3番手にブロードブラッシュやクリアチョイスがつけ、本馬は後方2番手につけた。向こう正面辺りからグルーヴィとスノーチーフの2頭が後続をどんどん引き離して、5馬身ほどの差を3番手以下につけた。三角に入ったところでスノーチーフがグルーヴィに並びかけていき、本馬も後方から内側を通って進出を開始した。そして四角で先頭に立ったスノーチーフを、直線入り口で3番手まで押し上げてきた本馬が追撃する展開となった。しかし前走と異なりスノーチーフのスピードは一向に衰える気配が無く、そのまま押し切って完勝。スノーチーフとの差を縮められなかった本馬は4馬身差をつけられて2着に敗れた(3着ブロードブラッシュは本馬からさらに6馬身半後方だった)。

次走のベルモントS(GⅠ・D12F)では、既に米国三冠馬の資格が無いスノーチーフは距離不安もあって回避してしまい、ケンタッキーダービー4着後にプリークネスSを回避してベルモントSに絞ってきたランペイジ、ケンタッキーダービー10着後にジャージーダービーで2着してきたモガンボ、4戦2勝と底を見せていないジョンズトレジャー、ピーターパンSを勝ってきたダンチヒコネクション、3連勝中のパーソナルフラッグ(名牝パーソナルエンスンの全兄)、カリフォルニアダービー2着馬インペリアススピリットなどが対戦相手となった。ランペイジが単勝オッズ3.5倍の1番人気、モガンボが単勝オッズ5倍の2番人気、本馬とジョンズトレジャーが並んで単勝オッズ5.5倍の3番人気となった。

雨が降りしきり、馬場状態が非常に悪化する中でスタートが切られると、まずはモガンボが先頭に立ち、ダンチヒコネクションが2番手、本馬は馬群の中団5番手、ランペイジはその後方につけた。レースはそのままスローペースで推移し、三角でダンチヒコネクションが仕掛けて先頭に立った。すると本馬も加速してモガンボを追い抜いて2番手に上がってきた。さらに外側からジョンズトレジャーもやってきて、この3頭が四角で横一線となったが、3頭の中で一番内側を走っていたダンチヒコネクションがコーナーを利して単独先頭に立った。そこへ最内を突いてパーソナルフラッグも上がってきて、直線では逃げるダンチヒコネクションを、本馬とパーソナルフラッグが必死に追う展開となった。しかし本馬とパーソナルフラッグが先に力尽き、ダンチヒコネクションがそのまま押し切って勝利。本馬はゴール前でジョンズトレジャーに差されてしまい、ダンチヒコネクションから1馬身1/4差の3着に敗れた。

その後本馬は長期休養に入り、復帰戦は12月末のマリブS(GⅡ・D7F)となった。このレースにはやはり長期休養明けのスノーチーフも出走してきて、2頭の直接対決第5ラウンドとなった。結果は本馬が2着スノーチーフに1馬身1/4差をつけて勝利した。この年の本馬とスノーチーフの対戦成績は2勝2敗の五分だったが、この年に8戦3勝(うちGⅠ競走1勝)の本馬と、この年に9戦6勝(うちGⅠ競走3勝)のスノーチーフを比較すると、後者のほうが実績上位であり、エクリプス賞最優秀3歳牡馬の座はスノーチーフのものとなった。

競走生活(4歳前半)

翌4歳時は1月のサンフェルナンドS(GⅠ・D9F)から始動した。ここにもスノーチーフが出走してきた。しかし結果は共倒れとなり、前走マリブSで7着に終わっていたヴァラエティーロードが、プリークネスS3着後にメドウランズCH・オハイオダービー・ペンシルヴァニアダービーを勝っていたブロードブラッシュを首差の2着に抑えて勝利を収め、スノーチーフはさらに2馬身3/4差の3着、本馬はさらに3馬身半差の4着に敗れた。

次走のチャールズHストラブS(GⅠ・D10F)にも、スノーチーフ、ヴァラエティーロード、ブロードブラッシュが出走してきて、本馬を含めた西海岸4強対戦とでも言えるレースとなった(実際にはブロードブラッシュの本拠地は東海岸なので、西海岸3強+1と言うべきか)。ここではスノーチーフが勝利を収め、本馬が鼻差の2着、スノーチーフがさらに4馬身半差の3着、ヴァラエティーロードはさらに7馬身差の4着という結果だった。

次走のサンタアニタH(GⅠ・D10F)ではヴァラエティーロードが不在となり、124ポンドの本馬、125ポンドのスノーチーフ、122ポンドのブロードブラッシュの3強対決となった。今度はブロードブラッシュが勝利を収め、本馬はまたも鼻差の2着。3着にはクラークH・ネイティヴダイヴァーHの勝ち馬で前走サンアントニオH2着のホープフルワード、4着にはチャールズHストラブS・アリバイH・サンガブリエルHの勝ち馬でサンフェルナンドH2着・サンフェリペH・サンタアニタダービー・サンアントニオH3着のノスタルジアズスターが入り、スノーチーフはブロードブラッシュから7馬身差の5着と完敗を喫した。

本馬の次走は芝競走のサンルイレイS(GⅠ・T12F)となった。スノーチーフもブロードブラッシュも姿は無く、対戦相手的には恵まれているはずだったのだが、そんなに甘くは無かった。結果は、ハリウッドターフカップS・サンセットH・サイテーションH・イングルウッドH・サンマルコスHを勝っていた芝の強豪ゾファニーが、カールトンFバークH・サンルイオビスポH・フォルス賞の勝ち馬ルイルグラン、エヴリ大賞・コンデ賞の勝ち馬でハイアリアターフカップH2着・ボーリンググリーンH3着のロングミックとの首差・首差の激戦を制して勝ち、前3頭の争いに加われなかった本馬は、ゾファニーから2馬身差の4着だった。

次走のジョンヘンリーH(GⅠ・T9F)では、前走の上位3頭が全て不在だったのだが、アメリカンH・エディリードH・イングルウッドH・サイテーションHを勝ちBCマイル・サンアントニオH2着・メドウランズCH3着のアルマムーン、後にアメリカンHを勝ってGⅠ競走の勝ち馬となるスキップアウトフロントの2頭(いずれもサンルイレイSには不参戦だった)に屈して、勝ったアルマムーンから2馬身1/4差の3着に敗退。これで芝路線は断念となった。

その後は6月のカリフォルニアンS(GⅠ・D9F)に向かい、サンタアニタH5着後にガルフストリームパークHで3着してオークローンHを勝ってきたスノーチーフと9度目の対戦となった。しかしここでは、2か月前のサンバーナーディノHを勝っていた上がり馬ジャッジアンジェルーチが、2着となったサンバーナーディノH2着馬アイアンアイズに1馬身差で勝利を収め、スノーチーフはアイアンアイズから鼻差の3着、本馬はスノーチーフから2馬身1/4差の4着に終わった。なお、スノーチーフはこの後に故障を起こしてそのまま引退しており、2頭の対戦成績は本馬の3勝6敗となった。

競走生活(4歳後半)

まさか好敵手の引退に奮起したわけではないだろうが、次走のハリウッド金杯(GⅠ・D10F)で本馬はようやく連敗街道に終止符を打つ。BCジュヴェナイル・デルマーフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティを勝って一昨年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬に選ばれていたタッソー(前走のカリフォルニアンSでは5着だった)とジャッジアンジェルーチが激しく争って2着同着となる1馬身1/4差前方でゴールして優勝した。

2か月の間隔を空けて8月にデルマー競馬場で出走したカブリロH(D9F)では、前年のカリフォルニアンS2着後にベルエアH・ハリウッド金杯・グッドウッドH・サンディエゴHなど年を跨いで5連勝中だったスーパーダイヤモンド、カリフォルニアンSでは7着に終わるも前走サンディエゴHで2着してきたノスタルジアズスターという強敵2頭との対戦となったが、本馬が2着スーパーダイヤモンドに2馬身差で勝利した。

さらに2か月の間隔を空けて11月にサンタアニタパーク競馬場で出走したグッドウッドH(GⅢ・D9F)では、前年のBCクラシックを筆頭にサンタアニタダービー・マーヴィンルロイH・ロングエーカーズマイルH・サンディエゴHを勝ちサンフェリペH2着・カリフォルニアンS3着の実績もあったスカイウォーカーという強敵が立ち向かってきた。しかし127ポンドのトップハンデを課せられていた本馬が、2着となったシルヴァースクリーンHの勝ち馬でスワップスS・スーパーダービー2着の3歳馬キャンディズゴールド(斤量117ポンド)を1馬身差の2着に抑えて勝利を収め、斤量123ポンドのスカイウォーカーはさらに3/4馬身差の3着だった。

そしてそれから2週間後に本馬はハリウッドパーク競馬場で行われたBCクラシック(GⅠ・D10F)に参戦した。対戦相手は、この年のケンタッキーダービー・プリークネスS・スーパーダービーを勝ちハリウッドフューチュリティ・サンフェリペS・ハスケル招待H2着・BCジュヴェナイル・ブルーグラスS3着の実績もあった現役米国3歳最強馬アリシーバ、ジェロームH・ペンシルヴァニアダービーを勝ちクイーンズプレート・メドウランズCH2着の加国調教馬アフリート、デルマーBCS・フェイエットSを連勝してきたグッドコマンド、ハリウッド金杯2着後にベルエアH・ロングエーカーズマイルH・ベイメドウズBCHの勝利を上乗せしていたジャッジアンジェルーチ、フロリダダービー・ペガサスH・エヴァーグレーズSの勝ち馬でベルモントS・フラミンゴS・トラヴァーズS2着・プリークネスS・メドウランズCH3着のクリプトクリアランス、ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・ウッドメモリアル招待S・メトロポリタンH・サラトガスペシャルS・ベイショアS・トレモントSの勝ち馬でノーフォークS・ホイットニーH・ウッドワードS2着・ベルモントS3着のガルチ、カブリロH3着後にマールボロカップ招待Hで2着して前走ホーソーン金杯Hを勝ってきた前年4着馬ノスタルジアズスター、ケンタッキーダービー2着後にいったん欧州に帰っていたボールドアレンジメント、スカイウォーカー、キャンディズゴールドなどだった。本馬が単勝オッズ2倍の1番人気に支持され、アリシーバが単勝オッズ4.6倍の2番人気、スカイウォーカーが単勝オッズ9.3倍の3番人気、アフリートが単勝オッズ10.6倍の4番人気、グッドコマンドが単勝オッズ17.8倍の5番人気であり、本馬とアリシーバのケンタッキーダービー馬同士の対決と目されていた。

スタートが切られると、先頭を伺った単勝オッズ28.4倍の9番人気馬キャンディズゴールドを、単勝オッズ17.9倍の6番人気馬ジャッジアンジェルーチがかわして先頭を奪い、本馬は馬群のちょうど中間7番手、アリシーバはさらにその後方8番手につけた。三角に入る手前で本馬が一気に先行馬群との差を縮めにかかり、続いてアリシーバも本馬を追うように外側から上がってきた。そしてジャッジアンジェルーチとキャンディズゴールドの2頭を先頭に、本馬が4番手、アリシーバが6番手で直線を向いた。競り合いながら走るジャッジアンジェルーチとキャンディズゴールドに外側から並びかけた本馬が叩き合いに加わった。そして内側の2頭を競り落としたところに、後方から今度はアリシーバが襲い掛かってきた。最後は本馬とアリシーバの2頭が殆ど並んでゴールインしたが、写真判定の結果は本馬が鼻差で勝利していた。

前年のケンタッキーダービー勝利は人気薄でのものだったが、今回は1番人気に応えての勝利であり、負かした相手の層も申し分なく、名実共に米国競馬界の頂点に立った。そしてシューメーカー騎手にとっては、これが最初で最後のブリーダーズカップ勝利となった(ブリーダーズカップの創設がシューメーカー騎手の騎手生活晩年だったこともある)。

4連勝で4歳シーズンを締めくくった本馬は、この年10戦4勝(うちGⅠ競走2勝)の成績ながらも、この年10戦3勝(うちGⅠ競走3勝)のアリシーバを抑えて、エクリプス賞年度代表馬のタイトルを手中にした。もちろん、エクリプス賞最優秀古馬牡馬も受賞した。

競走生活(5歳時)

本馬は5歳時も現役を続行した。まず2月のサンアントニオH(GⅠ・D9F)に出走したが、ここでは前年のBCクラシックで本馬から1馬身1/4差の3着だったジャッジアンジェルーチの3馬身半差2着に敗れた。しかし斤量は本馬の128ポンドに対して、ジャッジアンジェルーチは122ポンドであり、ここでは斤量面の不利がやや大きかった。

次走のサンタアニタH(GⅠ・D10F)では、チャールズHストラブSを勝ってきたアリシーバとのリターンマッチとなった。ここでも本馬とアリシーバの接戦となったが、本馬より2ポンド軽い斤量のアリシーバが今回は半馬身差で勝利を収め、本馬は2着に敗れた。3着には前年のカブリロH2着後にサンパスカルHを勝っていたスーパーダイヤモンドが入り、ジャッジアンジェルーチは4着だった。

次走のサンバーナーディノH(GⅡ・D9F)でも、アリシーバとの対戦となった。今回は同斤量だった本馬とアリシーバがまたも接戦を演じたが、アリシーバが鼻差で勝利を収め、本馬は2着に敗れた。

次走のカリフォルニアンS(GⅠ・D9F)には、いったん東海岸に向かっていたアリシーバの姿は無かったが、サンタアニタH4着後にマーヴィンルロイHを勝っていたジャッジアンジェルーチ、前年のBCクラシック9着後にカーターH・メトロポリタンH・ポトレログランデHを勝ちオークローンHで3着していたガルチの姿があった。しかし結果は意外なものとなった。ローレルフューチュリティ・ピーターパンS・ドワイヤーSと3度のGⅠ競走2着があったもののグレード競走勝利には今まで縁が無かったカットラスリアリティが勝利を収め、ガルチは2馬身3/4差の2着、ジャッジアンジェルーチはさらに4馬身半差の3着、そして本馬はさらに1馬身3/4差の4着最下位に惨敗してしまったのである。

次走のハリウッド金杯(GⅠ・D10F)では、西海岸に戻ってきたアリシーバと4度目の対戦となった。しかしレースでは完全に本格化したカットラスリアリティが2着アリシーバに6馬身半差をつける快走で圧勝し、本馬はアリシーバから5馬身半差の3着に敗れてしまった。

その後はしばらく休養し、10月のグッドウッドH(GⅢ・D9F)で復帰した。しかし結果は、ハリウッド金杯の後もベルレアH・サンディエゴHを勝つなど実績を挙げていたカットラスリアリティが、スワップスSの勝ち馬でサンタアニタダービー2着・スーパーダービー3着のライブリーワンを2着に、サンヴィンセントSの勝ち馬スタイリッシュウイナーを3着に引き連れて勝利を収め、本馬はカットラスリアリティから7馬身差の5着と完敗。このレースを最後に5歳時6戦未勝利の成績で競走馬引退となった。

大人しい性格の本馬は、関係者やファンからとても愛されており、“Fred”という愛称で親しまれていた。これが本馬の屠殺事件をきっかけとした米国内における過剰反応に拍車をかけた一面は否定できないが、もちろん本馬には何の責も無いことである。

血統

Nijinsky Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos
Nogara
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
Natalma Native Dancer Polynesian
Geisha
Almahmoud Mahmoud
Arbitrator
Flaming Page Bull Page Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Our Page Blue Larkspur
Occult
Flaring Top Menow Pharamond
Alcibiades
Flaming Top Omaha
Firetop
Banja Luka Double Jay Balladier Black Toney Peter Pan
Belgravia
Blue Warbler North Star
May Bird
Broomshot Whisk Broom Broomstick
Audience
Centre Shot Sain
Grand Shot
Legato Dark Star Royal Gem Dhoti
French Gem
Isolde Bull Dog
Fiji
Vulcania Some Chance Chance Play
Some Pomp
Vagrancy Sir Gallahad
Valkyr

ニジンスキーは当馬の項を参照。

母バンジャルカは現役成績3戦未勝利。本馬を産んだ直後に15歳で他界してしまったが、本馬がBCクラシックを勝った1987年には、既にこの世にいない身でありながらもケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選出されている。本馬の半姉エインシャントアート(父テル)の孫には日本で走ったセイントセーリング【水沢金杯・阿久利黒賞・岩手ダービーダイヤモンドC・不来方賞】が、半姉カステルシェリーヌ(父アヴェイター)の子には、ザックライン【サウスオーストラリアンオークス(豪GⅠ)・クイーンズランドオークス(豪GⅠ)】がいる。

バンジャルカの半妹にはルクレ(父トムロルフ)【ビヴァリーヒルズH(米GⅡ)・プリンセスS・ハネムーンH】、半妹にはタラート(父ナンタラー)【サンタバーバラH(米GⅠ)・ヴァニティH(米GⅠ)・オークツリー招待H(米GⅠ)・サンタイネスS(米GⅡ)・カールトンFバークH(米GⅡ)】がいる。また、タラートの子にはプリンストゥルー【サンルイレイS(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)・シネマH(米GⅡ)】、ヒドゥンライト【サンタアニタオークス(米GⅠ)・ハリウッドオークス(米GⅠ)・デルマーオークス(米GⅡ)】の兄妹がおり、さらにヒドゥンライトの子にはアーティーシラー【BCマイル(米GⅠ)・米国競馬名誉の殿堂博物館S(米GⅡ)・ジャマイカH(米GⅡ)・メイカーズマークマイルS(米GⅡ)・バーナードバルークH(米GⅡ)】、孫には日本で走ったトーホウアラン【京都新聞杯(GⅡ)・京都大賞典(GⅡ)・中日新聞杯(GⅢ)】、アブソルートダンス【栄冠賞】がいる。

バンジャルカの曾祖母ヴェイグランシーは米国指折りの名牝系の祖であり、英セントレジャー馬ブラックターキン、北米首位種牡馬イルーシヴクオリティ、天皇賞秋の勝ち馬サクラチトセオーとエリザベス女王杯の勝ち馬サクラキャンドル兄妹、優駿牝馬の勝ち馬シルクプリマドンナ、天皇賞秋の勝ち馬の勝ち馬ヘヴンリーロマンス、JBCスプリントの勝ち馬タイセイレジェンドも同じ牝系である。→牝系:F13号族②

母父ダブルジェイはジョンヘンリーの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は米国ケンタッキー州クレイボーンファームで種牡馬入りした。初年度の種付け料は3万ドルに設定された。しかしステークスウイナーは僅か8頭(ステークスウイナー率は3.2%)に留まり、好成績を残す事は出来なかった。そのために1994年秋に日本に種牡馬として輸入され、翌1995年からアロースタッドで供用された。初年度こそ77頭の繁殖牝馬を集めたが、2年目は39頭、3年目は26頭、4年目の1998年は44頭と交配数は伸びなかった。そしてこの1998年にデビューした日本産馬の成績は不振だった。公営競馬では重賞勝ち馬が出たが、中央競馬では66頭が出走して11頭が勝ち上がり計12勝と、良くて未勝利を脱出するのがやっとの産駒ばかりであった。5年目は15頭、6年目の2000年には10頭まで交配数が下がった。2001年になって、アロースタッドは本馬を手放す事を決定。アロースタッドのスタッフは本馬を乗馬クラブに委ねるつもりでいたのだが、同年2月3日に渡辺義和氏(もしかしたら漢字が違うかも。日本の資料にはこの人物名が出てこない)という人物が現れて、本馬を譲り受けて去っていった。この際に、本馬の元所有者ケック夫妻の家族や、クレイボーンファームには何の連絡もなされなかった。新冠の牧場に移動した本馬は、翌2001年には6頭の繁殖牝馬と交配し、翌2002年に4頭の産駒が誕生した。この2002年にも2頭の繁殖牝馬と交配し、翌2003年に2頭の産駒が誕生した。しかしこの2003年以降の本馬の行方は不明となってしまった。

屠殺事件の発覚とその後

この2003年に本馬の生産・所有者だったケック夫妻の家族(夫のケック氏は1996年に死去していた)は本馬の行方を知りたいと思い、日本在住の米国人記者バーバラ・バイヤー女史に調査を依頼した。バイヤー女史はまず本馬を譲り受けた渡辺氏に話を聞いた。すると渡辺氏は「友人に渡しました」と回答した。バイヤー女史がもっと詳しい情報を求めると、渡辺氏は「ファーディナンドは去勢されて乗馬クラブに行っているはずです」と応えた。実際には本馬は前述のとおり2002年まで種牡馬活動をした記録があるので、去勢云々という渡辺氏の話は事実と食い違っていた。バイヤー女史がその辺りを追及した上で「ファーディナンドに会わせてほしい」と伝えると、渡辺氏は遂に観念したように「実はファーディナンドはもういません。ファーディナンドの種牡馬登録は2002年9月に抹消されました。そしてファーディナンドは廃用となりました」と応えたのだった。渡辺氏が使ったのは「廃用」という言葉だったが、日本において馬が「廃用になる」というのは「屠殺場に送られて食肉又はペットフードにされる」ことと同義であることをバイヤー女史は知っていた。そしてバイヤー女史は2003年7月26日付けの米国ブラッドホース誌でこの調査結果を公表して「ファーディナンドの最後を直接見た人はいません。もしいるとしたら、それは屠殺場の従業員です」と結んだ。

そしてこの記事は世界各国の競馬専門誌や米国の一般紙にも掲載され、各方面に大きな衝撃を与えた。以下に、主な反応を抜粋して掲載しておく。クレイボーンファームの経営者一族であるデル・ハンコック氏は「米国では交配数が減っていましたので、ファーディナンドのためになると考えて日本に送り出したのですが、今となっては私達の恥です。ひたすら嫌な気分です。現在米国ではサラブレッドの屠殺を禁じる運動がありますが、世界的にはあまり支持は受けていません。日本に関してもそうした運動は浸透していなかったようです。それにしてもケンタッキーダービー馬がこんな酷い結果になるなんて、とても悲しい気分です」とコメントした(ケック夫妻の家族も何らかのコメントを出したと思われるが、筆者は見つけることが出来なかった)。なお、バイヤー女史はアロースタッドで本馬の担当厩務員だった人物にも話を聞いており、「ファーディナンドは穏やかな馬で、甘えん坊でした。私は彼の身に起こった事について怒りを表したい。あまりにも無情で冷酷な結末です」という彼のコメントもブラッドホース誌の記事に載せている。

この問題が世界中に広まったのを知った日本中央競馬会は、1980年以降に米国から日本に輸入された米国三冠競走優勝馬及びブリーダーズカップ勝ち馬の行方を調査して発表した。その内容は、本馬を除く全ての馬が生存しているというものであった。日本中央競馬会の狙いは、今回の事件は例外中の例外であることをアピールすることだったようであるが、この調査結果は海外で大きく取り上げられる事はなく(少なくとも海外の資料に載っているのを筆者は見たことがない)、ほとんど効果は無かったようである。

米国では、日本に対する馬の輸出を、競走馬・繁殖馬などの目的問わずに全面的に禁止するべきだという運動が巻き起こった。さらに米国の有名な動物愛後団体「動物の倫理的扱いを求める人々の会(PETA)」は、熊本県にある日本最大の馬の屠殺場に潜入調査を行い、内部で起こっている事の映像を撮って公表し、日本に対する馬輸出禁止措置の実施を米国政府や米国競馬界に促すように米国民に呼びかけた(ただし、PETAは過激な活動を行う団体としても知られており、賛同は得られなかったようである)。それとは別に、米国では全ての馬の屠殺を禁止するための法律を作るべきだという運動も巻き起こり、実際に2006年9月、2007年1月、2011年11月には法案が連邦政府議会に提出された。しかし年間15万頭の米国産馬(うち1万頭がサラブレッド)が、米国内で屠殺されて加国又は墨国に輸出されており(米国内では馬肉を食べる習慣は無い)、一大産業になっているという事実が影響したのか、いずれも否決されている。しかし現在もそうした運動家達は諦めておらず、何度でも法案を提出する構えのようである。

米国の功労馬保護団体オールドフレンズは、日本に種牡馬として輸入されながらも活躍の噂を聞かない米国産馬の追跡調査を独自に開始し、見つけ次第買い戻して米国に連れ帰った。その結果、日本にいたフレイズ、サンシャインフォーエヴァークリミナルタイプオジジアン、クリエイター、ワレンダーなど多くの馬が米国へ戻っていった(クリミナルタイプは帰国直前に急死している)。その後に米国から日本に種牡馬を輸出する際には、日本における種牡馬生活が終了した暁には米国に買い戻すという条項を契約書に含める場合が増えており、シルバーチャームロージズインメイの輸入契約書にもこうした条項が含まれた。

米国では、1997年に名馬エクセラーがスウェーデンで屠殺されたという事実が明らかになった後に、引退競走馬の処遇についての議論が活発化し、「エクセラー基金」を筆頭とする引退競走馬保護を目的とする民間の組織が複数誕生していた(オールドフレンズもこの件をきっかけに創設されている)が、本件を契機としてニューヨークのサラブレッド馬主・生産者協会は“Ferdinand Fee(ファーディナンド会費)”を2006年に創設し、引退競走馬の余生を守るための活動を競馬界自らが行うことになった。シルバーチャームの輸入契約書に載っている買い戻し条項も、このファーディナンド会費に基づくものである。

しかし米国におけるこれらの運動は、肝心の日本国内では殆ど取り上げられる事が無い。2014年にシルバーチャームが上記の条項に基づいて米国に帰還した際に、海外競馬に詳しい事で知られる競馬評論家の合田直弘氏は、買い戻し協定が締結されたのは人気が高かったシルバーチャームが日本に種牡馬として輸出されるのを惜しんだ米国の競馬ファンが多かったためとしか述べておらず、協定締結の最大の原因となった本馬の屠殺事件に関しては一切触れていない。合田氏が本当に海外競馬の事を日本のファンによく知ってもらう事を望んでいる本物の競馬人であれば当然に彼は本件に触れるべきであるし、仮に知らなかったとしたら合田氏の海外競馬に関する知識はその程度ということになる。合田氏に限らず、日本の競馬関係者達は本件にあまり真摯に向き合うつもりはないようである。そうだとしたら、いずれはまた同じ事件が発生して、今度こそ日本の競馬は世界から置き去りにされかねないと筆者は懸念を抱かざるを得ない。

もっとも、本項の最初にも書いたとおり、筆者自身は本件をきっかけに米国で起きた様々な動きに必ずしも肯定的ではない(もちろん、全面的に否定するわけではない)。そもそも、当の米国でも昔は平気で馬を酷使していた。20世紀初頭までは歴史的名馬でも100戦前後走った馬がざらにおり、酷使の末に他界した米国顕彰馬もパンザレタオールドローズバドローマーネイティヴダイヴァーなど少なくないのである。米国で功労馬の保護運動が活発化したのは、エクセラー屠殺事件がきっかけである。日本が功労馬の保護に関して遅れているのは否定しないが、米国が日本を一方的に非難するのはお門違いだと思う。米国では馬を食べる習慣が無い(馬をペットとして考える人が多いため。もっとも国土が広い米国と異なり、狭い日本では馬をペットとして捉えるには少々無理がある)事が余計に非難の声を大きくしたようだが、酷使して死なせるのと屠殺では残酷さという点では同じ、というかむしろ酷使して死なせるほうが残酷度上位である。なお、米国で馬を食べないのは競走馬に対する薬物使用が一般的なので健康面のリスクがあるためでもある。また、米国においても活躍しなかった馬を安楽死させる事は普通に行われており、食肉にしないだけである(安楽死と屠殺とでは確かに馬の苦痛が異なるが)。以上のように様々な面が日本と米国では違っており、同列に論ずる事は困難である。

なお、日本で活動を行っていた「馬の保護管理研究会」という団体も本件に関して声明文を発表している。筆者も概ね共感できる内容なので、以下に要約を掲載する(本来は改変なくそのまま引用するのが著作権法上における正当なルールだが、長くなりすぎるので申し訳ないが要約とする)。「国際競馬獣医師専門家組織は『競馬のための福祉の指針(1998)』において引退馬の人道的取り扱いに対する馬主責任をうたっており、日本も含めた各国の競馬統括団体はこの指針を受け入れている。しかし、日本では動物福祉の法整備が遅れていることは疑いもない事実である。日本でも動物福祉の理念をさらに浸透させ、輸送や屠殺を含め、あらゆる場面において馬が不当な苦しみを受けずにすむように、先進諸国にならって法整備を進めることが必要であり、その観点からの諸外国からの批判や助言、各種支援は歓迎されるべきものである。大レースに優勝した功労馬は、一般の引退・余剰競走馬よりは手厚く処遇されているが、知名度が低い馬の場合は、人知れず処分されてゆくケースが大半である。輸入された馬の場合は、どうしても日本国内での知名度が低くなるため、母国では非常に有名な馬であっても、日本でよほどの繁殖成績を収めない限り、人々に忘れられ、人知れず処分されるケースが多い。今回のケースでは、日本の関係者が米国における名声に十分配慮しない対応をしてしまったものである。しかし、米国の関係者も果たして、本馬が種牡馬として成功しなかった場合の取り決めをきちんとかわしていたのかどうか。たとえば馬の福祉団体が虐待馬をリハビリして新しいオーナーに託すときは、飼育できなくなったときの返還条件をつける等、福祉を守るための取り決めをかわすことになっている。これがないと、競走馬であれ乗馬であれ、馬の福祉は保証できないからである。競馬界では、まだこうした取り決めをかわす慣行が普及していないのだろうか。今回のケースにおいて日米の関係者はどうだったのだろうか。また、日本の関係者は、本馬の新たな引取先を考える際に、米国の元馬主や関係者に連絡あるいは相談しなかったのか。それをしなかったのは言葉のギャップのためか、それとも米国の人は遠国に行った馬の行く末までは気にかけないとでも思ったのだろうか。今後、類似のケースが起こった際は、必ず専門の通訳を介して本国の関係者に連絡するべきであろう。廃用になった馬が善意の人々に引き取られた実際のケースをみると、馬を放出する側と引き取りたい側の連携がうまくいった場合ほど、馬は幸せな生涯を送っている。逆に、連携に失敗したケースでは、今回と同じ悲劇が起こっている。今後、不用になった馬の人道的な取り扱いについて、競馬関係者の間でのコミュニケーションを深めるべきであると考えられる。最後に、廃用競走馬の殺処分は、どの競馬開催国においても、人々の心を暗くする問題である。これは、大量の廃用馬を恒久的に生み続ける競馬システムに内在する問題であり、競馬の負の側面でもある。このシステムのあり方を修正し、競走馬の総数を受け皿にみあった適正な規模にすることが、馬との真に平和的な関係につながる根本的解決の一つであると考えられる。」

馬の処分問題に関する筆者の私見

さて、こういった何がしかの問題が発覚した際に、テレビのコメンテーター連中はよく「これから考えていかないといけない」と言う。しかし筆者はこの台詞が嫌いであり、人に考えろと言う前にまずは自分の考えを述べて他者に投げかけるべきだと思っているため、馬の処分問題に関しても、筆者なりの意見を述べる事にする。

※以下に筆者の意見を掲載するが、ドライな意見であるため、読む人にとっては不快に感じるかもしれない。しかしこれは他の人に意見を押し付けるものではない。他の人が問題を考える際の参考になればと思い、あえて率直に書く事にした。

元来、競馬というものは、生産した馬同士を走らせて、より優秀な結果を残した馬を繁殖入りさせて子孫を残させるという、能力検定試験の役割を担っているものであった。これは言うなれば、雄同士が雌を巡って戦い、勝利した優れた雄が雌との間に子孫を残すという、自然界の大原則に沿ったものでもある。もちろん競馬というものは、繁殖馬選定のためだけに行われるものではなく、人間の娯楽、及び一大産業としての側面も大きい。また、競走成績が振るわなくても血統が評価されて繁殖入りして成功を収める例もあるし、どんなに素晴らしい競走能力を示しても騙馬だったり血統的魅力が無かったりして子孫を残せないという場合も少なくなく、競馬を繁殖馬選定目的に限定することなどは出来ないが、それが大きな目的でもある事は事実であろう。したがって、競走で活躍した馬が繁殖入りして競走馬引退後の余生を保障されるのは、競馬の目的に適ったものであり、馬にとっても当然の権利である。

しかし騙馬だろうが血統的魅力が無かろうが、又は繁殖入りしても結果が出なかったとしても、競走で活躍した馬は例外なく余生が保障されなければならないと筆者は考える。何故なら、競走で活躍しても殺され、活躍しなくても殺されるのでは、一生懸命頑張った馬が結局馬鹿を見るという事になるし、馬を育てる調教師や厩務員達も、その馬を活躍させて生存させるために心を砕くという一面がある(おそらく一番大きいのはお金のため、又は馬が好きなため等の理由であろうが)わけだから、活躍しても殺されるのであれば、馬の育成に悪影響を及ぼし、ひいては競馬のレベル低下に繋がる危険さえもある。

よって、競走で活躍した馬は繁殖として成功しようがしまいが悠々自適の余生を送らせるのが競馬界の責任である(どこからが活躍馬で、どこまでが活躍馬ではないという基準がある程度曖昧になるのは止むを得ないだろう。そうした線引きは困難である。一番容易なのは勝ったレースの格付け、例えば重賞を勝ったかどうかで線を引く事だろうか)。

逆に言えば、競走で活躍できなかった馬まで余生を保障する必要は無いというのも筆者の意見であるし、そもそもそれは現実的に無理であろう。我々は牛や豚や鳥の肉を普通に食べている。これらの家畜は食用に生産されたものであり、競走目的に生産された馬とは違うが、生き物であることには変わりが無く、牛や豚や鳥は屠殺しても構わないのに馬は屠殺禁止という考え方には同意しかねる。日本では犬や猫を食べる習慣は無いが、外国ではそれが当たり前の国もある。それは文化の違いであり、筆者も犬や猫などの動物は好きだが、それらを食する習慣がある外国の文化を否定しようとは思わない。また、競馬が競走である限り、競馬の規模の大小に関わらず必ず勝つ馬と負ける馬が存在し、負ける以前に競走馬にさえなれない馬も必ず出てくる。そして競走に勝つという競走馬としての目的を果たし得なかった馬は、その他の目的に活用するしか無いのである。その他の目的の中には、繁殖入りや乗馬の他に、(冷たい言い方だが)当然食用にする事も含まれるのである。このように廃用になる馬が存在することは競馬の原罪であり、競馬が存在する限りは避けては通れない事である。そうかと言って、競馬自体を否定することは、走るために生まれてくる馬の存在自体を否定することと同義である(日本のアラブ競馬は存在を否定された結果、アラブ馬は事実上日本から消滅した。競馬を全面禁止してサラブレッドを滅亡に追い込んでも構わないという極論も一部存在するらしいが、さすがに暴論であろう)。既にサラブレッドという種が存在してしまっている以上、人間に出来る事と言えば、競走又は繁殖で活躍した功労馬だけでも安らかな余生を送らせてあげる事くらいであろう。日本においては海外ほど功労馬の余生支援活動が盛んというわけではないが、それでもNPO法人引退馬協会という団体が活動を開始している。同団体のウェブサイトも一度覗いてあげてほしい。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1990

Baron Ferdinand

スコティッシュクラシック(英GⅢ)

1990

Bull inthe Heather

フロリダダービー(米GⅠ)

1991

Bibury Court

アリシーバS(米GⅢ)

1996

ラフレシアダンサー

ひまわり賞(盛岡)・ビューチフルドリーマーC(水沢)

1999

コンプリートアゲン

東北ジュニアグランプリ(盛岡)

補足

本馬の運命を耳にした、ケンタッキー州選出の米国下院議員エドワード・ホイットフィールド氏が、本馬の血を受け継ぐ牝馬3頭を入手して、本馬の血が絶えないように繁殖牝馬として活動させているらしく、とりあえず本馬の血が完全に途絶えることは当面無さそうである。なお、これは余談だが、現役時代の本馬の好敵手スノーチーフもやはり種牡馬として成功しなかったが、2010年5月に心臓発作のため27歳で他界するまで、カリフォルニア州の牧場で平穏な余生を過ごした。

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