ワクシー

和名:ワクシー

英名:Waxy

1790年生

鹿毛

父:ポテイトウズ

母:マリア

母父:ヘロド

全てにおいて完璧と讃えられた英ダービー馬は種牡馬としても活躍し祖父エクリプスと父ポテイトウズの系統を現代の主流血脈たらしめる

競走成績:3~7歳時に英で走り通算成績17戦11勝2着4回3着1回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

英国サセックス州ルイスにあったザフライアリースタッドにおいて、チェシャー州に居を構えながらもルイスで馬産を行っていた第4代男爵フェルディナンド・プール卿により生産・所有され、本馬が誕生する数年前からプール卿の専属調教師だったロバート・ロブソン師に預けられた。「その左右対照性は完璧で、ちょうどよい長さの脚を有し、特に下半身は強靭だった」と評されたバランスが取れた好馬体の持ち主で、かなり見栄えが良い馬だったという。また、気性も穏やかであり、全てにおいて完璧とまで評されたほどだった。

競走生活(3・4歳時)

2歳時から馬を走らせる事に否定的なロブソン師(彼は7頭の英ダービー馬を手掛けたが、全て2歳戦は不出走だった)の方針により本馬は3歳デビューで、しかも初戦を英ダービー(T12F)で迎えた。この年の英ダービーは出走11頭中本馬を含む7頭がポテイトウズ産駒だった。本馬の単勝オッズは13倍程度であり、あまり注目されている馬ではなかったようである。レースでは後に本馬の好敵手となる、当時正式な名前が付けられていなかった1番人気のマーキュリー産駒(3歳年上のクラレットS2着馬プレシピテートの全弟だったため、“Brother to Precipitate(プレシピテートの弟)”と暫定的に呼ばれていた。後の5歳時になって「ゴハンナ」と命名される。本項では以降ゴハンナで通す。)が先手を奪ったが、最初のコーナーで本馬が先頭を奪うと、そのまま先頭を守りきって、2着ゴハンナに1馬身差をつけて勝利した。上位4頭中、ゴハンナを除く3頭をポテイトウズ産駒が占めたレースだった。

8月にはルイス競馬場で行われた80ギニースウィープSに出走し、他馬より7ポンド重い斤量を背負って勝利した。9月にはアビングドン競馬場距離2マイルで行われたロッキンガムという馬との40ギニーマッチレースに出走して勝利した。3歳時の成績は3戦3勝だった。

4歳時には5月にニューマーケット競馬場で行われたジョッキークラブプレートでゴハンナを破って勝利。その数日後にはゴハンナとの100ギニーマッチレースに出走したが、ここでは3ポンドのハンデを与えたゴハンナに頭差で敗れてしまった。7月にはイプスウィッチ競馬場で行われたキングズプレート(T18F)で、唯一の対戦相手となったロビングレイを下して勝利。さらにルイス競馬場で行われたゴハンナとのヒート競走デュークオブリッチモンドプレート(T32F)に出走して、1戦目・2戦目を連勝して勝利した。この同日にはレディーズプレートに出走して単走で勝利した。4歳時の成績は5戦4勝だった。

競走生活(5~7歳時)

5歳時には8月にオックスフォード競馬場で行われた100ギニーカップレース(T32F)に出走したが、1歳年下の英オークス馬ハーマイオニーの2着に敗れた。9月にソールズベリー競馬場で出走したヒート競走キングズプレート(T32F)では、グァチモザンという馬を破って勝利した。5歳時の成績は2戦1勝だった。

6歳時にはキングズプレートで、同世代の牡馬ガブリエルの2着に敗退。3月のオートランドSでもヴィレットとペッカーの2頭に敗れて3着だった。その後はルイス競馬場で行われた距離4マイルのサブスクリプションパースを勝ったが、続いて出走したレディーズプレート(T32F)ではギルフォードに敗れて2着だった。その後ギルフォード競馬場で行われたヒート競走キングズプレート(T32F)ではゴハンナとのマッチレースとなった。1戦目は本馬が頭差で勝ち、2戦目は同着、3戦目で本馬が半馬身差で勝ってこのマッチレースを制した。さらに8月にはソールズベリー競馬場で行われたヒート競走キングズプレートで再度ゴハンナとのマッチレースとなり、今度は本馬が1戦目・2戦目を連勝して勝利した。6歳時の成績は6戦3勝だった。

7歳時も現役を続けたが、7月のオックスフォード金杯のレース中に故障して着外に敗れ、これを最後に競走馬を引退した。

なお、本馬は非常に昔の馬なので資料によって競走成績には諸説ある。6歳時のレディーズプレートではギルフォードとゴハンナの2頭に敗れて3着だったと別資料にはあるが、同資料には本馬とゴハンナは5回対戦して本馬が敗れたのは1回だけと冒頭にあるにも関わらず、同資料における2頭の対戦は6回あり、前年のマッチレースの敗戦は同資料にも記載があるので本馬は2敗している事になり、矛盾している。また、このレディーズプレートは6歳時ではなく5歳時のレースだったと同資料に記載されているが、上記のとおり矛盾点があるため、本項では採用していない。

馬名と気性に関して

馬名は父の名前が「じゃがいも」を意味する事から、じゃがいものタイプのうちの一つである“waxy potato”にちなんで名付けられた(じゃがいもは品種には関係なく、澱粉の量に応じて“waxy potato”と“floury potato”に分けられるらしい。澱粉量が少ない前者は透明がかっていて滑らかで煮崩れし難いため、煮たり茹でたりするのに向いており、澱粉量が多い後者は煮崩れし易いが、ほくほく感がありマッシュポテトにするのに向いている)。気性は普段は穏やかだったが、冬の悪天候のために狭い馬屋内に長期間閉じ込められた後などにはかなり不機嫌になっていたと、本馬が他界した後に牧場の担当者は述懐している。

血統

Pot-8-o's Eclipse Marske Squirt Bartlet's Childers
Snake Mare
Hutton's Blacklegs Mare Hutton's Blacklegs
Bay Bolton Mare 
Spilletta Regulus Godolphin Arabian
Grey Robinson
Mother Western Easby Snake 
Old Montagu Mare
Sportsmistress Sportsman Cade Godolphin Arabian
Roxana
Silvertail Heneages Whitenose 
Rattle Mare 
Golden Locks Oroonoko Crab
Miss Slamerkin
Crab Mare Crab
Partner Mare
Maria Herod Tartar Croft's Partner Jigg
Sister One to Mixbury
Meliora Fox
Witty's Milkmaid 
Cypron Blaze Flying Childers
Confederate Filly
Salome Bethell's Arabian 
Champion mare
Lisette Snap Snip Flying Childers
Sister to Soreheels
Sister to Slipby Fox
Gipsy
Miss Windsor Godolphin Arabian ?
?
Young Belgrade Mare Young Belgrade 
Wyvills Childers Mare 

ポテイトウズは当馬の項を参照。

母マリアは現役時代ドンカスター競馬場で行われた2マイルのレースと、ギルフォード競馬場で行われたエプソムという馬との1マイルマッチレースに勝利した記録がある。その後にプール卿に購入されて、アスコット競馬場で行われたレースでユリシーズという馬を破って勝ち、クイーンズプレートでは英オークス馬テトタムなどを破って勝利した。その後4マイルのサブスクリプションパースを勝ったのが現役最後の勝利となり、その後繁殖入りした。マリアは本馬を含めて10頭の子を産んでおり、うちポテイトウズ産駒は本馬を含めて2頭である。本馬の全弟ワーシーはキングズプレートとオックスフォード金杯を勝ち、東インド会社所有のもとで種牡馬入りしている。

マリアは最後の産駒である牝駒ワウスキー(父メントール)を産んだ2週間後に他界したが、ワウスキーは母としてスモレンスコ【英2000ギニー・英ダービー】を産んでいる。ワウスキーは牝系を伸ばせなかったが、マリアの牝系子孫は、本馬の半姉ジャマイマ(父サテライト)から後世に受け継がれ、現在も残っている。主なジャマイマの牝系出身馬は、セントフランシス【アスコット金杯】、コナイヴァー【ブルックリンH・ベルデイムH】、ディシート【エイコーンS・マザーグースS・マッチメイカーS】、ハイスキームス【CCAオークス(米GⅠ)】、ナグルスキー(砂の女王ホクトベガの父)、ベリーサトル【BCスプリント(米GⅠ)・ファンタジーS(米GⅠ)】、アジアンメイズ【エイントリーハードル(英GⅠ)・ワールドシリーズハードル(愛GⅠ)】、日本で走ったナリタトップロード【菊花賞(GⅠ)】、マツリダゴッホ【有馬記念(GⅠ)】、ダノンプラチナ【朝日杯フューチュリティS(GⅠ)】などである。→牝系:F18号族

母父ヘロドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はプール卿が所有する生まれ故郷のザフライアリースタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は10ギニー(担当厩務員に対するチップが10ギニー別にあったので実質20ギニー)であり、これは父ポテイトウズや同時代のサーピーターティーズルとほぼ同額だった。1803年にプール卿は、知人だった米国ヴァージニア州の富農ジョン・テイロー氏を通して、本馬を700ギニーで購入してほしい旨を米国ヴァージニア州の馬産家ウィリアム・ライトフット氏に申し出た。しかしライトフット氏は当時13歳だった本馬の健康面、特に目の状態に問題があるという理由でこの申し出を断り、その代わりに本馬の1歳年上の半姉ケレンハップパッチ(当時半弟である本馬の子を受胎していた)を購入していった。確かにこの時期の本馬は失明かそれに近い状態であったようであるが、いつどのようにしてそうなったのかは現在でも分かっていない。

翌1804年6月にプール卿が死去すると、馬産に興味が無かったプール卿の息子ヘンシー氏によりプール卿が所有していた馬達はルイスで実施された競売に出された。しかし競走馬時代の本馬を管理していたロブソン師の助言により、本馬は競売に出されず、ニューマーケットにあったロブソン師の厩舎にいったん移動した。その後に個人的な取引で、第3代グラフトン公爵アウグストゥス・ヘンリー・フィッツロイ卿により購入された本馬は、フィッツロイ卿がニューマーケットに所有していたユーストンホールスタッドに移動した。ユーストンホールスタッドに移る前はあまり活躍馬を出せなかった本馬だが、ユーストンホールスタッドでは次々と活躍馬を出し、種付け料も25ギニーまで上昇し、毎年40頭という当時としては多い繁殖牝馬を集める人気種牡馬となった。本馬の産駒は英ダービーを4勝、英1000ギニーを1勝、英オークスを3勝しているが、全てユーストンホールスタッド移動後に出した産駒による勝利である。最終的には190頭の勝ち上がり馬を出し、1810年には英首位種牡馬に輝いた。

晩年は完全に失明してしまった本馬だが、牧場内に住み着いた雌のウサギと仲良くなったようで、ウサギの巣の中に鼻を押し込んでコミュニケーションを取るなど、目が見えなくても比較的幸福な余生を送ったらしい。1811年3月にフィッツロイ卿が75歳で死去すると、彼の息子である第4代グラフトン公爵ジョージ・ヘンリー・フィッツロイ卿に受け継がれた。その3年後の1814年4月に本馬は28歳で他界したが、盲目にも関わらず死の前年まで種牡馬活動を行っていた。遺体はニューマーケットにあるオールセインツ教会の側に埋葬された。

後世に与えた影響

本馬の後継種牡馬はホエールボーンウィスカーの2頭が成功し、特にホエールボーンから続いた直系は現代競馬における主流血脈に繋がっている。また、本馬は繁殖牝馬の父として8頭の英国クラシック競走優勝馬を出しており、本馬の牝駒の中には現代まで影響力を有する牝系を確立した馬も多い。例えば、本馬の娘ウェブの牝系子孫からは、根幹繁殖牝馬クイーンバーサとその子孫、根幹繁殖牝馬ラトロワンヌとその子孫、ベイミドルトングレンコーバーンボローユーザーフレンドリーロイヤルパレスモンジューマークオブディスティンクションドクターデヴィアス、サッカーボーイ、ステイゴールドなど数え切れないほどの活躍馬が出ている。そのため、英国血統書(ジェネラルスタッドブック)では本馬を「トランプのエース」と評している。これはトランプにおいて最も重要なカードであるエースに喩えて、サラブレッドで最も重要な馬であると評価しているものである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1801

Pavilion

ジョッキークラブプレート

1802

Newmarket

ジュライS

1806

Waxy Pope

英ダービー

1807

Whalebone

英ダービー

1808

Joke

ジュライS

1810

July

ジュライS

1810

Music

英オークス

1812

Minuet

英オークス・ジュライS

1812

Whisker

英ダービー

1815

Corinne

英1000ギニー・英オークス

1815

Loo

ジュライS

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