リヴァリッジ

和名:リヴァリッジ

英名:Riva Ridge

1969年生

鹿毛

父:ファーストランディング

母:イベリア

母父:ヘリオポリス

傾きかけた生産牧場メドウステーブルの救世主となり、同馬主同厩のセクレタリアト以上に陣営から愛された「ゴールデンボーイ」

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績30戦17勝2着3回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国ヴァージニア州メドウステーブルの生産馬だが、誕生したのはメドウステーブルが母イベリアを預託していたケンタッキー州クレイボーンファームだった。メドウステーブルで育成された本馬は幼少期からあまり健康ではなく、それほど目立つ馬ではなかった。それでも2歳春頃から優秀なスピード能力を示し始めた。

しかしこの時期、メドウステーブルの創設・所有者クリストファー・チェネリー氏は重い病気に罹っていた。既に80歳を過ぎていたチェネリー氏は所有する牧場と馬を全て売却する事を考えたが、彼の娘で“ペニー”の愛称で呼ばれていたヘレン・チェネリー女史はそれに反対した。主婦だったが父親と同様に馬が好きだった彼女は、チェネリー氏の秘書エリザベス・ハム女史、メドウステーブルの牧場長ハワード・ジェントリー氏、メドウステーブルの専属調教師ロジャー・ローリン師の助けを借りながら、メドウステーブルの経営に乗り出した。

その後、ローリン師はオグデン・フィップス氏の専属調教師として招かれたためにメドウステーブルを離れる事になったが、代わりに自身の父親であるルシアン・ローリン師をメドウステーブルの新たな専属調教師として推薦した。この結果、本馬はメドウステーブル名義の競走馬、ルシアン・ローリン師の管理馬となった。

競走生活(2歳時)

2歳6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの未勝利戦でデビューしたが、ミスタープロスペクターの1歳年上の全兄サーチフォーゴールドの16馬身差7着に敗退。しかし2週間後に同コースで行われた未勝利戦では、後に好敵手となるキートゥザミントを5馬身半差の2着に破って勝ち上がった。7月に出走したアケダクト競馬場ダート5.5ハロンの一般競走も、2着ビッグブラファーに4馬身差で勝利。続いてグレートアメリカンS(D5.5F)に出走したが、ここではクリスティアーナSを勝ちユースフルSで3着していたシェブロンフライト、ナショナルスタリオンSを勝ちトレモントSで2着していたプラムボールドなどに屈して、勝ったシェブロンフライトから6馬身3/4差の8着に敗れた。しかし翌8月に出走したフラッシュS(D6F)では、主戦となるロン・ターコット騎手と初コンビを組んで、後にカウディンSを勝つロウクウェイシイャスドンを2馬身半差の2着に破って快勝。

その後は8月下旬のホープフルSに出走する予定だったが、熱発のため回避した。本馬不在のホープフルSは、フラッシュSで本馬の3着だったレストユアケースが、分割競走アーリントンワシントンフューチュリティの勝ち馬ガヴァナーマックスを2着に、ロウクウェイシイャスドンを3着に破って勝利した。一方の本馬は9月中旬のベルモントフューチュリティS(D6.5F)に向かった。ここでは、グレートアメリカンSの後にサプリングSも勝ってきたシェブロンフライト、分割競走アーリントンワシントンフューチュリティのもう一方の勝ち馬ホールドユアピース、一般競走を勝ってきたキートゥザミントなどとの対戦となったが、本馬が2着シェブロンフライトに1馬身半差で勝利した。さらに翌10月のシャンペンS(D8F)では、2着シェブロンフライトに7馬身差をつけて圧勝。同月末のローレルフューチュリティ(D8.5F)では、2着フェスティヴムードに11馬身差という記録的大差をつけて勝利した。

2歳最終戦のガーデンステートS(D8.5F)では、ベルモントフューチュリティS5着後にカウディンSで2着してきたキートゥザミント、キンダーガーデンSを勝ってきたフリーテックス、そしてファッションS・スカイラヴィルS・スピナウェイS・メイトロンS・フリゼットS・セリマS・ガーデニアSを勝ってきたナンバードアカウントとの対戦となった。オグデン・フィップス氏の所有馬だったナンバードアカウントを管理していたのはロジャー・ローリン師であり、調教師親子対決となった。結果は本馬が2着フリーテックスに2馬身半差、3着キートゥザミントにはさらに首差をつけて勝利を収め、ナンバードアカウントは4着に敗れた。2歳時の成績は9戦7勝で、記念すべき第1回エクリプス賞最優秀2歳牡馬のタイトルを獲得した。

競走生活(3歳初期):チェネリー氏悲願のケンタッキーダービー制覇

3歳時は3月にフロリダ州ハイアリアパーク競馬場で行われたハイビスカスS(D7F)から始動して、バハマズSを勝ってきたニュープロスペクトを2馬身1/4差の2着に破って快勝。ところが次走のエヴァーグレーズS(D9F)では、シャンペンSで本馬の3着だったヘッドオブザリヴァー、ベルモントフューチュリティSで本馬の3着後にフラミンゴSを勝っていたホールドユアピース、ニュープロスペクトという、過去に打ち負かした馬達3頭に屈して、勝ったヘッドオブザリヴァーから5馬身3/4差の4着に敗れた。このレースは不良馬場で行われていたが、本馬は重馬場を大の苦手にしており、この後も競走馬時代を通じて悩まされ続けることになる。

それでも次走のブルーグラスS(D9F)では、2着センシティヴミュージックに4馬身差で圧勝して、ケンタッキーダービーの大本命となった。

そして迎えたケンタッキーダービー(D10F)では、エヴァーグレーズSで2着だったホールドユアピース、ルイジアナダービー・アーカンソーダービーを勝ってきたノーレアセ、ガーデンステートS2着後にヘリテージS・ゴーサムSを勝っていたフリーテックス、カリフォルニアダービー2着馬ケンタッキアン、エヴァーグレーズS勝利後にウッドメモリアルSで3着してきたヘッドオブザリヴァー、アーカンソーダービー2着馬ハッシーズイメージ、センシティヴミュージック、後にサンルイレイS・ガヴァナーS・マールボロカップ招待Hを勝つビッグスプルースなどを抑えて、単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。

スタートが切られるとターコット騎手騎乗の本馬がすかさず先頭に立ち、ホールドユアピース以下を引き連れて逃げ続けた。向こう正面でホールドユアピースが本馬に競り掛けてきたが、本馬は決して先頭を譲ろうとしなかったため、この2頭が後続を引き離し、三角から四角の時点では7~8馬身程度の差が開いた。そのままの態勢で直線に入ると、内側で粘るホールドユアピースを尻目に本馬は力強く脚を伸ばしていった。後方からは4番手で直線を向いたノーレアセが追い上げてきたが、直線で独り旅を満喫した本馬が2着ノーレアセに3馬身1/4差をつけて優勝した。

本馬の生産者チェネリー氏は過去40年間の馬産生活において、ヒルプリンス、ファーストランディング、サーゲイロードなどの名馬を送り出していたが、ケンタッキーダービー制覇にはひたすら縁が無かった。しかし本馬の優勝により遂にケンタッキーダービー馬の馬主となった。チェネリー氏はずっと病院に入院しており、既に意識はあまり明瞭では無かったが、自分の娘がトロフィーを受け取る様子が病室のテレビに写った瞬間に、頬を涙が伝ったと看護師は証言している。米最優秀2歳牡馬がケンタッキーダービーを勝ったのは、1956年のニードルズ以来16年ぶりだった。

競走生活(3歳中期)

次走のプリークネスS(D9.5F)では、ガーデンステートS3着後にレムセンS・ダービートライアルSを勝っていたキートゥザミント、ノーレアセ、前走サバイバーSを7馬身差で圧勝してきたホーソーンジュヴェナイルSの勝ち馬ビービービー、ゴーサムS2着馬イーガーエクスチェンジ、前走11着のハッシーズイメージなど6頭だけが対戦相手となった。とりあえず対抗馬と目されていたキートゥザミントは本馬との過去の対戦成績3戦全敗であったから、普通に走れば本馬の勝利は揺るぎそうにはなく、単勝オッズ1.33倍という圧倒的な1番人気に支持された。しかし天候という強敵が本馬の前に立ち塞がった。レース前日の暴風雨の影響により、馬場状態は極悪不良馬場となってしまったのである。重馬場が致命的に苦手な本馬は、スタートからビービービーに先手を許してしまう苦しい展開。そして直線ではビービービーを捕まえるどころか他馬に差されて、勝ったビービービーから6馬身差をつけられて4着に敗退。前走で負かしたノーレアセ(2着)や、過去に相手にしていなかったキートゥザミント(3着)にも先着されてしまった。

次走のベルモントS(D12F)では、プリークネスSの勝利で満足したビービービー陣営が回避して、ノーレアセ、キートゥザミント、ジャージーダービーを勝ってきたスマイリングジャック、ケンタッキーダービーで6着だったフリーテックス、同7着だったビッグスプルース、ケントS3着馬クラウディドーンなどが対戦相手となった。本馬が単勝オッズ2.6倍の1番人気に支持された。前走と異なり馬場状態は乾燥していたが、本馬はスタート直後の加速がそれほど良くなかった。しかし最内枠発走だった事を利して、最初のコーナーに入るところで先頭に立つ事に成功。しかし後続馬も圧力をかけてきた。向こう正面ではキートゥザミントなど他馬2頭に並ばれて、3頭が先頭を走る場面もあった。しかし本馬はすぐに他2頭を振り払って単独先頭を奪還し、キートゥザミントを引き離しながら直線へと突入するとあとは独走状態。追い込んで2着に入った伏兵ルリタニアに7馬身差をつけて圧勝した。

続いて米国西海岸に向かい、翌7月のハリウッドダービー(D10F)に出走した。ここでは129ポンドの斤量が課せられた。この斤量と遠征の疲労が影響したのか、逃げた本馬は直線半ばで脚色が衰えた。そこへ、後に翌月のデルマーダービーやヴォランテH・マリブS・サンフェルナンドSを勝つビッカー、カバレロS・シネマHを勝ってきたファイナリスタ、後に翌月のハリウッド金杯やカリフォルニアンS・サンバーナーディノHを勝つウィルロジャーズS・カリフォルニアダービーの勝ち馬クアックといった後続馬勢が押し寄せてきた。しかしなんとかしのぎ切り、2着ビッカーに首差、3着ファイナリスタにはさらに半馬身差、4着クアックにはさらに半馬身差をつけて勝利した。

競走生活(3歳後期)

その後は東海岸に戻って、8月のモンマス招待H(D9F・現ハスケル招待S)に出走した。しかし、ベルモントS7着後にオハイオダービーを勝っていたフリーテックス、グランプリS(アーリントンクラシックS)・ラウンドテーブルHを勝ちアメリカンダービーで2着してきたキングズビショップ、ベルモントS3着後にドワイヤーHを勝っていたクラウディドーンの3頭に屈して、勝ったフリーテックスから6馬身差の4着に敗退。

続くスタイミーH(D9F)では、一昨年のトラヴァーズSと前年のエクセルシオールHの勝ち馬でマンノウォーS・ジョッキークラブ金杯2着のラウドに加えて、前年のケンタッキーダービー・プリークネスSの勝ち馬キャノネロと顔を合わせた。常識的には3歳馬である本馬よりも古馬であるキャノネロのほうが斤量は重くなって然るべきだが、古馬になって6戦全敗のキャノネロは110ポンドで、本馬は123ポンドだった。本馬はスタートから先行したが、ケンタッキーダービーで誰もが驚く追い込み勝ちを収めたキャノネロの走りがここで蘇り、後方から一気に差された本馬は5馬身差の2着に敗退した。キャノネロの勝ちタイム1分46秒2は全米レコードだった。

次走のウッドワードS(D12F)では、ベルモントS4着後にブルックリンH・ホイットニーH・トラヴァーズSと3連勝していたキートゥザミント、CCAオークス・ブラックアイドスーザンS・ヘンプステッドH・モンマスオークス・アラバマSを勝ちベルデイムSで2着してきたサマーゲスト(カワカミプリンセスの4代母)、ディスカヴァリーH・サンフェルナンドS・エクセルシオールH・ウエストチェスターHを勝ちブルックリンH・ガヴァナーSで2着していた4歳馬オートバイオグラフィーなどが対戦相手となった。しかしレースは生憎の不良馬場となってしまい、ただでさえ不調だった本馬は余計に実力を発揮できず、勝ったキートゥザミントから6馬身1/4差4着に敗退。サマーゲスト(2位入線したがオートバイオグラフィーの進路妨害を妨害した咎で3着に降着)にも先着されてしまった。同世代最強牝馬という評価を得ていなかったサマーゲスト(ベルデイムSでサマーゲストを破ったスーザンズガールのほうが上の評価だった)に敗れたため、本馬の評価は大きく下がってしまった。

次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では、キートゥザミント、前走で2着に繰り上がったオートバイオグラフィーとの再戦となった。前走と異なり良馬場であり、長丁場のベルモントSを圧勝したスタミナ自慢の本馬にとっては実力を存分に発揮できる状況のはずだった。しかしレースはオートバイオグラフィーが2着キートゥザミントに15馬身差という記録的大差をつけて勝ち、本馬はキートゥザミントからさらに3馬身差の3着に敗れた。

次走はワシントンDC国際S(T12F)となった。しかし生涯初の芝競走、重馬場、夏場以降の不調という三重苦に加えて、この年の愛ダービーやクリテリウムドメゾンラフィットの勝ち馬で仏グランクリテリウム・オブザーヴァー金杯・プリンセスオブウェールズS(勝ち馬ブリガディアジェラード)2着のスティールパルス、この年のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSでブリガディアジェラードに食い下がって2着した愛セントレジャー・ジャンプラ賞・クイーンズヴァーズの勝ち馬パーネル、この年のグレイラグH・マサチューセッツH・タイダルH・加国際CSSを勝っていたドロールロールといった国内外の芝の強豪相手ではどうにもならず、勝ったドロールロールから38馬身差の6着と全く見せ場なく敗れた。

3歳時の成績は12戦5勝の成績となった。ケンタッキーダービー・ベルモントSを勝利した本馬だが、エクリプス賞の年度表彰においては、年度代表馬は同馬主同厩の2歳馬セクレタリアトに、最優秀3歳牡馬も秋シーズン好調を維持したキートゥザミントに奪われてしまった。シーズン後半の不調については、休息を取らせるべき夏場に西海岸に遠征させた上に、その後も休ませずに使い続けたのが原因であると世間一般に言われていた。西海岸に遠征させたのは確かに自分の失敗だったと、チェネリー女史は自責の念にかられたという。

競走生活(4歳前半)

4歳時は5月にアケダクト競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動して、2着となったナッソーカウンティS2着馬ドリームオブキングスに4馬身差で圧勝して久々の勝利を挙げた。次走のメトロポリタンH(GⅠ・D8F)では、シーズン初戦のエクセルシオールHを勝ってきたキートゥザミント、ジムダンディS・トボガンHなどを勝ちトラヴァーズS・ジェロームHで2着していたテンタム、前年のモンマス招待H2着後にミシガンマイル&ワンエイスH・カーターHを勝ちエクセルシオールHで2着していたキングズビショップといった有力同世代馬勢が顔を連ねた。斤量は本馬とキートゥザミントが並んで127ポンドのトップハンデ。これで良馬場であれば興味深いレースになったはずなのだが、この日のベルモントパーク競馬場は不良馬場だった。レースはテンタムがキートゥザミントを2着に抑えて勝ち、本馬はテンタムから17馬身差の7着と惨敗してしまった。この時点でキートゥザミントとの対戦成績は4勝4敗と追いつかれてしまった。さらにこのメトロポリタンHの12日後に同じベルモントパーク競馬場で行われたベルモントSで、セクレタリアトが31馬身差で圧勝して米国三冠馬となったため、本馬の影は非常に薄くなってしまった。

そんな本馬の次走はメトロポリタンHから30日後のマサチューセッツH(GⅡ・D9F)だった。前年のスタイミーHで3着だったラウド、ギャラントフォックスH・ベンジャミンフランクリンHなどを勝っていたクラフティハーレーなどが対戦相手となったが、本馬が2着クラフティハーレーに3馬身3/4差をつけて、31年前の同競走でワーラウェイが計時した1分48秒2に並ぶコースレコードタイで勝利した。

次走はこの年にアケダクト競馬場で行われたブルックリンH(GⅠ・D9.5F)となった。ここでは、メトロポリタンH2着後に一般競走を勝ってきた前年の覇者キートゥザミント、テンタム、ジェロームH・ローマーH・セミノールHの勝ち馬でウッドメモリアルS・オハイオダービー・ジムダンディS2着・トラヴァーズS3着のトゥルーナイトなどが対戦相手となった。斤量はキートゥザミントの128ポンドに対して本馬は127ポンド、馬場状態は良馬場と、本馬にとっては絶対に負けられないレースとなった。そしてレースでは10ポンドのハンデを与えたトゥルーナイトと直線で大激戦を演じた末に、本馬が頭差で勝利を収めた(キートゥザミントは本馬から5馬身半差の4着)。勝ちタイム1分52秒4は全米レコード(1991年のピムリコスペシャルHにおいてファーマウェイが同タイムを計時したが更新する事は出来ず、現在でも世界レコードとして残っている模様)だった。これは本馬の勝利の中で最も印象的なものだったと高く評価されており、これでようやく世代最強馬の地位に返り咲くことが出来た。

続いてサラトガ競馬場芝8.5ハロンの一般競走に出走したが、単勝オッズ52倍の伏兵ウィチタオイルの1馬身1/4差2着に敗退。この3日後に同じサラトガ競馬場で行われたホイットニーHでもセクレタリアトがまさかの2着に敗れており、かつてマンノウォーが一敗地にまみれたサラトガ競馬場の「チャンピオンの墓地」伝説に2頭揃って拍車をかけることになってしまった。しかし前走から20日後に同じサラトガ競馬場で出走したダート9ハロンの一般競走では、後の名種牡馬ヘイローを半馬身差の2着に抑えて勝利した。

競走生活(4歳後半):セクレタリアトとの対決

この時期、同馬主同厩のため実現しないだろうと言われていた本馬とセクレタリアトの直接対決を熱望する声が高まっていた。そして、世界最大の煙草会社フィリップ・モリス社の代表取締役で熱烈な競馬ファンでもあったジャック・ランドリ氏が、本馬陣営、ベルモントパーク競馬場、ニューヨーク州政府などに働きかけたために、この2頭の最初で最後の直接対決が、本馬が一般競走を勝った25日後の9月15日にベルモントパーク競馬場ダート9ハロンで実施されることになった。

フィリップ・モリス社の代表的ブランドであるマールボロの名を冠してマールボロC招待Hと命名されたこのレースには、本馬とセクレタリアトの2頭だけでなく、ブルックリンH4着後に出走したサバーバンHを勝ってきたキートゥザミント、サンタアニタH・サンガブリエルH・サンマルコスH・サンフアンカピストラーノ招待H・カリフォルニアンS2回・ハリウッド招待ターフH・オークツリー招待S2回・センチュリーH2回・サンセットHを勝っていたチリ出身の西海岸最強馬クーガー、クイーンズプレート・サンアントニオH・ハリウッド金杯・カップ&ソーサーS・ドミニオンデイH・サンディエゴHを勝ちサンタアニタHで2着していた加国最強馬ケネディロード、ホイットニーSでセクレタリアトに黒星を付けたオニオン、トラヴァーズS・ブリーダーズフューチュリティ・ミニッツマンH・センテネルSの勝ち馬でモンマス招待H2着のアニヒレイテームの5頭も招待されており、北米大陸最強馬決定戦の様相を呈した。ターコット騎手がセクレタリアトに騎乗したため、本馬の鞍上は初コンビのエディ・メイプル騎手だった。

絶好の良馬場の中でスタートが切られるとオニオンが先頭に立ち、127ポンドのトップハンデを課せられていた本馬が2番手、セクレタリアトが後方から進む展開となった。三角で本馬が先頭に立ってそのまま後続を引き離しにかかったが、そこへセクレタリアトがやって来て2頭の一騎打ちとなった。しかし本馬から4ポンドのハンデを貰っていたセクレタリアトが抜け出して勝ち、本馬は3馬身半差の2着に敗退。セクレタリアトの勝ちタイム1分45秒4は、前年のスタイミーHでキャノネロが本馬を破って樹立した全米レコード1分46秒2を更新するものだった。本馬もキャノネロのそれより速いタイムで走破したし、斤量差もあったが、内容的には完敗だった。それでも7着最下位に敗れたキートゥザミントとの対戦成績を6勝4敗として、勝ち越す事に成功した。

次走はマールボロC招待Hから2週間後のウッドワードSになる予定だった。しかし雨天のため馬場状態が悪化する事が予想されたため本馬は回避。代わりに急遽出走したセクレタリアトは2着に負けてしまった。

その後にセクレタリアトは芝路線を進んだが、本馬はそのままダート路線を進んだ。まずはスタイヴァサントH(GⅡ・D9F)に出走。この時期にターコット騎手は騎乗停止処分を受けていたため、本馬には引き続きメイプル騎手が騎乗した。ここで本馬に課せられた斤量は130ポンドだった。しかしスタイミーHを勝ってきたフォーレージ、ブルックリンH2着後に出走したサバーバンHでも2着だったトゥルーナイトなどを一蹴し、1分47秒0のコースレコードを計時して、2着フォーレージに3馬身差で快勝した。

次走のジョッキークラブ金杯(GⅠ・D16F)でも、加国際CSSでセクレタリアトに有終の美を飾らせたメイプル騎手とコンビを組んだ。良馬場の上に斤量面の不利も無く、当然本馬が勝つと思われた。しかし単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された本馬は、勝ち馬から33馬身差の6着最下位と惨敗。スタートから先頭に立って本馬を競り潰して勝ったのは、ウッドワードSでセクレタリアトを破っていたプルーヴアウトだった。プルーヴアウトの管理調教師で“The Giant Killer(大物食い)”の異名で知られたH・アレン・ジャーケンズ師の餌食になってしまった本馬は、このレースを最後に競走馬を引退した。4歳時は9戦5勝の成績で、この年のエクリプス賞最優秀古馬牡馬に選出された。

競走馬としての評価及び特徴並びに馬名に関して

本馬の現役時代後半は、同厩のセクレタリアトが全米中の人気を博していた時期と重なっていた。そのためメドウステーブル厩舎を訪れる者の大半はセクレタリアト目当てであり、本馬を気に掛ける者は少なかったという。しかし、チェネリー氏の病気により傾きかけたメドウステーブルを救ったのは本馬であった。そしてチェネリー氏をケンタッキーダービー馬の馬主にしたのも本馬であった(チェネリー氏は本馬がケンタッキーダービーを制した翌年1月に死去しており、セクレタリアトの三冠出走時には既にこの世にいなかった)。マールボロC招待Hで本馬がセクレタリアトに敗れた直後、両馬の馬主だったチェネリー女史はセクレタリアトを賞賛しながらも、「私はリヴァリッジを愛しています」と言い、セクレタリアトを残して本馬の方へ向かったという。チェネリー女史は本馬を“Golden Boy(ゴールデンボーイ)”の愛称で呼び、本馬はメドウステーブルの関係者達からひたすら愛され続けた。本馬は少し神経質な一面こそあったが、牧場ではいつも陽気に振る舞い、泥だらけになって遊び、訪問者が来るとすぐに近寄ってくるという、好かれやすい気性の持ち主だった。本馬の日常を捉えたドキュメント映像や、本馬の伝記本も作成されている。

幼少期から健康面に問題があった本馬は、長じてもあまり健康な馬にはならず、肩を痛めたり、腎臓疾患を患ったりしていたという。脚もそれほど丈夫ではなかったようで、日常的に包帯を巻かれていた。

セクレタリアトが重馬場を不得手としたという話は、その競走成績を精査すると俗説の類であると思われるが、本馬が重馬場を不得手としたのは万人が認める事実であり、その理由について色々と研究されている。チャールズ・ハットン氏は「リヴァリッジの走法は驚くほど軽くて猫のような敏捷性を持っていましたが、湿った馬場で加速できる力強さには欠けていたのです」と説明している。本馬の体高は16ハンドと平均以上で、16.2ハンドだったセクレタリアトと身長では大差なかったが、筋肉の固まりのような馬だったセクレタリアトと異なり本馬はすらりとした馬であり、セクレタリアトと実際に並べてみると小柄な馬に見えたという。筆者は本馬が調教で走る姿を映像で見たが、確かに細身の馬であり、走り方も非常に軽かった。

馬名はイタリア半島を縦貫するアペニン山脈の北部にあるリヴァリッジ山に由来する。この山は1945年2月、第二次世界大戦におけるイタリア最終戦線において連合軍の勝利を決定付ける戦いが行われた場所であり、チェネリー女史の義理の息子ジョン・トゥイーディ氏がその戦いに米国第10山岳師団の兵士として参戦していた事からの命名であるらしい。

血統

First Landing Turn-to Royal Charger Nearco Pharos
Nogara
Sun Princess Solario
Mumtaz Begum
Source Sucree Admiral Drake Craig an Eran
Plucky Liege
Lavendula  Pharos
Sweet Lavender
Hildene Bubbling Over North Star Sunstar
Angelic
Beaming Beauty Sweep
Bellisario
Fancy Racket Wrack Robert le Diable
Samphire
Ultimate Fancy Ultimus
Idle Fancy
Iberia Heliopolis Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Drift Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Santa Cruz Neil Gow
Santa Brigida
War East Easton Dark Legend Dark Ronald
Golden Legend
Phaona Phalaris
Destination
Warrior Lass Man o'War Fair Play
Mahubah
Sweetheart Ultimus
Humanity

父ファーストランディングはターントゥ産駒で、1950年の米年度代表馬ヒルプリンスの半弟に当たる。ヒルプリンスや本馬と同じくチェネリー氏の生産・所有馬として走り、37戦19勝の成績を挙げた。2歳時の成績は、グレートアメリカンS・サラトガスペシャルS・ホープフルS・シャンペンS・ガーデンステートSに勝つなど11戦10勝。同年唯一の敗戦はベルモントフューチュリティSでインテンショナリーの2着となったのみという素晴らしい成績を挙げて、1958年の米最優秀2歳牡馬に選ばれた。3歳時はエヴァーグレーズS・ダービートライアルSを勝ってケンタッキーダービーに臨んだが、トミーリーの3着に敗退。その後は4歳秋まで走り、サンタアニタマチュリティS・モンマスHを勝ち、サンアントニオH・メトロポリタンH・サバーバンHで2着したが、2歳時ほどの圧倒的な強さは蘇らなかった。

母イベリアもファーストランディングと同様にチェネリー氏の生産・所有馬で、現役成績は11戦3勝だった。本馬が2歳時の1971年にはケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれている。産駒には本馬の半兄ハイドロジスト(父タタン)【ディスカヴァリーH・エクセルシオールH・スタイミーH】、半弟カピト(父サーゲイロード)、全弟リトルリヴァなどがいる。カピトとリトルリヴァは共に本邦輸入種牡馬であるが、いずれも成功していない。イベリアの牝系は本馬の半姉バランカ(父サーゲイロード)を通じて後世に受け継がれているが、バランカの孫にブロディダンサー【パリ大障害】、玄孫にミスターペンスキー【モンテビデオ大賞(亜GⅠ)】がいるくらいで、それほど活躍馬は出ていない。

バランカの祖母ウォーイーストの半姉ミストレスグリアーの孫にバレリーナ【マスケットH】、ナスリナ【フリゼットS】、牝系子孫にハーバー【仏オークス(仏GⅠ)・サンタラリ賞(仏GⅠ)】が、ウォーイーストの半姉マーチングホームの子にバウンディングホーム【ベルモントS】、曾孫にボールドリーズニング(シアトルスルーの父)、ミストーシバ【ヴァニティH(米GⅠ)】、玄孫世代以降にコミッティド【スプリントCS(英GⅠ)・アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)2回】、キングズスワン【ヴォスバーグS(米GⅠ)】、イングリッシュチャンネル【BCターフ(米GⅠ)・ターフクラシックS(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズS(米GⅠ)2回・ジョーハーシュターフクラシック招待S(米GⅠ)2回】、リヴァーサイドシアター【アスコットチェイス(英GⅠ)2回・ライアンエアーチェイス(愛GⅠ)】、日本で走ったエリモエクセル【優駿牝馬(GⅠ)】が、ウォーイーストの半姉リトルレベルの子にボールド【プリークネスS】が、ウォーイーストの半姉ラッソーの牝系子孫にディプロマットレディ【ハリウッドスターレットS(米GⅠ)】がいるなど、少し離れるとそれなりに活躍馬が出ている牝系である。ウォーイーストの6代母ロクスラーヌは仏グランクリテリウム・仏1000ギニー・仏オークスの勝ち馬で、ロクスラーヌの母ローズオブヨークは公式にはベンドアの半妹となっている。→牝系:F1号族⑥

母父ヘリオポリスはハイペリオンの初年度産駒で、現役時代は英米で走り、プリンスオブウェールズS・プリンセスオブウェールズS勝ちなど15戦5勝。米国で種牡馬として活躍し、1950・54年の北米首位種牡馬となっている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、512万ドル(当時の為替レートで約15億2千万円)という巨額のシンジケートが組まれてクレイボーンファームで種牡馬入りした。種牡馬としては29頭のステークスウイナーを出したが、それほど成功したとは言えなかった。1985年4月に心臓発作のため16歳で他界した。1998年には米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第57位。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1976

Alada

コティリオンH(米GⅡ)・シュヴィーH(米GⅡ)

1976

Blitey

テストS(米GⅡ)・マスケットS(米GⅡ)

1976

Rivalero

ローマーH(米GⅡ)・フェイエットS(米GⅢ)・クリスマスデイH(米GⅢ)

1977

Idyll

スタイヴァサントH(米GⅢ)

1978

Expressive Dance

カムリーS(米GⅢ)・ビウィッチS(米GⅢ)・バレリーナS(米GⅢ)

1978

Gem Diamond

グロシェーヌ賞(仏GⅢ)

1978

Tap Shoes

ホープフルS(米GⅠ)・ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・フラミンゴS(米GⅠ)・サンフォードS(米GⅡ)・ピーターパンS(米GⅢ)

1980

Favoridge

ネルグウィンS(英GⅢ)

1980

Rocky Marriage

ボールドルーラーS(米GⅡ)

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