ファヴォニウス

和名:ファヴォニウス

英名:Favonius

1868年生

栗毛

父:パルメザン

母:ゼファー

母父:キングトム

叔母である同世代の英国牝馬三冠馬ハンナより高い評価を得た英ダービー馬で種牡馬としての能力もあったが、種牡馬入り4年目で早世したため大成功には至らず

競走成績:3~5歳時に英で走り通算成績12戦6勝2着4回3着1回

誕生からデビュー前まで

有名なロスチャイルド家の一員である英国の政治家・事業家だったメイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド男爵により生産・所有された英国産馬である。本馬と同世代には、やはりロスチャイルド男爵の生産・所有馬で、彼の一人娘ハンナ嬢の名前を付けられたハンナという有力牝馬もいた。ハンナは本馬の母ゼファーの全妹であり、本馬の叔母に当たる馬だった。ハンナと同じく英国ジョセフ・ヘイホー調教師に預けられた本馬だったが、これまたハンナと同じくデビュー当初は正式な名前が付けられておらず、単に“The Zephyr Colt(ゼファー産駒の牡馬)”と呼ばれていた。2歳7月にデビューして2歳戦でも活躍したハンナと異なり本馬は成長が遅く、2歳時にはレースに出なかった。

競走生活(3歳前半)

3歳春にニューマーケット競馬場で行われたバイエニアルSでデビューしたが、アルバートヴィクターの頭差2着に敗れた。しかしこのアルバートヴィクターは、前年のミドルパークプレートでハンナを3着に破って勝っていた同世代トップクラスの牡馬だったから、デビュー戦でそれと好勝負した本馬の実力もある程度証明された。5月中旬にヘイホー師は試みに本馬と、英1000ギニーを勝っていたハンナを試走で戦わせてみた。本馬にはハンナより16ポンド重い斤量が課せられたが、ハンナと互角の走りを見せた。

これで本馬の能力を確信したロスチャイルド男爵とヘイホー師の2人は、この段階で初めて本馬を正式にファヴォニウスと命名し、英ダービー(T12F)に参戦させることを決定した。このレースで単勝オッズ3倍の1番人気に支持されていたのは英2000ギニー馬ボスウェルで、本馬は単勝オッズ10倍といった程度の評価だった。ロスチャイルド男爵が本馬に正式に命名して参戦させた事を知らなかった人々は、ファヴォニウスという聞いたことが無い馬の名前を耳にして、混乱したと伝えられている。スタートが切られると、トム・フレンチ騎手が騎乗する本馬はあまり積極的に行かずに馬群の後方につけた。しかし少しずつ着実に位置取りを上げていき、タッテナムコーナーを回って直線に入ってきたころには既に先頭の馬の直後まで来ていた。そして直線でも着実に末脚を伸ばして、残り1ハロン地点で先頭を奪取。後方で激しい2着争いを展開するクイーンズスタンドプレート・シートンデラヴァルS・英シャンペンSの勝ち馬で英2000ギニー3着のキングオブザフォレストとアルバートヴィクターの2頭を尻目に悠々とゴール板の前を走り抜け、2着同着となったキングオブザフォレストとアルバートヴィクターの2頭に1馬身半差をつけて優勝。初勝利をこの大一番で挙げた。

当時52歳のロスチャイルド男爵にとっては念願の英ダービー初勝利であり、彼は完璧な騎乗を見せたフレンチ騎手に感謝して、1千ポンドの報奨金と毎年200ポンドずつの年金を与えたという。ロスチャイルド男爵は大衆人気が高い人物だったようで、レースが終わって馬車に乗って帰途に就こうとした彼の元に、この勝利を祝福する人々が殺到した。もみくちゃにされた彼だったが、目立つ白い帽子を被っていたために、彼がどこにいるのかは識別できたという。この英ダービーの2日後にはハンナが英オークスを制覇し、彼はさらに周囲から祝福されることになった。

競走生活(3歳後半)

本馬の次走は7月にニューマーケット競馬場で行われたミッドサマーSとなり、勝利を収めた。引き続きグッドウッドC(T21F)に出走。ここには、前月のアスコット金杯を筆頭にビエナル賞・ドーヴィル大賞・ラクープを勝ち、バーデン大賞で2着していた仏国調教の6歳牡馬モルトメールも参戦してきた。モルトメールの所有者は、この6年前に英国三冠馬に輝いていたグラディアトゥールの所有者フレデリック・ラグランジュ伯爵であり、英国代表の本馬と仏国代表のモルトメールの国の威信を賭けた対決となった。スタートが切られると、単勝オッズ51倍の3歳牝馬シャノンが先頭に立ち、本馬とモルトメールは互いをマークするように進んだ。有力馬同士が互いに牽制し合うと、ノーマークの逃げ馬に足元を掬われる事例は古今東西しばしば見られるが、このレースもまさしくそうなった。スローペースと軽量を味方につけたシャノンがそのまま逃げ切って勝ってしまい、本馬は2着に敗れた。それでも3着モルトメールには先着したので、一応英国の威信を守った形にはなった。シャノンの勝利はフロック視されたが、彼女は同年暮れのドンカスターCも勝っており、結果から見れば実力馬だった。

一方の本馬はすぐにブライトンC(T16F)に出走。単勝オッズ1.67倍の1番人気に応えて、3馬身差で勝利を収めた。普通であれば本馬の次の目標は英セントレジャーになるところだったのだが、ハンナの英国牝馬三冠が懸かっていたためか、本馬は不参戦となった。本馬不在の英セントレジャーはハンナが勝利を収めて英国牝馬三冠を達成。これでロスチャイルド男爵はこの年の英国クラシック競走のうち英2000ギニーを除く4競走を制覇したことになり、後年になってこの1871年は“The Baron’s Year(男爵の年)”と言われるようになった。

一方の本馬の秋初戦は10月のケンブリッジシャーH(T9F)となった。しかし結果は、前年のアスコット金杯とこの年のシティ&サバーバンHを勝っていた4歳牡馬サビヌス(斤量119ポンド)が勝利を収め、本馬と同世代の英2000ギニー2着馬スターリング(斤量123ポンド)と特に実績が無かった5歳牡馬オールブルック(斤量93ポンド)の2頭がさらに短頭差の2着同着で、スターリングと同じ123ポンドを背負っていた本馬は着外に敗れた。同月末にはニューマーケット競馬場でスターリングとのマッチレースが計画された。しかしちょうどこの時期に、ベルモントS・トラヴァーズS・ジェロームHなどを勝っていた米国最強3歳馬ハリーバセットの所有者デビッド・マクダニエル大佐からも、スターリング陣営に対してマッチレースの申し込みが来ていた。スターリング陣営はハリーバセットとのマッチレースを優先したために、本馬との対戦を回避。レースは予定どおり行われたが対戦相手がいないために、本馬が単走で勝利した。一方、ハリーバセットとスターリングのマッチレースは条件面の折り合いが付かずに結局お流れとなってしまった。3歳時の本馬の成績は7戦4勝だった。ハンナと本馬の活躍により、ロスチャイルド男爵はこの年の英平地首位馬主を獲得した。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続行。この年の初めにロスチャイルド男爵に対して本馬を1万2千ポンドで売ってほしいという申し込みがあったらしいが、ロスチャイルド男爵はそれを断った。まずは5月にニューマーケット競馬場で行われた距離2マイルのスウィープSから始動。一昨年のドーヴィル大賞の勝ち馬で前月のグレートメトロポリタンHも勝っていたダッチスケーターが挑んできたが、本馬があっさりと返り討ちにした。

引き続きアスコット金杯(T20F)に出走した。レース前から本馬の様子は絶好調に見受けられ、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された本馬の勝利は確実視された。しかし本馬の勝利を見届けるためにアスコット競馬場に詰めかけたアルバート・エドワード皇太子や英国貴族達を含む観衆が見たものは、直線で先頭に立った本馬が、前年のアスコットダービー・ニューマーケットダービーの勝ち馬アンリに差されて2着に敗れる光景だった。アンリはグラディアトゥールと同じくモナルクを父に持つ仏国産馬で、そしてその所有者はラグランジュ伯爵だった。レース前の本馬の様子は絶好調に見えただけに、この敗北はかなり屈辱的なものだったようである。

その証拠に、ロスチャイルド男爵は本馬を僅か2日後にクイーンアレクサンドラプレート(T24F)に急遽参戦させた。しかし結果は、前年の同競走で2着していたアスコットSの勝ち馬マスケット(後に豪州に種牡馬として輸出されて19世紀豪州最高の名馬カーバインの父となる)、前年の英ダービー2着後に英セントレジャーでも2着してこの年のアスコットゴールドヴァーズを勝っていたアルバートヴィクターの2頭に屈して、勝ったマスケットから1馬身半差、2着アルバートヴィクターから半馬身差の3着に敗れてしまった。

その後はグッドウッドC(T21F)に向かった。ここでは本馬は生涯最高のパフォーマンスを見せ、直線だけで後続馬をちぎり捨て、2着アルバートヴィクターに10馬身差をつけて圧勝した。4歳時の成績は4戦2勝だった。

競走生活(5歳時)

5歳時も現役を続けたが、なかなか競馬場に姿を現さなかった。ようやく出走したのは前年最終戦だったグッドウッドC(T21F)であり、要するにちょうど1年間の空白があった。対戦相手は僅か2頭だったが、その2頭とは、英ダービー・パリ大賞・アスコット金杯・英シャンペンS・ウッドコートS・ニューマーケットS・ニューマーケットダービー・クイーンアレクサンドラプレートを勝っていた1歳年下の同父馬クレモーン、モルニ賞・クリテリオンSの勝ち馬で仏ダービー・パリ大賞・アスコット金杯2着の3歳馬フラジョレであり、普通であれば名勝負が期待できるメンバー構成だった。しかしクレモーンは怪我のためまともに走れる状態ではないのに無理やり出走させられていた(その理由はクレモーンの項に記載している)。そして本馬も、資料には明記されていないが、1年間もレースに出ていなかった事から察するに、脚を痛めていたか体調不良かのいずれかで、おそらく本調子ではなかった。そんなわけで、残念ながらこのレースは競走と呼べるような内容では無く、唯一まともな状態で出走していたフラジョレが圧勝。フラジョレから実に30馬身差をつけられた2着が本馬で、スタートから歩くように走ったクレモーンは本馬から推定不能の大差をつけられた最下位だった。クレモーンはこのレースを最後に競走馬を引退したが、本馬も同じくこのレースを最後に競走馬を引退した。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第33位にランクインした。ちなみにハンナはランク外であり、英国牝馬三冠馬であるハンナよりも本馬のほうが優れた競走馬であるとみなされていたようである。

ファヴォニウスとは英語で「西風」の意味で、これは母ゼファー(Zephyr)の名前も英語で「西風(元々は西風を擬人化したギリシア神話に登場する神ゼピュロスのこと)」を意味する事から連想して命名された。

血統

Parmesan Sweetmeat Gladiator Partisan Walton
Parasol
Pauline Moses
Quadrille
Lollypop Voltaire Blacklock
Phantom Mare
Belinda Blacklock
Wagtail
Gruyere Verulam Lottery Tramp
Mandane
Wire Waxy
Penelope
Jennala Touchstone Camel
Banter
Emma Whisker
Gibside Fairy
Zephyr King Tom Harkaway Economist Whisker
Floranthe
Fanny Dawson Nabocklish
Miss Tooley
Pocahontas Glencoe Sultan
Trampoline
Marpessa Muley
Clare
Mentmore Lass Melbourne Humphrey Clinker Comus
Clinkerina
Cervantes Mare Cervantes
Golumpus Mare
Emerald Defence Whalebone
Defiance
Emiliana Emilius
Whisker Mare

父パルメザンはアスコットゴールドヴァーズ・グレートメトロポリタンHの勝ち馬で、アスコット金杯ではトーマンバイの3着だった。ポニーのように小柄な馬だったらしい。種牡馬としては競走馬時代を上回る成功を収めている。パルメザンの父スウィートミートはマカロニの項を参照。

母ゼファーは1865年の英オークス3着馬。母としては本馬以外にこれといった産駒を出していない。本馬の半妹ニューマーケッテ(父ウェンロック)の孫にエトワールドゥフー【ミラノ大賞】が出たが、ゼファーの牝系はそれ以上続かなかった。ゼファーの全姉にはブリーズ【コロネーションS】、全妹には本馬と同世代の英国牝馬三冠馬ハンナ【英1000ギニー・英オークス・英セントレジャー・ジュライS】がいる。ハンナは夭折したために子孫を残せなかったが、ブリーズの牝系子孫は南米で21世紀まで生き残り、パセアナ【エンリケアセバル大賞(亜GⅠ)・BCディスタフ(米GⅠ)・サンタマリアH(米GⅠ)・サンタマルガリータ招待H(米GⅠ)2回・アップルブロッサムH(米GⅠ)2回・ミレイディH(米GⅠ)2回・ヴァニティ招待H(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】という大物も出ている。ゼファーの母メントモアラスは英1000ギニー馬。→牝系:F3号族①

母父キングトムは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ロスチャイルド男爵が所有するメントモア&クラフトンスタッドで種牡馬入りした。しかし当のロスチャイルド男爵は、本馬が種牡馬入りした1874年の2月に55歳で死去してしまっていた。ロスチャイルド男爵の子どもはハンナ嬢1人しかいなかった。ハンナ嬢は後に英国首相も務める第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ卿の妻となるのだが、婚約の話が最初に出たのが1876年、実際に結婚したのは1878年の事であり、父を亡くした時点で22歳の彼女1人ではロスチャイルド男爵が所有していた膨大な財産を管理する事が困難だった。そんなわけで、メントモア&クラフトンスタッドはロスチャイルド男爵の甥に当たるレオポルド・ド・ロスチャイルド氏に委ねられることになった。

ロスチャイルド氏は一族のライオネル・ネイサン・ロスチャイルド男爵と共同所有した本馬の息子サーベヴィスで1879年の英ダービーを制覇する事になるのだが、サーベヴィスが英ダービーを勝った時点で既に本馬はこの世にいなかった。1877年8月、チフスのために9歳の若さで夭折してしまっていたのである。

普通であればサーベヴィスが後継種牡馬として期待を掛けられそうなものだが、サーベヴィスはレベルが非常に低いと当時から言われた世代の馬だった上に、重馬場で行われた英ダービーで出走馬中唯一馬場状態を苦にしない馬だったから勝ったと言われ、実際にその英ダービーの勝ちタイムが3分02秒0と異常に遅かった(距離12ハロン29ヤードで施行された英ダービー46回の中では唯一の3分台。最速は2分34秒8で、2番目に遅いタイムが2分56秒0)ことから、19世紀の段階で既に「史上最悪の英ダービー馬」と酷評されていたほどだった。そんなサーベヴィスが種牡馬として成功するのはさすがに無理だったようで、本馬の直系は残らなかった。ただ、牝馬ながらに愛ダービーを勝ったマダムドゥバリーの牝系子孫が一定の繁栄を見せ、その子孫からは、アルドロスマジックナイトエレクトロキューショニストなどが出ているから、本馬の血が完全に途絶えたわけではない。その点においては、その血を全く後世に残せなかった叔母のハンナよりは救いがあるかもしれない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1875

Madame du Barry

愛ダービー・グッドウッドC

1876

Sir Bevys

英ダービー

1877

Friday

グッドウッドC

TOP