モナルク

和名:モナルク

英名:Monarque

1852年生

鹿毛

父:ジエンペラー

母:ポエッテス

母父:ロワイヤルオーク

現役時代も仏2000ギニーや仏ダービーを勝って活躍したが種牡馬としては19世紀仏国最大級の成功を収めた英国三冠馬グラディアトゥールの父

競走成績:2~6歳時に仏英で走り通算成績33戦24勝2着2回3着3回(確認できた範囲のみ)

競走馬としても一流だったが、19世紀半ばにおける仏国繋養種牡馬の中では最大級の成功を収め、19世紀後半の仏国競馬界をリードした。

誕生からデビュー前まで

仏国の馬産家アレクサンダー・オーモン氏により、母ポエッテスの最後の産駒としてヴィクト牧場において誕生した。ポエッテスは本馬が誕生する前年にザバロン、スティング、ジエンペラーと3頭の種牡馬と続けて交配されており、血統書にも3頭の名前が並列されているため、本馬がどの種牡馬の産駒なのかは現在でも議論がされている。一般的にはジエンペラーの産駒とされているが、スティングの産駒だと主張する人もあり、おそらく結論は出ないと思われる。

本馬は成長すると当時としては大柄な体高16ハンドに達し、非常に見栄えが良い馬だった。管理調教師は、後に本馬の代表産駒グラディアトゥールも手掛けることになるトム・ジェニングス・シニア師だった。

競走生活(2~4歳時)

デビュー戦は創設2年目だった仏国2歳最強馬決定戦の仏グランクリテリウム(T1500m)で、ジエンペラー産駒だった同厩のアレジイゲマンの2着となっている。3歳時は仏2000ギニー(T1500m)を勝つと、プロデュイ賞(T2100m・現ダリュー賞)も勝利。さらに仏ダービー(T2400m)では、この年のグッドウッドCを勝つ事になるバロンチーノを2着に、仏オークス馬で後にアンペルール大賞(現グラディアトゥール賞)も勝つロンジを3着に破って勝利した。さらにムーランドグランサンレジャーでは、14ポンドのハンデを与えたアレックスイゲマンという馬を一蹴して勝利。さらにヘント大陸ダービーなどを勝利し、仏国においてはこの年13戦全勝の成績を誇った。

この年は10勝した後に英国にも遠征している。グッドウッド競馬場ではスチュワーズC(T6F)に出走したが、トップハンデを課された影響があったようで、3歳牝馬クロチルドの着外に敗れた。シザレウィッチH(T18F)にも出走したが、ここでもトップハンデを課されてしまい、5歳牡馬ミスターサイクスの着外に敗れた。

4歳時はカドラン賞(T4200m)を勝つと、パビリオン賞・パリ帝国賞なども勝って仏国内では6戦5勝の成績。アンペルール大賞(T4000m)で10ポンドのハンデを与えたロンジの2着になったのが唯一の敗戦だった。この年も英国に遠征しているが、スチュワーズC(T6F)ではニューブライトンの3着に敗退。グッドウッドC(T19F)では、ロジャーソープと、英2000ギニー・英ダービーで2着していたイエロージャックの2頭に敗れて、ロジャーソープの3着に終わった。

この年の秋にオーモン氏が病気になったため、彼が所有していた馬は新設されたタタソールズ・フランスのセリに出された。本馬はナポレオン1世の副将だったラグランジュ将軍の息子フレデリック・ラグランジュ伯爵により購入された。ラグランジュ伯爵は翌年にオーモン氏から購入した牧場をダンギュ牧場と命名して、この後数十年間における仏国競馬界で最も影響力がある人物となる。なお、この際に本馬を管理していたジェニングス・シニア師や、彼の弟ヘンリー・ジェニングス調教師もラグランジュ伯爵の専属調教師として雇われることになり、ジェニングス・シニア師は英国で、ヘンリー師は仏国でラグランジュ伯爵の所有馬を手掛けることになった。

競走生活(5・6歳時)

5歳時は初戦のヴィル賞において、かなりのハンデを与えたこの年の仏ダービー馬ポトツキの3着に敗れた。その後はパビリオン賞でロンジを破って勝ち、さらに牧場賞も2kgのハンデを与えた前年の仏ダービー馬ライオンを2着に破って勝利した。1週間後にはヒート競走の運営賞に出走。ここでは牧場賞で破ったライオンとの再戦となった。初戦では本馬が5kgのハンデを与えたライオンを頭差抑えて勝利。2戦目はライオンが故障したため本馬が2連勝で勝利した。その後はブローニュ牧場運営賞などを勝利。さらにアンプルール賞に出走したが、後にアスコット金杯を2回勝利するフィッシャーマンの着外に敗れた。その後はこの年から距離が2000mも延長されたアンペルール大賞(T6000m・後に本馬の息子の名前にちなんでグラディアトゥール賞と改名されている)に出走。ポトツキに加えて、この年のアスコット金杯3着馬で後にグッドウッドCを勝ちアスコット金杯で2年連続フィッシャーマンの2着するサウンテラーの姿もあったが、本馬がサウンテラーを2着に破って容易に勝利した。

さらに3度目の英国遠征を敢行して、グッドウッドC(T19F)に出走。フィッシャーマンに加えて、後にシザレウィッチH・グレートヨークシャーHを勝つプライオレスなどの姿もあったが、本馬が2着アイスバーに頭差で勝利を収め、英国における初勝利をこの大舞台で挙げた(フィッシャーマンは3着だった)。

6歳時には本格的に英国に腰を据えてレースに出走。ニューマーケットHを勝利したが、グレートメトロポリタンHで故障して敗戦し、これを最後に競走馬を引退した。

本馬は短距離から長距離まで幅広くこなしたが、基本的にはスタミナ豊富な馬で、産駒にもそれが伝わっているようである。馬名は「君主」の意味で、本馬の最有力父親候補であるジエンペラーが「皇帝」を意味する事からの連想と思われる。

血統

The Emperor Defence Whalebone Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Defiance Rubens Buzzard
Alexander Mare
Little Folly Highland Fling 
Harriet
Reveller Mare Reveller Comus Sorcerer
Houghton Lass
Rosette Beningbrough
Rosamond
Design Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Defiance Rubens
Little Folly
Poetess Royal Oak Catton Golumpus Gohanna
Catherine
Lucy Gray Timothy
Lucy
Smolensko Mare Smolensko Sorcerer
Wowski
Lady Mary Beningbrough
Highflyer Mare
Ada Whisker Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Anna Bella Shuttle Young Marske
Vauxhall Snap Mare
Drone Mare Drone
Contessina

前述のとおり本馬の父親候補は複数いるのだが、最有力候補とされているジエンペラーは現役時代4戦のみ走っている。3歳時にデビュー戦として出走したロシア皇帝プレート(現アスコット金杯)では、英ダービー馬アッティラや英オークス馬ポイズンといった強敵達を撃破(ただしかなりのハンデを貰っていたらしい)している。その後のシザレウィッチHでフォーアバラーの着外に終わり、4歳初戦のロイヤルハントCも着外だったが、2度目の出走となったロシア皇帝プレートでは同斤量のフォーアバラーを撃破して2馬身差で勝利している。種牡馬としては当初英国で供用され、1850年に仏国政府に輸入されたが、仏国における供用期間は僅か2年で、牝馬に蹴られた傷(腎不全とする資料もある)が原因で1851年に他界した。ジエンペラーの父はディフェンスで、現役時代はデビュー戦の英ダービーで故障してそのまま引退している。ディフェンスの父はホエールボーンである。

なお、本馬の父親候補の他2頭ザバロンは英セントレジャー馬で、スティングは本馬の母父ロイヤルオークの後継種牡馬スレイン産駒のグッドウッドCの勝ち馬である。いずれも仏国政府により種牡馬として輸入されて多くの活躍馬を出している。

母ポエッテスは仏ダービーで牡馬を蹴散らして勝ち、他に第1回仏オークス優勝、カドラン賞3着の実績がある男勝りの名牝だった。競走馬引退後は「仏国競馬の父」と呼ばれるヘンリー・シーモア卿の牧場で繁殖入りしたが、その牧場が解散したため、オーモン氏の所有馬となっていた。ポエッテスは本馬の他にも半姉であるエルヴィン(父マスターワグス)【仏オークス・プランタン大賞・カドラン賞】を産んでいる。エルヴィンの子にはモンエトワール【仏グランクリテリウム・バーデン大賞・ランペルール大賞】、孫にはセルポレット【仏オークス】、テネブルース【仏1000ギニー・パリ大賞】、玄孫世代以降にはプレザントゥリ【バーデン大賞・シザレウィッチH・ケンブリッジシャーH】、シーシック【仏ダービー・仏共和国大統領賞】、トレーサリー【英セントレジャー・セントジェームズパレスS・サセックスS・エクリプスS・英チャンピオンS】、コタシャーン【BCターフ(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)・エディリードH(米GⅠ)・オークツリー招待H(米GⅠ)】、日本で走ったミスタールドルフ【ダービーグランプリ】、ゴーカイ【中山グランドジャンプ(JGⅠ)2回】、ユウフヨウホウ【中山大障害(JGⅠ)】などが出ている。

ポエッテスは本馬を産んだ翌年に子どもの悪質な悪戯によりロープで縛られて放置され、もつれたロープに絡まって負傷して他界するという最期を遂げたと資料にあるが詳細は不明である。ポエッテスの母エイダはシーモア卿により英国から輸入された繁殖牝馬で、ポエッテスの半姉ミスアンネット(父レヴェラー)【カドラン賞・ロイヤル大賞】を産んだ他に、ミスアンネットの子であるアンネッタ【仏2000ギニー・カドラン賞】、ポエッテスの半妹で姪と同名のアンネッタ(父マンゴ)の子であるブーンティ【仏2000ギニー・仏オークス】、セレブリティ【仏グランクリテリウム・仏ダービー】、ダームドヌール【仏オークス】3姉妹の祖母となるなど、仏国競馬界に大きな影響を与えた。ミスアンネットの娘でアンネッタの半妹であるメディナの牝系子孫が後世に細々と伸びており、ハリーアップブルー【ガルフストリームパークH(米GⅠ)】、ロードダーンレイ【ワイドナーH(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)】、ワイズタイムズ【ハスケル招待H(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・スーパーダービー(米GⅠ)】などが出たが、最近はあまり活躍馬が出ていない。→牝系:F19号族②

母父ロイヤルオーク(仏国読みだとロワイヤルオーク。現GⅠ競走ロワイヤルオーク賞の名称由来)も10歳時にシーモア卿により英国から輸入された種牡馬で、現役時代はサリーS・ミドルゼクスSに勝利している。英国でも1845年の英首位種牡馬スレインを出しているが、仏国ではさらに多くの活躍馬を出し、仏国競馬界に大きな影響を与えた。本馬の父親候補であるスティングはスレイン産駒であり、仮にスティングが本馬の父親であるとすると、本馬はロイヤルオークの2×3の強いクロスを有する事になる。ロイヤルオークの直系を遡ると、ドンカスターCの勝ち馬キャトン、ゴランパス、ゴハンナ、マーキュリーを経てエクリプスに行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はラグランジュ伯爵所有のもと、仏国ダンギュ牧場で種牡馬入りした。3年目産駒から19世紀最強馬とも言われる英国三冠馬グラディアトゥールを出すなど、種牡馬として大きな成功を収めた。本馬が誕生した1852年はナポレオン1世の甥であるナポレオン3世が皇帝の座に就いてフランスの第二帝政が始まったのと同年であり、本馬の競走馬・種牡馬としての全盛期はナポレオン3世の全盛期とも重なっていた。ラグランジュ伯爵も第二帝政期の仏国経済の急成長に乗って財産を増やしていったが、ナポレオン3世の威勢が衰え始めると、彼の財産も急激に減少していった。そして1870年にナポレオン3世がプロイセン王国に宣戦布告して普仏戦争が勃発すると、ラグランジュ伯爵はグラディアトゥールなど所有馬の大半を手放すことになった。しかし本馬はダンギュ牧場に留め置かれた。

普仏戦争の最中にプロイセン王国軍によってダンギュ牧場が接収されると、本馬もまたプロイセン王国軍の管理下に置かれ、数々の虐待を受けたようである。1871年にナポレオン3世が降伏して戦争が終わるとプロイセン王国軍はダンギュ牧場から引き揚げていったが、本馬は蹄の病気に罹っており、かなり体調が悪化していた。1874年にダンギュ牧場において22歳で他界し、後に記念公園内に墓が建立された。

本馬の後継種牡馬としては、グラディアトゥールは失敗に終わったが、コンスルが成功して仏国で直系を繁栄させ、仏国のみならず英国や独国でも活躍馬を多く出した。サイアーラインはコンスルからフリポン、ルポンポン、プレステージ、サルダナパルと続く事になる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1860

Le Marechal

ジムクラックS

1860

Villafranca

オカール賞

1861

Beatrix

カドラン賞

1861

Gedeon

オカール賞

1862

Gladiateur

英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・パリ大賞・ロワイヤルオーク賞・アスコット金杯・ラクープ・ランペルール大賞

1862

Le Mandarin

アンペルール大賞

1863

Auguste

カドラン賞・ランペルール大賞

1863

Marengo

ダリュー賞

1864

Longchamps

カドラン賞

1864

Patricien

仏ダービー・ロワイヤルオーク賞・オカール賞

1864

Trocadero

バーデン大賞・アンペルール大賞・ドーヴィル大賞・ラクープ・グラディアトゥール賞

1865

Le Bosphore

オカール賞

1865

Le Sarrazin

仏グランクリテリウム・カドラン賞

1865

Nelusco

ロワイヤルオーク賞・ラクープ

1865

Ouragan

ダリュー賞

1866

Boulogne

カドラン賞

1866

Consul

仏2000ギニー・仏ダービー・ギシュ賞

1866

Pandour

オカール賞

1867

Don Carlos

グラディアトゥール賞

1867

Valois

仏2000ギニー

1868

General

モールコームS

1868

Henry

アスコット金杯・アスコットダービー

1869

Reine

英1000ギニー・英オークス

1870

Borely

仏チャンピオンハードル

1871

Novateur

仏2000ギニー

1871

Poudriere

ヴァントー賞

1872

Confiance

ヴァントー賞

1872

Fille du Ciel

サラマンドル賞

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