クレモーン

和名:クレモーン

英名:Cremorne

1869年生

鹿毛

父:パルメザン

母:リゴルボッチェ

母父:ラタプラン

英ダービー・パリ大賞・アスコット金杯といった欧州長距離競走を次々に制覇した、怠惰で大食漢の名長距離馬

競走成績:2~4歳時に英仏で走り通算成績25戦19勝2着4回3着2回

誕生からデビュー前まで

英国ノッティンガムシャー州にある邸宅ラフォードのラフォードアベースタッドにおいて、ヘンリー・サヴィル氏により生産・所有され、ウィリアム・ギルバート調教師に預けられた。

背はあまり高くなかったが、胴長で屈強な筋肉質の馬体を有していた。しかも動きは滑らかで、1歳12月の試走では、後にドンカスターCを勝ちアスコットSを12馬身差で圧勝するウーラン、後のジムクラックS・エボアHの勝ち馬リリアン、後のスチュワーズCの勝ち馬モデナといった同世代の同厩馬を子ども扱いするなど、かなりの素質の持ち主だった。

しかしかなり重大な欠点の持ち主でもあった。それは怠惰な上に、食欲が異常に旺盛だった事である。調教を真面目に走ろうとせず、調教の合間の休憩時間にはいつでも寝ていた。さらに空腹になれば寝具の藁でもなんでも食べようとしたため、ときおりそれが原因で疝痛を発症したという。怠惰な上に食欲旺盛だったため、ギルバート師は本馬の馬体を絞るこむのにそれは苦労したようである。それでもなんとか2歳5月にはデビューに漕ぎ着けた。

競走生活(3歳前半まで)

まずはエプソム競馬場で出走したウッドコートS(T6F)を勝利。ストックブリッジ競馬場で出走したハーストボーンS(T5F)も勝利した。その後はアスコット競馬場で2つの競走に出走したが、いずれも対戦相手がいなかったために単走で勝利した。ニューマーケット競馬場で出走したチェスターフィールドS(T5F)では対戦相手がいたが、やはり勝利を収めた。この頃になると本馬はこの年の2歳馬の中でもトップクラスの馬という評価を得るようになっていた。ヨーク競馬場で出走したノースオブイングランドバイエニアルSも勝利したが、その同じ日に出走したプリンスオブウェールズSでは、オンスローの半馬身差2着に敗れて初黒星。

その後は疝痛を発症したために少し休養を取り、9月にドンカスター競馬場で行われた英シャンペンS(T6F)で復帰して勝利。その2日後にニューマーケット競馬場で出走したスウィープSも勝利した。翌月にはニューマーケット競馬場で行われたクリテリオンS(T6F)に出走したが、ミドルパークプレートの勝ち馬プリンスチャーリー、ヌンハムの2頭に後れを取って、プリンスチャーリーの3着に敗退。2歳時の成績は10戦8勝となった。プリンスチャーリーはスピードに長けた馬だったがスタミナは疑問視されていたため、英ダービーの前売りオッズでは、本馬がミドルパークプレート2着馬ラバーナムと並んで1番人気に支持された。

3歳時は英2000ギニー(T8F17Y)から始動した。しかしここでは単勝オッズ3倍の1番人気に支持されていたプリンスチャーリーとの接戦に首差で屈して2着に敗れた。本馬鞍上のチャールズ・メイドメント騎手は減量に失敗して、プリンスチャーリーに乗っていたジョン・オズボーン騎手より3ポンド重かったそうで、その斤量差が最後に響いたのだとギルバート師は語っている。

その後はニューマーケットS(T10F)に出走して勝利。また、公式戦ではないが、後にこの年のロイヤルハントCを勝つ4歳牡馬リッポンデンとの試走を行い、相手に14ポンドのハンデを与えながら6馬身差で先着した。

競走生活(3歳後半)

そして最大目標だった英ダービー(T12F29Y)に出走した。プリンスチャーリーが単勝オッズ3.5倍の1番人気で、メイドメント騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ4倍の2番人気だった。レース当日は快晴で、非常に多くの観衆がエプソム競馬場に詰めかけていた。スタートが切られるとプリンスチャーリーが逃げ馬を見るように先行し、本馬はそれを見るように好位を追走。坂の頂上から下りに差し掛かる辺りで少し位置取りを上げて3番手に押し上げると、タッテナムコーナーを回りながら先頭のプリンスチャーリーに並びかけていった。そして直線に入ってすぐにプリンスチャーリーをかわして先頭を奪取。プリンスチャーリーは徐々に本馬に付いていけなくなって後方に去り、本馬が完全に抜け出した。しかしここで後方から1頭の馬が強襲してきた。当時は正式な名前が付けられていなかった無名馬(後にペルメルと命名される)だった。ペルメルは本馬から大きく離れた大外を追い上げてきたため、勝ったと思って油断していたメイドメント騎手はその存在に気付くのが遅れたようである。ようやく気付いたメイドメント騎手は慌てて本馬を再び追い出したが、2頭の差はどんどん縮まり、最後はほぼ同時にゴールインした。しかし僅かに本馬が先着しており、頭差で勝利を収めた。ペルメルからさらに3馬身差の3着には、英2000ギニーで本馬から4馬身差の3着だった後のセントジェームズパレスS・プリンスオブウェールズSの勝ち馬クイーンズメッセンジャーが入り、プリンスチャーリーは着外だった。

英ダービーを勝った本馬はすぐに渡仏して、パリ大賞(T3000m)に参戦した。このレースには、仏2000ギニー・仏ダービー・仏グランクリテリウム・コンデ賞・ギシュ賞の勝ち馬レヴィニー、英1000ギニー・英オークスの勝ち馬で仏オークス2着のレーヌ、後にロワイヤルオーク賞を勝つバルビヨンといった、仏国トップクラスの馬達が手ぐすねを引いて待ち構えていた。過去2戦の失態にも関わらず、このレースでも本馬にはメイドメント騎手が騎乗した。本馬はスタートから先行して、直線入り口では早々に先頭に立つという、英ダービーと似たような戦術を採った。そして英ダービーとは異なりメイドメント騎手は油断せずに本馬を追い続けた。今回は直線で本馬に迫ってくる馬はおらず、2着バルビヨンに2馬身差、3着レーヌにはさらに4馬身差をつけて完勝した。英ダービーとパリ大賞を両方勝ったのは、1865年のグラディアトゥール以来7年ぶり史上2頭目だった。パリ大賞に英国調教馬が参戦してきた場合、仏国色が強かったグラディアトゥールなど一部の例外を除いて、仏国の競馬ファンはそれを敵視する事が多かった。本馬も例外ではなく、しかも勝ってしまったために、余計に仏国の競馬ファンは悔しがったという。直線で本馬を追いまくったメイドメント騎手は特に敵視され、レース後に数人の仏国の人に取り囲まれて1時間ほど悪口を言われたという。そのために本馬陣営は早々に英国に戻っていったが、所有者のサヴィル氏はパリ大賞の優勝賞金6千ポンドのうち5千フランをパリの貧困層の人々に寄付していったと伝えられている。

英国に戻ってきた本馬はアスコット競馬場に向かい、バイエニアルSに出走して勝利。引き続き出走したトリエニアルSでは対戦相手がいなかったために単走で勝利した。夏場も休まず走り、グレートヨークシャーS(T14F)に出走。セントジェームズパレスS3着馬で後にシザレウィッチHを勝つキングラッドを4馬身差の2着に下して勝利した。引き続き出走したノースオブイングランドバイエニアルSでは、またも対戦相手がいなかったために単走で勝利した。本馬は英セントレジャーに登録が無かったために出走できず(英ダービーで着外だったウェンロックという馬が勝っている)、その代わりにニューマーケットセントレジャー(T14F)に出走したが、14ポンドのハンデを与えたラバーナムの首差2着に敗れた。敗因は斤量差だけではなかったようで、この頃の本馬は歯の痛みに悩まされており、らしくもなく食欲不振に陥っていたそうである。その後に出走したニューマーケットダービー(T12F)では2着アラヴァに4馬身差で勝利を収め、3歳時を10戦8勝の成績で終えた。本馬が3歳時に稼ぎ出した賞金は1万3650ポンドに達し、これは1頭の競走馬が1シーズンで稼いだ賞金としては過去最高額となった。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、4月にエプソム競馬場で行われたシティ&サバーバンH(T10F)から始動した。このレースには本馬より1歳年上の英国牝馬三冠馬ハンナも参戦してきたが、128ポンドのトップハンデを課されたのは本馬のほうだった。しかし17ポンドのハンデを与えた単勝オッズ41倍の伏兵モーニングトンに足元を掬われて、3/4馬身差の2着に敗れた。このレースでもメイドメント騎手は何らかの騎乗ミスを犯したらしく(その内容に関しては伝わっていない)、ギルバート師は「きちんと乗れば勝てたはずです」とおかんむりだったそうである。

その後は6月のアスコット金杯を目標として、本番前に非公式の試走に出走した。対戦相手は、1歳年下のミドルパークプレート・英シャンペンS・プリンスオブウェールズSの勝ち馬で英2000ギニー・英ダービー2着のカイザー、デビュー前の試走で本馬に苦も無く捻られたウーランとリリアンといった同厩馬達だった。本馬には他3頭より18ポンド重い130ポンドが課せられ、さらには本馬だけ本番と同じ20ハロンの距離を走り、ちょうど中間の10ハロン地点に来た頃に他3頭が走り始めるという内容だった。しかしそれでも本馬が4馬身差で最先着した。

その後はアスコット競馬場でトリエニアルSに出走して単走で勝利。そしてアスコット金杯(T20F)に出走した。シティ&サバーバンHで4着に終わっていたハンナ、一昨年のコロネーションS・シザレウィッチHの勝ち馬コリサンデ、クイーンズヴァーズを勝ってきた3歳馬ソーンに加えて、前年のパリ大賞で本馬の5着に終わった後にカドラン賞・ビエナル賞を勝っていたレヴィニー、モルニ賞・クリテリオンSの勝ち馬で仏ダービー・パリ大賞2着の3歳馬フラジョレといった仏国からの挑戦者も参戦してきて、かなり強力なメンバー構成となっていた。しかしこのレースは単勝オッズ2倍の1番人気に支持された本馬の完全なワンマンショーとなった。スタート直後は歩くようにのろのろと走っていたが、徐々に加速していった。そして残り4ハロン地点で先頭に立つと、そのまま後続を着実に引き離していき、2着フラジョレに8馬身差をつけて圧勝した。この直後にはクイーンアレクサンドラプレート(T24F)に出走。対戦相手はモールコームSの勝ち馬ヴァンダーデッケンだけだった。レースでは大方の予想どおりに本馬が15馬身差で圧勝した。

人間の思惑に振り回された最終戦

このように向かうところ敵無しに見えた本馬だったが、好事魔多しで、アクシデントに襲われた。クイーンアレクサンドラプレートからしばらく経った頃に、道の縁石に躓いた際に脚を痛めてしまったのである。本馬の脚の健は腫れてしまい、まともにレースを走れる状態ではなくなった。ギルバート師はサヴィル氏に連絡を取り、2週間後に予定していたグッドウッドCへの参戦は難しいと伝えた。ところが、本馬が負傷したらしいという情報を密かに入手したブックメーカーがサヴィル氏に対して、本馬がグッドウッドCに出走できるかどうかを賭けようと持ち掛けてきた。これは、本馬がグッドウッドCに出走すれば、本馬の怪我の状態を知らないファン達が本馬に賭け、そして本馬が負ければブックメーカーが大儲けできるという、なんとも姑息な策略だった。本馬のためを思えばサヴィル氏は当然そんな申し出を撥ね付けるべきだった。ところがサヴィル氏がその挑戦を受けたため、本馬はまったく負傷が癒えていない状態でグッドウッドC(T21F)に出走する羽目になった。

3頭立てのレースで本馬は、スタートからゴールまで最後方をとぼとぼと走った。レースは、アスコット金杯で本馬にまるで歯が立たなかったフラジョレが、一昨年の英ダービーと前年のグッドウッドCの勝ち馬で前年のアスコット金杯2着のファヴォニウスに30馬身差をつけて圧勝を収め、本馬はファヴォニウスからも推定不能の大差をつけられて3着最下位に終わった。サヴィル氏はブックメーカーから払い戻しを受けたが、本馬の競走馬としての経歴はこれで終わった。4歳時の成績は5戦3勝だった。一応は5歳時も競走馬登録はされており、シティ&サバーバンHを当面の目標とする計画だったようだが、負傷が癒えなかったために5歳時は1回もレースに出ることは無かった。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第11位にランクインした。しかし本馬の関係者のうち、ギルバート師を除く人達がもう少し優秀な人間だったら、もっと凄い成績を残してさらに上位にランクインしていたような気もする。

血統

Parmesan Sweetmeat Gladiator Partisan Walton
Parasol
Pauline Moses
Quadrille
Lollypop Voltaire Blacklock
Phantom Mare
Belinda Blacklock
Wagtail
Gruyere Verulam Lottery Tramp
Mandane
Wire Waxy
Penelope
Jennala Touchstone Camel
Banter
Emma Whisker
Gibside Fairy
Rigolboche Rataplan The Baron Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Echidna Economist
Miss Pratt
Pocahontas Glencoe Sultan
Trampoline
Marpessa Muley
Clare
Gardham Mare Gardham Falcon Bustard
Petronilla
Muta Tramp
Mandane
Langar Mare Langar Selim
Walton Mare
Clinker Mare Clinker
Bronze

父パルメザンはアスコットゴールドヴァーズ・グレートメトロポリタンHの勝ち馬で、アスコット金杯ではトーマンバイの3着だった。ポニーのように小柄な馬だったらしい。種牡馬としては競走馬時代を上回る成功を収めている。パルメザンの父スウィートミートはマカロニの項を参照。

母リゴルボッチェは不出走馬だが、スカーミッシャー(父ヴォルティジュール)【アスコット金杯】、ザレンジャー(父ヴォルティジュール)【パリ大賞】の半妹であり、血統的には優れていた。繁殖牝馬としては、本馬の半弟アールオブダートレイ(父ジアール)【プリンスオブウェールズS】も産んでいる。

本馬の半姉パトロネージ(父ザプライムミニスター)は米国に繁殖牝馬として輸入され、パティエンス【モンマスオークス】を産んだ。パトロネージの牝系子孫はそれほど大きく繁栄はしなかったが、ストロンボリ【マンハッタンH・ジェロームH・メトロポリタンH・サバーバンH】、プリシラルーリー【アラバマS・ジェロームH・ガゼルH】、アイソレーター【サラトガC2回・ブルックリンH】、ハイシラ【英オークス・英チャンピオンS】、ヴィジョネア【キングズビショップS(米GⅠ)】などが出て、21世紀現在も残っている。

また、本馬の半姉レディヒルダ(父ロードオブジアイルズ)は豪州に繁殖牝馬として輸入され、その子孫からケンナクヘアー【ザメトロポリタン・シドニーC】などが出たが、現在は途絶えているようである。

また、本馬の1歳年上の全姉マビーユは、マズルカ【コロネーションS】の母、ブライアールート【英1000ギニー・ヨークシャーオークス】の祖母となっただけでなく、牝系子孫からクライド【仏オークス・ロワイヤルオーク賞】、スラッシュ【サセックスS・キングズスタンドプレート・ジュライC】、ピーターパン【ベルモントS・ホープフルS】、芦毛の快速馬ザテトラーク、独国の名種牡馬プルヌス【独2000ギニー】、ヤングアイデア【コックスプレート2回・VRCサイアーズプロデュースS・AJCサイアーズプロデュースS・豪シャンペンS・アンダーウッドS2回・コーフィールドギニー・コーフィールドS】、スパイソング【アーリントンフューチュリティ】、日本の名種牡馬ライジングフレーム、コーンハスカー【サンタアニタH・サンフアンカピストラーノ招待H】、クァドラングル【ベルモントS・ピムリコフューチュリティ・ウッドメモリアルS・ドワイヤーH・トラヴァーズS】、サラスト【サセックスS(英GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、クリス【サセックスS(英GⅠ)】、ダイイシス【ミドルパークS(英GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)】、ダッシングブレイド【愛ナショナルS(愛GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)・イタリア大賞(伊GⅠ)】、デヒア【ホープフルS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)】といった馬達を登場させ、後世に大きな影響を与えた。

本馬の6歳年下の全妹トレッビアの曾孫にはケニーエット【アラバマS】が出たが、この牝系はそれ以上続かなかった。→牝系:F2号族③

母父ラタプランはポカホンタスの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、サヴィル氏が所有する生まれ故郷のラフォードアベースタッドで種牡馬入りした。しばらくしてサヴィル氏が死去すると本馬は売りに出されたが、サヴィル氏の一族だったA・S・ラムレイ氏により5400ポンドで買い戻され、引き続きラフォードアベースタッドにおいて種牡馬生活を送った。しかし競走馬を引退した後の本馬は、運動もせずに食べてばかりいた。本馬の食欲旺盛ぶりを知っていたギルバート師は、種牡馬となった本馬を担当する厩務員に対して、1日3時間は運動させるように指示していたのだが、厩務員はその指示を守らなかったようである。そのために本馬はいつしか、誰がどう見ても太り過ぎとなっていた。そして1883年1月に14歳で他界した。死因は心疾患のためとなっているが、その原因がメタボリック症候群だったのはほぼ間違い無さそうである。遺体はラフォードアベースタッドに埋葬され、現在でも墓石が残っている。

本馬の種牡馬としての成績は競走馬時代に比べると明らかに見劣りしたが、その原因の一端には太り過ぎていた事があるのではと言われている。それでも何頭かの活躍馬を出しており、種牡馬として大失敗というほどではなかった。直系は残らなかったが、本馬の血は、娘のケルメッセが優れた牝系を構築した(代表馬はコロンボビッグストーン、キーストン、ウイングアロー、デュランダルなど)事と、息子のスリオがダークロナルドの母父となった事などにより、後世に受け継がれている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1875

Bellicent

ニューS

1875

Thurio

パリ大賞・クレイヴンS

1878

Cameliard

クレイヴンS

1878

Voluptuary

英グランドナショナル

1879

Kermesse

ミドルパークS・ニューS・ジュライS・英シャンペンS

1883

Chelsea

サセックスS

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