デヴィルズバッグ

和名:デヴィルズバッグ

英名:Devil's Bag

1981年生

鹿毛

父:ヘイロー

母:バラード

母父:エルバジェ

2歳時は圧勝に次ぐ圧勝でその強さはセクレタリアトの再来とまで評されたが米国三冠競走前に引退したタイキシャトルの父

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績9戦8勝

誕生からデビュー前まで

加国の名馬産家エドワード・P・テイラー氏により、彼が所有するウインドフィールズファームの米国メリーランド支場において生産された米国産馬である。本馬が誕生する前年に、全姉グローリアスソングがエクリプス賞最優秀古馬牝馬に選ばれる活躍をみせていたため、本馬に対する期待も大きかった。

1歳7月のキーンランドセレクトセールに出品され、米国ヴァージニア州ヒッコリーツリーファームの経営者アリス・デュポン・ミルズ夫人と夫のジェームズ・ポール・ミルズ氏の夫妻により32万5千ドルで購入された。ミルズ夫人は有名なデュポン一族の出身で、女性ながら飛行機乗りであり、第二次世界大戦時には30歳ほどの若さで米国空軍の飛行教官を務めた人物だった。1949年にヒッコリーツリーファームを設立して馬主活動も開始。1966年にはグラッドラグズで英1000ギニーを勝つなど多くのステークスウイナーを所有していた。ミルズ夫妻は本馬を、ボールドイーグルネヴァーベンド、キャノネイド、ダンチヒコンキスタドールシエロなどを手掛けたウッドフォード・C・スティーブンス調教師に預けた。

競走生活(2歳時)

2歳8月にサラトガ競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦で、主戦となるエディ・メイプル騎手を鞍上にデビュー。前評判に違わない走りを披露して、2着チャイムズキーパーに7馬身半差をつけて圧勝した。それから僅か8日後に出走したベルモントパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走は、不良馬場の中でのレースとなったが、2着エグジットファイヴビーに5馬身1/4差をつけて圧勝した。さらに1か月後のカウディンS(GⅡ・D7F)では、2着ドクターカーターに3馬身差をつけて、1分21秒4のレースレコードで勝利。このレース後にスティーブンス師は「51年間も競馬に携わってきましたが、こんな2歳馬は見たことがありません」と賞賛したし、鞍上のメイプル騎手も「かつて騎乗した最良の2歳馬です」と評価した。

続くシャンペンS(GⅠ・D8F)ではさらに着差が広がり、2着ドクターカーターは本馬の6馬身後方、ベルモントフューチュリティS3着馬ヘイルボールドキング、カウディンSで3着だったエグジットファイヴビーはさらに後方でゴールした。スタートから先頭を爆走し、四角で後続馬の騎手が必死に追っているにも関わらず馬なりのまま先頭を維持し、直線ではメイプル騎手が後方を確認しながら走るという次元の違う内容だった。また、勝ちタイム1分34秒2は、1976年の同競走でシアトルスルーが計時した1分34秒4を破るレースレコードだった。

次走ローレルフューチュリティ(GⅠ・D8.5F)でも、2着ヘイルボールドキングに5馬身1/4差をつけて圧勝した。なお、このときの勝ちタイム1分42秒2はスペクタキュラービッドの記録を破るレースレコードだったと記載されている資料があったが、スペクタキュラービッドの同競走における勝ちタイムは1分41秒6だから、この記載は誤りである。それでも同競走史上2位の好タイムではある。

その後はレムセンSへの出走が予定されていたが、軽い挫石のために大事をとって回避となり、2歳戦の出走はローレルフューチュリティが最後となった。なお、本馬不在のレムセンSはドクターカーターが5馬身半差で圧勝している。

2歳12月には早くもクレイボーンファームのセス・ハンコック氏により、3600万ドルの種牡馬シンジケートが組まれた。この額は2歳馬としては史上最高額、3歳以上の馬を含めても世界競馬史上第3位(本馬より上位は、同じ1983年に4000万ドルでシンジケートが組まれたシャリーフダンサーと、前年1982年に3640万ドルでシンジケートが組まれたコンキスタドールシエロの2頭)という超高額だった。ハンコック氏は本馬が3歳限りで引退してクレイボーンファームで種牡馬入りすることと、初年度の種付け料を破格の100万ドルに設定することを発表した。

2歳時は5戦全勝、2着につけた着差は27馬身という圧倒的な強さで、サラトガスペシャルS・ベルモントフューチュリティS・ブリーダーズフューチュリティ・ヤングアメリカS勝ちなど7戦5勝だった同厩馬スウェイルを抑えて、エクリプス賞最優秀2歳牡馬に選出された。エクリプス賞年度代表馬においても有力候補に挙げられていたが、これはオールアロングの次点だった。

競走生活(3歳時)

本馬が3歳になってすぐに発売されたタイム誌の1月2日号では「デヴィルズバッグはセクレタリアトの再来である」という記事が掲載されており、この時点で本馬は既にセクレタリアトに匹敵するほどの器であり、米国三冠の達成は確実とまで目されていたことが分かる。

3歳時は2月にフロリダ州ハイアリアパーク競馬場で行われたフラミンゴプレップS(D7F)から始動して、2着フレンドリーボブに7馬身差をつけて圧勝した。

次走のフラミンゴS(GⅠ・D9F)では、スタート直後からエヴァーグレーズSの勝ち馬タイムフォーアチェンジに競りかけられながらも先頭を維持していた。ところが三角に入ってからの手応えが悪く、四角ではタイムフォーアチェンジに先頭を譲ってしまった。さらには後方から上がってきたドクターカーターにも直線入り口で抜かれてしまった。そしてゴール直前で猛然と追い上げてきたエヴァーグレーズS3着馬レクソンズホープにも差されてしまい、ドクターカーターとの叩き合いを首差で制して勝ったタイムフォーアチェンジから7馬身差をつけられた4着に敗退。無敗記録は6でストップした。この後に発売されたスポーツ・イラストレイテッド誌の3月12日号では「セクレタリアト以来、これほど多くの驚きで迎えられた3歳馬の敗北は近代競馬史において存在しませんでした」という記事が掲載された。

それでも大目標がケンタッキーダービーである事に変わりは無く、そのままケンタッキー州に向かった。そしてキーンランド競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走に調教代わりに出走。2着となったハリウッドプレビューSの勝ち馬ソーヴァーグを15馬身ちぎって、改めてその実力を示した。それから9日後に出走したダービートライアルS(D8F)も、2着となったケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬ビロクシーインディアン(本馬が勝った前年のカウディンSやシャンペンSではいずれも着外だった)に2馬身1/4差で勝利した。これで来たるケンタッキーダービーにおける不動の大本命となった。

ところが本番4日前になってスティーブンス師が、本馬はケンタッキーダービーに出ずにプリークネスSを目標とする旨を発表。ケンタッキーダービーは不参戦となってしまった。そしてケンタッキーダービーを同厩のスウェイルが勝った2日後、獣医師のアレックス・ハートヒル博士が、本馬は右前脚の膝に剥離骨折を発症していることを発表。そのまま米国三冠競走に出走することなく、3歳時4戦3勝の成績で競走馬引退となってしまった。

実はフラミンゴSのレース中に既に骨折しており、以降は骨折したまま走っていたのではないかとも言われており、“Pedigree Online Thoroughbred Database”にも「フラミンゴSで負った怪我により引退した」と書かれている。確かにその可能性は高いと思われるが、真実は闇の中である。

血統

Halo Hail to Reason Turn-to Royal Charger Nearco
Sun Princess
Source Sucree Admiral Drake
Lavendula 
Nothirdchance Blue Swords Blue Larkspur
Flaming Swords 
Galla Colors Sir Gallahad
Rouge et Noir
Cosmah Cosmic Bomb Pharamond Phalaris
Selene
Banish Fear Blue Larkspur
Herodiade
Almahmoud Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Arbitrator Peace Chance
Mother Goose 
Ballade Herbager Vandale Plassy Bosworth
Pladda
Vanille La Farina
Vaya
Flagette Escamillo Firdaussi
Estoril
Fidgette Firdaussi
Boxeuse
Miss Swapsco Cohoes Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Belle of Troy Blue Larkspur
La Troienne
Soaring Swaps Khaled
Iron Reward
Skylarking Mirza
Jennie

ヘイローは当馬の項を参照。

母バラードは競走馬としては8戦2勝だったが、繁殖牝馬として大活躍し、1980年のエクリプス賞最優秀古馬牝馬に選ばれた本馬の全姉グローリアスソング【ラカナダS(米GⅠ)・サンタマルガリータ招待H(米GⅠ)・トップフライトH(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)・ミシガンマイル&ワンエイスH(米GⅡ)・サンタマリアH(米GⅡ)・ドミニオンデイH(加GⅢ)2回】、2005年の北米首位種牡馬に輝いた本馬の全弟セイントバラード【アーリントンクラシックS(米GⅡ)・シェリダンS(米GⅢ)】を産んでいる。グローリアスソングの子には、本邦輸入種牡馬グランドオペラ(メイセイオペラの父)、名種牡馬ラーイ【ベルエアH(米GⅡ)】、シングスピール【ドバイワールドC(首GⅠ)・ジャパンC(日GⅠ)・加国際S(加GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)・英国際S(英GⅠ)・ゴードンリチャーズS(英GⅢ)・セレクトS(英GⅢ)】がいる他、その牝系子孫にはダノンシャンティ【NHKマイルC(GⅠ)】、ヴィルシーナ【ヴィクトリアマイル(GⅠ)2回】、ホワイトフーガ【JBCレディスクラシック(GⅠ)】といった日本でお馴染みの馬もいる。また、本馬の全妹エンジェリックソングの子にはスライゴーベイ【ハリウッドターフCS(米GⅠ)・シネマH(米GⅢ)】、日本で走ったレディバラード【クイーン賞(GⅢ)・TCK女王盃(GⅢ)】がおり、レディバラードの子にはダノンバラード【アメリカジョッキークラブC(GⅡ)・ラジオNIKKEI杯2歳S(GⅢ)】がいる。他にも近親には活躍馬が多数いるが、その詳細はグローリアスソングの項を参照してほしい。→牝系:F12号族①

母父エルバジェは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、予定どおり3600万ドルのシンジケートが組まれ、クレイボーンファームで種牡馬入りした(さすがに種付け料100万ドルとなることはなかったようである)。産駒は早熟傾向が強く、ステークスウイナーは43頭とあまり多くなかったが、それでも複数のGⅠ競走勝ち馬を輩出。日本においても、史上最強マイラーのタイキシャトルの父として著名となった。芝ダートを問わないマイラー血統で、一瞬の差し脚はないが、先行してもばてない粘り強さを持っていた。23歳になった2004年になっても53頭の繁殖牝馬を集める現役種牡馬だったが、翌2005年2月に馬房内で右後脚を骨折したために24歳で安楽死の措置が執られ、クレイボーンファームに埋葬された。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1986

Evangelical

ガーデニアS(米GⅢ)

1986

Twilight Agenda

メドウランズCH(米GⅠ)・ベルエアH(米GⅡ)・デルマーBCH(米GⅡ)・サンパスカルH(米GⅡ)・カーネルFWケスターH(米GⅡ)・サンディエゴH(米GⅢ)・ネイティヴダイヴァーH(米GⅢ)

1987

De La Devil

ゴールデンロッドS(米GⅢ)

1987

Devil's Orchid

サンタモニカH(米GⅠ)・ディスタフH(米GⅡ)・ベッドオローゼズH(米GⅡ)

1987

Diablo

トゥルーノースH(米GⅡ)・フィンガーレイクスBCS(米GⅢ)

1988

Devilish Touch

アスタリタS(米GⅡ)

1989

Devil His Due

ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)2回・ゴーサムS(米GⅡ)・エクセルシオールH(米GⅡ)・ブルックリンH(米GⅡ)・ブラワードH(米GⅢ)

1989

Good Mood

ミスグリオS(米GⅢ)

1989

Region

デルマーバドワイザーBCH(米GⅡ)・ベルエアH(米GⅡ)

1990

Devil Diamond

バルボアS(米GⅢ)

1990

Quebrada

アラク賞(独GⅡ)・ベルリンブランデンブルクトロフィー(独GⅢ)

1991

Abaginone

ポトレログランデBCH(米GⅡ)・ロサンゼルスH(米GⅢ)

1991

Holy Mountain

レキシントンS(米GⅢ)・ラトガーズH(米GⅢ)

1991

Jacodra's Devil

サンタアニタBCH(米GⅢ)

1993

Devil's Cup

カナディアンターフH(米GⅡ)

1993

Devil's Honor

ペンシルヴァニアダービー(米GⅢ)

1993

In Contention

チェリーヒルマイルS(米GⅢ)

1994

タイキシャトル

マイルCS(GⅠ)2回・スプリンターズS(GⅠ)・安田記念(GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・スワンS(GⅡ)・京王杯スプリングC(GⅡ)・ユニコーンS(GⅢ)

1997

ブリーズイン

あすなろ賞(金沢)

2000

Buy the Sport

ガゼルH(米GⅠ)

2000

Diplomatic Bag

アーケイディアH(米GⅡ)

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