トゥエンティグランド

和名:トゥエンティグランド

英名:Twenty Grand

1928年生

鹿毛

父:セントジャーマンズ

母:ボーナス

母父:オールゴールド

ケンタッキーダービーを驚異的レコードタイムで優勝し、3歳後半の強さはマンノウォーの再来とまで言われたが故障や無精子症のため4歳以降は不遇をかこつ

競走成績:2~7歳時に米英で走り通算成績25戦14勝2着4回3着3回

誕生からデビュー前まで

米国の名馬産家ホイットニー一族の一員ウィリアム・ペイン・ホイットニー氏の未亡人だった詩人ヘレン・ジュリア・ヘイ・ホイットニー夫人により、ホイットニー一族が所有する米国ケンタッキー州グリーンツリースタッドにおいて生産された。グリーンツリーステーブル名義で競走馬となり、米国トマス・W・マーフィー調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳4月にジャマイカ競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビューして、2着ソアラに5馬身差をつける圧勝で勝ち上がった。その後は骨膜炎を発症したために少し間隔を空けて、7月にエンパイアシティ競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走に出走したが、後のトレモントS2着馬ファントムスターの1馬身差2着に敗退。その後は再度間隔を空けて、9月にアケダクト競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走に出て、3馬身差で勝利した。それから1週間後に出走したバビロンH(D6F)では、オーメスビーの3馬身半差4着に敗れた。

さらに9日後に出走したジュニアチャンピオンS(D8F)では、オーメスビーに加えて、既にキーン記念S・ジュヴェナイルS・ナショナルスタリオンS・グレートアメリカンS・イースタンショアH勝ちなど13戦7勝の成績を挙げていたエクワポイズとの対戦となった。しかし主戦となるチャールズ・カートシンガー騎手と初コンビを組んだ本馬が、1番人気に支持されていたエクワポイズを1馬身差の2着に、オーメスビーを3着に下して勝利した。

本馬とエクワポイズの2頭は、次走ケンタッキージョッキークラブS(D8F)でも激突。直線では2頭の壮絶な一騎打ちとなったが、本馬がエクワポイズを鼻差抑えて勝利した。勝ちタイムの1分36秒0はコースレコードであり、かつ1マイルの2歳馬全米レコードでもあった。

次走のピムリコフューチュリティ(D8.5F)でも2頭は激突。さらにここには、シャンペンSでエクワポイズを2着に破って勝っていたメイトも出走していた。レースでは直線で激しく競り合う本馬とメイトの2頭を、後方から猛然と追い上げてきたエクワポイズが一気に差して勝利。本馬はエクワポイズから半馬身差の2着、メイトは3着だった。このレースは“The Most Spectacular Race of the Decade(この10年間で最も壮大な競走)”とまで評価される名勝負だった。

次走のウォルデンH(D8.5F)ではエクワポイズは不在だったが、メイト、エンデュランスHの勝ち馬スウィープオールの2頭に敗れて、勝ったメイトから1馬身1/4差3着に終わった。

2歳時は8戦4勝の成績を挙げた本馬だが、この年はエクワポイズの他にも、サラトガスペシャルS・ベルモントフューチュリティSでいずれもエクワポイズを2着に破り、さらにフラッシュS・グランドユニオンS・ユナイテッドステーツホテルSと合計でステークス競走5勝を挙げたジェームズタウンという卓越した成績を残した2歳馬がいた(この年には本馬と未対戦)ため、米最優秀2歳牡馬に本馬が選ばれる余地は無かった(エクワポイズとジェームズタウンが同時受賞)。それでも同世代における最有力馬の1頭としては認知されており、シカゴ・トリビューン紙には、本馬、エクワポイズ、メイト、ジェームズタウンの4頭を“big four”とする記事が掲載された。この年の米国2歳馬にはこの4頭以外にも、ユースフルS・レムセンH・マイアミジュヴェナイルS・ボウイーキンダーガーテンS・アバディーンSなど11戦無敗のヴァンダープール(最終的には15連勝まで記録を伸ばしたが、16戦目で敗れてコリンの記録更新は成らなかった)、米国中西部最速馬と呼ばれたシカゴジュヴェナイルH・クイーンシティH・アイドルアワーS・シンシナティトロフィーの勝ち馬ドンレオンなど素質馬が目白押しであり、米国競馬史上最も2歳馬の層が厚い世代とも評された。

競走生活(3歳前半)

3歳時は管理調教師が変更され、コリンを始めとする数々の名馬を手掛けた米国の伝説的名伯楽サー・ジェームズ・G・ロウ調教師の息子であるジェームズ・ゴードン・ロウ・ジュニア調教師(この年からグリーンツリーステーブルの専属調教師となった)が本馬を預かることになった。まずは5月のウッドメモリアルS(D8F70Y)から始動して、2着クロックタワーに半馬身差で勝利した。

その1週間後には、この年はケンタッキーダービーより1週間早く施行されたプリークネスS(D9.5F)に出走。エクワポイズとメイトが強敵と目されたが、本馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。しかしエクワポイズは裂蹄を発症して本調子ではなかったため4着に敗退。そして本馬も道中でクロックタワーにぶつけられる不利があって仕掛けが遅れてしまい、先に抜け出したメイトを捕らえ切れずに1馬身半差の2着に敗れた。

翌週のケンタッキーダービー(D10F)ではエクワポイズが回避したため、単勝オッズ1.88倍の1番人気に支持された本馬と2番人気馬メイトの事実上の一騎打ちであった。レースでは前走の轍を踏まなかった本馬が、早め先頭から“a smashing burst”と評されたほどの加速を見せて、そのまま2着スウィープオール(前年のウォルデンHで本馬に先着する2着だった)に4馬身差、3着メイトにはさらに3馬身差をつけて完勝した。勝ちタイム2分01秒8は1914年にオールドローズバドが計時した2分03秒4を17年ぶりに更新する驚異的なレースレコードであるばかりか、6年前に計時されていたコースレコード2分03秒2をも更新する素晴らしいものだった。

1か月後のベルモントS(D12F)では、メイトも不在となった。一応ウィザーズSを勝ってきたジェームズタウンが参戦してきてはいたが、もはや本馬に敵う存在ではなく、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された本馬が、2着となったサンフォードSの勝ち馬サンメドウに10馬身差をつける圧勝劇を披露した(ジェームズタウンは3着だった)。

競走生活(3歳後半)

翌7月に出走したドワイヤーS(D12F)でも、2着ブレニム(この前年に英ダービーを制したブレニムとは別馬。古馬になってブルックリンH・エッジメアH・ブルックデールH・アケダクトH・エンパイアシティHなどを勝っている)に2馬身差をつけて快勝した。しかしその2週間後に出走したアーリントンクラシックS(D10F)では、メイトの逆襲に遭い、ケンタッキーダービーで本馬から11馬身差の4着だったルイジアナダービー・ラトニアダービーの勝ち馬スパニッシュプレイにも敗れて、勝ったメイトから4馬身差をつけられる3着と苦杯を舐めた。

しかしその後は立て直し、翌8月のトラヴァーズS(D10F)では、ホイットニーSを勝ってきたサンブリドーを1馬身3/4差の2着に、サンメドウを3着に破って勝利。さらに9月に出走したサラトガC(D14F)では、ホーソーン金杯H2回・アーリントンH・メリーランドH・ラトニアCSS・ポトマックH・アケダクトH・ワシントンH2回・ハヴァードグレイスH・トロントオータムHなどを勝ちこの年に3年連続で米最優秀ハンデ牡馬に選ばれることになるサンボウを10馬身差の2着に切り捨てて圧勝。次走のローレンスリアライゼーションS(D13F)では、2着サンメドウを5馬身ちぎって圧勝した。勝ちタイム2分41秒2は、この11年前にマンノウォーが樹立した驚異的レコードタイムに0秒4及ばないだけという見事なものだった。次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では、単勝オッズ1.02倍という圧倒的な1番人気に応えて、2着ブレニムに3馬身差、3着バロメーターにはさらに7馬身差をつけて完勝を収めた。しかしこのレース中に左前脚を痛めたため、この年の出走はここまでとなった。しかもジョッキークラブ金杯から約1か月後の10月21日に、本馬を一流馬に育て上げたロウ・ジュニア師が心臓麻痺のために42歳で死去するという不幸があった。

それでも3歳時は10戦8勝の好成績で、後年になってこの年の米年度代表馬・最優秀3歳牡馬を受賞した。この3歳後半の時期における本馬の強さは凄まじく、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトによると、マンノウォー以来最高の競走馬とまで言われたという。また、「サルヴェイター」の筆名で知られる米国の伝説的競馬作家ジョン・ハーヴェイ氏は、本馬が大活躍したこの1931年を“the annus mirabilis(ラテン語で「驚異の年」という意味。詳細はアヌスミラビリスの項を参照)”と呼んだし、ブラッドホース誌の編集長ケント・ホリングスワース氏も著書“The Great Ones”の中で本馬を高く評価した。また、競馬作家のJ・A・エステス氏は「グリーンツリーが所有するトゥエンティグランドという馬の名前には魔法がかけられている」と記した。なお、馬名の由来は本馬が産まれてすぐに2万ドルで売ってほしいという申し出があったからだという説が、ケンタッキーダービーの時期に実しやかに囁かれたらしいが、真相は不明である。少なくとも、しばしば米国で言われるらしい、本馬の馬名は購入金額に由来するという説は誤りである(生産者のホイットニー夫人がそのままグリーンツリーステーブル名義で所有しており、他者が購入したという事実は無いため)。

競走生活(4歳時)

4歳時もウィリアム・ブレナン調教師の管理馬として現役を続けたが、ジョッキークラブ金杯で故障した左前脚の状態がかなり悪く(屈腱炎を発症し、神経障害も起こしていたという)、復帰したのはジョッキークラブ金杯からちょうど1年後にベルモントパーク競馬場で行われたダート8ハロンの一般競走だった。ここでは、2着マスクドナイトに半馬身差で辛うじて勝利した。しかし次走ローレル競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走では、マッドフランプの1馬身半差2着に敗退。その後に再度故障を発症した本馬はそのまま4歳時2戦1勝の成績で競走馬を引退した。

種牡馬失格の烙印を押されて競走馬に復帰させられる

そしてグリーンツリースタッドで種牡馬入りしたが、生殖能力が全く欠如している事が判明。そのため1頭の産駒を出すことも出来ず、7歳1月にサンタアニタパーク競馬場で競走馬として復帰させられた。

復帰初戦となったダート7ハロンのハンデ競走は、メイトロンSを勝っていた同厩の牝馬ハイグリーと、まだ現役を続けていたかつての好敵手メイトの2頭に屈して、1分22秒4のコースレコードを樹立したハイグリーの3馬身半差3着に敗退。以前の古傷が一時的に悪化したために短い休養を取った後に出走した翌月のサンタアニタパーク競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走では、これまた現役を続けていたエクワポイズと、プリークネスS以来3年10か月ぶりの対戦となった。レースではエクワポイズが2位入線の本馬に1馬身差をつけてトップゴールしたが、エクワポイズが進路妨害で失格となったため、本馬が繰り上がって2年5か月ぶりの勝ち星を挙げた。この2頭は次走サンタアニタH(D10F)でも顔を合わせたが、既に2頭ともかつての面影は無く、勝ったアズカーから大きく離されて敗れ去った。7馬身半差の7着に終わったエクワポイズはこれを最後に引退・種牡馬入りしたが、9馬身3/4差の10着に敗れた本馬を、馬主のグリーンツリーステーブルはさらに英国に移籍させてまで現役続行させるという行動に出た。

大西洋を渡った本馬はセシル・ボイド・ロックフォート調教師の管理馬となった。そしてまずは6月にアスコット競馬場でクイーンアンS(T7F155Y)に出走したが、後の名種牡馬フェアトライアルの7着に敗北。それでも22頭立ての7着と初芝にしては悪くない結果だったため、陣営はさらに現役続行を強行。10月にニューマーケット競馬場で行われたルトランドH(T12F)に参戦させた。しかし本馬に課せられた斤量はピークを過ぎた馬には過酷とも言える133ポンド。ロバウの着外に惨敗した本馬を見た陣営はようやく現役続行を諦め、7歳時5戦1勝の成績で完全に競走馬生活に終止符を打った。

この時期の米国競馬界は馬を経済動物としてしか見ていない風潮が根強く、本馬と似たような目に遭った馬は他にもいる。現在ではかなり改善されている(日本のほうが遥かに遅れている)が、それは本馬のように酷使を強いられ、悲惨な目に遭いながらも何も言えなかった馬達の歴史の積み重ねによるものだという事を忘れてはならない。

血統

St. Germans Swynford John o'Gaunt Isinglass Isonomy
Dead Lock
La Fleche St. Simon
Quiver
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit
Thrift
Pilgrimage The Palmer
Lady Audley
Hamoaze Torpoint Trenton Musket
Frailty
Doncaster Beauty Sheen
Doncaster Belle
Maid of the Mist Cyllene Bona Vista
Arcadia
Sceptre Persimmon
Ornament
Bonus All Gold Persimmon St. Simon Galopin
St. Angela
Perdita Hampton
Hermione
Dame d'Or Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Dame Masham Galliard
Pauline
Remembrance Broomstick Ben Brush Bramble
Roseville
Elf Galliard
Sylvabelle
Forget Exile Mortemer
Second Hand
Forever Forester
Fidele

父セントジャーマンズはスウィンフォードの直子で、英国クラシック競走を4勝した世紀の名牝セプターの曾孫に当たる。現役成績は20戦9勝。2歳時は未勝利だったが、3歳時に本格化してクレイヴンSを勝ち、英ダービーで2着、エクリプスSで3着と健闘。秋は英セントレジャーを体調不良で回避したが、代わりにライムキルンS・ロウザーS・リヴァプールセントレジャーを勝利。4歳時はコロネーションC・ドンカスターCを勝ち、アスコット金杯で3着した。競走馬引退後は米国に種牡馬として輸入され、受精率の低さに苦しみながらも1931年には本馬の活躍で北米首位種牡馬に輝いた。本馬以外の代表産駒はケンタッキーダービー・プリークネスSの勝ち馬ボールドヴェンチャー、メトロポリタンH3連覇のデヴィルダイヴァー

母ボーナスは現役成績29戦2勝。母としては本馬の半妹アームス(父セントブリドゥー)【ピムリコオークス】も産んでいる。ちなみに、セントブリドゥーはセントジャーマンズの息子である。なお、アームスの牝系子孫はその後主に米国で発展した。アームスの孫にはケープレット【フリゼットS】、クイル【メイトロンS・ガーデニアS・エイコーンS・マザーグースS・デラウェアH】が、曾孫にはトラフィック【ホープフルS】、ワンフォーオール【パンアメリカンS・サンセットH・加国際ナショナルCSS】、コーカサス【愛セントレジャー(愛GⅠ)・サンセットH(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)】が、玄孫にはランザガントレット【ワシントンDS国際S・マンノウォーS・ユナイテッドネーションズH・ガーデンステートS】、そして言わずと知れたマルゼンスキー【朝日杯三歳S】が、牝系子孫には、ダンスオブライフ【マンノウォーS(米GⅠ)】、ヴェットーリ【仏2000ギニー(仏GⅠ)】、アフリートアレックス【プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・ホープフルS(米GⅠ)】、オーサムフェザー【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・ガゼルS(米GⅠ)】、日本で走ったエイシンデピュティ【宝塚記念(GⅠ)】、ハナズゴール【オールエイジドS(豪GⅠ)】などがいる。

ボーナスの半弟にはスターズアンドバーズ(父ペナント)【クラークH】がいる他、ボーナスの半姉ウェンディ(父ピーターパン)の子にはエルフ【ユースフルS】が、孫にはブージャム【ホープフルS】、タングレッド【トップフライトH・ガゼルH】が、曾孫にはパッカジン【シャンペンS】、玄孫世代以降には、フィッシャーマン【カウディンS・シャンペンS・トラヴァーズS・ワシントン国際S】、アンコンシャス【チャールズHストラブS・サンフェリペS・サンアントニオH】、アバター【ベルモントS(米GⅠ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)】、ホークスター【ノーフォークS(米GⅠ)・セクレタリアトS(米GⅠ)・オークツリー招待H(米GⅠ)】、エクストラヒート【プライオレスS(米GⅠ)】、オブヴィアスリー【シューメーカーマイルS(米GⅠ)2回】、日本で走ったマキバスナイパー【帝王賞(GⅠ)】、サウスヴィグラス【JBCスプリント(GⅠ)】、ブラックホーク【スプリンターズS(GⅠ)・安田記念(GⅠ)】、ピンクカメオ【NHKマイルC(GⅠ)】などが、ボーナスの半妹メメント(父ペナント)の牝系子孫には、レストレスウインド【アーリントンフューチュリティ・ワシントンパークフューチュリティ】、ラヴリーマリア【ケンタッキーオークス(米GⅠ)・アッシュランドS(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F5号族①

母父オールゴールドはパーシモン産駒で、現役成績は9戦4勝。これといった勝ち鞍は無く、種牡馬としても成功していない。

競走馬引退後

競走馬を完全に引退した本馬は、いったんテキサス州のキングランチ牧場で暮らした後に、生まれ故郷のグリーンツリースタッドで功労馬として余生を過ごす事を許され、1948年3月に腸捻転のため20歳で他界するまで静かな余生を送った。グリーンツリースタッドには本馬以外にも、ジェロームHなどを勝ったチェリーパイ、米国競馬の殿堂入りも果たしている名障害競走馬ジョリーロジャーといった馬達が余生を送っており、本馬を含むこれらの馬達は“The Gashouse Gang(ガスハウス・ギャング。「工場労働者」の意味で、1934年のワールドシリーズを制した米国メジャーリーグのセントルイス・カージナルスに当時所属していた選手達の渾名。非常に激しいプレーでユニフォームを真っ黒にしていたためにそう言われた)”と呼ばれたという。1957年にはエクワポイズと同時に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第52位。

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