ピカルーン

和名:ピカルーン

英名:Picaroon

1922年生

黒鹿

父:ベッポ

母:キケロネッタ

母父:キケロ

類稀なき能力で歴史的名馬を次々撃破しながらその能力に見合うだけの名声を得られないまま病魔に倒れて歴史に埋もれた悲運の名馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績10戦8勝2着1回

1978年の米国三冠競走において全てアファームドの2着に敗れ、種牡馬入り後に謎の死を遂げたアリダーという馬がいた。上記の経緯からアリダーは不運な馬だったと一般的に言われるのだが、筆者はアリダーの項において、競走馬としても種牡馬としてもその能力に相応しい十分な名声を得たアリダーはむしろ幸運な馬だったと書き、上記の一般論に対する反対意見を述べた。本当に不運な馬とは、競走馬としてその能力に相応しい名声を得たとは言えない上に、種牡馬になる前に夭折してしまった本馬のような馬をこそ言うのである。

誕生からデビュー前まで

かつてベイヤードレンベルグの兄弟、英国三冠馬ゲイクルセイダーといった名馬達を世に送り出した英国の馬産家アルフレッド・ウィリアム・コックス氏の実弟であるアレクサンダー・ロブ・コックス氏により生産・所有された英国産馬である。ウィリアム・コックス氏は1919年に死去したが、彼には妻子がなかったために、弟のロブ・コックス氏が兄の所有していた馬達を相続していたのだった。本馬は、上記に挙げた3頭全てを手掛けた英国アレック・テイラー・ジュニア調教師に預けられた。母キケロネッタは英オークスなどを勝った名牝マイディアの半妹で、父ベッポはそのマイディアの父、キケロネッタの伯父には前述のベイヤードとレンベルグの兄弟がいるという血統は豪華であり、デビュー前から期待馬だった。

競走生活(2歳時)

2歳時にグッドウッド競馬場で行われたロウス記念S(T6F)でデビューして勝ち上がった。その後は9月にケンプトンパーク競馬場で行われたインペリアルプロデュースS(T6F)に向かった。このレースにはリッチモンドSの勝ち馬でナショナルブリーダーズプロデュースS3着のマンナが出走していたのだが、本馬が2着マンナに1馬身差をつけて勝利した。リッチモンドSを6馬身差で圧勝していたマンナを一蹴したその勝ち方から、この時点で既に本馬は同世代最強の2歳馬ではないかと評判になった。

翌10月にはニューマーケット競馬場でミドルパークS(T6F)に出走。マンナに加えて、エクセターSの勝ち馬ソラリオも出走してきたが、本馬が単勝オッズ1.5倍という圧倒的な1番人気に支持された。豪州出身のフランク・ブロック騎手が手綱を取る本馬は、道中の下り坂で少し体勢を崩す場面があったが、ここから猛然と脚を伸ばして先頭を奪い、遅れて追い上げてきた2着ソラリオに1馬身半差、3着マンナにはさらに首差をつけて勝利を収めた。

2歳時の成績は3戦全勝で、2歳フリーハンデでは同じく3戦無敗だった同厩の牝馬ソーシースー(翌年に英1000ギニー・英オークス・コロネーションS・ナッソーSを勝利)の127ポンドより1ポンド低い126ポンドで第2位にランクされた。血統背景から英ダービーでも問題ないと目されたため、翌年の英国クラシック競走の大本命となった。

競走生活(3歳時)

3歳時は英2000ギニーを目指して、前哨戦のクレイヴンS(T8F)から始動した。このレースはソラリオの3歳初戦でもあった。結果は馬なりのまま走った本馬が同厩馬クロスボウ(後にニューマーケットS・ニューマーケットセントレジャー・ロイヤルハントCを勝ち、セントジェームズパレスSで2着している)を2着に従えて勝利を収め、ソラリオは3着に終わった。

ところがこのレース後に本馬の脚に異変が発生。症状は明らかに屈腱炎だった。本馬の走法は蹄の先端を内側に巻き込むようなものだったため、脚にかかる負担が大きかったようである。そして前売りオッズで1番人気に支持されていた英2000ギニーには出走できなかった。それでも英ダービーには出走すると表明されており、実際に英ダービーの前売りオッズは11倍から8倍まで下げられた。しかし脚の状態が改善されなかったため、英ダービーにも出走できなかった。本馬不在の英2000ギニーと英ダービーはいずれもマンナがソラリオを4着に破って勝利したが、本馬が出走していればどんな結果になっただろうか。

本馬は3歳8月にヨーク競馬場で行われたデュークオブヨークプレートで復帰した。事前に状態は良くなっているとの情報が各方面から流れたために断然の1番人気に支持されたものの、結果は後の愛セントレジャー馬スペルソーンの2着だった。本馬はレース前のパドックで右後脚を引きずって歩いており、どう見ても脚は完治していなかった。

それでも翌月の英セントレジャー(T14F132Y)には出走した。テイラー・ジュニア師は本馬ではなくソーシースーを出走させて英国牝馬三冠馬を狙いたかったようだが、事前に本馬とソーシースーを非公式のトライアル競走に出してみたところ、あっさりと本馬が勝ったために諦めたのだった(ソーシースーは代わりにパークヒルSに出走したが3着に終わっている)。この英セントレジャーには英国三冠馬を狙うマンナ、アスコットダービーでマンナに一矢報いた後にプリンセスオブウェールズSを勝っていたソラリオも出走してきて、ミドルパークS以来11か月ぶりに同世代トップクラスの牡馬3頭が揃い踏みする事になった。マンナとソラリオが並んで単勝オッズ4.5倍の1番人気に支持され、明らかに本調子ではなかった本馬は単勝オッズ8倍の3番人気だった。雨が降りしきるために観客席からコース内の様子は良く分からなかったが、逃げると思われていたフォックスロー(後のアスコット金杯の勝ち馬)が出遅れたため、マンナが先頭に立ち、本馬がそれを追って先行、ソラリオがその後方につけたようだった。しかし残り6ハロン地点で仕掛けたソラリオが直線で先頭に立って後続を突き放していった。本馬は直線で内側によれて失速し、勝ったソラリオから約8馬身差をつけられた4着に終わった(マンナは10着だった)。

こんな状態にも関わらず本馬は同月にニューベリー競馬場で行われたキングスクレアプレートに出走した。当時の英国王ジョージⅤ世の所有馬でディーSを勝ちセントジェームズパレスSで3着していたラニミードという馬も出走していたのだが、本馬が単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された。そしてラニミードを2馬身差の2着に破って勝利した。翌10月にはニューマーケット競馬場で無名の競走に出走。ここでも単勝オッズ2倍の1番人気に支持された。レースでは「まるで疾風のように」走り抜けた本馬が、2着ルーファスオマリーに2馬身差をつけて勝利した。

それから2週間後には英チャンピオンS(T10F)に出走。このレースには前年の英チャンピオンSを筆頭にチェシャムS・マーチS・リヴァプールサマーC・デュークオブヨークH2回を勝ち英ダービーで2着していた2歳年上のファロスが現役最後のレースを飾るべく出走してきて、本馬とファロスの2頭立てというマッチレースとなった。レースではファロスが先行して押し切りを図るも本馬がじわじわと追い上げ、最後は本馬がファロスを半馬身差で下して勝利した。その直後に同じニューマーケット競馬場で行われたグレートフォールSにも勝利。3歳時の成績は7戦5勝だった。

脚の状態が悪化して安楽死となる

4歳時も現役を続行。マンナは3歳限りで競走馬を引退したが、ソラリオは現役を続けており、本調子となった本馬とソラリオの対決が待望されていた。ところが前年からずっと調子が悪かった本馬の脚の状態は4歳になっていよいよ悪化。脚の関節は通常時の約3倍まで膨張し、立つ事も出来ない状態となった。ロンドンにある獣医学専門大学ロイヤル・ヴェテリナリー・カレッジで治療が施されたが改善の見込みがなくなったため、安楽死の措置が執られた。4歳時に安楽死となったのは確かなようだが、具体的に何月何日なのかは報じられなかったようで、翌1927年の新聞で「ピカルーンはロイヤル・ヴェテリナリー・カレッジで安楽死となりました」と書かれたのみだった。

本馬を管理したテイラー師は自身が手がけた最良の馬の1頭であると本馬を評したし、主戦を務めたブロック騎手も自身が乗った中ではソーシースーと並んで最も優れた馬だったと評した。

本馬は類稀なる競走能力を有していたはずだが、それに見合うだけの大競走の勝ち鞍を得ることは出来なかった。本馬が勝った主要競走のうち、英チャンピオンSは現在ではGⅠ競走に位置付けられているがその当時は現在の基準ではGⅡ競走程度の格しかなかった。ミドルパークSは当時から現在の基準でもGⅠ競走級の格はあったようだが、所詮は2歳戦だった。

本馬は常に脚に爆弾を抱えながら走っていたようで、その点においては日本で走ったマルゼンスキーと同様である。主な勝ち鞍が朝日杯三歳Sと日本短波賞であるマルゼンスキーと、主な勝ち鞍がミドルパークSと英チャンピオンSである本馬。日本短波賞は現在の基準でGⅢ競走級であるが、ほぼ似たような内容であると言える。マルゼンスキーはクラシック参戦資格が無かったために東京優駿等には参加できず、不運な馬だったと言われた。しかしマルゼンスキーはだからこそ伝説になったとも言えるし、種牡馬としては十分な成績を残した。また、マルゼンスキー陣営は脚の状態に常に細心の注意を払っていたが、本馬陣営はそういった扱いをせず、遂には死に至らしめてしまった。本馬は周囲の人間にも恵まれなかったのである。

本項の最初に挙げたアリダー、それにここで挙げたマルゼンスキー、そして本馬。前2頭が現在でも色々と語り継がれているのとは対照的に、本馬に関しては日本では勿論のこと、地元英国でもあまり知られておらず、歴史の中に埋没している。上記3頭のうち誰が最も不運な馬だったか、もはや議論の余地はないだろう。そんな本馬にスポットライトを当てたのが、英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が1999年に出版した “A Century of Champions”であり、20世紀における英国調教馬の中では第47位の評価を与えている(愛国調教馬も含めると第65位、欧州調教馬全体では第99位)。筆者はあちらこちらで“A Century of Champions”をあまり評価していないと書いているが、このように知られざる名馬に焦点を当てて歴史の中から掘り起こしてくれているという功績は認めている。筆者も“A Century of Champions”に載っていなければ本馬の名前さえも知らなかった可能性が高い。本馬に関してはこうして紹介する事が出来ているが、本当は紹介されるべきなのに出来ていない馬が大勢いるのであろうと思うと、少し無力感が生じてくるものである。

血統

Beppo Marco Barcaldine Solon West Australian
Birdcatcher Mare
Ballyroe Belladrum
Bon Accord
Novitiate Hermit Newminster
Seclusion
Retty Lambton
Fern
Pitti St. Frusquin St. Simon Galopin
St. Angela
Isabel Plebeian
Parma
Florence Wisdom Blinkhoolie
Aline
Enigma The Rake
The Sphynx
Ciceronnetta Cicero Cyllene Bona Vista Bend Or
Vista
Arcadia Isonomy
Distant Shore
Gas Ayrshire Hampton
Atalanta
Illuminata Rosicrucian
Paraffin
Silesia Spearmint Carbine Musket
Mersey
Maid of the Mint Minting
Warble
Galicia Galopin Vedette
Flying Duchess
Isoletta Isonomy
Lady Muncaster

父ベッポはジョッキークラブSやハードウィックS・マンチェスターC・ユニオンジャックSの勝ち馬で、エクリプスS・アスコット金杯では2着、英セントレジャーでは3着だった。種牡馬としても一定の成績を残した。ベッポの父マルコはバーカルディン産駒で、ケンブリッジシャーHを勝ち、英チャンピオンSで2着している。

母キケロネッタはアスコットトライアルS(現クイーンアンS)の勝ち馬。本馬の全妹ジョコンダ【ヨークシャーオークス】、半妹コンコルディア(父サンインロー)【チェヴァリーパークS】も産むなど、繁殖牝馬としても優れた成績を残した。本馬の半妹ジェネファー(父サンインロー)の牝系子孫にはイマージュル【VRCサイアーズプロデュースS・ローズヒルギニー・カンタベリーギニー・AJCダービー】が、コンコルディアの曾孫にはネルシウス【仏ダービー】が、本馬の半妹チャーミアンの子にはワヤンダンク【オーモンドS】がいる。

キケロネッタの半姉にはマイディア(父ベッポ)【英オークス・デューハーストS・英チャンピオンS】がいる他、キケロネッタの半妹ビーラヴド(父ベッポ)の孫には、ヒカルメイジ【東京優駿】、コマツヒカリ【東京優駿】の兄弟の母となった本邦輸入繁殖牝馬イサベリーンがいる。

キケロネッタの母シレジアの半兄にはベイヤード【英セントレジャー・アスコット金杯・ミドルパークS・デューハーストS・エクリプスS・英チャンピオンS・ニューS・リッチモンドS・プリンスオブウェールズS・チェスターヴァーズ】、レンベルグ【英ダービー・ミドルパークS・デューハーストS・エクリプスS・コロネーションC・英チャンピオンS2回・セントジェームズパレスS・ジョッキークラブS・ドンカスターC】がいる。→牝系:F10号族②

母父キケロはサイリーンの直子で、英ダービー・ウッドコートS・コヴェントリーS・ジュライS・ナショナルブリーダーズプロデュースS・ニューマーケットSの勝ち馬。

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