プティトエトワール

和名:プティトエトワール

英名:Petite Etoile

1956年生

芦毛

父:ペティション

母:スターオブイラン

母父:ボワルセル

牡馬顔負けの類稀なスピードから繰り出す追い込みを武器に英1000ギニーや英オークスなど英国の大競走を次々に制覇した芦毛の名牝

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績19戦14勝2着5回

20世紀英国競馬史上において、セプタープリティポリーに匹敵する最高クラスの評価を受けている稀代の名牝。

誕生からデビュー前まで

数々の名馬を送り出したアガ・カーンⅢ世殿下と、息子のアリ・カーン王子の2人によって生産された英国産馬だが、本馬が1歳の時にアガ・カーンⅢ世殿下が79歳で死去したため、アリ・カーン王子の単独所有馬となった。アガ・カーンⅢ世殿下に関してはこの名馬列伝集で何度も触れてきたが、アリ・カーン王子に関して述べた事が無いので、ここで簡単に触れておく。

アリ・カーン王子はアガ・カーンⅢ世殿下の後継者として、イスラム教シーア派の宗派イスマーイール派のイマーム(指導者)としての地位を受け継ぐ存在のはずだった。しかし非常な美男子だったアリ・カーン王子は稀代のプレイボーイとして有名であり、女優リタ・ヘイワースを始めとする数々の女性達と浮名を流した(リタ・ヘイワースとは結婚していた時期があったが、長続きはしなかった)。あまりの素行の悪さのためか、アガ・カーンⅢ世殿下は遺言書の中で、自身の後継者にはアリ・カーン王子ではなく、アリ・カーン王子の息子であるカリム氏(後のアガ・カーンⅣ世殿下)を指名していた(アガ・カーンⅢ世殿下も数々の女性を愛人にしていたから、あまり息子を非難できないと思うのだが)。父が息子をイマームの後継者に指名しなかったのは、1300年に及ぶイスマーイール派の歴史上初めての事だった。しかしアガ・カーンⅢ世殿下は、競馬事業だけは、競馬に興味が無いと公言していた孫のカリム氏ではなく、アリ・カーン王子に委ねたのだった。当のアリ・カーン王子は、自分が後継者に指名されなかった事を特に気にする素振りもなかったという。競馬事業だけでも膨大な財産だった事もあるだろうが、アリ・カーン王子自身が大変な馬好きだった事もあるようで、相続税対策のために競馬事業を縮小するように周囲から勧められても、彼は承知しなかったという。

本馬はそんなアリ・カーン王子が単独で所有した馬の中で最大の大物となるのだが、「小さい星」を意味する馬名が示すように小柄な馬であり、それほど見栄えが良い馬ではなかったようである。また、かなり若い頃から、芦毛である事が一目で分かる白っぽい灰色の毛色だった。英国ノエル・マーレス調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳5月にマンチェスター競走場で行われたプレストウィッチS(T5F)で、マーレス厩舎の専属騎手だったレスター・ピゴット騎手を鞍上にデビューした。しかしレース前に大暴れした影響があったのか、勝ったクライス(翌年にキングズスタンドSを制する名短距離馬)から8馬身差をつけられた2着に敗れた。次走は7月にサンダウンパーク競馬場で行われたスターS(T5F)となり、ここでは2着ミスロンパーに5馬身差で圧勝して初勝利を挙げた。同月にはグッドウッド競馬場でモールコームS(T5F)に出走したが、3着馬アンセリオンには4馬身差をつけるも、クラーケンウェイク(後にクライスが勝ったキングズスタンドSで3着している)の2馬身差2着に敗れた。

翌8月にはサンダウンパーク競馬場でローズS(T5F)に出走。131ポンドという2歳牝馬とは思えない斤量を背負いながらも、単勝オッズ1.17倍という圧倒的な1番人気に応えて、2着ベラフォンテに1馬身差で勝利した。しかしこの斤量が影響したのか、レース後の歩様に異変が生じたため、2歳時はこの出走が最後となった。

この年の成績は4戦2勝とあまり目立つ存在ではなかった。2歳フリーハンデではトップの牡馬テューダーメロディ(チェシャムS・プリンスオブウェールズS勝ちなど6戦5勝)より14ポンドも下で、牝馬トップのコーンウォリスS・コンヴィヴィアルSの勝ち馬でチェヴァリーパークS2着のロザルバ、チェヴァリーパークS・シートンデラヴァルSの勝ち馬リンゼーの2頭よりも9ポンド低かった。この時点における本馬の評価は、単なる早熟の快速馬という程度だったようであり、3歳以降はあまり活躍できないだろうと思われていたようである。

競走生活(3歳前半)

3歳時はニューマーケット競馬場で行われたヨーロピアンフリーH(T7F)から始動した。主戦だったピゴット騎手が本馬ではなく、英国エリザベスⅡ世女王陛下の所有馬だったショートセンテンスに乗ってしまったため、本馬にはダグ・スミス騎手が騎乗した。さらに本馬は126ポンドのトップハンデを課されたたため、単勝オッズ10倍の4番人気とあまり評価されなかった。しかしそんな状況でも本馬は2着チャパクアに3馬身差をつけて勝利を収め、ショートセンテンスは着外に敗れた。

続いて2週間後の英1000ギニー(T8F)に出走。ここでは単勝オッズ9倍で3番人気の評価だった。ピゴット騎手は本馬と同厩のインペリアルプロデュースS2着馬コリーリアに騎乗した。また、アリ・カーン王子も本馬にはあまり期待していなかったようで、自身の専属騎手だったジョージ・ムーア騎手を、自分がより期待していたクリテリウムドメゾンラフィット2着・チェヴァリーパークS3着のパラグアナに乗せてしまった。結局本馬には、前走に引き続きスミス騎手が騎乗することになった。スミス騎手は、前走で本馬に騎乗した際に本馬の素質を感じ取っていたが、英1000ギニーでも自分にお鉢が回ってくるように、あえて自分が抱いた印象を封印して沈黙を守ったのだと、後に述懐している。そして本馬はスミス騎手以外の関係者からの低評価に反発するような走りを披露する。後方からレースを進めると、仕掛けどころで瞬く間に抜け出して、2着ロザルバに1馬身差をつけて優勝。パラグアナはロザルバからさらに4馬身後方の3着に終わり、コリーリアは着外だった。フレッドダーリンSを勝って臨んできたロザルバは後にコロネーションS・クイーンエリザベスⅡ世Sを勝っており、牡馬相手でも引けを取らない名マイラーだった。この勝利でようやく本馬の能力は認められ、主戦はピゴット騎手に固定されることになった。

その1か月後に本馬は英オークス(T12F)に出走。しかし距離不安が囁かれており、単勝オッズ6.5倍の2番人気だった。1番人気は牡馬相手のロイヤルロッジSやリブルスデールSを勝ってきた当時無敗のカンテロだった。カンテロの血統表を見ると、母父は本馬と同じボワルセルだが、父系はコロネーションCの勝ち馬シャントゥール、仏ダービー・カドラン賞の勝ち馬チャトーボスコー、愛セントレジャー馬キルキュビンへと遡る長距離血統だった。勝ったレースの上限がエクリプスSの10ハロンだったペティションの娘である上に、快速ムムタズマハルの牝系出身という本馬とカンテロを比較すると、血統的には確かに本馬がカンテロに12ハロンで勝つのは難しそうである。しかしそんな机上の血統論は、本馬の実力の前には無力だった。やはり後方からレースを進めた本馬は、徐々に位置取りを上げていき、3番手で直線に入ってきた。そして残り1ハロン地点から爆発的な切れ味を繰り出すと、先に抜け出したカンテロを一気に差し切った。最後は2着カンテロに3馬身差、3着となったプリンセスエリザベスSの勝ち馬ローズオブメディナにはさらに5馬身差をつけて完勝した。なお、本馬に完敗を喫したカンテロは、秋に牡馬相手の英セントレジャーを勝利する事になるから、カンテロの血統が長距離向きという血統論者の評価は正しかったことになる。単に本馬のほうが強かったというだけであった。

競走生活(3歳後半)

次走は3週間後のサセックスS(T8F)となった。距離的な不安は全く無かったが、今度は古馬牡馬相手のレースという点に加えて、3歳牝馬なのに130ポンドが課せられたという不安材料があった。それでも既に本馬の実力を疑う人は少なくなっており、単勝オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースでは6頭立ての5番手を粛々と走り、大外を通って進出すると、ゴールまで残り半ハロン地点のところでスパート。前を行くセントジェームズパレスS3着馬パイピングロックやジャージーSを勝ってきたウェルシュガードを計ったように差し切り、2着パイピングロックに3/4馬身差をつけて勝利するという圧巻のレースぶりを見せた。

その後はヨークシャーオークス(T12F)に出走した。マイル戦→12ハロン戦→マイル戦→12ハロン戦という、あまり馬にとって良くない使い方だった。しかし本馬の実力を持ってすれば問題なかったようで、リングフィールドオークストライアルSの勝ち馬でコロネーションS3着のミールナヤを1馬身3/4差の2着に抑えて勝利した。

その後は英国牝馬三冠がかかる英セントレジャーには出ず(やはりスタミナに不安があったためであろう)に、英チャンピオンS(T10F)に出走した。愛セントレジャー勝ちなど無敗のバルクラーイ、仏国から参戦してきたフォンテーヌブロー賞の勝ち馬でリュパン賞2着のジャヴロ(翌年のエクリプスSを勝ち、さらにガネー賞やイスパーン賞も勝つ事になる)といった有力牡馬勢が対戦相手となった。当初はセントジェームズパレスS・ゴードンSの勝ち馬アバヴサスピションも出走予定だったが、直前になって回避したため、アバヴサスピションの所有者だったエリザベスⅡ世女王陛下が英国ジョッキークラブから罰金を科せられるという珍事となった。レースでは、牡馬勢を抑えて単勝オッズ1.18倍という圧倒的な1番人気に支持された本馬が、バルクラーイを半馬身差の2着に、ジャヴロをさらに首差の3着に下して勝利。

3歳時の本馬は6戦全勝と完璧な成績を残した。英タイムフォーム社はこの年の本馬に、3歳馬としては仏ダービー・サンクルー大賞の勝ち馬エルバジェ(136ポンド)に次ぐ134ポンドのレーティングを与え、これは英愛調教の3歳牝馬としては当時史上最高値だった(24年後に短距離女王ハビブティが136ポンドを獲得して更新)。また、前年は振るわなかったフリーハンデでも牡馬を含めて3歳馬トップの133ポンドが与えられた。英ブラッドストックエージェンシー社が“The Bloodstock Breeders' Review(ブラッドストック・ブリーダーズ・レビュー)”において世論調査により実施した英国年度代表馬の選定においては、90%の得票率でタイトルを受賞した。

競走生活(4歳時)

4歳時は5月にケンプトンパーク競馬場で行われたヴィクターワイルドS(T12F)から始動して、2着イリノイに3馬身差で快勝。

ところがこの5日後の5月12日に、本馬の所有者アリ・カーン王子が自動車事故で死去してしまった。仏国ロンシャン競馬場からパーティー会場に向かうために自らスポーツカーを運転していたところ、セーヌ川を渡りきった直後の交差点で対向車と正面衝突したもので、享年49歳だった。同乗していた彼の愛人や後部座席にいた運転手、対向車の運転手は全員無事(ただし愛人のお腹にいた胎児は流産している)であり、アリ・カーン王子だけが死亡した事から、謀殺の噂も流れたが真相は詳らかではない。

そして、本馬を含むアリ・カーン王子の所有馬は全て、当時はまったく競馬に興味が無かった息子のアガ・カーンⅣ世殿下の所有馬となった。アガ・カーンⅣ世殿下が父から受け継いだ馬の中には、この年の仏ダービー・リュパン賞・パリ大賞を勝つシャルロットヴィル、この年のアスコット金杯・サンクルー大賞・バーデン大賞を勝つシェシューン、前年のミドルパークSの勝ち馬でこの年のセントジェームズパレスS・サセックスSを勝つヴェンチアといった有力馬も含まれており、アガ・カーンⅣ世殿下は競馬に関して何も分からない状態で、次々にこの年における欧州大競走を勝ってしまう事になる。

さて、アガ・カーンⅣ世殿下の所有馬となった本馬の次走はコロネーションC(T12F)となった。ここでは同世代の英ダービー馬パーシアとの戦いになった。パーシアは英セントレジャーではカンテロの4着と不覚を取ったが、古馬になってパラダイスS・ジョッキークラブCと2戦連続圧勝で臨んできた。コロネーションCは英ダービーや英オークスと同じエプソム競馬場12ハロンで施行されるレースであり、世代最強馬はどちらなのかがこれで決まる重要な一戦となったが、本馬のほうが単勝オッズ1.33倍という断然の1番人気に支持された。ピゴット騎手鞍上の本馬はやはり後方からレースを進めた。そして直線ではやはり爆発的な末脚を繰り出して、2着パーシアに1馬身半差、3着アバヴサスピションにもさらに1馬身半差をつけて完勝を収めた。この瞬間、本馬は牡馬も含めた同世代の最強馬の地位を確立した。本馬の“devastating speed(破壊的なスピード)”の前では、パーシアも“a selling plate(売りに出された駄馬)”にしか見えなかったという。なお、このレースの後、米国の馬主から32万ポンドで本馬を売ってほしいとの申し出があったが、アガ・カーンⅣ世殿下はそれを拒否したという話が伝わっている。

その後はキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(T12F)に出走して、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。レース当日に雨が降り、スタミナを消耗する重馬場となっていた。本馬の鞍上ピゴット騎手は本馬のスタミナに不安を抱き、いつも以上に後方からレースを進めた。そして直線で内側を突こうとしたが失敗してしまい、その結果として直線で大外に持ち出す羽目になった。そのため仕掛けがいつもよりワンテンポ遅くなり、カンバーランドロッジS・ジョンポーターS・ハードウィックSを勝っていた単勝オッズ13.5倍の5歳馬アグレッサーに半馬身届かず2着に敗れてしまった(英ダービーで3着してきた愛2000ギニー・テトラークSの勝ち馬キトノスが本馬から4馬身差の3着だった)。当時の競馬マスコミはピゴット騎手の騎乗ミスを責めたが、それは結果論であり騎手を責めても無意味であろう。本馬はスピードが売りの馬である事は確かで、下手に前に出ていればもっと悪い結果になっていたかもしれないからである。

その後、英国の競走馬の間で流行ったインフルエンザに感染してしまったため、シーズン後半の出走を自粛して、4歳時の成績は3戦2勝となった。それでも英タイムフォーム社のレーティングでは前年と同じ134ポンドが与えられ、これはナンソープSやキングジョージSを勝った牡馬ブリープブリープと並んで、この年の古馬勢トップタイだった。

競走生活(5歳時)

このまま引退かとの声もあったが、結局5歳時も現役を続行した。まずは5月にサンダウンパーク競馬場で行われたコロネーションS(T10F・現ブリガディアジェラードS)に出走した。130ポンドが課せられたが、単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された。このレースでは、コンデ賞・ドーヴィル大賞の勝ち馬でロワイヤルオーク賞・ガネー賞2着の仏国調教馬ワードパンがあわやの場面を作ったが、3着馬を10馬身置き去りにしてきた本馬が2着ワードパンを首差抑えて勝利した。

次走のコロネーションC(T12F)では、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。レースでは、ウィンストン・チャーチル元英国首相の所有馬だったヴィエナ(後に凱旋門賞馬ヴェイグリーノーブルの父になる)を首差の2着に抑えて2連覇を果たした。コロネーションCを2連覇したのは、1906年のプリティポリー、1908年のザホワイトナイト以来53年ぶり史上3頭目の快挙だった。

アスコット競馬場で出走した次走のロウス記念S(T8F)では131ポンドを課されたが、単勝オッズ1.13倍の1番人気に支持された。レースでは、9ポンドのハンデを与えた4歳牡馬ライトオブウェイを1馬身差の2着に抑えて勝利した。

続いて出走したのは、前年に死去したアリ・カーン王子の追悼競走として、アリ・カーン王子の生前最後に本馬が勝利したヴィクターワイルドSと同じケンプトンパーク競馬場で7月に施行されたアリカーン国際記念金杯(T12F)だった。亡き馬主のためにも勝利で飾りたいところだったが、残念ながら、オックスフォードシャーS・ウィンストンチャーチルSを勝っていた4歳牡馬ハイハット(後の本邦輸入種牡馬)の2馬身差2着に敗れてしまった(3着馬ダイリアラタンには8馬身差をつけていた)。その後は9月にドンカスター競馬場で行われたスカーボローS(T8F)に出走。130ポンドの斤量を跳ね返して、2着フルシャウクロスに3/4馬身差で勝利した。

続いてクイーンエリザベスⅡ世S(T8F)に出走して、単勝オッズ1.22倍の1番人気に支持された。しかし、サセックスSを勝ってきたにも関わらず単勝オッズ21倍の人気薄だったルルヴァンステル(後に凱旋門賞馬レヴモスなどの父になる)の半馬身差2着に敗退した。なお、日本語版ウィキペディアには、本馬の現役最後のレースはキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSであり、前年に批判を浴びた後方待機策ではなく2番手を進むという戦法がとられたがレース終盤に伸びを欠いたと記載されているが、単純にレース名を勘違いしているようであり、本馬は5歳時にキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSには出走していない。

本馬は5歳時6戦4勝の成績で競走馬を引退した。この年の英タイムフォーム社のレーティングは131ポンドで、古馬牝馬では最高値であり、本馬は3歳から5歳まで世代トップの座に君臨し続けた。生涯獲得賞金7万2624ポンドは当時の英愛調教牝馬の最高記録だった(1969年にキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSなどを勝ったパークトップにより破られる)。

競走馬としての特徴と馬名に関して

本馬は生涯3着以下無しという抜群の安定感を誇っていたが、気性面ではかなり問題があったらしく、管理したマーレス師は本馬を“a peculiar animal(気が狂った生き物)”と評している。しかし、同じ芦毛馬と一緒にいるときだけは幸せそうにしていたらしく、マーレス師はそれを利用して本馬を扱ったと言われている。

馬名は仏語で「小さい星」という意味である。仏語読みなら本馬の名は「プチエトワール」だが、英語読みなら「プティトエトワール」である。“Petite”は英語圏でも「小柄な」という意味で使用されており、“Etoile”も一応は英語圏で「星」の意味で使用される事もあるらしいから、どちらが正しいとは断言できないが、本馬は英国産まれの上に英国でしか走った事がないため、本項では英語読みとした。

血統

Petition Fair Trial Fairway Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Lady Juror Son-in-Law Dark Ronald
Mother in Law
Lady Josephine Sundridge
Americus Girl
Art Paper Artist's Proof Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Clear Evidence  Tracery
Honora
Quire Fairy King Desmond
Queen Fairy
Queen Carbine Carbine
Sceptre
Star of Iran Bois Roussel Vatout Prince Chimay Chaucer
Gallorette
Vashti Sans Souci
Vaya
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Mah Iran Bahram Blandford Swynford
Blanche
Friar's Daughter Friar Marcus
Garron Lass
Mah Mahal Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine

父ペティションはフェアトライアル産駒で、現役成績12戦7勝。2歳時にニューS・リッチモンドS・ジムクラックS・英シャンペンSなどを勝ちまくり、英2歳フリーハンデでテューダーミンストレルに次ぐ評価を受けた。3歳時は英2000ギニーでテューダーミンストレルと人気を二部したが、スタートした瞬間に落馬して再騎乗してレースには参加したものの、テューダーミンストレルの着外(記録上は競走中止)に敗退。この際に脚を痛めて長期休養を余儀なくされたが、4歳時に復活してエクリプスSを勝っている。1959年には本馬の活躍で英愛首位種牡馬を獲得し、1963年には英愛2歳首位種牡馬にもなり、1964年に20歳で他界した。後継種牡馬としてはペティンゴが成功している。

母スターオブイランは競走成績こそ12戦1勝と冴えなかったが、血統的には名牝ムムタズマハルの曾孫に当たる世界的名牝系の出身である。本馬もムムタズマハルから優れたスピードと芦毛の馬体を受け継いでいる。本馬の半姉スターオブシラズ(父ヌシオ)の子にはファリスタン【トーマブリョン賞】、玄孫にはマグニフィセントスター【ヨークシャーオークス(英GⅠ)】、日本で走ったラグビーボール【NHK杯(GⅡ)・高松宮杯(GⅡ)】がいる。

スターオブイランの全兄にはミゴリ【凱旋門賞・エクリプスS・英チャンピオンS・デューハーストS・クレイヴンS・キングエドワードⅦ世S・ホワイトローズS】、半兄にはムーンダスト(父スターダスト)【ダイオメドS・クレイヴンS】がいる。スターオブイランの全妹マーベハールの牝系子孫には、アルボラーダ【英チャンピオンS(英GⅠ)2回】、アラムシャー【愛ダービー(愛GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ)】、アルバノヴァ【ドイツ賞(独GⅠ)・ラインラントポカル(独GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)】、オージールールズ【仏2000ギニー(仏GⅠ)・シャドウェルターフマイルS(米GⅠ)】、アランディ【愛セントレジャー(愛GⅠ)・カドラン賞(仏GⅠ)】、ヨセイ【AJCサイアーズプロデュースS(豪GⅠ)・MRC1000ギニー(豪GⅠ)・ウインターS(豪GⅠ)】、日本で走ったワールドクリーク【東京大賞典(GⅠ)】とスマートファルコン【JBCクラシック(GⅠ)2回・東京大賞典(GⅠ)2回・帝王賞(GⅠ)・川崎記念(GⅠ)】の兄弟など、世界各国の活躍馬がずらりと並ぶ。スターオブイランの半妹ダニラ(父ダンテ)の子には、ダラノーア【モルニ賞】とホワイトファイア【クインシー賞】が、スターオブイランの全妹パーシャンガーデンの曾孫には、インナティフ【伊ダービー(伊GⅠ)】とプリンスアーサー【伊2000ギニー(伊GⅠ)】がいる。スターオブイランの母マーイランの半兄には英ダービー馬マームードが、マーイランの半妹マヒーの牝系子孫には東京優駿勝ち馬タニノギムレットがいる。→牝系:F9号族③

母父ボワルセルは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、アガ・カーンⅣ世殿下所有のもと、英国や愛国で繁殖生活を送った。後に世界競馬史上に名を残す名馬産家となるアガ・カーンⅣ世殿下も、この時点では競馬に関しては全くの素人であり(彼が名馬産家となるのは、この後の猛勉強の成果である)、父から受け継いだ馬の大半は結局売却してしまったのだが、本馬を含む数頭だけは手元に留め置いた。売らなかった馬の大半は牝馬であり、アガ・カーンⅣ世殿下はその牝馬達を基礎繁殖牝馬として一から馬産を開始するつもりだったようである。

そしてアガ・カーンⅣ世殿下は、このときに手元に残した牝馬に加えて、後にフランソワ・デュプレ氏やマルセル・ブサック氏といった仏国の名馬産家達が残した繁殖牝馬を買い集める事により、自身の馬産活動を発展させて、世界屈指の名馬産家となるのだが、おそらくアガ・カーンⅣ世殿下が最も期待していたと思われる本馬は、繁殖牝馬としてはその期待に応えられなかった。不受胎や死産が多く、生涯に産んだ子は僅か3頭だった。その3頭は、9歳時に産んだ牡駒アファリダーン(父シャルロットヴィル)、11歳時に産んだ牡駒カザクスタン(父ネヴァーセイダイ)、18歳時に産んだ牝駒ザーラ(父ハビタット)だが、いずれも競走馬としては活躍できず、繁殖牝馬としては完全な失敗と評された。没年すらも不明である。

後世に与えた影響

しかしアガ・カーンⅣ世殿下は、本馬が残した唯一の牝駒ザーラ(現役成績は10戦未勝利)の牝系を大切に保持し続け、その牝系は数十年経過して花開く事になる。ザーラの娘ザリヤ(父ブラッシンググルーム)の曾孫イググは、ハウテンフィリーズギニー(南GⅡ)・サウスアフリカンフィリーズクラシック(南GⅠ)・サウスアフリカンオークス(南GⅠ)の3競走を制して史上初の南アフリカ牝馬三冠馬に輝いたばかりか、ウーラヴィントン2000(南GⅠ)・ダーバンジュライ(南GⅠ)・J&BメトロポリタンS(南GⅠ)なども制して南アフリカの女傑として活躍した。また、ザリヤの半妹ザイラ(父ダルシャーン)は、ザインタ【仏オークス(仏GⅠ)・サンタラリ賞(仏GⅠ)】、ザイヤド【仏チャンピオンハードル(仏GⅠ)2回・ドートンヌ大賞(仏GⅠ)】の母となった。そしてザイラの1歳上の半姉ザルナ(父シェルナザール)の曾孫には、生涯無敗を誇った21世紀の名牝ザルカヴァ【凱旋門賞(仏GⅠ)・マルセルブサック賞(仏GⅠ)・仏1000ギニー(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】が登場した。名牝プティトエトワールの血は決して途絶えてはいなかったのである。

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