マーウェル

和名:マーウェル

英名:Marwell

1978年生

鹿毛

父:ハビタット

母:レディシーモア

母父:テューダーメロディ

当時欧州には3つだった全世代出走可能な6ハロン以下のGⅠ競走キングズスタンドS・ジュライC・アベイドロンシャン賞を同一年に全て制覇した史上唯一の馬

競走成績:2・3歳時に英仏で走り通算成績13戦10勝2着2回

“Flying Filly(天を駆ける牝馬)”の異名を戴いた馬を挙げよと言われた場合、読者の皆さんはどの馬を思い浮かべるであろう。海外の競馬に関してある程度詳しい人であれば、おそらく芦毛の快速馬ザテトラークの娘であるムムタズマハルの名を真っ先に思い浮かべるのではないだろうか。しかし“Flying Filly”の異名で呼ばれた馬はなにもムムタズマハルだけではなく、他にも複数存在している。1981年6月19日付の英国グラスゴーヘラルド紙が“Flying Filly”と表現した本項の主人公マーウェルもその1頭である。本馬には一応ムムタズマハルの血が何本か入っているが、時代が離れすぎている上に、毛色も全然違う(ムムタズマハルは特徴的な芦毛だったが、本馬はありふれた鹿毛)から、本馬がムムタズマハルの再来と言うには無理がある。しかし本馬が短距離戦で披露した爆発的なスピード能力は“Flying Filly”と呼ばれるのに相応しいだろう。

誕生からデビュー前まで

愛国キルデア郡カラーにあるエアフィールドロッジスタッドにおいて、同牧場の所有者一族の1人エドムンド・ローダー氏により生産・所有された。エアフィールドロッジスタッドと言っても日本の競馬ファンには馴染みがないかもしれないが、英国や愛国においては世紀の名牝プリティポリー(本馬の8代母でもある)の生誕地として有名であり、ローダー氏はプリティポリーの生産・所有者だったユースタス・ローダー卿の一族である。本馬は英国マイケル・スタウト調教師に預けられた。同世代同厩には歴史的名馬シャーガー(所有者は異なる)がおり、2頭揃って将来を嘱望されていたが、先に出世したのは本馬のほうだった。

競走生活(2歳時)

2歳7月にニューマーケット競馬場で行われたチェスターフィールドS(T5F)でデビューした。いきなりステークス競走が初戦となったわけだが、4馬身差で圧勝した。その後は7月下旬にグッドウッド競馬場でモールコームS(英GⅢ・5F)に出走した。ここからは名手レスター・ピゴット騎手を主戦に迎えた。ピゴット騎手に見込まれたというだけでも期待度の高さが伺える。このレースには、クイーンメアリーSを勝ってきたプスィー、後に愛フェニックスSを勝つスワンプリンセスなどの姿もあったのだが、本馬が単勝オッズ1.67倍という断然の1番人気に支持された。そして結果も本馬が人気に応えて、スワンプリンセスを2馬身半差の2着に、プスィーをさらに1馬身半差の3着に破って勝利した。

その後は8月にヨーク競馬場で行われるロウサーSに出走する予定だったが、直前になって何故か予定変更してロウサーS翌日のプリンスオブウェールズS(同名の現GⅠ競走とはもちろん別競走)に出た。モールコームSなどに勝利していた本馬には他馬より厳しい斤量が課せられたのだが、7ポンドのハンデを与えた2着ウェルシュウィンに1馬身半差で勝利した。

次走は9月にドンカスター競馬場で行われたフライングチルダースS(英GⅡ・T5F)となった。ピゴット騎手が騎乗停止処分中だったため、このレースではグレヴィル・スターキー騎手が騎乗した。単勝オッズ1.36倍という圧倒的な1番人気に支持された本馬は、スタートで後手を踏んでしまったものの、すぐに馬群の中団好位に取り付いた。残り2ハロン地点に差し掛かって他馬勢の騎手達が一生懸命に追い始めても、スターキー騎手の手は微動だにしていなかった。そして残り1ハロン地点でようやくスターキー騎手が仕掛けると瞬間的に反応した本馬はすぐさま先頭に踊り出て後続を引き離した。そして残り半ハロン地点で後方を振り向いたスターキー騎手は手綱を抑えながら走り、2着となったクイーンメアリーS2着馬ウェルシュウィンに3馬身差、3着となった牡馬トレフォンターネにはさらに2馬身差をつけて勝利した。

そして迎えたのは、当時の英国では唯一の2歳牝馬限定GⅠ競走だったチェヴァリーパークS(英GⅠ・T6F)。ピゴット騎手が鞍上に戻ってきた本馬は、ここでも単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された。そしてウェルシュウィン、ジョエルSを勝ってきたプスィーなどを蹴散らして、2着ウェルシュウィンに1馬身差、3着プスィーにはさらに半馬身差をつけて勝利を収め、2歳時を5戦全勝の成績で終えた。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月のフレッドダーリンS(英GⅢ・T7F)から始動した。このレースからはピゴット騎手に代わって、スタウト厩舎の専属になったばかりだった19歳の若手騎手ウォルター・スウィンバーン騎手(シャーガーの主戦にも抜擢される)を主戦に迎えた。このレースにはこれといった対戦相手がいなかった事もあり、本馬が特に苦労することも無く圧勝した。

そして4月下旬の英1000ギニー(英GⅠ・T8F)に向かったのだが、本馬にはマイル戦でも長いのではないかという意見が噴出しており、単勝オッズ2.5倍の1番人気の座はネルグウィンSを勝ってきたフェアリーフットステップスに譲っていた。フェアリーフットステップスは父がミルリーフで、母父がレルコ、さらにはブリガディアジェラードを父に持つ1歳年上の半兄が英セントレジャー馬ライトキャヴァリーだったため、血統的にはスタミナ面の不安は皆無だったのである。そしてその見立ては正しく、フェアリーフットステップスが、プリンセスマーガレットSの勝ち馬で後にコロネーションSを勝つトルミ、後のナッソーSの勝ち馬ゴーリーシングとの大接戦を制して勝利を収め、本馬はフェアリーフットステップスから僅か1馬身差ながらも4着に敗れてしまった。

競走生活(3歳後半)

その後は短距離路線に進み、5月にヘイドックパーク競馬場で行われたガスデミー記念S(T6F)に出走した。そして同世代のジュライSの勝ち馬エイジクワドアギス以下を圧倒して、「最も印象に残るような」勝利を収めた。

次走は6月のキングズスタンドS(英GⅠ・T5F)となった。古馬相手のレースとなったが、本馬が単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された。レースが始まると本馬は馬群の中団好位を追走。先行したスチュワーズC・パレスハウスSの勝ち馬スタンダーンが残り2ハロン地点で馬群から抜け出したが、残り1ハロン地点でスタンダーンに並びかけた本馬が、ここから「あり得ないほど猛烈な」加速力を披露してスタンダーンを突き放した。最後は2着スタンダーンに2馬身差、3着となった前年の同競走2着馬ランネットにはさらに1馬身半差をつけて勝利した。

続いてジュライC(英GⅠ・T6F)に出走した。このレースには、前年のジュライC・スプリントC・アベイドロンシャン賞・チャレンジS・フォレ賞を勝ち、英タイムフォーム社のレーティングで137ポンドという短距離馬としては歴代屈指の高評価を得ていたムーアスタイルも出走しており、名実共に欧州最強短距離馬決定戦となった。本馬鞍上のスウィンバーン騎手はレース当日の朝に英国ジョッキークラブから別の競走における騎乗内容に関する懲戒処分の弁明機会付与のために呼び出しを受けており、発走直前になってようやくニューマーケット競馬場に駆けつけたところだった。スタートが切られると出走全馬が揃って飛び出し、概ね横一線の状態で全力疾走を続けた。そして残り2ハロン地点で本馬とムーアスタイルの2頭が横一線の中から抜け出した。しかし抜け出してきた際の爆発的な加速力では本馬がムーアスタイルを遥かに上回っており、残り1ハロン地点では既に完全に勝負がついていた。最後は2着ムーアスタイルに3馬身差という決定的な差をつけて勝利を収め、欧州短距離界の頂点に立った。

次走のスプリントCS(英GⅡ・T5F)でも、モーリスドギース賞を勝ってきたムーアスタイルとの対戦となった。本馬は圧倒的な1番人気に支持されたのだが、この日のヨーク競馬場は非常に馬場状態が悪く、それに脚を取られた本馬は2馬身半差の2着に敗退。勝ったのは単勝オッズ15倍の伏兵シャーポだった。この時点では番狂わせと言われたのだが、脚の怪我のため出世が遅れていたシャーポは、翌年と翌々年のスプリントCSも勝利(同競走3連覇は、ナンソープSと改名された今日においても、1928~30年のタグエンドとシャーポの2頭しか達成していない快挙)して、さらにジュライCやアベイドロンシャン賞にも勝利したという事実は念頭に入れておくべきであろう。また、このレースで本馬から1馬身半差の3着に敗れたムーアスタイルだが、その後は何事も無かったかのように、ダイアデムS・チャレンジS・フォレ賞を勝ちまくって引退していった。

一方の本馬は9月のスプリントC(英GⅡ・T5F)に出走した。しかしここでも伏兵ランネットの首差2着に敗れてしまった。ランネットは前述のとおりキングズスタンドSで2年連続入着していたが、グループ競走の勝ちは後にも先にもこの1回きりであり、斤量面でも本馬のほうが8ポンド軽かったから、このレースにおける本馬の敗因は謎である。

次走は仏国のアベイドロンシャン賞(仏GⅠ・T1000m)だった。この当時の欧州における全世代出走可能な6ハロン以下のGⅠ競走は、キングズスタンドS・ジュライC・アベイドロンシャン賞の3つのみであり、本馬がこれを勝てば、1957年にアベイドロンシャン賞が創設されてから初めてこの3競走を全て制覇する快挙を達成できる状況だった。このレースにおける最大の強敵はスプリントCSで本馬を破ったシャーポであり、他にも、モートリー賞・ゴールデネパイチェ・セーネワーズ賞を勝っていた地元仏国の名短距離馬ラブダンなどの姿もあった。レースでは本馬とシャーポの大接戦となったが、本馬がシャーポを首差の2着に、ラブダンをさらに1馬身差の3着に抑えて勝利を収め、史上初の欧州短距離GⅠ競走完全制覇を達成した。

キングズスタンドSは後にGⅡ競走に降格していた時期があったから、そんな単純に言えるものではないだろうが、この3競走を全て制した馬は本馬と2歳年下のハビブティの2頭のみで、この3競走を同一年に全て制した馬は現在でも本馬のみである。

本馬はこのレースを最後に競走馬を引退。3歳時の成績は8戦5勝だった。本馬の競走馬引退より少し前には、3歳になって本馬以上に派手な活躍をした同厩馬シャーガーも引退している。両馬の主戦を務めたスウィンバーン騎手は「マーウェルはとても素晴らしい牝馬で、シャーガーと共に私の名を高める功労馬となってくれました。シャーガーと同じく、私には勿体無いくらいの友人でした」と語っている。

血統

Habitat Sir Gaylord Turn-to Royal Charger Nearco
Sun Princess
Source Sucree Admiral Drake
Lavendula 
Somethingroyal Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Imperatrice Caruso
Cinquepace
Little Hut Occupy Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Miss Bunting Bunting
Mirthful
Savage Beauty Challenger Swynford
Sword Play
Khara Kai-Sang
Decree
Lady Seymour Tudor Melody Tudor Minstrel Owen Tudor Hyperion
Mary Tudor
Sansonnet Sansovino
Lady Juror
Matelda Dante Nearco
Rosy Legend
Fairly Hot Solario
Fair Cop
My Game My Babu Djebel Tourbillon
Loika
Perfume Badruddin
Lavendula
Flirting Big Game Bahram
Myrobella
Overture Dastur
Overmantle

ハビタットは当馬の項を参照。

母レディシーモアは競走馬としては愛フェニックスS(愛GⅡ)など2勝を挙げている。本馬の全兄にはロードシーモア【ミルリーフS(英GⅡ)】が、半妹ダマシーン(父シーニック)の子にはパーフェクトプラム【レゼルヴォワ賞(仏GⅢ)・サンロマン賞(仏GⅢ)】がいる。これだけ見るとスピードに特化した牝系に見えるが、レディシーモアの半姉ジョイフル(父プリンスリーギフト)の孫にはユナイト【英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)】、曾孫にはデルデヤ【プリティポリーS(愛GⅡ)】、ラコンフェデレーション【サンチャリオットS(英GⅡ)】が、レディシーモアの半姉マイアドバンテージ(父プリンスリーギフト)の孫にはピーアン【アスコット金杯(英GⅠ)】、シェイヴィアン【セントジェームズパレスS(英GⅠ)】、ビーマイチーフ【レーシングポストトロフィー(英GⅠ)】がいるなど、必ずしもスピードのみの牝系ではない。ピーアンやユナイトの血統構成(前者は父バスティノで母父ニジンスキー、後者は父クリスで母父ペティンゴ)を見ると、種牡馬の能力を素直に表現する牝系のようである。

レディシーモアの母マイゲームの半兄にはアークティックエクスプローラー【エクリプスS】が、半妹チャーマーの曾孫にはサラブ【フォレ賞(仏GⅠ)】がいる。マイゲームの母フリーティングの半姉にはシーシンフォニー【愛1000ギニー】、半兄にはザコブラー【ミドルパークS】がいる。フリーティングの4代母ポリーフランダースは20世紀初頭英国の名牝プリティポリーの7番子で、同じ牝系からは数多くの活躍馬が出ている。→牝系:F14号族①

母父テューダーメロディはテューダーミンストレル直子で、1958年の英最優秀2歳牡馬。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のエアフィールドロッジスタッドで繁殖入りした。本馬は繁殖牝馬としても一流の成績を残し、牡駒カーウェント(父カーリアン)【愛ナショナルS(愛GⅠ)・愛国際S(愛GⅡ)】、牝駒マーリング(父ロモンド)【チェヴァリーパークS(英GⅠ)・愛1000ギニー(愛GⅠ)・コロネーションS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・クイーンメアリーS(英GⅢ)】など合計8頭の勝ち上がり馬を産んだ。マーリングが3歳時の1992年には愛最優秀繁殖牝馬を受賞している。2002年に繁殖牝馬を引退し、翌2003年10月に老衰のため25歳で安楽死の措置が執られた。惜しむらくは孫世代以降の活躍馬に乏しい事で、日本で一番有名な本馬の孫世代以降の出身馬は、日本に繁殖牝馬として輸入された牝駒カーメリン(父カーリアン)の娘である珍名馬ウォーニングムスメだろうか。

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