ジュピターアイランド
和名:ジュピターアイランド |
英名:Jupiter Island |
1979年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:セントパディ |
母:ミセスモス |
母父:リフォーム |
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欧米で黙々と走っていたが、現役最後のレースとなった第6回ジャパンCで8番人気の低評価を覆してアレミロードとの壮絶な叩き合いを制して優勝する |
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競走成績:3~8歳時に英仏米日で走り通算成績40戦16勝2着4回 |
誕生からデビュー前まで
英国の貴族であるタヴィストック侯爵(後に第14代ベッドフォード公爵)ヘンリー・ロビン・イアン・ラッセル卿と妻のヘンリエッタ夫人の両名により、英国ベッドフォードシャー州ウォバーンにおいて生産された。馬名は米国フロリダ州にあるジュピターアイランド市(タイガー・ウッズを始めとする多くの有名人が邸宅を構える高級住宅地として有名。ちなみに南側には似た名前のジュピター市もあるが別の市である)にちなんでおり、本馬が誕生した際にラッセル卿がジュピターアイランド市に滞在していたための命名である。
1歳時のニューマーケットホーソンセールに出品され、クライヴ・ブリテン調教師により1万ギニーで購入された。名義上の所有者はブリテン師の知人S・M・スレッドウェル氏だったが、事実上はブリテン師が所有者と言ってよかった。
競走生活(2歳時)
2歳7月にニューマーケット競馬場で行われた芝6ハロンの未勝利ステークスでデビューしたが、14着に大敗。次走のニューマーケット競馬場芝7ハロンの未勝利ステークスでも、後の本邦輸入種牡馬トレボロの8着に終わり、2歳時は2戦未勝利に終わった。それでも幼少期からバランスが取れた好馬体と評された本馬は、2歳時のこの成績でもそれほど評価は下がらず、英タイムフォーム社は「距離が伸びればきっと優れた成績を残すでしょう」と太鼓判を押した。
競走生活(3歳時)
3歳時は未勝利の身であるにも関わらず5月のグラスゴーS(T10F)から始動したが、4着に敗退。次走のハリフォードS(T10F)でも9着に終わった。そのためサンダウンパーク競馬場芝10ハロンの未勝利ステークスに向かったが、結果は5着。しかし7月にウルヴァーハンプトン競馬場で出走したキングスウッドS(T12F)を頭差で制して初勝利を挙げた。かなりマイナーなステークス競走ではあったが、初めての12ハロンのレースで初勝利を挙げた事実は、距離が伸びて良いという評価を裏付けるものだった。
しかしグループ競走路線で勝ち負けできるような実力はまだ身についておらず、ブリテン師は本馬をハンデ競走路線に進ませた。まずはウィリアムヒルH(T12F)に出走したが4着に敗退。次走のジョッキークラブH(T12F)も3着に敗れた。しかしヤーマウス競馬場で出走したネルソンH(T11F100Y)を2馬身半差で勝利すると、アスコット競馬場で出たレッドディールH(T12F)では不良馬場の中を快走して8馬身差で圧勝。その後はバスティノH(T10F)で3着、ノーベンバーH(T12F)で8着と連敗し、3歳時を10戦3勝で終えた。
競走生活(4歳時)
4歳時は5月のスプリングH(T11F50Y)から始動して3着。その後はミックルゲートH(T12F)で8着、ベスボローH(T12F)で6着と振るわない結果が続いた。しかし8月にニューマーケット競馬場で行われたニュージーランド航空H(T12F)を首差で勝利して、ヨーク競馬場で行われるハンデ競走路線の大競走エボアH(T14F)に向かった。名手レスター・ピゴット騎手騎乗の本馬は単勝オッズ10倍で出走すると、直線で楽々と抜け出してゴール前では手綱を緩める余裕を見せながら、2着アブドゥンに1馬身半差で勝利を収めた。ピゴット騎手は自分が勝てる可能性があると思う馬にしか乗りたがらないタイプだったが、本馬の事は気に入ったらしく、この後も頻繁に騎乗するようになる。
次走のエサルブックメーカーズH(T14F127Y)では2着に敗れたが、その後はオータムC(T13F60Y)を1馬身半差、サウスフィールドH(T12F)も1馬身半差で連勝。前者は134ポンド、後者は138ポンドを背負っての勝利であり、もはや本馬の能力はハンデ競走路線の範疇に収まるものではなくなっていた。
そこでサウスフィールドHを最後にハンデ競走から離れることになり、次走はニューベリー競馬場で行われたセントサイモンS(英GⅢ・T12F)となった。ピゴット騎手が同日にドンカスター競馬場で別のレースに乗る先約があったため、本馬の鞍上は過去に最もコンビを組んだ回数が多かったフィリップ・ロビンソン騎手だった。単勝オッズ4倍の2番人気で出走した本馬は、直線入り口7番手から鮮やかな差し切りを決め、2着ソートゥルーに2馬身差で快勝。
この段階で英国のマスコミは本馬を「調教により劇的に強くなった最も顕著な例の1つ」であるとして、ブリテン師の手腕を賞賛した。ブリテン師の名声は、翌1984年に名牝ペブルスで英1000ギニーを制覇したことで一層高まる事になるのだが、4歳時を9戦5勝で終えた本馬の翌シーズンは足踏みが続いた。
競走生活(5歳時)
まずは4月のジョンポーターS(英GⅢ・T12F)から始動したが、ゲイリーマーの1馬身3/4差4着に敗退。次走のジョッキークラブS(英GⅡ・T12F)でも、ゲイリーマーの頭差2着に敗れた、続いて出たアストンパークS(T13F)では首差で勝利したが、次走のハードウィックS(英GⅡ・T12F)では、カイールプールの1馬身半差2着に敗退。そこで試みに仏国に遠征してモーリスドニュイユ賞(仏GⅡ・T2500m)に参戦。英国から駆けつけたピゴット騎手騎乗で臨んだのだが、フルオブスターズの2馬身半差4着に敗れてしまった。
英国に戻った本馬は、GⅠ競走初出走となるキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ・T12F)に挑戦。このレースには前年の英ダービーをピゴット騎手騎乗で勝利したティーノソが前走サンクルー大賞を制覇して参戦してきており、さすがにピゴット騎手はティーノソを選択。本馬はロビンソン騎手と共に臨んだのだが、ティーノソの9馬身差6着と完敗した。その後は再び仏国に向かい、ドーヴィル大賞(仏GⅡ・T2700m)に出走したが、ティキングの3/4馬身差3着と惜敗。
英国に戻って出走したカンバーランドロッジS(英GⅢ・T12F)では、ゴントービロン賞・セプテンバーSを連勝してきたベッドタイムに4馬身差をつけられて2着に敗れた。勝ったベッドタイムは次走のジャパンCでカツラギエースの2着に入り、シンボリルドルフとミスターシービーの三冠馬2頭に先着する事になる。
一方の本馬は前年に勝利したセントサイモンS(英GⅢ・T12F)に向かったが、ゲイリーマーの15馬身1/4差6着と惨敗。5歳時は9戦1勝、グループ競走は未勝利という成績に終わった。ちなみにロビンソン騎手はこのセントサイモンS敗退を最後に本馬に乗ることはなかった。
競走生活(6歳時)
6歳時は4月のジョンポーターS(英GⅢ・T12F)から始動した。ここでは単勝オッズ6.5倍の3番人気だったが、初コンビとなるグレヴィル・スターキー騎手を鞍上に、2着イリウムに首差で勝利を収めた。
この時期に本馬の生産者であるラッセル卿は本馬を種牡馬として所有したいと考え、本馬を15万ポンドで買い戻した。すぐには種牡馬入りせずに、しばらくラッセル卿の所有馬、ブリテン師の管理馬として走る事になった。
次走のジョッキークラブS(英GⅡ・T12F)でもスターキー騎手とコンビを組んだが、カーマンの5馬身差3着に敗退。本馬にスターキー騎手が騎乗したのはこの2戦のみであり、この1頭と1人は1年半後に極東の島国で敵としてあいまみえることになる。
本馬の次走はハードウィックS(英GⅡ・T12F)となった。ここでは前年のモーリスドニュイユ賞以来久々にピゴット騎手とコンビを組んだ。得意な不良馬場となったために単勝オッズ3.125倍の1番人気に支持された本馬は、人気に応えて2着サイズミックウェーブに1馬身半差をつけて勝利した。次走のプリンセスオブウェールズS(英GⅡ・T12F)でもピゴット騎手騎乗で出走したが、今回は堅良馬場となってしまい、次走のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを勝つペトスキの7馬身半差4着に敗退。次走のドーヴィル大賞(仏GⅡ・T2700m)ではレース中に負傷してエールドクールの10馬身半差5着と大敗。これを最後にピゴット騎手が本馬に乗ることはなかった。
負傷の程度は軽く、それから1か月半後の凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)へと向かった。しかしトニー・アイヴス騎手騎乗の本馬は単勝オッズ100倍という全くの人気薄。レースは1位入線した前年優勝馬サガスが、2位入線したレインボークエストの進路を妨害したとして着順が入れ代わり、レインボークエストが勝者となったが、本馬はこの2頭の大激戦には全く関わることが出来ず、サガスから6馬身差の8着に敗れた。
そのまま仏国にとどまった本馬は2週間後のコンセイユドパリ賞(仏GⅡ・T2400m)へと向かった。モーリスドニュイユ賞勝ち馬で後のコロネーションC勝ち馬サンテステフや後のドーヴィル大賞勝ち馬ベイビータークといった強敵の姿もあったが、再びアイヴス騎手が騎乗した本馬が直線で力強い末脚を繰り出し、2着ベイビータークに3馬身差をつけて快勝した。
このコンセイユドパリ賞の2週間後、ブリテン師は管理馬のペブルスを米国のBCターフに参戦させて見事に勝利した。そこで本馬も米国遠征に向かう事になり、BCターフから2週間後のワシントンDC国際S(米GⅠ・T2400m)に参戦した。BCターフでペブルスの首差2着だった豪州出身の名馬ストロベリーロードが1番人気に支持され、アイヴス騎手騎乗の本馬は単勝オッズ11倍の5番人気だった。しかし勝ったのはこれが初芝だったサバーバンH・ジョッキークラブ金杯勝ち馬ヴァンランディンガム。2着にオークツリー招待Hやドラール賞の勝ち馬ヤシュガンが入り、本馬はストロベリーロード(8着)や、この年のベルモントS・アメリカンダービー・ジェロームH・スーパーダービー勝ち馬クレームフレーシュ(9着)には先着したものの、ヴァンランディンガムの1馬身1/4差3着に敗れた。6歳時の成績は8戦3勝だった。
競走生活(7歳時)
元々は6歳限りで引退種牡馬入りする計画だったのだが、陣営は予定を変更して7歳時も現役を続行させた。まず目標としたのは米国サンタアニタパーク競馬場で行われるサンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ・T14F)だった。この頃のブリテン師は管理馬のボールドアレンジメントをケンタッキーダービーに向かわせる(結果は惜しくも2着)など、米国遠征にとても積極的だったのである。しかしレース前に脚を負傷してしまい、それをおしてレースには出走したが、前走サンルイレイSでシンボリルドルフを破ったダハール、サンタバーバラH・サンゴルゴーニオHを勝ってきたマウンテンベアの2頭に後れを取り、ダハールの2馬身半差3着に敗れた。
ここで無理をしたために怪我の回復に時間がかかり、復帰したのは半年後のセントサイモンS(英GⅢ・T12F)だった。トニー・マレー騎手騎乗の本馬は単勝オッズ7倍の評価だったが、2着ヴェルデアンティークに1馬身半差をつけて勝ち、同競走3年ぶりの勝利を挙げた。
そして引退レースとしてブリテン師が選択したのが、セントサイモンSから4週間後の第6回ジャパンC(日GⅠ・T2400m)だったのである。対戦相手は、毎日王冠と天皇賞秋を連続レコード勝ちしてきたサクラユタカオー、前年の皐月賞・菊花賞の二冠馬ミホシンザン、オールカマー勝ちなど目下9連勝中の公営所属馬ジュサブロー、NHK杯・高松宮杯勝ち馬で前走菊花賞3着のラグビーボール、前年の天皇賞秋でシンボリルドルフを2着に破って世間を驚愕させたフランス遠征帰りの安田記念馬ギャロップダイナ、この年の天皇賞春の勝ち馬クシロキング、アメリカジョッキークラブC・京都記念の勝ち馬で前年の東京優駿・菊花賞2着のスダホークの日本馬7頭と、前哨戦の富士Sを勝ってきたオセアニア代表のアワウェイバリースター、マルセルブサック賞・愛2000ギニー・英チャンピオンSを勝っていたトリプティク、オイロパ賞を勝ってきた英国調教の3歳牡馬アレミロード、ハリウッドパーク招待ターフH・WLマックナイト2回・ブーゲンヴィリア2回の勝ち馬フライングピジョン、加国三冠競走最終戦のブリーダーズSを牡馬相手に勝っていたEPテイラーS2着馬キャロティーン、伊ダービー・ミラノ大賞・ハンザ賞の勝ち馬トミーウェイの海外馬6頭で、本馬を含めて合計14頭による戦いとなった。
サクラユタカオーが単勝オッズ4.1倍の1番人気、アワウェイバリースターが単勝オッズ4.5倍の2番人気、トリプティクが単勝オッズ7倍の3番人気、ミホシンザンが単勝オッズ7.5倍の4番人気、ジュサブローが単勝オッズ8.6倍の5番人気、アレミロードが単勝オッズ9.7倍の6番人気、フライングピジョンが単勝オッズ13.9倍の7番人気と続き、最初で最後のコンビとなるパット・エデリー騎手騎乗の本馬は単勝オッズ14.9倍の8番人気だった。
スタートが切られるとまずはクシロキングが先頭に立ち、アレミロードが外側から上がって2番手、それからかなり離れた後方の好位にミホシンザン、ジュサブロー、サクラユタカオーといった人気の日本馬勢がつけ、本馬は後方2番手を進んだ。三角に入ったところで出走各馬が団子状態になると、エデリー騎手は本馬をその馬群の中に突っ込ませた。そして巧みに馬群の隙間をすり抜けて、3~4番手で直線に入ってきた。前方ではクシロキングがまだ先頭だったがやがて失速していき、代わりにアレミロードが残り400m地点で先頭に立った。そこへ外側から本馬が並びかけて2頭による壮絶な叩き合いが展開された。アレミロードの鞍上はかつて本馬と共にジョンポーターSを勝利したスターキー騎手。そしてスターキー騎手は半年前の英ダービーでダンシングブレーヴに騎乗して2着に敗れてしまい、その主戦騎手の座をエデリー騎手に譲る事になったという経緯があり、エデリー騎手騎乗の本馬とスターキー騎手騎乗のアレミロードの一騎打ちはまさしく因縁の対決であった。ゴール寸前まではアレミロードが体勢有利だったが、最後の数完歩で本馬が前に出て、2着アレミロードに頭差、3着ミホシンザンにさらに1馬身1/4差をつけて勝利。
勝ちタイム2分25秒0は1981年の第1回ジャパンCでメアジードーツが計時した衝撃の日本レコード2分25秒3を更新するコースレコードだった。英国調教馬がジャパンCを勝ったのは史上初(過去に勝った3頭の海外馬は、メアジードーツとハーフアイストの2頭が米国調教馬で、スタネーラが愛国調教馬)だった。また、7歳馬(当時の日本の表記では八歳馬)が中央競馬のGⅠ競走を制したのも史上初だった。なお、レース後にスターキー騎手が本馬から進路妨害を受けたとして抗議を申し出たが、棄却されている。ダンシングブレーヴをエデリー騎手に取られた上に、ここでもエデリー騎手に負けてしまったスターキー騎手の心中はいかばかりだっただろうか。本馬はこのレースを最後に7歳時3戦2勝の成績で引退した。
血統
St. Paddy | Aureole | Hyperion | Gainsborough | Bayardo |
Rosedrop | ||||
Selene | Chaucer | |||
Serenissima | ||||
Angelola | Donatello | Blenheim | ||
Delleana | ||||
Feola | Friar Marcus | |||
Aloe | ||||
Edie Kelly | Bois Roussel | Vatout | Prince Chimay | |
Vashti | ||||
Plucky Liege | Spearmint | |||
Concertina | ||||
Caerlissa | Caerleon | Phalaris | ||
Canyon | ||||
Sister Sarah | Abbots Trace | |||
Sarita | ||||
Mrs. Moss | Reform | Pall Mall | Palestine | Fair Trial |
Una | ||||
Malapert | Portlaw | |||
Malatesta | ||||
Country House | Vieux Manoir | Brantome | ||
Vieille Maison | ||||
Miss Coventry | Mieuxce | |||
Coventry Belle | ||||
Golden Plate | Whistler | Panorama | Sir Cosmo | |
Happy Climax | ||||
Farthing Damages | Fair Trial | |||
Futility | ||||
Good as Gold | ニンバス | Nearco | ||
Kong | ||||
Gamble in Gold | Big Game | |||
Gold Rush |
父セントパディはオリオールの代表産駒の1頭で、英ダービー・英セントレジャー・エクリプスS・ロイヤルロッジS・ダンテS・グレートヴォルティジュールS・ハードウィックS・ジョッキークラブSを勝ち、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSと英チャンピオンSでも2着するなど、14戦9勝の成績を残した一流長距離馬だった。種牡馬としての成績はまずまずといったところだった。本馬は父が22歳のときに産まれており、父の種牡馬生活最晩年の産駒である。
母ミセスモスは現役成績4戦1勝だが、繁殖牝馬としてはなかなか優秀で、本馬の半姉プッシー(父シャーペンアップ)【クイーンメアリーS(英GⅡ)・ジョエルS(英GⅢ)】、半弟プリコーシャス(父マミーズペット)【ジムクラックS(英GⅡ)・モールコームS(英GⅢ)・ノーフォークS(英GⅢ)】などを産んでいる。プッシーの子にはブルーブック【プリンセスマーガレットS(英GⅢ)・フレッドダーリンS(英GⅢ)・セーネワーズ賞(仏GⅢ)】とマイセルフ【ネルグウィンS(英GⅢ)】の姉妹が、本馬の半妹プットアップオン(父マミーズペット)の子にはポールポジション【エクリプス賞(仏GⅢ)・モートリー賞(仏GⅢ)】とダンスアバウト【サンチャリオットS(英GⅡ)】の兄妹が、本馬の半妹ペデスタル(父ハイライン)の孫にはタヴィストック【マッジウェイパーツワールドS(新GⅠ)・ワイカトドラフトスプリント(新GⅠ)】がいる。→牝系:F14号族②
母父リフォームは、デビュー戦で4着に敗れた以外は3着以下なしの安定感を見せ、英チャンピオンS・セントジェームズパレスS・サセックスS・クイーンエリザベスⅡ世Sなどを制し、通算14戦11勝の成績を残した一流マイラーだった。日本ではトウケイニセイの母父としても知られる。リフォームの父ポールモールは、英2000ギニー・ロッキンジS2連覇など14戦7勝。ポールモールの父パレスタインはフェアトライアル直子で、英2000ギニー・セントジェームズパレスS・サセックスS勝ちなど13戦11勝。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は英国ノーサンプトンシャー州にあるエルムススタッドで種牡馬入りした。平地競走における活躍馬を出すことは無かったが、障害競走における活躍馬を送り出した。1997年に心臓を悪くしたために種牡馬を引退。その後は生まれ故郷のウォバーンにあるブルームズベリースタッドに移って余生を過ごしていたが、1998年7月に19歳で他界した。