ブルーピーター

和名:ブルーピーター

英名:Blue Peter

1936年生

栗毛

父:フェアウェイ

母:ファンシーフリー

母父:ステファンザグレート

第二次世界大戦の勃発により英セントレジャーが開催中止となり、有力視されていた英国三冠の夢を絶たれた悲運の名馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績6戦4勝2着1回

誕生からデビュー前まで

英国バッキンガムシャー州メントモア&クラフトンスタッドにおいて、英国の政治家である第6代ローズベリー伯爵ハリー・プリムローズ卿により生産・所有された。ハリー・プリムローズ卿は、英国首相も務めた第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ卿の息子である。本馬が誕生した時点では既に故人となっていたアーチボルド・プリムローズ卿はなかなかの名馬産家でもあり、ラダス、サーヴィスト、キケロの3頭で英ダービーに優勝していた。アーチボルド・プリムローズ卿が競馬に興味を抱いたのは、妻ハンナ夫人の父メイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド男爵が有力な馬主(ロスチャイルド男爵の代表所有馬である英国牝馬三冠馬ハンナの馬名は彼の一人娘だったハンナ夫人に由来する)であり、ロスチャイルド男爵の死後にハンナ夫人が受け継いだ莫大な財産の中に牧場や馬が多くあった事と無縁ではない。メントモア&クラフトンスタッドはアーチボルド・プリムローズ卿が自身で創設した牧場であり、その死後にハリー・プリムローズ卿が父から受け継いでいた。本馬は、プリムローズ卿親子の専属調教師だったジョン・レイトン・ジャーヴィス師に預けられた。本馬は父フェアウェイに似た逞しい前躯とやや胴長の馬体を有しており、デビュー前から陣営の評価は高かった。

競走生活(2歳時)

ジャーヴィス師は基本的にハード調教で馬を鍛えて強くするタイプの調教師だったのだが、本馬に関しては最初から英国クラシック競走を見据えたために、2歳時における無理使いは控えた。

そのためにデビューは比較的遅くなり、9月にケンプトンパーク競馬場で行われたインペリアルプロデュースS(T6F)となった。結果は、後にチェスターヴァーズ・プリンスオブウェールズS・プリンセスオブウェールズSを勝つヘリオポリス(後に2度の北米首位種牡馬に輝いている)、後のデューハーストSの勝ち馬カサノヴァ、後にセントジェームズパレスSを勝つ同厩馬アドミラルズウォークなど4頭に後れを取って、勝ったヘリオポリスから4馬身差の5着だった。しかし既に出走経験がある馬達に混じってのものであり、初戦としては上出来の内容だった。

2戦目のミドルパークS(T6F)では、勝ったフォックスボロー(米国三冠馬ギャラントフォックスの全弟)から1馬身半差の2着に入り、3着馬には3馬身差をつけた。2歳時はこの2戦のみの出走で未勝利だったにも関わらず、この年の2歳フリーハンデでは第2位にランクされた。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月にエプソム競馬場で行われたブルーリバンドトライアルS(T8.5F)から始動した。ニューSで2着していた後のセントジェームズパレスS2着馬ディアドクなどが対戦相手となったが、本馬が2着ディアドクに4馬身差で圧勝して初勝利を挙げた。

次走の英2000ギニー(T8F)では、主戦のエフ・スミス騎手を鞍上に単勝オッズ6倍の1番人気に支持された。レースでは5番手を先行して残り1ハロン地点で先頭に立ち、同厩馬アドミラルズウォークとの競り合いを半馬身差で制して優勝した。

次走の英ダービー(T12F)では、単勝オッズ4.5倍の1番人気に支持された。27頭という多頭数であり、馬群が密集する中で本馬は3番手につけた。そして直線入り口で先頭のヘリオポリスをかわして抜け出すと、一気に加速して後続を突き放した。最後は追い込んで2着に入ったクリテリオンSの勝ち馬フォックスカブ(後に亜国で首位種牡馬になっている)に4馬身差、3着に粘ったヘリオポリスにさらに3馬身差をつける圧勝を決めた。

次走のエクリプスS(T10F)では、前年の英セントレジャー馬スコティッシュユニオン、クレイヴンS・ジョッキークラブSの勝ち馬で英セントレジャー2着のチャレンジ、インペリアルプロデュースS・ロウス記念Sの勝ち馬グレンローンなどの強豪古馬が相手となった。単勝オッズ1.29倍の1番人気に支持された本馬は道中やや反応が悪かったが、鞍上のスミス騎手が鞭を入れるとようやく加速し、最後は2着グレンローンに1馬身半差で勝利を収めた。

幻の英国三冠馬

その後は英国三冠馬となるべく英セントレジャーに照準を合わせた。この英セントレジャーには、仏ダービー・パリ大賞など3戦無敗の仏国最強馬ファリスも参戦を表明しており、英仏最強馬対決として大きく期待された。ファリスの父ファロスと本馬の父フェアウェイは全兄弟だったが、ファロスが現役時代に10ハロン戦で活躍したのに対して、フェアウェイは現役時代に長距離戦で活躍しており、長距離戦の英セントレジャーでは本馬に分があるのではと言われていた(結果的には、フェアウェイよりファロスの方が長距離馬を多く出しているのだが、当時の人々には分からない事である)。ところが英セントレジャーが行われる直前の9月1日に、独裁者アドルフ・ヒトラーの号令により独国軍がポーランドに侵攻すると、9月3日に英国と仏国が独国に宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発。この影響をまともに受けた英セントレジャーは1776年の創設以来最初で最後の開催中止(第一次世界大戦中はニューマーケット競馬場で代替開催が行われ、第二次世界大戦中も翌1940年からは別の競馬場で代替開催が行われたが、この年だけは代替開催を行う間も無かった)となってしまい、本馬の英国三冠も、世紀の対決も幻に終わってしまった。

結局大戦の影響で競馬の開催規模が大きく縮小されたため、本馬はそのまま競走馬引退となった。幻の三冠馬と言われる馬は数多くいるが、大抵は故障や何らかのミス(騎乗ミスや調整の失敗)による回避や敗戦であり、三冠馬になれるだけの素質はあってもそれ以外の部分に問題があった。しかし本馬の場合はレース自体が行われなかった(馬にも陣営にも責任が無い)わけであり、数多い幻の三冠馬の中でも真に「幻の三冠馬」と言える馬の一頭である。

所有者のハリー・プリムローズ卿は本馬を殊のほか愛しており、「彼はとても穏やかな馬で、まるで人間のようでした。好物ではない食べ物を与えられると、離れたところでそれをじっと見つめて、食べたくない旨を静かに訴えてきました。彼の競走馬としての経歴は道半ばで終わりましたが、それでも彼は私が見た中で最も優れた馬でしたし、おそらく今後も彼ほど優れた馬をみることはないでしょう」と後に述懐している。

血統

Fairway Phalaris Polymelus Cyllene Bona Vista
Arcadia
Maid Marian Hampton
Quiver
Bromus Sainfoin Springfield
Sanda
Cheery St. Simon
Sunrise
Scapa Flow Chaucer St. Simon Galopin
St. Angela
Canterbury Pilgrim Tristan
Pilgrimage
Anchora Love Wisely Wisdom
Lovelorn
Eryholme Hazlehatch
Ayrsmoss
Fancy Free Stefan the Great The Tetrarch Roi Herode Le Samaritain
Roxelane
Vahren Bona Vista
Castania
Perfect Peach Persimmon St. Simon
Perdita
Fascination Royal Hampton
Charm
Celiba Bachelor's Double Tredennis Kendal
St. Marguerite
Lady Bawn Le Noir
Milady
Santa Maura St. Simon Galopin
St. Angela
Palmflower The Palmer
Jenny Diver

フェアウェイは当馬の項を参照。

母ファンシーフリーは現役成績24戦4勝、グレートミッドランドブリーダーズフォールプレートなる競走に勝っている。母としては、本馬の全兄フルセイル【ナショナルブリーダーズプロデュースS】、半弟ネプチューン(父ハイペリオン)なども産んだ。フルセイルは亜国で種牡馬入りし、1946/47・48/49シーズンと2度の亜首位種牡馬、及び1955/56・57/58・58/59シーズンと3度の亜母父首位種牡馬になる成功を収め、ネプチューンも豪州で種牡馬として活躍した。

本馬の半姉スプリングタイム(父アペレ)の玄孫には、1969年の英ダービー馬ブレイクニーと1973年の英ダービー馬モーストンの兄弟がいる。この2頭以外のスプリングタイムの牝系子孫出身馬には、コンヴィニエンス【ヴァニティH・ヴァニティH(米GⅠ)】、ゴールドスプリング【エストレージャス大賞フニオールスプリント(亜GⅠ)・エストレージャス大賞スプリント(亜GⅠ)・マイプ大賞(亜GⅠ)】、サザンスプリング【ホルヘデアトゥーチャ大賞(亜GⅠ)・エストレージャス大賞ジュヴェナイルフィリーズ(亜GⅠ)・ポージャデポトランカス大賞(亜GⅠ)】、クラシッククリシェ【英セントレジャー(英GⅠ)・アスコット金杯(英GⅠ)】、マイエマ【ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)】などがいる。本馬の半姉フラッパー(父フェルスティード)の孫にはビッグディッパー【ミドルパークS】、牝系子孫には、日本で走ったナイスネイチャなどがいる。本馬と英セントレジャーで対戦するはずだったファリスは、ファンシーフリーの曾祖母パームフラワーの半妹ジェニースピナーの5代孫であるから、本馬とファリスは近親とは言えないにしても遠縁には当たる。→牝系:F20号族①

母父ステファンザグレートはザテトラークの直子。2歳時はミドルパークプレート・トリエニアルプロデュースSと2戦2勝。しかし3歳初戦の英2000ギニーのレース中に故障を起こして敗退し引退に追い込まれた。種牡馬としてはいったん米国に輸出されたが後に英国に戻っている。自身と同様に2歳戦で活躍する産駒が多かったが、快速ザテトラーク産駒の割には距離が長い障害競走の活躍馬も多かった。1939年には本馬の活躍により英愛母父首位種牡馬になっている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のメントモア&クラフトンスタッドで種牡馬入りした。初年度産駒のオーシャンスウェルがいきなり英ダービーを勝つ活躍を見せ、この年1944年には僅か2世代の産駒だけで英愛種牡馬ランキング3位(1位は父のフェアウェイ、2位はハイペリオン)に入った。そのため大きく期待を集めたが、その後の産駒成績は伸び悩み、結局オーシャンスウェルが本馬の産駒として唯一の英国クラシック優勝馬だった。

しかし、伊国の名匠フェデリコ・テシオ氏は本馬を高く評価しており、自分の所有する繁殖牝馬ブオナミカをはるばる英国に派遣して本馬と交配させ、名馬ボッティチェリを生産している。ところで、ブオナミカの母父はファロスなのだが、日本の競馬総合サイトであるネット競馬ドットコムで情報を検索すると、実はフェアウェイの父はファラリスではなく、ファロスとフェアウェイは全兄弟ではないのだという説が載っていた。そしてそれを知っていたテシオ氏は、表向きはフェアウェイとファロスの全兄弟クロス(2×3)になる配合を実行したのだという。しかし、確かに英国でも19世紀以前は血統管理がいい加減だった一面があるのは否定しないが、20世紀にもなって、実は違う馬が父親でしたなどという事があり得るのだろうか(悪名高きジャージー規則が制定されたのは1909年。こんな厳しい規則を制定したからには、英国の面子にかけてでも、この年以降の英国における血統管理は徹底されたはずである)。確かにファロスとフェアウェイは距離適性も体格も産駒の傾向もまるで似ていなかったが、全兄弟でもその能力に天と地ほどの差がある事例は枚挙に暇が無い。やはり共に種牡馬として成功したサドラーズウェルズフェアリーキングの全兄弟も、その種牡馬としてのタイプは明らかに異なっていた。ファロスとフェアウェイは似ていないという根拠だけで、全兄弟ではないという話が生じただけではないだろうか。19世紀の名馬にして名種牡馬であるベンドアの血統は間違っていたという話はベンドアの現役時代当初から囁かれており、現在でも研究が続いている(どうも本当に違っていた公算が大きいらしい)が、ファラリス、ファロス、フェアウェイに関しては、そのような研究が行われているという話は聞かない。そういえば、サドラーズウェルズの父もノーザンダンサーではないとする説を某血統研究家が著書の中で主張していたが、ニジンスキーをノーザンダンサーの初年度産駒としている(実際は2年目産駒)など突っ込みどころ満載の珍説なので、サドラーズウェルズの項でも一切触れていない。ファロスとフェアウェイの話もこれと同一の与太話の類であろう。なお、テシオ氏の生産馬には、ボッティチェリに匹敵するかそれ以上の近親交配で誕生した活躍馬もいる。例えば1947年の伊最優秀2歳牡馬ノーサイドは父方の曽祖父と母の父がいずれもアヴルサックであるから、アヴルサックの3×2のクロスとなる。このノーサイド、実はあのネアルコの半弟に当たり、既にネアルコが種牡馬として成功した後にテシオ氏が生産した馬である。著書“Breeding the Racehorse(サラブレッドの生産)”の中で、繁殖能力に悪影響を及ぼす危険性が大きいために強い近親交配は避けなければならないと書き、自家生産馬をあまり用いずに常に新しい血の導入を試みていたテシオ氏だが、ネアルコの母に対してもこんな配合を試みていた(ノーサイドの場合は第二次世界大戦の影響で国外の種牡馬を活用するのが困難だったという理由もあるのだが)わけであり、フェアウェイとファロスの全兄弟クロスを承知の上で実行したとしても何の不思議も無いのである。

話が大きく逸れたので本馬の話に戻るが、本馬は繁殖牝馬の父としての成績がなかなか優秀で、1954年にはエクリプスSを制したキングオブザテューダーズとミドルパークSを制したアワバブーの兄弟などの活躍により、英愛母父首位種牡馬に輝いている。本馬の牝駒を母に持つ馬として日本で最も著名なのはプリンスリーギフトであろう。本馬は1957年に21歳で他界し、メントモア&クラフトンスタッドに建てられていた19世紀半ばの名馬キングトム(本馬にもその血が複数入っている)の像の近くに埋葬された。本馬の直系子孫は豪州で種牡馬入りしたマストヘッドからマトリース、パゴパゴと続く流れが細々と残っていたが、20世紀末にはほぼ途絶してしまったようである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1941

Ocean Swell

英ダービー・アスコット金杯・ジョッキークラブC

1942

Black Peter

ジョッキークラブS

1943

Narses

エドヴィル賞

1944

Apparition

クイーンメアリーS

1944

Mermaid

チャイルドS

1945

Birthday Greetings

リッチモンドS

1945

Cobaltic

プリティポリーS

1946

Eyewash

ランカシャーオークス

1946

First Consul

スチュワーズC

1946

Peter Flower

英チャンピオンS・ハードウィックS

1946

Unknown Quantity

ヨークシャーオークス

1949

Serpenyoe

グリーナムS

1950

Blue Lamp

ニューS

1950

Skye

リブルスデールS・プリンセスロイヤルS

1951

Blue Prelude

ランカシャーオークス

1951

Blue Rod

チェスターヴァーズ

1951

Botticelli

アスコット金杯・伊2000ギニー・伊ダービー・イタリア大賞・エミリオトゥラティ賞2回・ミラノ大賞

1952

Peter Aegus

ロイヤルS

1954

Baron's Folly

クイーンアンS

1954

Messmate

コヴェントリーS

1957

Apostle

ジョッキークラブC・プリンセスオブウェールズS

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