バッズワースボーイ

和名:バッズワースボーイ

英名:Badsworth Boy

1975年生

栗毛

父:ウィルヘイズ

母:ファルカーデ

母父:ファルコン

クイーンマザーチャンピオンチェイスを3年連続でぶっちぎり圧勝した、英国短距離スティープルチェイス界の最強馬

競走成績:3~12歳時に英で走り通算成績54戦26勝(障害競走限定の出走回数や入着回数は不明)

クイーンマザーチャンピオンチェイスについて

英国競馬史上有数の名障害競走馬の1頭であるが、とにかく参考資料が少ない。そのために非常に簡潔な紹介になってしまう事をご了承願いたい。本馬を語る際に決して外せないのはクイーンマザーチャンピオンチェイスというレースであるから、まずはこのレースの説明から始めようと思う。毎年3月に英国チェルトナム競馬場で開催されるチェルトナムフェスティバルのメイン競走の1つである。創設は1959年で、当初はチャンピオンチェイスという名称だったが、1980年に英国エリザベス王太后の名を冠して改名された。同じチェルトナムフェスティバルにおいてはチェルトナム金杯も有名であり、いずれも欧州のスティープルチェイス分野における定量戦の最大競走であるが、決定的に違うのは距離である。チェルトナム金杯は年によって変遷があるが概ね26ハロン以上で施行されるのに対して、クイーンマザーチャンピオンチェイスは創設以来一貫して16ハロン(2マイル)で施行されている。そのため、チェルトナム金杯を走り切るだけのスタミナが無いスティープルチェイスの有力馬にとっては、クイーンマザーチャンピオンチェイスが最大の目標となる。同競走を2連覇した馬は、本馬以外には、1976・77年のスカイマス、1978・79年のヒリーウェイ、1987・88年のパーリーマン、1989・90年のバーンブルックアゲイン、1994・95年のバイキングフラッグシップ、2008・09年のマスターマインディドと6頭いるが、3連覇した馬は本馬のみである。

誕生からデビュー前まで

そこで本馬の紹介に移るが、資料が少なすぎてあまり書くことが無い。英国産馬で、ダグ・アーミテージ氏、モーリス・ギブソン氏、ロナルド・ハウ氏の3名が所有者となっているが、クイーンマザーチャンピオンチェイスの勝ち馬一覧を見ると、3勝利全てでアーミテージ氏の名前のみ挙げられており、共同所有だったのか、3連覇した後に所有者が変わったのかはよく分からない。管理調教師は、当初はマイケル・ディキンソン師だった。後の1987年に渡米して、BCマイルを2回勝ったダホスや、後に北米首位種牡馬となるタピットなどを手掛けることになる“The Mad Genius(狂気の天才)”ディキンソン師は本馬の現役時代には愛国で障害調教師をしており、1982年には1日で12勝(ギネス記録)を挙げたり、1983年のチェルトナム金杯では管理馬で上位5頭を独占(これもギネス記録)したりするなど、愛国のトップ障害調教師だった。彼は本馬が7歳時のクイーンマザーチャンピオンチェイスをラスゴーマンで勝っており、8歳・9歳時の本馬を含めて同競走を3連覇している。しかし本馬が10歳時の1985年からは、彼の母親であるモニカ・ディキンソン師が本馬の管理調教師となっている。どうも本馬はマイケル師の父親でモニカ師の夫であるトニー・ディキンソン師と他2名の家族3人で手掛けていたようである。

競走生活

本馬は当初、スティープルチェイス分野ではなくハードル分野を走っていた。4歳時にチェルトナム競馬場で出走したトライアンフハードル(17F)では、ポラーズタウンの3着と好走している。しかし本馬は障害競走馬としては平地の脚があり過ぎて、飛越は超高速だった。高速である分だけ低空飛行であり、しばしば飛越に失敗していたという。ハードル分野で18戦8勝の成績を残した本馬は、齢を取って平地の脚が衰えて、その分だけ障害を高く飛ぶことが出来るようになったのか、短距離のスティープルチェイス分野に転向する事になった。

そして8歳時のクイーンマザーチャンピオンチェイス(16F)に登場。主戦として本馬の同競走3連覇に全て貢献するロバート・アーンショー騎手が手綱を取る本馬は、レース序盤は6頭立ての4番手を追走。第4障害を飛越した頃に2番手に上がると、第8障害飛越と同時に先頭に立ち、そのまま後続を引き離し始めた。第10障害を飛越した頃には既に後続に10馬身近い差をつけており、鞍上のアーンショー騎手は後方を振り返って状況を確認する余裕があった。その余裕が影響したのか、次の第11障害で飛越に失敗して体勢を崩したが落馬は免れた。後続に15馬身以上の差をつけて直線に入り、最終第12障害を無事に飛越した瞬間に勝負は決まっていた。後続馬が第12障害を飛越したのは、本馬の飛越から約6秒後であり、この段階で既に30馬身以上は優についていた計算になる。観衆の拍手に迎えられながら本馬がゴールしてから約7秒後に2着馬アーティフィスがゴールインした。このレースで本馬がアーティフィスにつけた着差は、1959年の同競走創設以降では最大着差だったが、あまりにも差がついたために公式記録には「大差」としか書かれていない。筆者が映像で測定してみると40馬身差といったところだった。このレースには前年の覇者である前述のラスゴーマンも出走していたのだが、まったく相手にならずに5着に敗れ去っている。しかしこの直後のチェルトナム金杯で、前述のとおりマイケル師が管理馬5頭で上位を独占したため、スポットライトはマイケル師にばかり当たり、本馬の圧勝ぶりはかき消されてしまったそうである。

翌9歳時のクイーンマザーチャンピオンチェイス(16F)では、前年より少し出走頭数が増えて8頭立てとなったが、概ね前年と同様の対戦相手のレベルだった。相変わらず見る者を冷や冷やさせるような低空飛行でなんとか障害を飛越していくと、第11障害飛越と同時に単独先頭に立ち、そのまま直線に突入。直線入り口では後続馬との差は3馬身といったところだったが、最終障害をなんとか飛越した後から一気に後続馬を突き放し、2着リトルベイに10馬身差をつけて圧勝した。

翌10歳時のクイーンマザーチャンピオンチェイス(16F)では、前述のとおりモニカ師が本馬の管理調教師となっていた。その影響かどうかは不明だが、1番人気はボブスラインという馬に譲っていた。しかしボブスラインは第10障害で飛越に失敗して落馬競走中止となったため、本馬の敵はこの段階でいなくなった。2着ファーブリッジに10馬身差をつけた本馬が圧勝し、同競走唯一の3連覇を達成した。

11歳時も現役を続けたが、この年にクイーンマザーチャンピオンチェイスに出走したかどうかは不明である。最後のレースは12歳1月であるらしく、この年は3月に施行されるクイーンマザーチャンピオンチェイスには出走していないようである。とにかく本馬の飛越の低空飛行ぶりは見る者を冷や冷やさせたらしく、本馬のファンに言わせると、圧勝するか落馬するかという、スリリングかつ爽快なレースぶりがたまらなかったらしい。

血統

Will Hays Bold Ruler Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Miss Disco Discovery Display
Ariadne
Outdone Pompey
Sweepout
Broadway Hasty Road Roman Sir Gallahad
Buckup
Traffic Court Discovery
Traffic
Flitabout Challedon Challenger
Laura Gal
Bird Flower Blue Larkspur
La Mome
Falcade ファルコン Milesian My Babu Djebel
Perfume
Oatflake Coup De Lyon
Avena
Pretty Swift Petition Fair Trial
Art Paper
Fragilite Prince Bio
Fanchonnette
Perpelia Red God Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Spring Run Menow
Boola Brook
Ace Of Spades Atout Maitre Vatout
Royal Mistress
Brave Empress Tiberius
Molly Adare

父ウィルヘイズはボールドルーラー産駒の米国産馬。現役成績は26戦4勝で、エルモンテHを勝ち、ルイジアナダービーで3着している。それほど優れた競走成績ではないが、2歳年上の全兄がラフィアンの父レヴュワーだという血統が評価されて種牡馬入りしたようである。種牡馬としては当初は英国か愛国で供用され、後に米国に戻っている様子だが、障害競走馬の父としてはともかく、平地競走馬の父としては成功していない。

母ファルカーデは英国産馬で、競走馬としては5戦未勝利に終わった。ファルカーデの母パーペリアも8戦未勝利。しかし牝系は実はかなりの名門である。パーペリアの半姉サンセットガンの孫にはアーティアス【エクリプスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)】、曾孫には日本で走ったロングイカロス【小倉サマージャンプ(JGⅢ)】がいる。パーペリアの祖母ブレイヴエンプレスの半妹ブレイズンモリーの孫には、言わずと知れた英国平地競走界最高の名馬ブリガディアジェラードがいる。パーペリアの祖母モリーデスモンドはチェヴァリーパークSの勝ち馬で、その母プリティポリーに関してはもはや説明不要だろう。→牝系:F14号族①

母父ファルコンはナイトナースの項を参照。

本馬はプリティポリーの7代孫に当たり、血統表を見てもスピードに勝った血筋が重ねられている。筆者は机上の血統論者ではないが、本馬が障害競走馬としては妙に平地の脚を有していた点に関しては、この血統背景をみると納得してしまいそうである。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬のその後に関しては、2002年10月に心臓発作のため27歳で他界したという事以外に詳しいことは良く分からない。おそらく乗馬か狩猟馬として暮らし、晩年は功労馬として余生を送ったと思われる。

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