セントスティーヴン

和名:セントスティーヴン

英名:St.Steven

1994年生

鹿毛

父:フラタウン

母:ガビー

母父:インザパープル

海外調教馬として史上初めて中山グランドジャンプを制した豪州の名障害競走馬

競走成績:3~11歳時に新豪日で走り通算成績70戦15勝2着6回3着5回(うち障害32戦10勝2着6回3着4回)

誕生からデビュー前まで

B・L・マック・カー氏という人物により生産された新国産馬で、馬主兼調教師をしていたジョン・レイモンド・ウィラー氏により購入され、彼の所有・管理馬となった。

競走生活(3・4歳時)

2歳時である1996/97シーズンには出走せず、3歳になった97/98シーズンの8月に新国ヘイスティングス競馬場で行われたオネカワパークダッシュ(T1200m)でデビューした。結果は14頭立ての5着だった。翌9月にオタキ競馬場で出走した芝1200mの未勝利戦では、後にソーンドンマイル・ワイカトドラフトスプリント・オートオークションズWFAと新国でGⅠ競走3勝を挙げるサーフェイスが勝利を収め、本馬は9着最下位に惨敗。同月にテラパ競馬場で出走したリアルエステート1400(T1400m)で初勝利を挙げた。

その後は新国有数の競馬場であるトレンサム競馬場に向かい、メトリックマイル(T1600m)に出走したが、グレンプレイの7着最下位に惨敗。その後は新国ではマイナーな競馬場であるプケコヘ競馬場に向かい、ラジオパシフィック1400(T1400m)に出走したが、18頭立ての8着に終わった。11月にテラパ競馬場で出走したフレンチコネクションパフューマリー1600(T1600m)では、1歳年上のサービューの12着に大敗。翌12月に同じくテラパ競馬場で出走したニュージーランドバンク2000(T2000m)では14着最下位に沈んだ。年明け後はレースに出走せず、97/98シーズンの成績は7戦1勝に終わった。

翌98/99シーズンは10月にオタキ競馬場で行われたメトロフォード1400(T1400m)から始動したが、ダブルオーウィの5着に敗れた。翌11月にトレンサム競馬場で出走したレンドラム&アソシエイツクラシック(T1400m)も5着。同月には新国ではやはりマイナーな競馬場であるプケクラ競馬場に向かい、カーターズビルディングサプライズ1800(T1800m)に出走したが、10着に敗退。翌12月にプケクラ競馬場で出走したカポンガタヴァン1800(T1800m)では4着。同月にはアワプニ競馬場に赴き、リカーキング2000(T2000m)に出走したが9着に敗れた。1週間後に出走したライオンレッドステイヤーズ2300(T2300m)でも9着に終わった。

年明け1月にはプケクラ競馬場でDBドラフト1800(T1800m)に出走したが、テラトンの8着。その後は一間隔を空けて、5月にアワプニ競馬場で行われたオマハピットメタル1600(T1600m)に出走したが、フライトルテナンの6着に終わった。翌6月にはテラパ競馬場でアイアールエルコマーシャル2000(T2000m)に出走して、ここでようやく2勝目を挙げた。しかし翌7月にトレンサム競馬場で出走したキャピタルタブスシンジケーテッド2200(T2200m)では、クラシックムーンの10着に大敗。4歳時の成績は10戦1勝に終わった。

競走生活(5歳時)

翌99/00シーズンは、前走からちょうど1か月後にテラパ競馬場で行われたレイバー2000(T2000m)から始動したが、エスプリデュノールの7着に敗退。

ここで遂にウィラー氏は本馬の障害転向を決断した。その前から飛越の練習をしていたのか、急仕上げで飛越の特訓を施したのかは定かではないが、障害初戦は前走から僅か2週間後に新国ウェイヴァリー競馬場で行われた距離2750mの障害未勝利戦となった。結果は本馬の勝利。この後は障害競走を基本路線としながら、時々平地競走にも出走するという競走生活を送ることになる。

次走は10月に新国マタマタ競馬場で行われたワイカトケタラズ2000ハードル(2800m)となり、ここでは2着だった。しかし同月にヘイスティングス競馬場で出走したリストリクテッドハードル(2500m)は勝利。その後はいったん平地競走に戻り、前走から1週間後にプケクラ競馬場で行われたパラマウントロッジ1800(T1800m)に出走。このレースを勝利して平地競走3勝目を挙げた。その後は11月にトレンサム競馬場でアッパーハットシティC(T2000m)に出走したが、ここでは9着に惨敗。

その後は一間隔を空けて、次走は翌年2月にテラパ競馬場で行われたオコムオフィスコミニュケーションズ1400(T1400m)となった。しかしこれも6着と完敗した。翌3月にプケクラ競馬場で出走したウォーナムブルーオークバンク1800(T1400m)でもミッドナイトミックスの6着に敗れ、ここでいったん平地競走から離れた。翌4月にはウェイヴァリー競馬場でウォーナムブルーハードルプレリュード(2750m)に出走して勝利。

この時点でウィラー氏は初めて本馬を豪州に派遣して、豪州の障害競走に参戦させることにした。ここで新国と豪州の障害競走事情を見てみる事にする。欧州における障害競走は、飛越力よりも平地の脚が重視される置障害ハードルと、より正確な飛越力と持久力が要求される固定障害スティープルチェイスに大別されているが、それ自体は新国も豪州も大きな違いはない。

しかし障害の高さや素材、設置方法などを見ると、豪州の障害はハードルもスティープルチェイスも比較的飛越が容易であるのに対して、新国の障害はいずれも飛越難易度が高いらしい。したがって、飛越力だけで言えば、新国の障害競走で通用する能力があれば、豪州の障害競走でもまず通用するらしい。

本馬はレース名から分かるとおり、新国ではハードル競走を走っていた。しかし本馬には新国のハードル競走で活躍できる程度の平地の脚はあったが、豪州のハードル競走で要求されるほどの脚は無かったと思われる。本馬は豪州ではハードル競走を一切走らずにスティープルチェイス競走のみを走ることになるのだが、飛越能力や平地の脚などの条件を天秤にかければ、それが最善の選択だったと思われるのである。

豪州デビュー戦は、オークバンク競馬場で行われたフォンドゥーサスティープルチェイス(3250m)だった。しかし前走から13日後という強行軍が影響したのか、人気に応えられずに、ギリガンの4着に終わった。それから僅か2日後に出走したのは、豪州最大級の障害競走の1つグレートイースタンスティープルチェイス(4950m)だった。過去に経験したことが無い長距離競走となったが、ブルスキンの2着に入り、距離が伸びてよい一面を垣間見せた。

翌5月にはウォーナムブール競馬場で、これまた豪州最大級の障害競走の1つグランドアニュアルスティープルチェイス(5500m)に出走したが、ここではミラクルズスターの5着に敗退。

その後は一間隔を空けて、7月にモーニントン競馬場で行われた平地競走プログレスサインオープン(T2000m)に出走したが、マジックプレシュの14着最下位に敗退。その9日後にはムーニーバレー競馬場でマイル戦の平地競走ヴァンペリオープンに出走する予定だったが回避。それからさらに5日後にはモーニントン競馬場でカールトンスティープルチェイス(3400m)に出走して勝利を収めた。平地競走を叩いて障害競走に参戦させるのは、ウィラー氏の調整方法の一環だった可能性が高そうで、この後もこの方法は多用されることになる。

しかしそれからさらに9日後にムーニーバレー競馬場で出走したエイーヴィーヒスケンススティープルチェイス(3700m)では、ロジシャンの5着に敗退。5歳時の成績は15戦5勝(うち障害9戦4勝)となった。

競走生活(6歳時)

翌00/01シーズンは、前走から3週間後に同じムーニーバレー競馬場で行われたウォーターフォードスティープルチェイス(3700m)に出走して、コーカーズボーイの2着。

その後は新国に戻って長期休養に入った。再び競馬場に姿を現したのは翌年3月で、出走したのはウォーナムブール競馬場で行われたイートウェルライブウェルグランドアニュアルスティープルチェイス(5500m)だった。しかし結果は6着に敗退。いったん新国に戻り、マタマタ競馬場でプケクラオープンハードル(2600m)に出走して3着。その後は再び豪州に向かい、オークバンク競馬場でフォンドゥーサスティープルチェイス(3250m)に出走して、ジャールの2着。

それから僅か2日後に出走したグレートイースタンスティープルチェイス(4950m)では2着ハイバーニアンプリンス以下に勝利を収め、前年2着の雪辱を果たした。

翌月にはこれも前年に出走したレースであるグランドアニュアルスティープルチェイス(5500m)に出走したが、前年より1つ順位を上げただけで、前走で負かしたハイバーニアンプリンスの4着に終わった。どうも本馬は距離が4000m代のレースが良く、5000mを超えると少し長いようだった。

次走は6月にフレミントン競馬場で行われた平地競走ビタリS(T2557m)となったが、メイザホースビーウィズユーの11着に敗れた。その1週間後にはムーニーバレー競馬場でイアンマクドナルドスティープルチェイス(3200m)に出走して、2着ジャール以下に勝利。翌7月にはフレミントン競馬場で行われるロンバードグランドナショナルスティープルチェイス(4700m)に出走した。名称からすると英グランドナショナルや米グランドナショナルに相当する豪州最大の障害競走に思われるかもしれないが、実際にはそこまでではなく、後に豪州で障害競走に対する動物愛護団体の目が厳しくなると廃止されてしまっている。それでも当時の豪州でも有数の障害大競走ではあった。しかし本馬はこのレースで完走することが出来ず、落馬競走中止。本馬が障害競走で落馬競走中止したのはこれが最初で最後のことだった。

それから2週間後にムーニーバレー競馬場で出走した豪州有数の障害大競走エーヴィーヒスケンススティープルチェイス(3700m)では巻き返して勝利を収め、前年の同競走5着の雪辱を果たした。

しかし障害競走で実績を積み重ねると、斤量がどんどん重くなって勝ちにくくなるのは、豪州や新国に限らず大半の国で同じである。本馬も障害転向当初は62~63kgという障害競走としては比較的穏当な斤量だったが、この時期になると66kg以上を課されることが多くなっていた。そこでウィラー氏が目をつけたのが、最大でも63.5kgで出走できるうえに賞金も新国や豪州の障害競走より遥かに高い、日本の国際招待障害競走・中山グランドジャンプだったのである。

中山グランドジャンプを目標とすることを決めたウィラー氏は、ヒスケンススティープルチェイスを勝った本馬を早々に新国に連れて帰り、翌年に備えさせることにした。6歳時は10戦3勝(うち障害8戦3勝)の成績だったが、この00/01シーズンの豪州最優秀障害競走馬に選出された。

競走生活(7歳時)

翌01/02シーズンは、シーズン序盤は一切レースに出ずに充電期間とし、年明け2月に地元新国のマタマタ競馬場で行われた平地競走マタリッチヒルサラブレッズ2000(T2000m)から始動した。所詮は調教代わりのレースだったようで、クイックリップの7着に敗退。翌3月にマタマタ競馬場で出走した平地競走アンカーマートオープン(T2650m)も、スーパードライブの3着に敗れた。

それでもウィラー氏にとっては順調な調整ぶりだったようで、アンカーマートオープンを走った本馬はしばらくして新国を旅立ち、日本に向かった。そして前走から17日後、本番の3週間前に行われるオープン特別ペガサスジャンプS(T3350m)に出走した。このレースにはもう1頭、新国からランドという障害競走馬が参戦していた。ランドは前年のペガサスジャンプSを勝って、障害競走6戦無敗で中山グランドジャンプに臨んだが、道中で落馬して再騎乗して7着という結果だった。しかしその再騎乗して完走したという執念や、前年のペガサスジャンプSの勝ち馬という事もあって、ここでは単勝オッズ2倍の1番人気。中山グランドジャンプを2連覇した他に東京ハイジャンプ・東京オータムジャンプ・福島ジャンプS・春麗ジャンプSを勝ち中山大障害3年連続2着の現役日本最強障害競走馬ゴーカイが単勝オッズ2.9倍の2番人気。本馬は3番人気だったが、単勝オッズは14.9倍と上位人気2頭からはかなり離されていた。他の出走馬は、阪神ジャンプS・小倉サマージャンプ・豊国ジャンプSの勝ち馬ヒサコーボンバー、中山新春ジャンプSの勝ち馬で前年の中山グランドジャンプ2着・中山大障害3着のミナミノゴージャス、仏国の障害GⅡ競走ダンギアングランスティープルチェイスの勝ち馬ティーベンジャン、同じく仏国から参戦してきたドンリファールなどだった。レースはヒサコーボンバーが先頭を引っ張り、ランドが4番手、ゴーカイが6番手で、初コンビを組んだクレイグ・ソーントン騎手が手綱を取る本馬はスタートで後手を踏んだために14頭立ての9番手を進んだ。しかし本馬は最後まであまり順位を上げられずに、勝ち馬から6馬身半差の6着に敗退。勝ったのは2番手から抜け出した障害転向3戦目の単勝オッズ21.7倍の8番人気馬フサイチゴールドで、2着にミナミノゴージャスが入り、ランドは3着、ゴーカイは5着だった。

次走の中山グランドジャンプ(JGⅠ・4250m)では、フサイチゴールド、ミナミノゴージャス、ゴーカイに加えて、京都ハイジャンプ・阪神ジャンプSの勝ち馬アイディンサマー、前走阪神スプリングジャンプで2着してきた三木ホースランドパークジャンプSの勝ち馬イブキマンパワー、前年の中山大障害4着馬マキシマムプレイズ、愛国の障害GⅠ競走クイーンマザーチャンピオンチェイスで3着してきたセンコス、英国の障害GⅠ競走リッツクラブアスコットチェイスで2着してきたバンカーカウント、前走10着のドンリファール、同11着のティーベンジャンなど14頭が参戦してきた。当初はランドも参戦予定だったのだが、レース直前に鼻出血を発症して除外されていた。人気の一角を占めていたランドが不在になった事により、同競走3連覇を目指すゴーカイが単勝オッズ2.3倍の1番人気に支持された。フサイチゴールドが単勝オッズ6.2倍の2番人気、ミナミノゴージャスが単勝オッズ7.2倍の3番人気、センコスが単勝オッズ10.4倍の4番人気で、前走に続いてソーントン騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ12.1倍の5番人気だった。

スタートが切られるとイブキマンパワーが先頭に立ち、ワンダーフルフィルが少し離れた2番手で、今回は普通にスタートを切った本馬は前走とは異なり3~5番手を先行した。ゴーカイやフサイチゴールドは馬群の中団後方からの競馬を選択した。しばらくするとワンダーフルフィルが先頭を奪い、イブキマンパワーが2番手に下がったが、本馬は相変わらず3~5番手の先行集団にいた。中山グランドジャンプや中山大障害の名物と言えば大竹柵障害と大生垣障害で、ここで飛越に失敗して落馬する馬は以前しばしば見かけられたが、改良が加えられたために飛越難易度は大きく下がっていた。このレースでも全馬が両障害を無事に飛越し、観衆の間から拍手が起こった。後続を引き離して逃げていたワンダーフルフィルだったが、大生垣障害を過ぎたあたりから迫ってきた先行馬勢に飲み込まれた。代わりに先頭に立ったのはアイディンサマーで、本馬もその直後、1番人気のゴーカイもかなり差を詰めてきた。そして最終コーナーに差し掛かった辺りで本馬が先頭を奪い、そのまま直線へと突入。しかし外側からは3番手で直線を向いたゴーカイが迫ってきて、最終障害を飛越した直後から2頭の叩き合いとなった。しかしゴーカイには本馬の横に並ぶだけの勢いはなく、押し切った本馬がゴーカイを1馬身半差の2着に、フサイチゴールドをさらに7馬身差の3着に抑えて、4分50秒9のコースレコードで優勝。海外馬として初めて中山グランドジャンプの優勝馬となった。

目的を果たした本馬は日本を離れたが、向かった先は地元新国ではなく豪州だった。6月に豪サンダウンパーク競馬場で行われた平地競走イーヴンスティーヴンスS(T2375m)に出走したが、バジャーズウッドの4着に敗れた。同月にムーニーバレー競馬場で出走したイアンマクドナルナルドスティープルチェイス(3200m)は3着。翌7月にはムーニーバレー競馬場で平地競走エーエムエスロウS(T3000m)に出走して勝利を収め、豪州で初めて平地競走を勝利した。

引き続きムーニーバレー競馬場で出走したのは、中山グランドジャンプを制した本馬を記念して早速創設された、自身の名を冠した障害競走セントスティーヴンスティープルチェイス(3700m)。このレースを1番人気に応えて快勝した本馬は、続いてエーヴィーヒスケンススティープルチェイス(3700m)も勝って同競走2連覇を達成。7歳時は9戦4勝(うち障害5戦3勝)の成績で、2年連続の豪州最優秀障害競走馬に選出された。

競走生活(8歳時)

翌02/03シーズンも中山グランドジャンプを目標として2003年3月から始動した。まずは地元エラズリー競馬場で平地競走マタリッチヒルサラブレッズ2000(T2100m)に出走して、2着インディペンデントマンに首差で勝利。その後は豪州に向かい、3月にフレミントン競馬場で行われた平地競走デュークオブノーフォークS(T3200m)に出走したが、ここではエギーの10着に惨敗した。

しかし前年と同じく平地競走を2回叩いた本馬は再度来日して、まずは前哨戦のペガサスジャンプS(T3350m)に出走。対戦相手は、前年の中山大障害・イルミネーションジャンプSの勝ち馬ギルデッドエージ、中山新春ジャンプS・春麗ジャンプSを連勝してきたビッグテースト、秋陽ジャンプSの勝ち馬で前年の中山大障害3着のダイワデュール、東京オータムジャンプの勝ち馬ヒゼンホクショー、一昨年の中山大障害で半兄ゴーカイを2着に破って単勝万馬券を演出したユウフヨウホウ、仏国の障害GⅠ競走ドートンヌ大賞で2着していたタイガーグルーム、本馬と同じく新国から参戦してきたシルヴァーアーチャーなどだった。ギルデッドエージが単勝オッズ3.2倍の1番人気、ビッグテーストが単勝オッズ3.3倍の2番人気、本馬が障害競走に出る際には一番多くコンビを組んでいたブレット・スコット騎手(後にカラジで中山グランドジャンプを3連覇する人物)騎乗の本馬が単勝オッズ4.3倍の3番人気、ダイワデュールが単勝オッズ8.6倍の4番人気となった。レースはスタートから先頭を飛ばしたギルデッドエージがそのまま押し切って勝ち、2番手を進んだダイワデュールが1馬身半差の2着、中団から差したビッグテーストがさらに5馬身差の3着で、中団から伸びを欠いた本馬はビッグテーストからさらに5馬身差の4着に敗れた。

それでも2連覇を目指して中山グランドジャンプ(JGⅠ・4250m)に出走した。対戦相手は、ギルデッドエージ、ダイワデュール、ビッグテースト、前走10着のユウフヨウホウ、元々は平地を走って神戸新聞杯・愛知杯を勝ち障害転向後も東京ハイジャンプ・阪神スプリングジャンプを勝っていたカネトシガバナー、京都ハイジャンプの勝ち馬メジロライデン、東京オータムジャンプの勝ち馬ヒゼンホクショー、京都ジャンプS・春麗ジャンプSの勝ち馬メイショウワカシオ、新潟ジャンプS・中山新春ジャンプSの勝ち馬チアズニューパワー、英国の障害GⅠ競走リッツクラブアスコットチェイスの勝ち馬ティウチェフ、仏国の障害GⅡ競走デュクダンジュ賞・GⅢ競走モルジェ賞・ポー大賞の勝ち馬エスコートボーイ、英国の障害GⅠ競走マーテルマグハルノービスチェイス・GⅡ競走マイケルページ国際キングメーカーノービスチェイスの勝ち馬アーマターク、前走9着のタイガーグルーム、同14着のシルヴァーアーチャーなどだった。ギルデッドエージが単勝オッズ1.9倍の1番人気、スコット騎手騎乗の本馬が単勝オッズ4.7倍の2番人気、カネトシガバナーが単勝オッズ6.5倍の3番人気、ビッグテーストが単勝オッズ13.2倍の4番人気、ダイワデュールが単勝オッズ13.5倍の5番人気となった。

スタートが切られるとまずはヒゼンホクショーが先頭に立ち、シルヴァーアーチャーが2番手で、本馬、ギルデッドエージ、カネトシガバナーを始めとする有力馬勢は3~6番手辺りの先行集団につけた。やがて大竹柵障害を全馬が無事に飛越したが、ここで本馬がするすると上がって先頭を奪った。そして、カネトシガバナー、ギルデッドエージ、ダイワデュール達を引き連れて、単独で逃げを打った。大生垣障害も全馬が無事に飛越し、前年と同じく観衆から拍手が送られた。この段階では本馬の単騎逃げだったが、この頃から後続の有力馬勢も徐々に本馬との差を詰めてきた。そして最終コーナー途中で本馬にギルデッドエージが並びかけて、上位人気2頭の一騎打ちになるかと思われた。しかし直線に入るとギルデッドエージが前に出て、最終障害を飛越した辺りから本馬は引き離されていった。そしてさらに後方から1頭の馬が猛然と追い込んできた。道中は馬群の中団後方を進みながらも最終コーナーで一気に順位を上げて5番手で直線に入ってきたビッグテーストだった。直線一気の豪脚を見せたビッグテーストが差し切って優勝。1馬身半差の2着がギルデッドエージで、カネトシガバナーの追撃を首差抑えるのが精一杯だった本馬はさらに3馬身半差の3着に敗れ、2連覇は成らなかった。

その後は前年と同じく新国ではなく豪州に向かい、5月にムーニーバレー競馬場で行われた平地競走カールトンドラフトS(T2500m)に出走したが、ウェスタンウォーターズの9着に敗れた。翌6月にムーニーバレー競馬場で出走したトレヴァークラークスティープルチェイス(3300m)では、ストライディングエッジの2着。同月にムーニーバレー競馬場で出走した平地競走メトロポリタンホテルプレート(T2040m)では、ストームエディションの4着に敗れた。それから1週間後にフレミントン競馬場で出走したクリスプスティープルチェイス(4000m)では首差2着。翌7月にムーニーバレー競馬場で出走したノエルメゾンスティープルチェイス(3700m)では5着に敗退。

その後は3連覇を目指してヒスケンススティープルチェイスに出走する予定だったが、心臓に異常が見つかったために回避。結局8歳時は9戦1勝(うち障害5戦未勝利)の成績に終わった。

競走生活(9~11歳時)

翌03/04シーズンは3月にエラズリー競馬場で出走した平地競走エラズリーS(T2100m)でジェラードの6着に敗れたが、それでも3年連続で中山グランドジャンプに招待された。しかし故障を理由に辞退した。9歳時は結局1戦未勝利で終わってしまった。

翌04/05シーズンは、2月にテラパ競馬場で出走したフェアデールスタッドハウバッドドゥーユーウォントイット(T2000m)でハイフライングの12着。それから2週間後にマタマタ競馬場で出走したデオサンニュージーランドリミッテド(T2000m)でハイシーズンの15着最下位と、平地競走を2回走っていずれも惨敗。この年も中山グランドジャンプに向かうことは無く、10歳時の成績は2戦未勝利に終わってしまった。

翌05/06シーズンは3月にヘイスティングス競馬場で行われたアイアールティーディスタンス(T2000m)から始動したが、ハイシーズンの9着に敗退。その2週間後には、2年8か月ぶりの障害競走となるウォーナムブルーハードルプレリュード(T2600m)に出走したが5着に敗退。

この段階ではもはや中山グランドジャンプに招待されることは無かったようで、豪州に向かい、オークバンク競馬場でフロンドーサスティープルチェイス(3250m)に6年ぶりに出走。しかし結果はベロシグノールの4着だった。その2日後にはグレートイースタンスティープルチェイス(4950m)に5年ぶりに出走したが、4着に敗退。5月にフレミントン競馬場で平地競走アールディーエーシー(T2800m)に出走してデザートマスターの12着に終わった後、モーニントン競馬場でグレートサザンスティープルチェイス(3300m)に出走したが5着に敗退。翌6月にフレミントン競馬場で出走したトレヴァークラークスティープルチェイス(3400m)で障害競走では過去最悪の11着(競走中止を除く)に終わったのを最後に、11歳時7戦未勝利(うち障害5戦未勝利)の成績で競走馬を引退した。

競走馬引退後の消息は不明だが、豪州は動物愛護団体の力が良くも悪くも強いため、処分されたようなことは無いはずで、どこかで余生を送っているか、余生を全うした後に既に他界しているかのいずれかであると思われる。

競走馬としての評価

その動物愛護団体の圧力により豪州では障害競走が現在縮小傾向にある。その傾向に疑問を呈する意見を2015年7月にシェーン・アンダーソン氏という人物が配信しているが、その記事の中には、19世紀に平地のメルボルンCと障害のグランドナショナルハードルを両方勝ったマルア、1970年前後に活躍し英国であのレッドラムと勝ち負けしたこともある豪州史上最高の障害競走馬クリスプの、いずれも豪州殿堂入りを果たした障害競走馬2頭、それに中山グランドジャンプを3連覇したカラジと並んで、本馬の名前が挙げられている。本馬は豪州障害競走史上においては指折りの名馬と評価されているようで、中山グランドジャンプを初めて制した海外調教馬としては相応しい馬である。

血統

Hula Town Sir Tristram Sir Ivor Sir Gaylord Turn-to
Somethingroyal
Attica Mr. Trouble
Athenia
Isolt Round Table Princequillo
Knight's Daughter
All My Eye My Babu
All Moonshine
Hula Dance Riverton Luthier Klairon
Flute Enchantee
River Plate パーシア
Argentina
Hula Bend Never Bend Nasrullah
Lalun
Hula Hula Polynesian
Black Helen
Gabby In the Purple Right Royal Owen Tudor Hyperion
Mary Tudor
Bastia Victrix
Barberybush
La Mirambule Coaraze Tourbillon
Corrida
La Futaie Gris Perle
La Futelaye
Gabonette ガバドール Pharis Pharos
Carissima
Adargatis Asterus
Helene de Troie
Clonmel Balloch Obliterate
Cinna
Lagenia Solicitor General
Night Myth

父フラタウンはサートリストラム直子の新国産馬。競走馬としては4戦未勝利ながら新国で種牡馬入りし、本馬の他にもフーラフライト【ザメトロポリタン(豪GⅠ)】を出すなど、それなりの種牡馬成績を収めている。

母ガビーは競走馬としての経歴は不明。ガビーの母ガボネットの半妹ハニーフィルウの孫にドルチェッツァ【カンタベリーギニー(豪GⅠ)】がいる。牝系はセントサイモンの母父としても知られる名種牡馬キングトム牝駒の英国産馬マーメイドが1860年代に新国に輸入されて発展した新国の土着血統で、遠縁にはオセアニアにおける活躍馬が多数出ているが、本馬の近親には活躍馬が殆どいない。→牝系:F14号族②

母父インザパープルはライトロイヤル産駒で、バルブヴィル賞(仏GⅢ)勝ちなど14戦4勝。競走馬引退後は、やはり新国で種牡馬入りした。種牡馬としてはかなりの成功を収めているが、活躍馬が牝馬や騙馬ばかりだったために後継種牡馬には恵まれなかった。

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