ビルクハーン
和名:ビルクハーン |
英名:Birkhahn |
1945年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:アルヒミスト |
母:ブラマウス |
母父:カピエロ |
||
史上唯一の東西独ダービーのダブル制覇を果たした東西冷戦初期の独国の英雄は種牡馬としても成功し21世紀に直系を伝える |
||||
競走成績:2~5歳時に東西の独国で走り通算成績22戦16勝3着2回 |
誕生からデビュー前まで
ドイツ中部のハルツ山地(最高峰はブロッケン現象で有名なブロッケン山)の山中において、マデライネ・フォン・ハイニッツ女史により生産された。本馬が誕生したのは1945年3月14日であった。この年は言うまでも無く第二次世界大戦終結の年であり、本馬が誕生した僅か1か月半後にはヒトラーが自殺して、その直後に独国は降伏した。降伏した独国はアメリカ・イギリス・フランス軍とソビエト連邦軍に分割占領され、後の東西冷戦構造化により、米英仏軍占領地域がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に、ソ連占領地域がドイツ民主共和国(東ドイツ)となり、独国は分断されてしまうわけだが、東西ドイツの国境はこのハルツ山地に引かれた。本馬の母ブラモウスは元々ライプチヒ(東ドイツの地域となる)近郊のアルテフェルトにあった名門グラディツ牧場で繋養されており、誕生した本馬は東側に戻っていった。そして本馬が競走年齢に達する頃には既に独国の東西分裂が進行していた。そのためK・H・ウィーラント氏という人物の所有馬、E・ブレゲ調教師の管理馬となった本馬は、エリック・ベルーケ騎手を主戦として、2歳時に東ドイツでデビューした。
競走生活(3歳前半まで)
8月にドレスデン競馬場で出走したユーゲント賞(T1200m)は古馬相手のレースだった上に古馬より重い57kgが課せられたが、単勝オッズ1.2倍という圧倒的な1番人気に応えて、2着アトムに7馬身差、3着ラグーンにはさらに3馬身差をつけて圧勝した。9月にライプチヒ競馬場で出走したライプチヒシュティフュンクシュプライス(T1400m)では、他の2歳馬より5kg以上も重い59kgを背負いながら、単勝オッズ1倍(元返しなのか四捨五入の結果1倍と表記されているのかは不明)という圧倒的な1番人気に応えて、2着ヴァンデレアに4馬身差、3着コメットにもさらに4馬身差をつけて圧勝した。10月にドレスデン競馬場で出走したトライアンフ(T1400m)というレースも古馬相手のレースだった。ここでは3歳以上の馬より10kgも軽い51kgの軽量に恵まれた事もあり、単勝オッズ1.6倍の1番人気に応えて、2着となった3歳馬ビュルガーマイスター(実は本馬の1歳年上の半兄である)に2馬身差で勝利した。2歳時は上記以外にも3戦して全て勝利を収め、6戦全勝の成績で、東ドイツの最優秀2歳牡馬に選ばれた。
3歳になってもその強さは変わらず、5月にソ連の占領地域だった東ベルリンのホッペガルテン競馬場で行われた東独2000ギニーことホッペガルテンヘンケルレネン(T1600m)では、2着リーベシュゴットに4馬身差、3着アトムにはさらに2馬身差をつけて圧勝。そして6月にホッペガルテン競馬場で出走した東独ダービーことDDRダービー(T2400m)では単勝オッズ1.3倍の1番人気に応えて、2着デルブリッツに2馬身半差、3着コメットにはさらに5馬身差をつけて完勝した。
競走生活(3歳後半以降)
東ドイツには敵がいなくなったため、本馬は活躍の場を求めて西ドイツに遠征した。そして8月にハンブルグ競馬場で行われた独ダービー(T2400m)に参戦。ウニオンレネンを勝ってきたアンゲバー、独2000ギニーを勝ってきたオスターモルゲン、独1000ギニー・独オークスを勝ってきたアラリア、バーデナーマイレを勝ってきたサルヴァトールといった西独の実力馬達が対戦相手となった。さすがに東独時代よりも人気は下がったが、それでも単勝オッズ2.7倍という高評価を得た。そして2着アンゲバーに1馬身差、3着サルヴァトールにもさらに1馬身差をつけて勝利を収め、歴史上唯一頭の東西両独ダービー制覇を成し遂げた。
同月には西ドイツ内のフランクフルト競馬場でアーサーフォンヴァインベルクゲデヒトニスレネン(T2100m)に出走。他の3歳馬勢より3kg重い斤量が課せられたが、単勝オッズ1.4倍の1番人気に応えて、2着メーアヴィンドに6馬身差、3着グリムにはさらに2馬身差をつけて勝利した。その後は東側に戻り、9月にホッペガルテン競馬場で行われたレーンドルフレネン(T2600m)に出走。これは東独セントレジャーに相当するレースだったが、古馬混合戦だった。本馬の斤量は57kgで古馬よりは2kg軽かったが、他の3歳馬よりは7kgも重かった。しかし単勝オッズ1.1倍の1番人気に応えて、2着リーベシュゴットに2馬身半差、3着シュヴァルツキュンストラーにはさらに首差をつけて勝利を収めた。こうして連勝を続ける本馬は、東西両独の英雄的存在にまでなった。
しかし9月に西ドイツのケルン競馬場で出走したゲルリング賞(T2200m)では、アンゲバー、バーデン大賞の勝ち馬デアレーヴェ、2歳年上の独ダービー馬でノルトラインヴェストファーレン大賞(ベルリン大賞)も勝っていたソロの3頭に後れを取り、勝ったアンゲバーから7馬身半差の4着に敗れてしまい、連勝は12で止まった。このときの本馬は体調が万全で無かったにも関わらず、政治的思惑に巻き込まれて出走したとされており、関係者に対する批判も相当あったようである。また斤量面でも厳しく、トップハンデでは無かったものの(トップハンデはソロの62kg)、本馬の斤量60kgは、同じ3歳馬である勝ち馬アンゲバーの55kgより5kgも重かった。さらにレース後に腎臓を患ってしまい、7戦6勝の成績で3歳シーズンを終えた。
4歳時も現役を続けたが、厩舎が度々変わるなど人間関係や政治的問題のしがらみにも巻き込まれて調子が上がらず、2・3歳時ほどの勝率を残す事は出来なかった。4歳時の成績は4戦1勝だったが、それでも半兄ビュルガーマイスターと2度戦って2度とも先着している。しかしレース中に他馬と接触した際に右後脚を痛めてしまい、冬場に手術を受ける羽目になった。
それでも5歳時も現役を続行。8月にホッペガルテン競馬場で出走したDDR大賞(T2400m)で、2着となった古豪プラーターに首差で勝つなど5戦2勝の成績を残して、現役を引退した。
馬名は独語で「黒雷鳥」の意味で、本馬の大柄で黒い馬体から連想して命名されたようである。
血統
Alchimist | Herold | Dark Ronald | Bay Ronald | Hampton |
Black Duchess | ||||
Darkie | Thurio | |||
Insignia | ||||
Hornisse | Ard Patrick | St. Florian | ||
Morganette | ||||
Hortensia | Ayrshire | |||
Beauharnais | ||||
Aversion | Nuage | Simonian | St. Simon | |
Garonne | ||||
Nephte | Flying Fox | |||
Fanny | ||||
Antwort | Ard Patrick | St. Florian | ||
Morganette | ||||
Alveole | Crafton | |||
St. Alvere | ||||
Bramouse | Cappiello | Apelle | Sardanapale | Prestige |
Gemma | ||||
Angelina | St. Frusquin | |||
Seraphine | ||||
Kopje | Spion Kop | Spearmint | ||
Hammerkop | ||||
Dutch Mary | William the Third | |||
Pretty Polly | ||||
Peregrine | Phalaris | Polymelus | Cyllene | |
Maid Marian | ||||
Bromus | Sainfoin | |||
Cheery | ||||
Clotho | Sunstar | Sundridge | ||
Doris | ||||
Jenny Melton | Melton | |||
Spinningjenny |
父アルヒミストはグラディツ牧場の生産・所有馬で、現役成績10戦6勝。2歳時から前代未聞のスピードを誇ると言われ、3歳時にウニオンレネン・独ダービー・ベルリン大賞・バーデン大賞を4連勝し、当時の欧州でも屈指の名馬と讃えられた。種牡馬としても活躍したが、15歳時の1945年に進軍してきたソ連軍に殺害されてその場で食べられる(一説には強奪されて馬車馬として使役された挙げ句に屠殺されたとも言われる)という悲惨な最期を遂げた。本馬以外の主な産駒は、シュヴァルツゴルト【独ダービー・独オークス・独1000ギニー】などで、死後の1946・47年には独首位種牡馬になっている。アルヒミストの父ヘロルドはダークロナルド産駒で、現役成績は9戦8勝。やはり非常に優れたスピードの持ち主で、初勝利後に骨折する危機を乗り越えて、独ダービー・独セントレジャー・ベルリン大賞に勝利。敗北は独2000ギニーの2着のみであった。種牡馬としても1931・33年の独首位種牡馬に輝く成功を収めたが、1945年に進軍してきたソ連軍によって射殺されて28年の生涯を閉じた。
母ブラモウスはユダヤ人のモーリス・ド・ロートシルト卿により生産された仏国産馬で、現役成績は4戦1勝、サンフィルマン賞というレースに勝っている。第二次世界大戦の勃発後にロートシルト卿が欧州外に亡命してしまい、路頭に迷いかけていたところを、独国馬産界の要人によって組織されたサラブレッド購入委員会に買い取られ独国グラディツ牧場で繁殖生活を送ることになった。独国の敗色が濃くなり、独国内に敵軍が侵攻してくると、独国内の馬達は次々に財産没収の対象となった。当時本馬を受胎していたブラモウスをグラディツ牧場から譲り受けたハイニッツ女史は、ブラモウスをハルツ山地の山中に匿った。本馬がハルツ山地で誕生したのは、そういった経緯があったためである。ブラモウスの他の産駒には、本馬と対戦経験もある半兄ビュルガーマイスター(父ヘロルド)【ライプチヒシュティフュンクシュプライス・トライアンフ・シャマンレネン・ブーフマチェール大賞・ソ連占領地域大賞・ゲルマンネン賞】などがいる。本馬の両親と祖父はいずれも数奇な運命を辿っているが、いずれも第二次世界大戦という人間の愚かな所業が原因である。
ブラモウスの6代母は英オークス・英セントレジャー・ヨークシャーオークス・英チャンピオンSなどを勝った19世紀英国の名牝ジャネットである。→牝系:F1号族④
母父カピエロはパリ大賞・リュパン賞の勝ち馬。カピエロの父アペレはサルダナパル産駒の伊国産馬で、現役成績は23戦14勝。欧州を股にかけて活躍し、クリテリウムドメゾンラフィット・伊ダービー・ミラノ大賞・ラクープドメゾンラフィット・コロネーションCなどに勝利した。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はグラディツ牧場で種牡馬入りした。東ドイツではトップクラスの種牡馬として活躍し、5年連続で東独首位種牡馬となった。1960年からは西ドイツのシュレンダーハン牧場に移動して、1965年7月に20歳で他界した。産駒が西ドイツで大活躍したのは本馬の死後であり、1967・68・69・71年の4度に渡って西独首位種牡馬に輝いた(資料によっては67・68・70年の3度となっている。産駒が東ドイツと西ドイツに跨って走っているので、集計が困難なようである)。
後継種牡馬としてはプリアモスとリテラートの2頭が活躍した。プリアモスの代表産駒である独ダービー馬スタイヴァザントは種牡馬として振るわず、後に日本に輸入されてここで生涯を終えたためにこちらの直系は途絶えた。しかしリテラートの息子である独ダービー馬ズルムーが名馬アカテナンゴを出し、さらにアカテナンゴからはジャパンC勝ち馬ランドが出て、この血筋は現在も独国を中心に健闘している。繁殖牝馬の父としても英ダービー馬スリップアンカーを出して名を馳せた。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1962 |
Fioravanti |
独2000ギニー |
1962 |
Indra |
独オークス |
1963 |
Bravour |
独1000ギニー |
1964 |
Priamos |
ジャックルマロワ賞・ゲルゼンキルヒェン市大賞・ドルトムント大賞・ドラール賞 |
1965 |
Literat |
独2000ギニー |
1965 |
Novara |
ドイツ牝馬賞 |
1966 |
Akari |
アラルポカル |
1966 |
Brabant |
メシドール賞 |
1966 |
Inga |
ノイス牝馬賞 |