ノノアルコ
和名:ノノアルコ |
英名:Nonoalco |
1971年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ニアークティック |
母:セクシミー |
母父:ヘイスティロード |
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日本で有馬記念馬ダイユウサクなど個性派産駒を輩出した英2000ギニー・ジャックルマロワ賞の勝ち馬 |
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競走成績:2・3歳時に仏英で走り通算成績10戦7勝2着1回 |
誕生からデビュー前まで
米国ヴァージニア州ミルキーウェイファームにおいて、フォレスト・エドワード・マーズ氏により生産された。米国の製菓会社マーズ社の創業者フランクリン・クラレンス・マーズ氏の息子だったマーズ氏は、父から受け継いだ会社を大きく発展させた。その契機となったのは、米国陸軍兵士から暑い場所でも溶けずに食べられるチョコレートが欲しいという要望を受けた事である。彼は砂糖でコーティングした上で着色したチョコレートを軍用食品として開発し、M&M'S(エムアンドエムズ)というブランド名で販売した。これは大ヒット商品となり、彼は億万長者となった。父のクラレンス・マーズ氏はミルキーウェイファームを創設して馬産も行っており、彼の死後はその元妻でエドワード・マーズ氏の母親であるエセル・V・マーズ夫人に受け継がれていた。そして1940年のケンタッキーダービー馬ギャラハディオンなどを送り出していた。1945年にマーズ夫人が死去すると、ミルキーウェイファームはエドワード・マーズ氏に受け継がれ、彼は本職の傍らで競走馬の生産も手掛けるようになっていた。
しかし彼は本馬を自身では所有せずに売りに出した。本馬を購入したのは、メキシコの有名女優マリア・デ・ロサンゼルス・フェリックス夫人だった(既に60歳近かった彼女は女優業からは引退していた)。全盛期には世界で最も美しい女優と言われたフェリックス夫人は、1880年代のパリを舞台にフレンチ・カンカンとムーラン・ルージュの誕生を描いた仏国映画「フレンチ・カンカン」や、メキシコ革命で活躍した伝説の女戦士ラ・クカラチャを描いた「大砂塵の女」に出演した事で知られている。フェリックス夫人は4度結婚したが、最後の夫だった仏国の銀行家アレックス・ベルガー氏が馬主だった。本馬はフェリックス夫人名義の競走馬だったが、実質的な所有者はベルガー氏だったようである。フェリックス夫人とベルガー氏は本馬を仏国フランソワ・ブータン調教師に預けた。
競走生活
2歳8月にドーヴィル競馬場で行われたヤコウレフ賞(T1000m)でデビューし、2着ツアーノーベルに8馬身差をつける圧勝で鮮烈な初勝利を挙げた。2戦目は早くもGⅠ競走のモルニ賞(仏GⅠ・T1200m)となり、ここでも2着アンシスタンスに3馬身差をつけて楽勝した。さらにサラマンドル賞(仏GⅠ・T1400m)に向かい、2着リオンデュノールに2馬身半差で難なく制した(後の仏2000ギニー馬ムーリンが3着だった)。しかし仏グランクリテリウム(仏GⅠ・T1600m)では、ミシシッピアンの鼻差2着と苦杯を舐めた。2歳時は4戦3勝2着1回の好成績を残したが、仏最優秀2歳牡馬の座はミシシッピアンに取られてしまった。
3歳時はメゾンラフィット競馬場で行われたモンテニカ賞(T1600m)から始動して、1馬身半差で勝利。その後は仏2000ギニーではなく、ドーバー海峡を渡って英2000ギニー(英GⅠ・T8F)に参戦した。主な対戦相手は、オブザーヴァー金杯・グラッドネスSを勝っていた4戦無敗のアパラチー、エクリプス賞・トーマブリョン賞・ジェベル賞と3連勝してきた仏国調教馬ノーザンテースト、ジムクラックS・英シャンペンSの勝ち馬ジャコメッティだった。特に米国の歴史的名馬ラウンドテーブルと、2歳牝馬として史上唯一の米年度代表馬に選ばれたモカシンの間に産まれたアパラチーは、その血統背景もさることながら、管理するのが愛国の名伯楽ヴィンセント・オブライエン調教師である事や、オブザーヴァー金杯の圧倒的な勝ち方(完全な馬なりのままミシシッピアンを2馬身差の2着に撃破)、英タイムフォーム社のレーティングにおいて137ポンドというとんでもない数値が付いた事などから、その前評判は凄まじく、20世紀以降では1934年に単勝オッズ1.29倍(単勝オッズ1.57倍とも)に支持されたコロンボ以来最少となる単勝オッズ1.44倍という断然の1番人気となっていた。一方の本馬は単勝オッズ10.5倍の評価だった。しかし蓋を開けてみると、本馬が2着ジャコメッティに1馬身半差をつけて快勝。アパラチーは3着、ノーザンテーストは4着だった。
次走の英ダービー(英GⅠ・T12F)では、事前に1番人気となっていたアパラチーが調教の動きが悪いことを理由に回避(そのまま引退)したため、本馬が1番人気に押し出された。しかし結果は単勝オッズ51倍の11番人気馬スノーナイトが勝利を収め、本馬は7着に敗退。前走で破ったジャコメッティ(3着)やノーザンテースト(5着)にも先着を許した。
その後は仏国に戻ってマイル路線に専念。まずはジャックルマロワ賞(仏GⅠ・T1600m)に出走すると、2着エルトロに短頭差で勝利した(エクリプスSを勝ってきたクードフーが3着だった)。続くロンポワン賞(仏GⅢ・T1600m)では、翌年に欧州短距離路線を席巻する名牝リアンガを2着に、ノーザンテーストを4着に下して勝利。そしてマイル王の座を確実にするべくムーランドロンシャン賞(仏GⅠ・T1600m)に出走したが、本馬が2着に敗れた仏グランクリテリウムで3着だったマウントハーゲンの10着と大敗。ノーザンテーストが2着で、リアンガが3着だった。ノーザンテーストとの対戦成績は2勝2敗の五分となった。このレースを最後に3歳時6戦4勝の成績で引退した。
本馬は仏国と英国で走ったが、仏国では英国の名手レスター・ピゴット騎手が、英国では仏国の名手イヴ・サンマルタン騎手が騎乗していた。
馬名はメキシコシティの北東にある地名で、アステカ文明と深い関わりがあるらしく、メキシコシティ内の各地にも同名の地名や建物が存在する。おそらくメキシコ出身のフェリックス夫人の命名によるものであろう。
血統
Nearctic | Nearco | Pharos | Phalaris | Polymelus |
Bromus | ||||
Scapa Flow | Chaucer | |||
Anchora | ||||
Nogara | Havresac | Rabelais | ||
Hors Concours | ||||
Catnip | Spearmint | |||
Sibola | ||||
Lady Angela | Hyperion | Gainsborough | Bayardo | |
Rosedrop | ||||
Selene | Chaucer | |||
Serenissima | ||||
Sister Sarah | Abbots Trace | Tracery | ||
Abbots Anne | ||||
Sarita | Swynford | |||
Molly Desmond | ||||
Seximee | Hasty Road | Roman | Sir Gallahad | Teddy |
Plucky Liege | ||||
Buckup | Buchan | |||
Look Up | ||||
Traffic Court | Discovery | Display | ||
Ariadne | ||||
Traffic | Broomstick | |||
Traverse | ||||
Jambo | Crafty Admiral | Fighting Fox | Sir Gallahad | |
Marguerite | ||||
Admiral's Lady | War Admiral | |||
Boola Brook | ||||
Bank Account | Shut Out | Equipoise | ||
Goose Egg | ||||
Balla Tryst | Balladier | |||
Twilight Tryst |
父ニアークティックは当馬の項を参照。
母セクシミーは現役時代3戦2勝。本馬の半弟ストラダビンスキー(父ニジンスキー)【ホワイトホールS(愛GⅢ)】も産んでいる。ストラダビンスキーは後に日本に種牡馬として輸入されたが、それほど成功できなかった。本馬の半妹バラカラ(父スワップス)は優秀な繁殖牝馬であり、マクシムーヴァ【サラマンドル賞(仏GⅠ)・カルヴァドス賞(仏GⅢ)・モートリー賞(仏GⅢ)・セーネワーズ賞(仏GⅢ)】、ヴィリカイア【ポルトマイヨ賞(仏GⅢ)】、ナヴラティロヴナ【アスタルテ賞(仏GⅡ)】と3頭のグループ競走勝ち馬を産んだ。マクシムーヴァの子にはセプティエムシエル【フォレ賞(仏GⅠ)・クリテリウムドメゾンラフィット(仏GⅡ)】とマクーンバ【マルセルブサック賞(仏GⅠ)】、孫にはリヴィエラ【アットマイル(加GⅠ)】、曾孫にはザグレイギャッツビー【仏ダービー(仏GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】がいる。また、ヴィリカイアの孫にはリーガリーレディ【ニアークティックS(加GⅠ)・BCターフスプリント(米GⅡ)】がいる。
セクシミーの半妹プラウドパティー(父ノーブルコマンダー)の子にはフィエスタギャル【マザーグースS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)】、曾孫にはインサメーション【ビングクロスビーH(米GⅠ)】が、ドルスジャミンク(父ケネディロード)の玄孫には日本で走ったミッキークイーン【優駿牝馬(GⅠ)・秋華賞(GⅠ)】がいる。→牝系:F2号族④
母父ヘイスティロードはフォアゴーの項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は1975年の1年だけ仏国で種牡馬供用され、その後1976年から1981年までの6年間は愛国で種牡馬生活を送った。愛国供用時代にケイティーズ(ヒシアマゾンの母)などを出してそれなりの成功を収め、1982年に日本に輸入された。日本でも驚愕の有馬記念馬ダイユウサクなど個性的な産駒を出して、まずまずの成功を収めた。1992年に21歳で他界した。自身はやや早熟気味だったが、産駒はダイユウサクに代表されるように晩成傾向が強かった。また、自身はマイラーだったが、それより長い距離で活躍する産駒もいた。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1976 |
Mesange Bleue |
ドルメロ賞(伊GⅡ) |
1976 |
Nonoalca |
レゼルヴォワ賞(仏GⅢ)・グロット賞(仏GⅢ) |
1977 |
Noalcoholic |
サセックスS(英GⅠ)・メシドール賞(仏GⅢ)・チャレンジS(英GⅢ)・ロッキンジS(英GⅢ) |
1977 |
Un Reitre |
ロシェット賞(仏GⅢ) |
1978 |
Darine |
フィユドレール賞(仏GⅢ) |
1979 |
Melyno |
仏2000ギニー(仏GⅠ)・ジャンプラ賞(仏GⅡ)・トーマブリョン賞(仏GⅢ)・フォンテーヌブロー賞(仏GⅢ) |
1981 |
Capricorn Belle |
ダリアH(米GⅢ) |
1981 |
愛1000ギニー(愛GⅠ)・コロネーションS(英GⅡ) |
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1981 |
Nikos |
エドモンブラン賞(仏GⅢ) |
1983 |
カシマウイング |
アルゼンチン共和国杯(GⅡ)・アメリカジョッキークラブC(GⅡ)・京都記念(GⅡ) |
1983 |
トミアルコ |
ダービーグランプリ(水沢)・東京三歳優駿牝馬(大井) |
1984 |
グレースシラオキ |
根岸S(GⅢ) |
1985 |
ダイユウサク |
有馬記念(GⅠ)・京都金杯(GⅢ) |
1985 |
トウショウマリオ |
京成杯(GⅢ)・東京新聞杯(GⅢ) |
1985 |
ヨシイチノアルコ |
人麿特別(益田) |
1986 |
マイスーパーマン |
セントウルS(GⅢ)・関屋記念(GⅢ) |