ファッション

和名:ファッション

英名:Fashion

1837年生

栗毛

父:トラスティー

母:ボンネッツオーブルー

母父:サーチャールズ

ボストンとのマッチレースを制するなど1840年代のヒート競走全盛期の米国競馬界を席巻し、全時代を通じて米国競馬史上最高の名牝と讃えられる

競走成績:3~11歳時に米で走り通算成績36戦32勝2着4回

まだヒート競走が主流だった19世紀半ばの米国において大活躍した歴史的名牝で、その当時から米国で過去に産まれた最高の名牝と評されたし、現在でも全世代を通じて米国競馬史上最高の牝馬の1頭に数えられている。

誕生からデビュー前まで

米国ニュージャージー州マディソンにおいて、ウィリアム・ギボンズ氏により生産・所有された。体高は15.5ハンド程度だったが、見栄えは良かった。特に脚の筋肉の発達度が素晴らしく、「欠点が無い脚」と評された。本馬の1歳年上の半兄マリナーが無理な調教で故障したため、ギボンズ氏は本馬をマリナーとは別の調教師である元騎手サミュエル・レアド師のところに送り、焦って調教しないように指示を出した。その結果、本馬は3歳デビューとなった。主戦はレアド師の息子であるジョー・レアド騎手が務め、本馬の全レースに騎乗した。大跳びながら非常に脚の回転は速く、どんな馬場コンディションでも走る事が出来たと言う。

競走生活(ボストンとの初対決まで)

3歳10月にニュージャージー州で行われた距離2マイルのレースを7日間で2連勝したところから競走馬生活をスタート。3歳時はこの2戦のみで、4歳時はニューヨーク州ロングアイランドで行われた距離3マイルのヒート競走で他馬4頭を下した。次走の距離4マイルのヒート競走では咳が出てしまい、タイラーの2着に敗退。療養のために地元に戻り、完治してからレースに復帰。重馬場の中で行われた距離2マイルのヒート競走ではトレントンを下して勝利した。次走の距離3マイルのヒート競走ではヴァージニア州最強と言われていた牡馬ジョンブラントとの対戦となった。レースは泥だらけで滑りやすい馬場状態の中で行われたが、本馬が勝利した。

それから1週間後の10月にニュージャージー州で行われた距離4マイルのヒート競走では、ジョンブラントだけでなく、目下19連勝中で当時全米最強の名をほしいままにしていたボストンも参戦してきた。ヒート競走1戦目ではジョンブラントが勝ち、本馬は僅差2着、ボストンは他2頭から大差をつけられて敗れた。あまりにも大差をつけられたボストンはこのヒート競走への出走資格を失ったため、2戦目は本馬とジョンブラントの2頭の対戦となった。今回は本馬が3馬身差で勝利した。そして決着がつく3戦目では、脚を痛めたジョンブラントが敗れたため、本馬がこのヒート競走の勝利者となった。

ボストンが完膚なきまでに敗れた事実に、ボストンを応援していた人々は呆然としたという。また、ボストンの所有者だったジェームズ・ロング氏と「競馬場のナポレオン皇帝」ことウィリアム・R・ジョンソン大佐(本馬の母ボンネッツオーブルーをギボンズ氏に売った人物でもあった)は、即座にギボンズ氏に対して本馬とボストンのマッチレースを行うよう挑戦状を叩き付けた。ヴァージニア州出身のジョンソン大佐は、1823年に行われた北部代表馬アメリカンエクリプスと南部代表馬サーヘンリーの有名なマッチレースの仕掛け人となった人物で、サーヘンリーを南部代表馬として選出した人物でもあり、典型的な南部人だった。一方、本馬が誕生したニュージャージー州は北部州であるから、ボストンが本馬に敗れたのは、すなわち南部馬が北部馬に負けたという事であり、それがジョンソン大佐にとっては我慢ならなかったのである。ジョンソン大佐とは対照的にギボンズ氏は控えめな人物で、自身が生産した馬以外は所有せず、レースにお金を賭ける事も無く、そもそも大衆をあまり好いていなかった。そのために自身の所有馬をマッチレースに出す事には常に否定的であり、この時も挑戦を受けるつもりは無かったらしい。しかしこの時ばかりは世論が黙っておらず、公私共に圧力を受けたギボンズ氏は挑戦状の期限である11月30日に友人であるニューヨークジョッキークラブ秘書のヘンリー・トーラー氏を通じて挑戦を受ける事を表明し、翌1842年の5月10日にニューヨーク州ロングアイランドにあるユニオン競馬場(かつてサーヘンリーがアメリカンエクリプスとのマッチレースに敗れた地)において2万ドルを賭けて本馬とボストンの南北マッチレースが行われる事が決まった。

ボストンとの再戦となったマッチレース

レースが行われるまでの5か月間、全米中が2頭のマッチレースの話題で盛り上がり、どちらが勝つかで莫大な賭け金が飛び交ったという。斤量は9歳牡馬ボストンが126ポンドで、5歳牝馬の本馬は111ポンドに設定された(しかし別の資料にはボストンが126ポンドで本馬は124ポンドだったとある。いずれが正しいのか断定できないが、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトにある126ポンドと111ポンドが正しいのだろう)。距離4マイルのヒート競走で行われたレースには、議会をすっぽかして来場した米国の上院・下院議員40名を含む7万人の観衆が詰め掛けた。この大観衆を目の当たりにした本馬には動揺の色が見られたという。

1戦目ではボストンが内埒に接触して負傷しながらも勝利を収めた。しかし2戦目では本馬が1馬身差で勝利した。そして勝負が決まる3戦目を迎えた。レースではボストンがスタートからずっと本馬の前を走ったが、残り1マイル地点で本馬が逆転すると、後は差が開く一方となった。最後は本馬がボストンに35馬身差をつけて、全米レコードの7分32秒5(13年間保持された)を樹立して勝ち、世紀のマッチレースを制した。1戦ごとに結果を報じる伝書鳩が各地へ放たれたという。またしてもボストンが本馬に敗れたために、ジョンソン大佐は再度のマッチレースを行うように各方面に働きかけてギボンズ氏に圧力をかけたが、ギボンズ氏はもう圧力に屈することは無く、本馬とボストンの3度目の対戦が行われることは無かった。

競走生活(ボストンとのマッチレース以降)

その後本馬は調教中に他馬に脚を蹴られて負傷したが、3か月の休養で回復し、10月にはジョッキークラブパースに出走。ところが本馬を恐れたのか対戦相手が現れず単走で本馬が勝利した。この月末にはブルーディックという当時のトップホースと2千ドルパースで対戦したが、本馬が楽勝した。1週間後に再度行われたブルーディックとの対戦でも本馬が馬なり、ではなく速足(資料には“Canter”ではなく“Trot”と書いてある)で勝利し、5歳時は4戦全勝の成績を残した。

翌6歳時は7戦して全勝、うち6戦が距離4マイルのヒート競走であった。翌7歳時は6戦して全勝、うち3戦が距離4マイルのヒート競走であった。向かうところ敵無しの本馬の名は競馬界以外にも響き渡り、蒸気船、劇場、ホテル、砂糖など様々な物に本馬の名が付けられた(本馬の名前は「流行」という意味だが、別に本馬が活躍したから「ファッション」が「流行」という意味になったわけではないので念のため)。

8歳になった本馬の馬体には白い毛が混じるようになっており、さすがに年齢を感じさせた。この頃、南部ではペイトナという5歳牝馬が活躍していた。ペイトナも本馬と同様に非常に大跳びの馬だったが、馬体は本馬より一回り大きかった。ペイトナは浅いキャリアながら既に本馬を上回る賞金を得ていた。当然、本馬とペイトナのマッチレースが熱望されるようになり、1845年5月15日にユニオン競馬場において、1万ドルを賭けた本馬とペイトナの南北マッチレースが行われた。レースはやはり距離4マイルのヒート競走で行われ、少なくとも7万人(10万人とする資料もある)の観衆が詰め掛けた。観衆の中にはマナーを知らない者も多かったため、レースは1時間遅れで始まった。この騒動の中で、本馬はボストンとのマッチレースの時以上に動揺しているように見えたという(発情していたとする資料もある)。斤量は本馬の123ポンドに対してペイトナは116ポンドと、本馬の方が7ポンド重かった影響もあり、2戦続けてペイトナが制し、本馬は敗れた。しかし再びペイトナとの対戦となった次走のジョッキークラブパースでは、ペイトナが本馬とのマッチレースで両前脚を痛めていた影響もあり、本馬が勝利した。その後もレースに勝ち、8歳時は結局4戦して3勝を挙げた。

9歳時は3戦して全勝。10歳時はパッセンジャーとの距離3マイルのヒート競走に出て、同着があったのか、4戦目で本馬が勝利を得た。その後、パッセンジャーとは距離4マイルのヒート競走でも戦ったが、ここでは敗れている。11歳時も現役を続行したが、この時期にはもう引退させるべきだという声も大きくなっていたようである。5月に行われたレースではボストナという馬を下して勝利したが、次走では12ポンドの斤量差があったボストナに2馬身差で敗れた。その2週間後にボストナ以下に楽勝したレースを最後に競走生活にピリオドを打った。

本馬の競走成績は36戦32勝だが、その中の多くを占めるヒート競走では68回走って55回勝利している。そのうち距離4マイルのヒート競走では42回走って34回勝利している。

血統

Trustee Catton Golumpus Gohanna Mercury
Dundas Herod Mare
Catherine Woodpecker
Camilla
Lucy Gray Timothy Delpini
Cora
Lucy Florizel
Frenzy
Emma Whisker Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Gibside Fairy Hermes Mercury
Rosina
Vicissitude Pipator
Beatrice
Bonnets o'Blue Sir Charles Sir Archy Diomed Florizel
Sister to Juno
Castianira Rockingham
Tabitha
Citizen Mare Citizen Pacolet
Princess
Commutation Mare Commutation 
Dare Devil Mare
Reality Sir Archy Diomed Florizel
Sister to Juno
Castianira Rockingham
Tabitha
Johnsons Medley Mare Medley Gimcrack
Arminda
Centinel Mare Centinel 
Mark Anthony Mare

父トラスティーは英国産馬。競走馬としてはクラレットSを勝った他に英ダービーでセントジャイルズの3着になったのが目立つ程度だったが、全弟に英ダービー馬ミュンディヒ、半弟に英2000ギニー・英ダービー馬コザーストーンがいる血統は優秀だった。ミュンディヒが英ダービーを勝った年に米国に輸入されて種牡馬入りしていた。種牡馬としての人気は決して高くなかったが、本馬以外にも1860年の北米首位種牡馬レベニューなどの活躍馬を出し、1848年の北米首位種牡馬になっている。なお、20歳時の1849年に競走馬としての能力を示すためという理由でレースに駆り出され、距離4マイルを8分フラットで走ったという。トラスティーの父キャトンはドンカスターCの勝ち馬。遡ると、ゴランパス、クラレットSの勝ち馬で英ダービー2着のゴハンナ、マーキュリーを経てエクリプスに至る。

母ボンネッツオーブルーは現役時代、後にボストンの所有者となるジョンソン大佐の所有馬として走り、かなりの実力馬として鳴らした。特に強かったのは6歳時で、賞金5千ドルを賭けた4頭マッチレースやナショナルコルトSを勝つなど7戦5勝の成績を挙げた。繁殖入り後の1836年秋にギボンズ氏により2500ドルで購入されていた(この際に本馬の半兄マリナーもギボンズ氏に購入されているようである)。本馬が産まれたのは翌1837年であるから、ジョンソン大佐がボンネッツオーブルーをギボンズ氏に売った段階で既に本馬はボンネッツオーブルーの胎内にいたことになる。ということは本馬の生産者は実質的にジョンソン大佐であると言えるわけで、愛馬ボストンが自身の生産馬に2度も敗れたジョンソン大佐の胸中はいかばかりだっただろうか。ボンネッツオーブルーの産駒には、ボストンとも対戦経験がある1歳年上の半兄マリナー(父シャーク)がいるが、牝系は発展していない。ボンネッツオーブルーの母リアリティは現役時代に、自身との間にボンネッツオーブルーを出すサーチャールズ、ボストンの父ティモレオンという2頭の強豪馬を下した事もある実力馬だった。→牝系:A44号族

母父サーチャールズはサーアーチー産駒で、現役成績26戦20勝。種牡馬としても1830・31・32・33・36年の5回北米首位種牡馬になっている。なお、本馬の祖母リアリティの父もサーアーチーなので、ボンネッツオーブルーはサーアーチーの2×2という非常に強いインブリードを有している事になる。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はギボンズ氏がニュージャージー州に所有していた牧場で繁殖入りしたが、18歳時の1855年にオハイオ州在住のジョン・リーバー氏に売却された。本馬は9年間の繁殖生活において7頭の子を産んだ。1860年、ボニースコットランド牝駒を死産した際に23歳で他界した。本馬の子には勝ち星を挙げた馬は何頭かいる(その中には本馬の半兄マリナーとの間の子もいる。本馬の母ボンネッツオーブルー自身が非常に強いインブリードの持ち主であり、これはさすがに血が濃すぎる)が、特筆できるほどの競走成績を残した馬はいない。本馬の牝系子孫は不出走だった4番子の牝駒ヤングファッション(父モナーク)から後世に伸び、21世紀現在も残っているが、子孫からは全くと言ってよいほど活躍馬が出ていない。1980年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

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